笑って、泣いて、怒って、呆れて。また笑って。
君と歩むそんな旅路がいつまでもいつまでも続きますように。






長き旅路を、君と共に。







《壱》

(……ほほう。自分が子供だとクオンは『前』よりずっとやさしく接してくるし、尻尾で頭を締め付けられることもない。そしてオシュトルの隠密の顔役は彼女になり、己は――)
「右近衛大将の小姓?」
「うむ。ハク殿には某の側近となり、様々なことを学んでもらいたい」
 語尾を上げて確認する少年に、ここ帝都で右近衛大将の地位にある美丈夫はしかと頷いた。
 少年ことハクがクジュウリで義侠の漢ウコンと出逢い、共に帝都に辿り着いたのはつい昨日のことである。本日はウコンの妹だというネコネに連れられ帝都を巡り、陽が暮れてから右近衛大将の邸に案内され、更にそこでオシュトルとウコンが同一人物であると明かされた。
 この件を踏まえ、クジュウリからの同行者であり、かつウコンと出逢う前に、記憶を失っていたハクを発見・保護し、名前まで付けた少女――クオンは、オシュトルに彼の隠密として働いてくれないかと尋ねられ、了承。一方、『前』は隠密衆の顔役を引き受けていたハクだが、こちらはクオンが退室した後も右近衛大将の執務室に残され、こうして思いがけない提案をされているのだった。
 記憶が定かでないとはいえ、今のハクの姿形はネコネと同じくらいの年に見える。したがって年齢という点では小姓として近衛大将の傍に侍るのも殊更おかしいことではない。オシュトルはそう告げ、更にハクを小姓としたがる理由を挙げた。
「ギギリ退治で見せた機転、それに帝都へ向かう道中での賊退治の様子。どれもハク殿の将来性を垣間見せるものであった。これまで通りクオン殿の世話になるのも其方が好む楽な暮らしであるのやもしれぬが、其方の才を埋もれさせたままにしておくのは実に惜しい。ここはどうか某の我侭を叶えてくれぬだろうか」
「才って……買いかぶり過ぎだ。自分は凡人に過ぎん。しかも記憶喪失というオマケつきのな。そんな自分なんかを雇ってあんたに益があるとは思えんのだが」
「なんか、など。そのように自分を卑下する必要はないぞ、ハク殿。其方は類稀なる才の持ち主だ。是非とも某の元で学び、良き将として成長する様を見せてもらいたく思う」
「良き将? 自分が?」
「然り。其方であればきっとなれるであろう」
 誰もが欲するような素晴らしい采配師、素晴らしい将に。
 また、それはつまり彼を育てた右近衛大将が大きな利を得るということにもなる。無論、それだけが『オシュトルが得るもの』ではないが。――そう言って美丈夫は仮面の奥の蘇芳色を細めた。
 ハクは腕組みをして「ふむ……」と零す。
 たかが蟲退治と賊退治で、しかもハク個人が大活躍をしたわけでもないというのに、どうして目の前の美丈夫はこうもハクを引き立てようとするのだろうか。その口ぶりは、まるで彼が言う通りハクが『良き将』になることを確信しているかのようにも聞こえる。
 確かにハクの中には、右近衛大将であり親友(とも)でもあった男に将としての器を見出され、期待されていたという記憶があった。しかしそれは様々なことを経験する中で徐々にあの親友の中で形作られてきた考えである。したがって将としての器を見出されるほど大した交流もしていない現時点において、ハクが良き将になると目の前の男が確信する可能性はほぼない。
(そのはず……なんだが)
 政務机を挟んだ正面には、ハクが小姓になることを心より望んでいると判るオシュトルの姿。
 真っ直ぐ向けられる蘇芳色の瞳にハクはたじろぐ。そもそも己は彼の望みに強く反対できたためしがないのだ。
 もちろん目の前の彼とハクの記憶の中にある親友が、同一人物であると共に全くの別人でもあることは理解している。同じ名前、同じ姿、同じ過去の記憶を持っているが、『前』の記憶を持つと共に子供の姿をしたハクという異物と関わった時点で、彼はハクの記憶に在る彼とは別の人物になり始めているのだから。ゆえに目の前の男と記憶にある男を同じものとして見ることはできない。否、してはいけない。彼らを重ねて見るなど、双方に対して失礼極まる行為である。
(だが……)
 その上で、それを重々承知した上で――。
(願いを叶えてやりたいと思う)
 繰り返すが、同じ名前、同じ姿、同じ過去の記憶を持ちながらもハクという異物と関わった時点で、目の前にいるオシュトルはハクの記憶にある彼と別人であると言える。しかしやはり彼は彼≠ナもあるのだ。
 ハクを親友と言ってくれた彼と根本を同じくし、その内に抱えるのは怠惰を良しとするハクでさえ惹かれてしまう忠義、誠心。オシュトルという存在の清濁併せ呑みながらも高潔であり続ける精神は、きっとこんな異物と関わった程度で損なわれてしまうようなものではない。
(それに傍にいた方が未来を変えられるかもしれんしな)
 記憶にある親友は助けられなかったが、せめて同じ名と姿と意思を持つこの人物だけは何とかできないかと考えてしまうのも最早抗いようのない心の動きだろう。ゆえにオシュトルの申し出は、「オシュトルの願いだから断りにくい」とする以前に、最初からハクにとって断る類のものではないのだ。
 あまりにも独善的、自己中心的な考え方である。ハクはひっそりと胸中で自嘲した。ただし同時に、しかし、と付け加える。
(それのどこが悪い。何が悪い。悪いと断ずるなら、そもそもこんな境遇≠ノ自分を落としてくれるなよ。なぁ)
 どこの誰の仕業か知らないが、どういう原理なのかもさっぱり判らないが、ハクは別の世界の記憶を持ってここにいる。ならば好きに動いても構わないではないか。それを止めさせる権利など誰も持ってはいまい。
 代償行為、大いに結構。救えないより救えた方が良いに決まっている。
 結局、答えは最初から一つしかなかった。オシュトルがどういうつもりでハクを引き立てようとするのかいまいち理解できないが、傍に置いてくれるなら有り難く申し出を受けるまで。
 ハクは己の思考に決着をつけ、組んでいた腕を解く。姿勢を正せば、オシュトルも空気の変化を察したのか、返答を待つ間ずっと閉じていた口を再び開いた。
「ハク殿、某の小姓として傍にいてはくれぬか」
「自分がぐうたらな性格なのは承知しているよな?」
「無論。そしてそれ以上に素晴らしい人物であることもな」
「ホント何をどう見てそう判断したのか判らんが……」
 ハクは目元を和らげ、言った。
「これからよろしく頼む」



