voice 11






「静雄さんっ!」
「帝人!!」
 名を呼ばれ、静雄は一直線に恋人の元へと駆けて行く。元々身体能力が半端無く高い『池袋最強』の動きに付いていける者などごく少数であり、この部屋で帝人を囲んでいた者達の中にはそんな人間など一人もいなかった。
 あっと言う間に恋人の身柄を腕の中に確保した静雄は、呆然としたまま片手にティーカップの破片を握りしめている少女へ鋭い視線を向ける。
「おい手前、今、帝人に何しようとしてやがった」
「ッ!」
 池袋にある女子校の制服に身を包んだ少女は人生で初めて向けられた殺気というものにビクリと身を震わせる。恐怖に体が竦んで声すら出せないらしい。
 少女は一歩、また一歩とじりじり後ろに下がり、静雄から少しでも距離を取ろうと―――
「はい、ストーップ」
 とん、と。少女の肩に何者かの手が触れる。
 しかも上から降ってきた声はまるで青空が話しかけてきたのかと錯覚するほど爽やかで澄んだ声だ。しかし、かつて池袋の街中で帝人を“助けた”過去がある少女は、聞き覚えのあるそれにまたもや身を震わせた。そして恐る恐る振り返れば、
「あ、貴方は……」
「やあ、久しぶり。あの時は邪魔をしてくれてありがとう。でも今回ばかりは俺も許せないんだよね。君、それを帝人君に飲ませようとしただろう?」
 それ、と言って青年―――折原臨也は赤い目を眇める。その視線の先にあったのは細かく砕かれた陶器の破片だ。
「なに? 薬で帝人君の動きを奪った上に、更には喉まで潰そうってつもりだったんだ?」
 にこにこと、まるで幼い子供を見つめる親のように慈愛に満ちた表情で臨也は告げる。だがその赤い目だけは完全に冷めきっており、マグマのような殺気を向けてくる静雄とはまた異なる恐怖を少女に感じさせた。背骨に沿って氷の剣を突き立てられるように。猛毒の牙を持つ蛇に睨まれた蛙のように。圧倒的強者に睨まれた少女がストンと床に尻をつく。
「あ、う……」
「君はさ、事の重大さをもっと自覚した方がいい。帝人君を攫って傷つけるという事がどれほど重い罪なのか」
 池袋の歌姫を傷つける事。それは池袋最強の男と新宿最凶の男を同時に敵に回す事だ。
 帝人の歌に囚われた一人でもある臨也はそう言って肩を竦める。「一人の人間にここまで入れ込むなんて俺らしくないんだけどね」と。
「とりあえず、君の父親がやってる会社は近々潰れる事になるから覚悟しておくといい」
 完全なる戦意喪失。床にぺたりと尻をつけたままの少女は頷く事すらできずに呆然としていた。
 そうして臨也は静雄に視線を向け直す。暴れてもいいと言ったにも拘わらず器物の破損が少ないのは、この金髪の男の目に帝人しか映っていなかったからだろう。しかしながら、誘拐犯のリーダーは戦意喪失してもまだ他が残っていた。徐々に臨也達を取り囲む者達もまた帝人の熱狂的なファンであり、少女の意志に賛同したほどの狂った人間だ。このまま退く気配など微塵もない。
「シズちゃん」
「……わーってるよ」
 静雄がそっと帝人を離す。恋人の手と足にそれぞれかけられていた手錠を腕力だけで切り離した静雄は、小柄な体躯をソファに座らせ、「ちょっと待ってろよ」と黒髪を撫でた。
「見せつけてくれるのはいいけど、さっさと雑魚処理も済ませるよ」
「うるせぇ。手前に言われるまでもねえっつの」
 胸の前で合わせた拳からバキバキと音がする。静雄は獰猛な笑みを浮かべて、今後二度とこの愚か者共が愛しい恋人に手を出そうとは思わないよう体に叩き込んでやると、臨也より先に駆け出した。
「……ったく。相変わらずの脳筋馬鹿め」
 悪態をついた臨也も一瞬遅れて床を蹴る。
「俺だって帝人君をぎゅっとしたり撫で撫でしたりしたいのに。帝人君のために我慢してるんだぞこら」
 悔しいが、帝人の求めている人間が誰なのか、臨也も理解しているのだ。それが自分ならいいのにと思いながら、そうではない現実に舌打ちして、臨也は半分鬱憤を晴らすつもりで池袋最強と渡り合える身体能力を発揮してみせた。



