「この傷が消えない限り、俺は君との約束を絶対に守ろう」



「ただいま帰りました」
「お帰り、帝人君」
 言いながら、折原臨也は読んでいた本から顔を上げる。うっすら度の入った眼鏡を外して見つめた先には、かつて己が着ていた物とよく似た黒いコート脱いでいる最中の竜ヶ峰帝人の姿があった。
「そういう格好してると、ほんと大学生くらいにしか見えないよね」
 ブラックジーンズにダークグレーのシャツ。そんな姿になった帝人は元々の童顔も手伝って、誰も彼が二十八の男だとは思わないだろう見た目をしている。
 からかい混じりにそう言えば、ムッとしたような視線が返された。
「それ、もう何回目ですか。僕だってずっと昔から自覚してるんですから、いちいち指摘しないでくださいよ。それとも僕がこの台詞を何度も繰り返している事すら忘れちゃってるんですか? ああ、そう言えば臨也さんは四捨五入したら四十路ですもんね。それも仕方ありませんか」
「今日はまたエラくマシンガントークに拍車がかかってるねぇ。嫌な事でもあった?」
「……明日、休日出勤が決まったので」
「ああ、なるほど」
 すみません言い過ぎました、とコートを左腕に掛けて臨也のすぐ傍まで来た帝人が小さく頭を下げる。
 そして、
「臨也さん」
「はいはーい」
 名前を呼ばれただけで解る。臨也が帝人と共に暮らすようになってからずっと続いている、ある種のちょっとした儀式が今夜も繰り返されるのだ。
 臨也は持っていた本を膝の上に置いて両手を帝人へと差し出した。帝人はコートを持っていない方の手で差し出された手を取る。
 まずは左手。そこには掌を貫通する古い傷がある。続いて右手。こちらも左手と同じ傷跡が残っていた。
 それらを両方確認し、帝人はほっと息をつく。
(まったく……この子は)
 安堵した次の瞬間には「じゃあ着替えてきます」と言って自室へ向かった帝人の背を視線で追いかけ、臨也は胸中で苦笑した。
 臨也の両の掌に残る傷、これは十年程前に『約束』としてつけたものだ。右手の傷は帝人が、そして左手の傷は帝人ではなく臨也本人が帝人の目の前で、臨也が愛用していたナイフを用いて。


『この傷が消えない限り、俺は君との約束を絶対に守ろう』
 あの時の事は今でも鮮明に覚えている。
 右手の傷は今後一切、帝人が大切にする者達を臨也が悪意を持って傷つけない事、それを約束するためのもの。そして左手の傷は、これから先ずっと臨也が帝人の傍から離れないという事を約束するためのものだった。
 かつて非日常を渇望していた帝人は様々な出来事を経験して、最終的には日常とも言える自分の周囲に居る者達と共にあり続ける事を選んだ。幾つもの事件に関して裏で糸を引いていた臨也も最終的にはその者達の一人として分類され、帝人は臨也が自分の傍から去る事を酷く厭った。
『僕の傍にいてください』
 そう呟いた時の声も姿も臨也の頭から消え去る気配は無い。そしておそらく、その一言が帝人を特別視しつつあった臨也に最後の一線を超えさせたのだと思う。
 気付いた時にはナイフで己の手を刺し貫いていた。約束をしよう、と笑って。


「こんな傷で帝人君の一番近くに居られるんだ。安い物だろう?」
 左手を顔の前に翳し、臨也は今もまだハッキリと浮かび上がっている傷跡に唇を落とす。直前に口にした台詞は、この傷が付いた後、当時己の秘書として働いていた女性に向かって漏らしたのと全く同じ言葉だ。
 両の掌に受けた傷は決して命を脅かしはしないが、それでも痛みは相当なものである。だがその痛みを受けてでも有り余るほどの見返りがあった。帝人が大切にしている者達の中で、彼の隣に居られるという権利が。
「それにしても……」
 傷跡を眺めながら臨也は喉の奥でくつくつと笑う。
「こういう傷跡は一生消えないって帝人君も気付いているはずなんだけどね」
 ―――それでも確認せずにはいられないんだ。なんて可愛いんだろう。なんて、愛しいんだろう。
 しかもかつては右手から傷跡の確認をしていた帝人が、今では左手を先に確認するようになっている。「臨也が他人を傷つけない」ではなく「臨也が帝人の傍にいる」と約束した証の方を。
 たとえ偶然だったとしても、帝人の気まぐれだったとしても、それがまた嬉しく思えてしまうのだ。
「君の一番近くに居るためなら俺は何だってできるよ」
 独りごち、臨也はもう一度左手の傷に口付ける。
 それから耐え切れないと言わんばかりに声を上げて笑った。いつまでも、いつまでも。







道化師の手に聖痕








尚、十年も同居していれば臨也さんの奇行(笑)に帝人様もすっかり馴れっこなので、このあと普通に「何やってんですか。ご飯食べますよ」とスルーされます。

2010.09.13 タイトル変更
「君だけだよ」→「道化師の手に聖痕」