《弐》



(文字は問題なく読み書きできる……と。やはりハク殿はハク殿であるが、別人でもあるのだな)
 己の政務机の隣に新しく設けた席ですらすらと紙に筆を走らせる少年を一瞥し、オシュトルは内心でそう呟いた。
 クジュウリの山里で出逢った少年、ハク。記憶を失った状態で雪山を彷徨っていたところ、クオンと名乗る黒髪の美少女に拾われて『ハク』という名を与えられた幼い子供。
 深い知性を感じさせる琥珀色の双眸と、榛を溶かしたような黒髪。何かにつけて楽をしたがる性格。傍にいる者をほっと和ませるような空気と柔和な容貌。そしてハクという名前。
 それらに思うところはあったが、オシュトルの心の大事な場所にいる『親友』は今隣にいる少年のような幼い子供ではなかった。
 陽だまりの如き青年は、記憶を失っていたために正確な年齢は不明であったものの、おそらくオシュトルと同世代。おまけに身長も同程度である。
 また出逢った当初、件の青年は言葉を話すことはできたが文字を全く知らなかった。それが判明した後日、周囲の助力もあって驚くべき速度で読み書きを習得したものの、帝都に到着してすぐの時点ではこの世界の常識共々読み書きの知識を完全にどこかへ置いてきてしまっていたのだ。
 しかし今オシュトルの隣にいるハクはこの通り。読み書きには何の問題も抱えていなかった。
 ハクであるが、ハクではない、ハクという名の少年。そう理解していながらあえて傍に置きたがったのは、記憶の中にある親友への想いの強さ故か。己が没してから彼には随分と苦労をかけてしまったので、同じであるが完全に同一ではないこの少年を代替品として慈しみたいのかもしれない。
(なんと不義理で不誠実なことか)
 オシュトルは内心でひっそりと苦笑した。清廉潔白の名が聞いて呆れる。
 清廉潔白公明正大文武両道。その全ては他称だが、オシュトル自身も人々からそう呼ばれるだけの自負は持って職務に励んでいる。だというのに、今一番己の心を占める存在に対して行っていることは、あまりにも酷いものだった。
 だが理解していながらも、手放すことはできない。彼が彼≠ナはなくとも、やはり彼は彼≠ナあるのだ。残念ながら、この子供の姿をしたハクを手放してやれるほど、オシュトルの中にある想いは小さくも弱くも軽くもなかった。
 そして、傍に置きたいという我侭の他にもう一つ、オシュトルには望んでいることがある。
(この世界が某の知るものと全く同じ歴史を歩むかは判らぬが、少なくとも其方が文字通り身を削って某の意志を叶えようとする世界にはならぬよう、力を尽くしたいものだ)
 己(おの)が身を犠牲にして親友と妹を護ったことに悔いはない。しかしできることならば、己も彼らの隣で笑い、泣き、怒り、呆れ、そしてやはり笑っていられるような、そんな人生を歩みたかった。笑う己の隣で、親友が肩の力を抜いて微笑んでくれるような日々を送りたかった。
 そんなオシュトルに何の因果かもたらされた機会。これを利用しない手はない。
 酷く独善的で、自己満足でしかなく、あまりにも自己中心的な考え方だ。他人が知れば非難轟々だろう。しかしこの現状を知っているのはオシュトル一人だけ。やめさせる者も、非難する者もいやしない。
 こちらの視線に気付いて少年が「ん?」と小首を傾げる。そんな彼に何でもないと返し、オシュトルはひっそりと口元に弧を描いた。