* * *



「あ、紀田君? とりあえずこっちは終わって帝人君も無事確保。そっちの仕事が終わったら帝人君ちにおいで。あとの二人にも伝えといてよ。じゃ」
 ピ、と小さな電子音と共に臨也が電話を切る。それを眺める帝人と静雄。彼ら三人の足下には誰がどう見ても救急車が必要なレベルの怪我人が何人も転がっていた。傷を見れば臨也と静雄のどちらの手によるものなのか判るのが、なんとも彼等らしい。
「あ、そうそう。帝人君、薬の方はもう大分抜けてきたかな? まだなら俺が抱えていってあげるけど」
「もう大丈夫ですよ。って静雄さん、その今にもだっこしそうな体勢はやめてください。本当に大丈夫ですから」
 臨也に返答した後、帝人は苦笑を浮かべて静雄の対抗意識をやんわりと断った。流石に高校生が大の大人に抱えられてホテルを出るというのは遠慮したい。それに薬が抜けたのも事実であり、喋るのも歩くのも何ら問題は感じられなかった。
「えっと、静雄さん、それに臨也さんも。今回は助けていただいてありがとうございました」
 帝人ははっきりとした口調で告げ、深く腰を折った。今回の件は己の不注意や油断も原因の一つだ。そう告げれば、静雄も臨也も口々に帝人が謝る事はないと返してくれたが、それでも帝人はやはり迷惑をかけたからと言って頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「……おう」
「どういたしまして」
 静雄達も根負けしてそれぞれ答える。
「それで、確か僕の家に行くんでしたっけ?」
 臨也が電話越しに正臣に告げていた言葉から帝人はそう問いかけた。問われた臨也は「そうだよ」と肯定するが、しかし続けて「俺は行かないけどね」と答えた。
「え? どうして」
 キョトンと小首を傾げる帝人に臨也は苦笑を浮かべた。一応、自分も帝人に警戒されるような接触の仕方をしてしまったのだが、まさか一度の事件に関わっただけでこうも信用してもらえるなんて、と。おそらく竜ヶ峰帝人という人間は性悪説よりも性善説を信じるタイプの人間なのだろう。
「俺は情報操作が残ってるからね。このまま警察に駆け込んでも帝人君は罪に問われないし、問題があるとすれば帝人君を誘拐して怪我をさせようとした彼らと、彼らに対し“暴力沙汰”を起こした俺とシズちゃんだけなんだけど……。それでも帝人君が警察から色々聞かれるのも事実で、それは流石に面倒だろう? そうならないように、ね。俺はもうちょっと働かないと」
 それに今回の犯人達も警察のお世話になるのは遠慮したいだろう。ならば下手に臨也に突っかかる者も少ないはずだ。
 そう説明すれば、帝人は納得したような顔をしつつも、どこか申し訳なさそうに眉尻を下げた。なんと言うか、本当に根は性善説派の人間なのだろう。少年の横で臨也を気持ち悪そうに見ている静雄を見習えとまでは言わないが、もう少し疑う事も覚えた方が良い。
 とは思いつつも、それで良い人を演じ通すほど折原臨也という人間は他人に甘くない。
 臨也は口の端を持ち上げると「ねえねえ帝人君」と人の悪い笑みを浮かべた。
「そういう顔してくれるならさ、お礼に帝人君ができる事を俺にやってくれるってのはどう?」
「え、」
「はあ? なに調子こいてやがるんだよ、ノミ蟲風情が」
「シズちゃんは黙ってろよ。それとも俺がいなくたってここまでスムーズに事が進んだとでも言うつもり?」
「ッ」
 静雄も解ってはいるのだ。臨也がいなければこうも早く帝人が捕らえられている場所が判明しなかった事を。それに今回の主犯ばかりではなく間接的に関わっていた者達も、臨也が指揮し正臣達が動く事で、今後同じような事件を起こす気など欠片も残っていないはずだ。
 大切な人間が中心に据えられた事件だからこそ、静雄も普段のように暴れる事はできない。黙って臨也に対する苛立ちを抑えるだけだった。
(ま、これを言うと流石にシズちゃんもキレるかもだけど)
 内心でくすりと笑い、臨也は帝人に再度問いかける。
「ねえ、帝人君。一つだけ俺の願いを叶えてよ」
「……わかりました。僕にできる事なら」
 帝人はちらりと静雄を一瞥し、恋人が渋々了承した――とは言ってもむすっと黙っていただけなのだが――のを確認してそう頷いた。恋人に遠慮する部分はあるが、やはり根が真面目な帝人は受けた恩をきっちり返したいと思っているのだろう。再び臨也を見つめたその瞳はなるべく相手の望みを叶えたいと語っている。
 臨也は「ありがとう」と笑い、そして、告げた。

