彼女は極々平凡な女だった。特に美しい訳でも、特に聡明な訳でも、その他特別な能力や技術がある訳でもない。十人中十人が『普通』と答えるような人間だった。
 ただ少しその『普通』とは違う部分を挙げるとすれば、それは彼女の性格だろう。彼女は他の人よりも少しだけ好奇心が強く、また噂よりも自分の目で見たものを信じるタイプだった。
 ゆえに、と言うべきか。必然か偶然かは誰にも解らないが、厳然なる事実として彼女は彼と出会う。
 ちょうどその頃、彼女は思いを寄せていた男性が他の女性と結ばれた事を知って片想いで終わってしまった恋心を持て余していた。彼女の想い人は彼女と違い大層整った顔立ちの持ち主で、名前に見合った静かな性格をしていた。その名が男女共用できる名前であったため男性は名を呼ばれるといつも少し恥ずかしがっていたようなのだが、彼女にはそんな相手の様子さえ愛おしく、いつもいつも男性を名前で呼ぶようにしていた。
 しかしそれはもう終わった話だ。
 失恋に心を痛めていた彼女がふらふらと街を彷徨い歩いていると、ある公園に出た。昼間の公園には何故か人影がなく、彼女は首を傾げる。だが周囲を見渡し視界にあるものが映り込んだ事で彼女は「ああ」と小さく納得の声を上げた。
 彼女の視線の先にいたのはベンチに腰掛ける『彼』の姿。陽光を弾く金色の髪に双眸を隠すサングラス、そして白黒のバーテン服とくれば、この街で知らぬ者は居ないだろう。
 彼が居るから彼の力を恐れた人々はこの公園から去ってしまったのだ。その事に気付き、しかしながら彼女は他の人間達と同じようにこの場を去ろうとはしなかった。それどころかカツカツと低いヒールを鳴らして彼に近付いていく。
「……なんだ?」
 すぐ傍までやってきた他人の気配に彼が顔を上げる。
 彼女は黒髪を揺らして薄く微笑み、「隣、いいですか?」と問いかけた。
「………………別に」
「ありがとう」
 彼は奇妙なものを見る目で彼女を見たが、彼女は気にせず笑顔を浮かべたまま彼と同じベンチに腰掛ける。
 この街では暴力の権化のように称される彼であるけれど、実際はどうだ。こんなにも名前に見合った雰囲気を持っているではないか。ああそう言えばこの人も自分が愛した人と同じように静かな名前を持っているのだった。―――そう気付くと同時に彼女の中では彼に対する親近感が一気に増す。
 隣の彼は自分を恐れず近寄ってきた人間に戸惑いを覚えているようで、どこかそわそわしている。それがまた愛しい男性を思い起こさせ、彼女は小さく微笑んだ。
「?」
「いえ、すみません。ちょっと思い出した事があって」
 笑みを向けられた事で頭の上に疑問符を浮かべた彼へと彼女は笑みを保ったまま答える。それから「あっ」と良い事を思いついたとばかりに鞄から携帯電話を取り出し、
「これで出会ったのも何かの縁ですし、よければ番号を交換しませんか?」
 短い前髪がさらりと額を撫でる。
 その様に彼は何を思ったのか、サングラスの奥で僅かばかり目を開くと、しばらくの逡巡の後に自分の携帯電話を取り出した。
「ああ、いいぜ」
 にしてもアンタ変わってるな、と付け加えながら。


 彼女が彼に忘れきれない想い人を重ねていた事に彼女はきちんと気付いていた。そして彼もまた自分の中に他の誰かを見ているのだと彼女が気付くのに、それ程時間は掛からなかった。
 知り合ってから少しの時間が流れ、彼は恐る恐る彼女の髪や肌に触れるようになり、彼女が微笑を持ってそれを受け入れるようになると、後は男女としてある種当然の流れに雪崩れ込んでいく。だが自身と相手の感情を理解していた彼女は初めての夜にはっきりと告げた。
「しずか、って呼んでもいいですか」
 それは己の名を恥ずかしがっていた彼女の想い人の名前だ。そしてこれから彼女を抱こうとしている彼の名前に似ていて、しかしどう聞いても確実に違うもの。渾名だと言っても決して誤魔化しきれない類のものだ。
 情事に相応しくないその提案を彼女は相手の力を恐れる事なくしてみせた。何故なら彼女には確信があったからだ。
「……私の事、好きに呼んでくださって構いませんから」
 その言葉を聞き、彼はサングラスに隠されていない双眸を大きく見開いた。それから「じゃあ……」と口を開くと、
「みかど、って呼んでもいいか」
「ええ。どうぞ」
 ほら、と彼女は内心で笑う。
 彼の心の中に居る人物がどんな姿でどんな名前なのかも知らなかったが、今日初めて彼女はその名前を知った。
 それは少し彼女の名前と似ていて、けれどもこちらもまた彼女に対して付けた渾名には決して思えないものである。
 彼女は自分の心の中に居る人物を自覚しながら彼にその面影を重ねた。そして彼もまた彼自身の中に居る人物を自覚している。名前を呼ぶとはそういう事だ。そして彼は彼女の希望を叶える代わりに己の願いも叶えるという取引に応じた。
 つまり。
「私達、共犯ですね」
「これからも?」
「ええ。これからも、ずっと」
「ははっ。じゃあよろしく、俺の共犯者」
「末永くよろしくお願いします」
 彼の背中に腕を回して彼女は微笑む。
 その視線の先には彼女と同じ表情をした彼の姿があった。