 幼い姿ではあるものの、右近衛大将の小姓となったハクは非常に仕事ができる少年だった。
 ゆえに、まるで青年のハクの精神が小さな子供の躰に宿ったかのようだと、栓無きことを妄想しては苦笑を零すという行為をオシュトルは幾度も繰り返す羽目になった。
 だが事実、己の名前すら忘れていたはずの子供だとは思えないほどハクはオシュトルの補佐役としての務めを果たしている。
 体力がないため関係部署へ届け物をさせるなど、あちらこちらへ動き回る業務は控えがちだが、右近衛大将宛の各種書簡をオシュトルが確認する前に、効率よく作業を進められるよう整理したり、必要な資料を集めたり、場合によっては代行で決裁処理をしたり、と期待以上の働きぶりを見せているのだ。まるでもう一人右近衛大将がいるかのよう。右近衛大将本人が言うには憚(はばか)られる言葉だが、事実、オシュトルはそう感じていた。
 またとある案件でオシュトルが頭を悩ませていると、何気ない様子で助言をくれたりもする。子供らしい高い声で、しかし大人のハクと同じように落ち着いた調子で、普通なら考え付かないような解決策を提示するのだ。
 そんな時、オシュトルの目には子供のハクに大人のハクの姿が重なって見えた。愛しさで胸が張り裂けそうになり、思わず手を伸ばしかける。だが大人のハクに向けて伸ばした手で子供のハクに触れるなど流石に許せるはずもなく、少年からは見えない位置で拳を握るにとどまった。
 歓喜と郷愁と罪悪感。それらの葛藤に苛まれながら日々は過ぎ、ハクが見た目よりずっと大人びた存在であると確信したオシュトルは、次の段階に移る。
 それまでハクは主にオシュトル邸で仕事をこなし、余程のことがなければ高位の武官や文官、貴族達と接することはなかった。しかし大丈夫だと判断したオシュトルは、とうとうハクを己の側近として外≠フ世界へ連れ出したのだ。
「ようやくあんたの過保護が少しばかり落ち着いたってところか」
「ハク殿には全てお見通し……で、あるな」
 こちらの意図を正しく察しているハクの呟きにオシュトルは微苦笑する。
 場所は宮廷。魑魅魍魎が跋扈する、この國で一番の魔窟だ。ゆえに声の大きさも表情の変化も互いにしか判らぬ程度の小さなものであり、双方とも常時神経を張り巡らせてここにいる。
 オシュトルがハクを宮中にまで連れてきたのは、当然のことながら己の仕事の補佐をさせるためだった。これまでは邸の中でできることに限って仕事を頼んでいたが、外でも補佐をしてもらえるならば、オシュトルの仕事はうんと楽になる。
 ただしそれは同時に、宮中の狸共からの悪意にハクの身を晒すということでもある。無論、悪意に晒されてなおハクならば大丈夫だと判断したからこその今日であり、更にオシュトル自身もハクを護るためならばどんな手段でも取ってみせるという決意を胸に秘めているのだが。
「……ふむ。しかし心構えはしていたが、流石にこれ≠ヘ鬱陶しいな」
 ほとんど口を動かすことなくハクが呟く。オシュトルも同意見だ。
 宮廷に出仕し、朝堂の間に向かっていれば、次第に行き交うヒトの数も多くなる。これまで御供を付けず一人で朝議に出席していたオシュトルが今日は他人を連れているということで、オシュトルとハクは否応なしに幾多の視線を向けられることとなった。一瞥したハクは鬱陶しいと言いつつも平然としているが、小心者であればこの場にいられなくなるほどの不躾な視線の嵐である。
 その視線にわざわざ応えてやる義理もなく、二人が堂々と歩いていると、やがて衆目の囁きが耳に届いた。否、囁きと言うには大き過ぎるそれは、こちらに聞こえるよう発せられているものである。他人を嘲り、ちっぽけな自己顕示欲を満たしたいだけの狸とその取り巻きの何と浅ましいことか。
「あれが噂の……」
「右近衛大将のお稚児さん、ということですかのう」
「清廉潔白と謳われようが、所詮は――」
「卑しい田舎者の鍍金(めっき)がとうとう剥がれましたな」
 オシュトルが小姓を持ったことは特に秘密でも何でもない。むしろ下手に隠そうとすると貴族達の余計な詮索の餌食となってしまうのだ。しかしどちらにせよ、彼らがオシュトルを貶めるための材料としてその一件を口にすることに変わりはないらしい。半ば予想済みの流れだが、流石に気分の良いものではなかった。
 ちなみに当然のことながらオシュトルとハクの間に性的な関係はない。しかしそれが事実であれ嘘であれ、噂をする側にとっては特に関係ないのである。相手を貶められるなら、それで十分。
 そして他者を貶めることしか頭にない貴族共はオシュトルだけでなくハクまでも標的に据えた。
「あの堅物のオシュトル殿を誑し込んだ子供なのだから、どんなに美しい少年なのかとも思いましたが……。いやはや、期待外れも甚(はなは)だしい」
「ええ。どこにでもいる子供ですな。顔もぱっとしませんし」
「つまりそれ以外の部分で……ということでは? 余程あちら≠フ具合がよいのかもしれませんぞ」
 下世話な話題を聞こえるように囁いてくすくすと笑う下種共。自分のことならまだしもハクまで貶められ、オシュトルは仮面の下でこめかみがヒクつくのを感じた。
 だが辛抱たまらなくなって手が出る前に、ハクがそっとオシュトルの袖口を引いた。
「気にするな。自分が平凡顔なのは事実だからな。貴族のお稚児さんになるような可愛らしい顔もしとらんし、あんたのような美男でもない。床上手かどうかは判らんが、上手くても下手でも今の自分には関係のないことだ」
 あまりにもあっさりとハクがそう言うものだから、オシュトルの怒りはしゅんと落ち着いてしまう。ただし貴族達に反論する意思は治まっても、ハクの方に言っておきたいことができていた。
「ハク殿」
「ん?」
 相変わらず他人には聞こえぬよう気を使いつつ、それでもはっきりと告げる。
「狸共はああ言うが、其方は愛嬌があって非常に好ましい容姿だと思う」
「は?」
 ハクの目が点になった。しかしオシュトルの言葉は続く。
「さらさらとした髪も、深い琥珀色をした瞳も、やわい肌も、その類稀なる知性も、陽だまりのような穏やかな空気も、不必要に物怖じせぬ性格も、誰にでも分け隔てなく接することができる器の大きさも、怠惰を愛するところでさえ、全てが好ましい」
「ちょ、オシュ」
「だからだろうか。其方以上に、某の隣に立ってほしいと思える者はおらぬよ」
「……っ」
 ハクが息を呑み、顔を背けた。
 残念ながらあの可愛らしい毛のない耳は見えないものの、結んだ髪の向こう側でうなじがうっすらと赤く染まっているのが判る。その原因を作ったのはオシュトルだが、嘘偽りない気持ちを零しただけでこうも反応するハクの姿に、少しばかり鼓動が速くなってしまった。なんと初心で、愛らしいのか。
「……まったく。男に使う形容じゃないものまでぽんぽん口にするんじゃありません。一応自分はまだ子供だからその形容もあえて受け取ってやるが、大人の自分にもしそんなことを言ったらドン引きだからな」
 呆れた風に告げて、羞恥を隠そうとするハク。
 オシュトルは「心得た」と返しながら、微笑ましいその様子に唇をほころばせる。
 実のところ、己の記憶の中にいる大人のハクに対しても先程の形容は全て当てはまるのだが、それは言わぬが花だろう。成長してもきっと其方は愛らしいであろう、などと言ってこれ以上この子供を恥ずかしがらせるのは可哀想だ。
 オシュトルの返答に満足したハクが軽く深呼吸をして視線を前に戻す。顔はまだ僅かばかり赤いようだが、他人に指摘されても取り繕える範囲だろう。そんな様子ですら愛らしく思え、オシュトルは小さく微笑んだ。
 オシュトルが纏う空気の変化に目敏く気付いた一部の殿上人が今後ハクの『右近衛大将の稚児』説を更に加熱させるのだが……。それは二人の知らぬことである。