「帝人君、俺のものになってよ」

「よしわかったノミ蟲。今から表に出ろ。そのナメた口、二度ときけねえように顎の骨を砕いてやる」
「うわー。シズちゃんだと顎の骨どころか頭がそのままトマトみたいに潰れちゃいそうだよ」
 帝人が返答するよりも早く、静雄が小さな恋人を腕の中に囲い込んで臨也を睨み付けた。静かな口調がまるで暴発寸前の銃のようで逆に怖い。が、静雄がそういった反応をするのは想定の範囲内だったので臨也も「冗談だよ」と肩を竦める。
 帝人が欲しいのは決して冗談などではない。だがこうして大人しく静雄の腕の中に収まって安堵の吐息を漏らしている帝人を見てしまえば、どうしたって今の状況で少年が臨也を選ぶとは思えない。それにもし臨也が無理矢理帝人を奪ったとしても、池袋最強の男が本気の本気で取り返しにくる。それでは駄目なのだ。
(やっぱり帝人君が俺を選んでくれなきゃ、俺が帝人君を手に入れる事はできないんだろうねえ)
 悔しいが、苦笑してそれを認める。
 そうして臨也は先刻彼らに告げた残りの仕事をするため早々に部屋を出ようとしたのだが―――
「あの、待ってください」
 帝人が呼び止めた。
「なあに? まさかとは思うけど、俺のものになってくれるの?」
「そ、それは無理ですけど……」
 ごにょごにょと静雄の腕の中で答える帝人。さて、ならばどうして呼び止めたのかと臨也が考えを巡らせていると、帝人は静雄の腕から離れて一歩二歩と臨也に近付いた。
「おい、帝人」
「帝人君?」
 ちょうど静雄と臨也の中間地点で立ち止まった帝人は青みを帯びた瞳でひたと臨也を見据え、
「貴方に僕を差し上げる事はできません。でも、」

「貴方のために歌う事ならできます」

 そうして帝人は歌いだした。
 それはおそらく帝人が池袋に来て初めて、『D・R』のメンバー以外のために、ただ一人だけのために、心を込めて紡がれた歌声だった。
 多くの人間を魅了し、狂わせる原因にもなった少年の特別な歌声が、たった一人のためだけに紡がれる。臨也はそっと両目を伏せ、帝人の歌を聴いた。
(嗚呼、やっぱり帝人君が欲しいなあ)
 この場で攫ってしまいたいくらいに。
 静雄の腕から離れた今はある意味でそのチャンスでもあったが、しかし臨也の足は動こうとしない。帝人の歌の邪魔をするという無粋極まりない行為を理性と本能が同時に非難したからだ。
(今はこの歌を聴いて、それが終わったらもうひと仕事しないとね)
 胸中で呟き、息すら潜めて耳に全神経を注ぐ。
 歌が終わった後、臨也が帝人を引き寄せて頬にキスを贈るのは、それを見て静雄が烈火の如く怒り出すのは、まだもう少し先の話。








(2011.06.25up)



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