* * *



「彼は言いました。『あいつは他の人間を選んじまって俺とはもう結ばれないんだ。でも俺はあいつを忘れられないんだ』って。だから私もちゃんと答えました。『私も忘れられない人が居ます。貴方にとても良く似た人なんです』って。だから私達は今の関係を結んでいるですよ」
 夫婦ではなく、互いに別人を求める共犯者として。
 そう言って女は話を締め括った。
「……なるほどねぇ」
 女の話を最後まで聞き終えた男は己の顎をひと撫でして呟く。
 場所はどこにでもあるファミリーレストラン。その一角で落ち着いた黒髪とオフホワイトのジャケットは男の雰囲気をどこにでもいる人間たらしめていたが、黒髪の奥で爛々と輝く赤い双眸が全てをぶち壊していた。
 最近は全くと言っていい程浮かべていなかった『人の悪い笑み』で、事の真相を知った“元情報屋”は「なるほど」と再度口にする。
「だからシズちゃんは君と結婚したって訳だ。確かに、俺も今の立場じゃなかったら君みたいな代替品を用意したかもしれないね」
「その代替品さんが貴方に別の人間を重ねて見る事ができれば、の話ですけど」
「その辺は大丈夫さ。俺も伊達に信者を侍らせてた訳じゃない」
 女の斬り返しをさっと躱して男―――折原臨也は笑った。だが女も負けておらず、「信者、ですか。共犯者すら得られないなんて寂しい人ですね」と更に付け加える。
「……その言い方も少し帝人君に似てるよ」
「あら、そうですか?」
 口元に手を当てて女はクスクスと笑い声を漏らした。
「ああ、あと私が知る限りでは、貴方が代替品如きで満足するとは思えません。貴方は彼と違ってもっと独り善がりな部分があるでしょう?」
「言ってくれる。でもそれは俺にとっての褒め言葉だよ。君を帝人君の代替品にするなんてシズちゃんは腐ってる。君如きが帝人君の代わりになんてなれるもんか」
「それは当人次第でしょう。想いを秘めるのも、外に表すのも。何を代替品とするのかも。貴方が彼をとやかく言う権利はありません」
「この議題に関して俺と君とは一生平行線だろうね」
「望むところです」
 きっぱりと言い返し、女は席を立つ。
「ともかく、これで貴方の心配は取り除かれたと思います。無自覚だった彼が自覚した時、無自覚に溜め込まれていた感情が溢れ出して貴方の大切な人に危害が及ぶのではないか―――。その可能性は根本から否定された訳ですから」
「ああ。君の話が事実なら、シズちゃんは帝人君に手を出さないだろう。これで俺も最大の心配の種を取り除けた」
「それは何より。では、お約束通り今後も彼の邪魔をしたりしないでくださいね」
「解ってるよ。手を出さないならシズちゃんがどれだけ帝人君を想っていようと俺は感知しない。これでいい?」
「大変結構です」
 一つだけ頷き、女は臨也に背を向けた。
 その後姿を見送って極々個人的な情報を手に入れた元情報屋はうっそりと微笑む。
「帝人君ってば本当にモテモテだねえ」







喧嘩人形の伴侶







「だから俺はいつでも君の事が心配なんだよ」
(こんな事を裏でこそこそやっちゃうくらいにね!)







杏里ちゃんの予想は外れて静雄さん自覚アリでした。でも動かない。
そして元情報屋さんはもしもの時の最強ヤンデレ暴走フラグが成立しない事を知ってホッと一安心。