《参》



(改めて『陽だまり』だ何だと言われるのも恥ずかしいもんだな……)
 初めて親友にそう称された時は照れる余裕さえなかった。逃れようのない厳しい現実に向かい合うことでいっぱいいっぱいだったのだ。
 それに比べて現状の穏やかなことと言ったら。たとえ貴族達の珍獣でも見るような視線に晒され、嘲笑する囁きが聞こえてきたとしても、居心地はこちらの方がずっといい。
 ただし、あの時とは違う流れであるはずなのにあの時と同じくオシュトルはハクに対して『陽だまりのよう』と告げたわけだが、このように精神的な余裕がある状態で言われるとどうにも恥ずかしくて仕方なかった。しかも今回は更に様々な形容が追加されてしまっている。感じる羞恥は倍以上だ。
 顔の熱は引いたが、思い出すだけでまたすぐに赤くなってしまいそうである。
 そんなハクがいる場所は先程までの広い廊下からすでに朝堂の間へと移っていた。今はまだ階段の先に垂れ下がった御簾の奥に帝の姿はなく、大きな声ではないものの人々は思い思いに言葉を交わしている。
 雑然としたそれらを正しく聞き取ることは不可能だが、僅かに聞こえてきたものだけでも単なる挨拶から始まって、仕事の愚痴や他人の悪口、かと思えば民の生活をより良くするための案を出し合っていたり、視察に行って見聞きしてきた周辺諸國の情報を交換していたりと、話の内容も込められた感情も様々。しかしどうしても耳に入ってきてしまうのは、やはりオシュトルとハクに対する嫌味の類だった。
 自分のことを赤の他人にどう言われようと痛くも痒くもない。しかし、己が大人の姿であったならオシュトルもあのような下種な噂を立てられることなどなかったのだろうか、と思えば心苦しくもなる。だが先程己がオシュトルを諌めたこともあり、ハクはそれを表情に出さず、聞こえぬふりで押し通した。見てくれ≠ヘ子供だが、中身はいい年をした大人である。これくらい難しいものでもない。
 八柱将と近衛大将は他の殿上人達とは異なり、玉座へと続く大階段のすぐ脇に立つことが許されていた。従者も少数であれば同席が可能で、ハクはオシュトルの後について彼を悪く言う貴族達よりもずっと玉座に近い位置で足を止める。
「ほう……ようやくお披露目か」
 先に来ていた左近衛大将ミカヅチが、オシュトルの鳩尾までしかない身長の子供――つまりハクである――を見下ろして告げた。黄水晶の如き瞳が興味深げにハクを観察する。
 本人にそのつもりはないはずだが、強面と這うような低い声の組み合わせは非常に威圧感があった。こりゃネコネも怖がるよな、と彼女と同じ視線の高さになってみてハクは改めてそう思う。
 しかし先述通り、ハクが子供なのは見た目だけだ。おまけにこちらには記憶≠烽る。「お初にお目にかかります、ミカヅチ様。ハクと申します」と微笑を添えて一礼すれば、欠片も怯えを見せぬ相手にミカヅチは少々面食らったようだった。
 それを見てオシュトルがひっそりと苦笑する。
「ハクはネコネと違い、随分と肝が据わっているのでな」
 主人と小姓という立場上、他人の前では相応の振る舞いが必要となる。よってオシュトルは「ハク殿」ではなく「ハク」と呼び、ハクもまた「恐れ入ります」と小姓らしい返し方をした。参考にしているのは、いつの日にか見た目の前の強面の男が従える副官である。
「ふん。道理でこのような場にまで連れてくるわけか」
 どうやら宮廷が魔窟であると感じるのは左近衛大将も同じらしい。ぼそりと告げたミカヅチは、次いで口の端をニヤリと持ち上げた。
「貴様がただの好みで小姓をつけ、あまつさえ宮廷にまで連れ回すとは考えていなかったが、成程な。相応の為人(ひととなり)ではあるようだ」
「であろう? ハクは実に優秀でな」
「ミカヅチ様にそうおっしゃっていただけるとは光栄に存じます」
 一切の躊躇も遠慮もなく意気揚々と従者自慢をする主人はさて置き、ハクは再度軽く頭を下げた。
「まったく……実に胆の据わった小姓だ」独りごち、ミカヅチは視線をオシュトルに向ける。「貴様がこうも部下の自慢をするとは珍しい。そんなに有能なのか」
「先に言っておくが、貸せと乞われても貸さぬぞ」
「要らん。俺にはすでに立派な副官がいる」
 生憎この場にはいないが、おそらく別所で仕事をしている白銀の髪の少年の姿がハクの脳裏をよぎった。今のミカヅチの台詞を聞けば、彼はきっと喜んだだろう。オシュトルがハクに対して同様の発言をしても過大評価だと呆れるしかないが、ミカヅチ達の主従であれば相応しい気がした。
 そうこうしているうちにミカヅチの元へ伝令役が現れ、帝が間も無くお出(い)でになることを伝えられる。ミカヅチは一度頷いて視線を正面に戻し、ざわつく広間に向けて声を張り上げた。
「皆の者、静まれィ! 聖上の御出座である!!」


