(気付かなければ、良かったなぁ)
車の助手席から運転席に座る人物を横目で眺め、粟楠茜は胸中で独りごちた。 いつからだろう。隣の彼―――竜ヶ峰帝人や年の離れた友人である杏里の左手薬指に光る銀色を見て、胸に痛みを覚えるようになったのは。だが随分長い間その原因不明の小さな痛みは茜を蝕んでいたように思う。そしてつい先日、杏里と話をした後に茜は気付いてしまった。 (帝人さんの事が好きになってた、なんて) 茜の初恋は髪を金色に染めた池袋最強と言われる男性だった。幼い頃の淡い恋はそうと自覚する前に終わってしまったが、以降も茜が年相応に好意を抱いた異性はその男性―――平和島静雄にどこか似た部分を持っていた。しかし現在茜の中心を占めてしまっている相手は静雄と正反対の位置にあるといってもいい。 成年男子の平均には僅かに届かなかった身長に細い身体、柔和な物腰と笑顔。運動はあまり得意でないらしく、仕事というのもあるがパソコンか携帯電話ばかり弄っている。容貌もアイドルの弟を持つ静雄とは違って一般的であり、なんとか違う点を上げるとすれば童顔である事くらいだ。もうすぐ三十路だと言うのに未だ二十代前半に見えるのは、まぁ確かに一般人とはちょっと違うかもしれない。 とにかく、この竜ヶ峰帝人という人間は茜にとって恋愛対象とはならない存在であるはずだった。それなのに彼の妻である杏里から警告を受けた後に気付くなんて……と茜はこっそり落ち込む。 茜が自覚するきっかけとなったのは些細な事だ。 いつものように杏里とお茶をし、茜が帰宅しようとした時、元々雲の多かった空がついに涙を零し始めた。 ちょうど杏里に用があってその場に来ていた帝人が雨に気付き、茜を車で送っていくと言い出したのだが、彼が車に乗り込む直前――― (杏里さんとキス、してた。見間違いじゃないよね) バードキスを帝人に送った杏里は淡く頬を染め、それはもう初々しい少女のように可愛らしかった。対する帝人も一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐに微笑を浮かべて「じゃあ行って来ます」と愛しい人を見る目で自分の妻を見つめて。 そのシーンを目撃した茜は、やっぱりこの二人は夫婦なんだな、と思う一方でこれまでにない胸の痛みを自覚した。先日杏里本人から警告されたばかりだと言うのに、どうして今更こんな感情に気付いてしまったのか。望みが無いにも程がある。 (ああでも本当に帝人さんは優しい人なんだもん。いつだって優しくて、大切にしてくれて、笑顔が素敵で、『普通』とは違う私に普通に接してくれて、一緒に居るとすごくふわふわしたやわらかいものに包まれてるようで) ―――好きになるのは当たり前だったのかもしれない。 だから杏里も静雄も、茜が彼らと係わるようになったきっかけを作ったあの人も、帝人に惹かれてしまうのだろう。 (嗚呼、あとはひょっとして……) 茜が他の人物の名を思い付く前に車はゆっくりと停止した。 「茜ちゃん、着いたよ。ほら、四木さんが迎えに来てる」 「あ、ほんとだ」 帝人に言われて窓の外を見ると、粟楠の屋敷の門前で傘を差して立つスーツ姿の男が目に入った。どうやら帝人が事前に連絡を入れていたらしい。 車に気付いた四木が近付いて来て車中に居る帝人に頭を下げる。 「お久しぶりです、竜ヶ峰さん」 「お久しぶりです、四木さん」 微笑みながら会釈を返す帝人。 それを見る四木の顔はいつもの鋭い目つきがどこか緩んでいるような気がして、茜は僅かに瞠目した。 「今日はお嬢を送ってくださり、ありがとうございました」 「いえ、茜ちゃんは妻の親しい友人ですから。こんな天気なら送らせていただくのは当然の事ですよ」 「そう言っていただけると助かります。……あの、どうせなら上がっていかれませんか。社長も久々に竜ヶ峰さんとお話したいと仰ってまして」 「幹彌さんが?」 粟楠道元が会長を退いた後、若頭から新会長になった茜の父の名を口にしながら、帝人は僅かに目を見開く。 “情報屋”折原臨也は既になく、現在粟楠会に提供される情報の多くは帝人の会社『DOLLARS』からのものだ。つまり粟楠会の会長である幹彌は帝人の会社のお得意様という事になる。実際に帝人と言葉を交わし情報を買い付けるのは殆どが四木や赤林といった幹部になるが、それでも帝人と幹彌には面識があるし、その認識は間違いではないだろう。 「仕事の話ではないと思いますよ。偶々知った人間が娘を送ってくれるという事で、世間話でもしたくなったのだと思います。よろしければ……」 「えっと、それじゃあ」 帝人がちらりと茜を見て「いいかな?」と首を傾げる。 茜としては(たとえ実らぬ恋の相手でも)帝人が家に留まってくれるのは嬉しくないはずがない。即座に頷き、帝人は四木へと「お言葉に甘えますね」と笑いかけた。 (それにしても) 父の部下に傘を差し出されながら茜は白いスーツのその男を見上げて思う。 (四木さん、帝人さんの方ばっかり見てる) つまりこの人も“そう”なのだ。 四木の視線は会長の娘である茜ではなく、ただの取引相手でしかないはずの帝人にずっと注がれている。それでも茜の中に嫌な感情が芽生えないのは、この男も茜と同じく『負け組』だからだろうか。 (杏里さんの言う事を当て嵌めるなら、四木さんも帝人さんの中に四木さんだけの『位置』を持っているんだろうけど) それでもやはり、女という性を持つ茜にとって杏里のポジションは特別の中の特別だった。あれに比肩するのは折原臨也くらいだと思う。そして杏里のポジションでも臨也のポジションでもない茜と四木と他の人間は――― (負け組、だよね) 傘の柄をぎゅっと握り、茜は小さな溜息を零す。 (こんなに切ないなんて……。本当に気付かなきゃ良かった)
敗者になった少女
茜ちゃんの中で勝手に四木さんを負け組仲間に認定(笑) 四木さんは自覚済みですが、別に臨也ポジションになりたい訳じゃありません。 |