 朝議は八柱将のまとめ役ウォシスが進行係を務める形で滞りなく進む。
 國内外の情勢に関する報告およびその対応方法の確認。各種陳情。取り扱われる内容は多岐にわたった。帝が口を開くこともあれば、八柱将以下の面々で最終決定を下す案件もある。時折にゃもにゃもと小うるさい発言も聞こえてきたが、残念ながらここに集まった者達には最早慣れたことだ。煩わしく思っても対処に困ることはない。
 ハクはそれを一歩引いた気分で眺めていた。
 元々オシュトルは一人で朝議に出ていたヒトである。したがって今更通常の朝議で補佐を必要とすることもない。今回ハクを同席させたのは宮廷内の空気を感じさせるためだろう。こいつらこそ我らが共に相手をせねばならない狸達なのだ、と教え込むための。
(まぁ自分も一時は総大将なんてものをやってたから、それなりにこういう空気も味わっちゃいるが……。なかなかどうして、ちょっと視点が変わるだけで見えてくる景色も違うもんだな)
 無論、良い意味ではない。田舎の下級貴族の家に生まれた成り上がり≠ノ向けられる視線や言葉の針に全く遠慮がない、ということである。ハクに直接向けられるものは少ないが、オシュトルの傍にいるだけでドスドスと物理的な圧を感じるくらいに突き刺さってきた。新たな帝と共に帝都に凱旋した総大将≠ノはあまり向けられなかった類の悪意だ。
 こんな中で毅然と立ち、宮中の魑魅魍魎相手に生き抜いてきた男を前にして、ハクの中で改めて尊敬の念が湧く。オシュトルはハクを凄い凄いと持ち上げるが、本当に凄いのはこの男の方だ。オシュトルは凄い。
 ハクとて彼の代わりを務めようと精一杯のことはしてみたが、もし本物のオシュトルが生きていたならばヤマトはどのような姿を見せたのだろう。そして彼の傍で國を眺める己はどのようなことを感じたのか。
 かつて完全に失われ、しかし今こうして再びその夢を掴める立場であることに、らしくもなく胸が高鳴る。働くのは相変わらず御免こうむりたいが、オシュトルの傍に立てるのであれば多少の苦労なら背負ってやっても構わないと思えた。
 オシュトルの背後に控え、その背中を見上げて、ハクは知らず知らずのうちにほぅと息を吐く。この躰では肩を組むことすらできない大きな背中だ。それが少しさびしくて、同時にとても誇らしい。
(今度こそこの背中を護りきる)
 そのためなら必要に応じて裏技≠ウえ使ってもいい。
 つい、と視線を移せば、御簾の奥に二人分の影。玉座代わりの豪奢な車椅子に腰かける帝と、その世話を任されている大宮司だ。
 すでにクジュウリから帝都への道中、ウルゥルとサラァナには会っていた。真っ黒な外套(アペリュ)を頭からかぶって姿を隠していたものの、間違いなく彼女達だろう。となれば、帝もとい兄はハクの生存を知っているはず。ハクは記憶がないことになっているので今は様子見をしている最中だろうが、こうして宮中に姿を現したとなれば、そろそろあちら側から接触があるものと思われた。また、ないならないで、こちらから行動するつもりでいる。
 虎の威を借る狐になってしまうかもしれない。しかしそれで親友の助けになるなら己の矜持など安いものである。無論、借りずに済むのであればそれに越したことはないけれど。
 ハクは御簾の奥の影に目を細める。気のせいかもしれなかったが、あちらもまたハクを見ているような気がした。


 そして、同日の夜。
「今宵は僕以外にも客が来ているようですね」
 隠密衆が結成される以前からオシュトルの依頼を受けて働くことのあったエヴェンクルガの青年――オウギが、ハクに報告書代わりの紙片を渡してすぐ背後を振り返った。彼の言葉を受け、ハクもまた部屋の片隅に視線を向ければ、黒い外套を頭からかぶって姿を隠した人影が二つ。
 いつの間に現れたのかと警戒するのは、彼女達に関して言えば無駄なことである。
「お前達は……」
「ハクさんのお知り合いで?」
「ああ。クジュウリから帝都に来る道中でちょっとな。怪しい見た目だが危ない奴らじゃない」
 二人の姿を視認して警戒心ではなく親しみを込めた笑みを向けるハクに、オウギの方も緊張を解いたようだった。いつでも抜刀できるよう双剣の柄に置いていた手を脇に垂らす。
 本来の主が不在の執務室に現れた二人はオウギに黙礼したのちハクへと歩み寄った。
「呼び出し」
「ご隠居がお呼びです。どうぞわたし達と共にお出でください」
 外套の内側から聞こえてきたのは愛らしい少女の声。片方は随分と抑揚を欠いているが、それで美しさが損なわれるわけではない。
 傍らでオウギが「ご隠居……?」と呟いた。彼の頭の中にある「ご隠居」に該当しそうな人物をさらっているのだろう。
 付き合いはまだ浅く、加えて姉共々隠密衆の一員になっているわけではないが、ハクにはそれなりに良くしてくれる彼である。仕事を依頼してくるお得意様――正確には『お得意様の小姓』だが――だから、姉に対する百分の一くらいは気遣ってくれているのかも、とハクは思った。冗談半分で時折彼はハクを「面白い」と評することもあるので、少なくとも気安くは感じているはずだ。
 そんなオウギの気遣いがくすぐったい。ただし残念ながら彼の知るヒトの中に該当者がいないことをハクは知っている。否、オウギも知っているには知っているのだが、絶対に該当者にしない人物、と表現するのが適切か。
「そのご隠居とやらに自分は思い当たらんのだが、そのひとは自分やオシュトルにとって不利益をもたらす人物ではないんだな?」
 ご隠居の正体を知りつつも、今のハクはそれを知らないことになっている。オウギの目もあるためそう尋ねれば、黒い外套の二人はこくりと頷いた。
「肯定」
「貴方様を長い間探していらっしゃった方です。益はあったとしても、決して不利益になるようなことはございません」
 二人の返答を聞き、オウギがちらりと薄眼を開く。彼もハクが記憶喪失であると聞かされているので、『貴方様(ハク)を長い間探していらっしゃった方』という言葉に反応したのだろう。必要以上に口を挟むつもりはないようだが、青い瞳がハクにも向けられる。
「なるほどな」オウギからの視線を受けつつ、ハクは黒い外套の二人に答えた。「なら、お誘いを受けるとしよう。その前に、オシュトルに一筆残す時間をもらえるか?」
 現在、この部屋の主であるオシュトルは貴族の酒宴に招かれており、邸内にはいない。ウコンとして仲間達と飲む酒とは異なり、此度の酒宴は随分とまずい酒になっているだろう。腹黒い者達と腹の探り合いをしていては、どれだけ美味い酒と料理を揃えても泥水を飲み砂を噛んでいるようなものだ。
 名目上はただの酒の席なので、子供のハクは邸で留守番である。オシュトルが外出している間に帰宅できればいいが、その保証はない。よって先にオシュトルが帰ってきた時に彼を心配させないよう、一筆残しておくことは必要だった。
「問題ない」
「どうぞお好きになさってくださいませ」
 二人の許可を得てハクはさらさらと予備の紙に筆を走らせる。内容は「クジュウリから帝都に向かう最中、車の中で自分の周りに現れた例の黒い外套の二人組に再会し、誘いを受けたので、少し出てくる」というものである。事情を知らぬ者であれば意味不明な文面だが、ウコンとして一団を率いていたオシュトルであれば、ハクが『誰』の誘いを受けたのか何となく察しが付くだろう。
 クジュウリの都で新しく発見された遺跡の調査のため帝都から派遣された二人組を、帝への献上品たる遺物の運搬の護衛にあたった右近衛大将が知らないはずもない。少なくとも、ハクの近くにいた男衆でさえ、黒い外套の二人組の行動を止めようとせず、見て見ぬフリをしていた――つまり自分達が関われる相手ではないと知っていた――のだから。
 呼び出しの相手が誰なのか察したら察したで、何故ハクが……と疑問に思うかもしれないが、兎にも角にも呼び出した人物が『あのひと』であれば、オシュトルも心配だけはするまい。何せ彼が最大の忠誠を捧げる相手だ。
「ご要望とあらば、僕が護衛として同行しましょうか? いくら聡明であっても、子供が出歩く時間ではありませんよ」
 流石に『ご隠居』が誰なのか考え付かないオウギがハクを心配してそう提案する。姉のことは良いのかと視線で問えば、赤髪の青年は「今夜は予定が入っておりませんので」と肩を竦(すく)めた。
「如何します?」
「……いや、いい。この二人がいれば厄介事に巻き込まれることもないだろうからな」
 何せ強力な術の使い手だ。オウギのような素早さはないが、そもそも危険人物に目を付けられないための方法を彼女達は有している。
 詳細は説明せずともハクの態度からそう察したのだろう。オウギは「判りました」と告げて身を引いた。
「でしたら僕はこれで。今後ともどうぞ御贔屓に」
「ああ、次も頼む」
 ハクがそう答えるや否や、オウギの姿が掻き消えた。戸から出て行ったのか、窓から出たのか、それすら視認できない。いつもながら見事な身のこなしである。
「……さて。じゃあ連れてってくれるか?」
 紙が飛ばされないよう文鎮で押さえ、ハクは腰を上げる。相変わらず頭から外套をかぶったままの二人はその両側に侍り、それぞれ左右の手を取った。
「こっち」
「では、お連れいたします。危険ですので、決してわたし達から離れないでください」
 周囲には靄が立ち込め始める。何となく懐かしい光景と手の感触にハクの唇がほころんだが、少年の手を引いて先行する少女達がそれに気付くことはなかった。



《肆》



 まずい酒の席を終えて邸に帰ってきたオシュトルを出迎えたのは、ほっとする陽だまりのようなハクの笑みではなく、その少年が残した書き置きだった。
 書かれた文字に幾度も視線を往復させてオシュトルははぁと溜息をつく。
 黒い外套の二人組もとい鎖の巫(カムナギ)に連れられて向かう先など一つしかない。あの人物が待つ場所であればハクが害されることはないはずだが、それとは別の不安がじわりと腹の底から湧き上がってきた。
「ハク殿……ハク、」
 紙に視線を落としたまま独りごちる。
「其方は某の元へ帰ってきてくれるのであろうか」
 不安の種はそこだ。
 記憶を失い、本当の名前すら判らないハク。しかしこの先を知っているオシュトルは、彼が一体何者であるのかをすでに承知していた。
 大國ヤマトを創り給うた存在にして、大いなる父(オンヴィタイカヤン)である帝。その実の弟君にあたるのがハクだ。
 自らの肉体が滅びた後も現世と常世の狭間の世界に留まっていたオシュトルはハクの歩みの全てを見ていた。そうして知り得たのはどれもこれも驚くべきことだったが、自分が出逢い交流したハクという存在への想いが揺らぐものではない。オシュトルにとってハクは神である前に掛け替えのない親友だったのだ。
 しかしオシュトルがそう思っていても、今のハクがこの世界で唯一となってしまった同胞であり肉親であるあのひとに出逢った時、彼が雇い主よりも実兄の隣を選んでしまう可能性は大いにある。
 掴んだ手がすり抜けていく幻想にオシュトルはきつく目を瞑った。たとえ相手が敬愛する帝であっても、それだけは受け入れられない。受け入れたくない。
(抑えていたつもりだが、思った以上に酒が回っていたか)
 至上の存在よりも親友――正確には親友の代替品にしてしまった少年――を選ぼうとする己の思考にオシュトルは微苦笑を零す。きっと酒を飲み過ぎたせいだと言い訳をして、ふるりと頭(かぶり)を振った。
 ハクの書き置きを手にしたまま私室へ向かう。途中、家人に晩酌の用意を頼むことも忘れずに。
 酔った頭で仕事はできない。しかし仕事もせず手持無沙汰のままハクを待つのも苦痛だ。オシュトルはハク不在の時間を潰すため、そして彼がここに帰ってこない可能性を頭から追いやるために、先の酒宴よりはマシであろう酒で気を紛らわせることにしたのだった。


「……トル、オシュトル。こんな所で寝たら流石のあんたでも風邪を引く」
 したたかに酔っているからか、それとも相手が警戒を必要としない人物だからか。近寄って声をかけられ、あまつさえ軽く肩を叩かれるまでその接近に気付けなかった。しかし待ち望んだ相手の帰宅にオシュトルはいつの間にか横になっていた躰を起こし、濡縁に両膝をついている少年へと笑みを向ける。
「ハク殿……子供が出歩くにはいささか遅い時間であるぞ」
「断りづらい相手だったんだ。それに無事に帰してくれることも判ってたしな」
 深い琥珀色の瞳がきらきらと月光を弾く。子供らしからぬ大人びた微笑だった。
「とは言っても心配かけたよな。すまん。それと、ただいま」
「よく戻られた。……外出の件は構わぬよ。先程のは某を一人にした其方への意趣返しである故」
 言外にさびしかったのだと告げれば、ハクはぱちりと瞬いてから破顔した。「ガキ相手に大層だなぁ」と声を弾ませ、わざとらしくオシュトルの頭を撫でる。
「よしよし、いい子でお留守番をしていたオシュトル様にはご褒美をやらんとな」
「ほう。褒美か。して、何をくれるのだ?」
 小さくやわらかな手の感触を甘受しながらオシュトルもその冗談に乗る。
 胡坐をかいて床に腰を下ろす己の目の前にハクの躰があった。このくらいの齢の子供らしい、身長に比べて手足が妙に長く、そしてほっそりとした危うい肢体だ。今は服で隠れてしまっているが、一緒に旅をし、同じ邸で暮らしていれば、ハクの少々痩せ過ぎと思える体型をオシュトルが知らぬはずもない。
「そうだなぁ」
 オシュトルのような立派な喉仏も未だ現れる気配すらなく、子供らしい高めの声がのんびりと音を発する。「何がいいかな」と、折れそうに細い首がことりと傾いだ。
「……オシュトル?」
 気付けば、手が伸びていた。
 目の前にあった細い肢体に手を伸ばし、己の腕の中に閉じ込める。されるがまま、警戒心などどこにもないハクが腕の中からオシュトルを見上げた。
 月光を弾く琥珀色の双眸を見返してオシュトルは口元に弧を刻む。
「褒美は其方自身、というのは如何(いかが)か」
 青年のハクならば収まりきらない躰も、子供であればすっぽりと腕の中に収まってしまう。それが愛らしくて、切なくて。仮面の奥で双眸を細めるオシュトルにハクが「オシュトル?」と不思議そうな顔をした。
「このまま其方を閉じ込めてしまうのも一興か」
「なんだ、酔ってるのか? まぁのんびりさせてくれるなら閉じ込められても構わんがな。あんたなら悪いようにはせんだろう」
 収まりの良いところを探すようにごそごそとハクが身じろぐ。しばらくして躰を落ち着けたハクがオシュトルの胸板に頭を預けて力を抜いた。安心しきった態度に胸の奥がほっこりと温かくなる。
「某も随分と信頼されているのだな」
「そりゃ天下のオシュトル様だし」
「ふむ。それだけか?」
「だけじゃないのは判ってるだろー。公的には主人と小姓って立場だが、自分はオシュトルのこと大事な親友だと思ってるぞ」
 ここまで言えば満足か、とハクがオシュトルの胸板にこつこつと頭を押し当てる。
 どうやら照れているようだ。しかし羞恥を押し切ってまで言葉にしてくれるのは、先程のオシュトルのさびしかったという旨の発言をまだ気にしているからか。なんと思い遣りがあり、愛情深いひとなのだろう。
 このハクはオシュトルが未来を託したハクとは異なる存在だが、それでもやはりあの陽だまりの如き男なのだと改めて思った。
 傍にいてくれるだけで幸せを感じられる。胸の奥が温かくなり、楽に息をすることができる。その血以上に得難くて、尊いひと。オシュトルが人生で唯一傍に在ることを望んだ存在。
 だからこそ。
(これで某と同じく記憶があったなら……)
 愚かと知りつつ、願わずにはいられない願いを自覚する。
 共有できない思い出がつらい。同じであるからこそ、違う部分に心が戸惑う。
 ここまで同じなのだから。あと少し、もう少しなのだから。共に日々を過ごした『ハク』が欲しいと願ってしまう。
「ああ、そうだな。其方は大事な親友だ」
 腕の中の小さな躰を抱き締めて、オシュトルはもうここにいない陽だまりのような男を想った。


 そうやって記憶の中の青年を想いつつ、己を親友と呼んでくれる無垢な子供を彼の代替品にしようとしたから罰が当たったのか。
 ハクが宮中にも出入りするようになってしばらく経った頃、午後のまだ早い時間帯に近場だから大丈夫だと言って使いに出た彼が、いつまで経っても邸に帰って来なかった。最初は小腹が空いてどこかで寄り道でもしているのかと思ったが、太陽が大分傾いても姿を見せず。
 終いにはオウギがやって来て、
「おや。ハクさんはいないんですか? この時間に来てほしいと言われていたのですが……」
 閉じられていることの方が多い目がうっすらと青を覗かせる。オシュトルの驚いた顔を見て異常を察したのか、纏う空気にピリピリと警戒感が混じった。
「オシュトルさんに心当たりは」
「……有り過ぎて見当がつかぬ」
 絞り出した声は嫌になるほど低く、剣呑な響きを帯びている。オウギは「役に立ちませんね」と辛辣な呟きを落とした後、「判りました」と続ける。
「どの心当たりにしろ、貴方が公に動けるものではないのでしょう。でしたら特別料金でハクさんの捜索をお受けしますよ」
「かたじけない。裏は其方に任せ、表からは『ウコン』が探す」
「了解です。では」
 早々にオウギが執務室から姿を消す。オシュトルも厳しい表情のまま腰を上げ、浅葱色の長羽織が入った行李へと手を伸ばした。



《伍》



 あの右近衛大将オシュトルがとうとう側近にした他人。しかも宮中にまで連れ歩く小姓。そんな存在に、オシュトルを疎ましく思う貴族が目を付けないわけもなく。誘拐した少年を痛めつけて無残な姿になった彼をオシュトルの元に送り返し、これ以上生意気な真似をせぬよう戒めとしてやろう。――そんな計画を立てた者がいた。
 こういった事態はある程度予想できていたことである。何故ならオシュトルはこれこそを警戒して大切な妹を己の実妹であると公表できずにいたのだから。オシュトル本人から話を聞いていたハクも同じく。だが自分ならば大丈夫だろうという過信があったのは、己が成人した男だった時の記憶があったために他ならない。ヒトと比べてひ弱でも、子供よりは大人の方がそれ系統の犯罪に巻き込まれにくいのは当然と言えよう。しかも『前』は正式な部下ではなく隠密――つまりいざとなれば切り捨てられる立場であり、人質や脅しには適さない存在であると、少なくとも表面上はそうなっていた。
(その油断の結果がこれ≠ゥ……)
 痛みで上手く思考がまとまらないままハクは胸中で独りごちる。
 オシュトルの使いを終えて邸に戻る途中のことだった。突然路地から伸びてきた手に奥へと引き込まれ、抵抗する間も無く腹部に衝撃。そのまま意識を失い、気付けば薄暗い屋内にいた。住む者がいなくなり荒れ果てた家屋はまさに破落戸(ゴロツキ)共のねぐらとするに相応しい様相で、ハクは所々穴のあいた板の間に転がされていたのである。
 ガキも起きたしそろそろやるか、という宣言と共に始まったのは圧倒的な暴力の嵐だった。ハクがどうして攫われ、かつ痛めつけられているのかなど一切説明されることはない。しかし蹴鞠のように蹴り転がされ胃の中身を床にぶちまけるハクの耳に、下卑た笑い声を添えて「あ〜あ、可哀想になぁ。天下のオシュトル様の小姓になっちまったばっかりに」という呟きが届けば、それだけで状況を理解するには十分だ。
 そして先述の独り言へ。
(状況は理解した……。が、解決策が見つからん)
 げほげほと胃の中身を吐き出しながらハクは躰を丸める。流石に吐瀉物が己の足にかかるのは嫌なのか、破落戸共の暴挙は一時的に止まっていた。
「っ、は、げほっ……、ぅえっ」
 食道は焼けるように熱く、饐(す)えた臭いが口と鼻の中に充満している。視界は涙で滲んで、蹴られた腹も床にぶつけた背中も、どこもかしこも痛かった。こんなに苦しいのは久々だ。しかもこの躰に限定すれば初めてのこと。
 痛みと苦しみで頭がまともに働かない。だがもし正常に働いていたとしても、この窮地で解決策が導けたかどうか……。オウギと会う約束があったので、それまでに邸へ帰っていなければ異変を察したエヴェンクルガの青年とオシュトルが動いてくれるだろうが、彼らが駆けつけてくれるまでハクが五体満足でいられるか正直なところ怪しい。
(大人の時だって大した力はなかったが、子供の躰がこんなにも無力とはな)
 吐き気が一旦治まるとハクは唇を噛み締めた。
 子供の躰は悪漢共から標的にされやすく、襲われた時に抵抗するための腕力もなく、そして精神面だけでなく物理的な面でどうしようもなく打たれ弱くて痛みに耐性がない。
 どうしてこんな無力な躰で目覚めてしまったのだろう。どうせならもっと屈強な肉体を、それが叶わぬのならせめて記憶にある成人した自分の躰であってほしかった。そうすればきっとここまで情けない状態にはならずに済んだだろうに。
(オシュトル……ッ)
 噛み締めた唇から血が滲む。
(今度こそお前を護るだなんて意気込んでおきながら現実はこの有様だ。馬鹿にもほどがあるよなぁ)
 痛くて、苦しくて、情けなくて、腹立たしくて。元々ぼやけていた視界が更に不明瞭になる。目頭が熱くて、瞬きをすればささくれ立った床に水滴が落ちた。子供の躰は涙腺まで呆れるくらい緩いらしい。
 ハクは唇を噛み締めるのを止め、口の端を持ち上げて自嘲を浮かべようとし――。感傷に浸っていられるのはそこまでだった。
「がっ、あ……ッ!」
 脇腹に衝撃を受けると同時にハクの小さな躰が跳ねる。吐き気が治まったとみて破落戸達が暴力を再開させたのだ。
「殺してもいいんだっけ?」「向こうはどっちでもいいって言ってたぜ」「とにかくぐちゃぐちゃにしろって注文されてたな」という会話を、時々途切れる意識の中で捉える。どうやら依頼者にとってハクの生死は問わないものらしい。どこまで他人の命を軽んじているのか。しかも万が一殺されずに済んだとして、決してそれが死よりもマシな状態であるとは限らない。下手をすれば死ぬ以上に惨いこととなるだろう。
 こんなことなら、兄から護衛としてウルゥルとサラァナを譲り受けていれば良かったと思う。
 黒い外套を頭からすっぽりとかぶって体型も性別も隠していた鎖の巫に連れられて兄と再会を果たした折、ハクは己にコールドスリープ前の記憶がある程度保持されていることを明かした。無論、目の前の老人が兄であると確信していることも。兄は大層喜び、共に暮らさないかとまで提案する始末。流石にそれは辞退したが、ならば件の双子を従者にしてはどうかと勧めてきたのだ。
 今回は天子の狂言誘拐関係で下賜という形でもないため、オシュトルに双子の姉妹のことをどう説明すべきか迷ったハクはその勧めも一旦保留とし、今後も兄弟で会うことを約束してオシュトル邸に帰った。が、もしあの時に兄の言葉を素直に受け入れていれば、こんな場面で解決策を見い出すどころか、そもそも誘拐されることもなかっただろう。
 後悔先に立たずとはこのことか。己の愚かさに歯噛みするハクの眼前に破落戸の爪先が迫る。すでに散々いたぶられた躰でまともに回避できるはずもなく、そうしてハクの意識は完全に途絶えた。


 周囲が酷く騒がしい。大の男の悲鳴らしき声も聞こえる。だがどれだけ周囲がうるさくともハクの意識ははっきりとせず、暗い水底から浮かび上がりきる前に再び闇へと沈んでいった。痛みすらも今は遠い。
 ただし意識が完全に閉ざされる直前、暖かな腕に抱かれて「はくどの」と誰かに呼ばれたような気がした。



《陸》



 オウギの協力を得てウコンがそこに辿り着いた時、すでに空の大部分は赤く染まっていた。
 落陽の光が跳ねた髪や浅葱色の長羽織の輪郭を際立たせ、躊躇なく蹴破った扉から室内へと、真っ黒な影に二分される形で赤い光が差し込んでいる。
「オイ、テメェら……。そこで何してやがる」
 隠密行動に優れたエヴェンクルガの青年が裏から、己は陽動も兼ねて表からボロ屋敷に踏み込んだウコン。その目に映るのはピクリとも動かぬ子供と、少年の細い腕を掴んで空中にぶら下げている男、およびその仲間と思しき破落戸共の姿だった。
 未だ鞘に収まったままの刀が左手の中でぎちりと悲鳴を上げる。
「っ、てめぇは!」
 ウコンの存在は帝都でも随分と有名になってしまっていた。ゆえに直接面識のない破落戸達も知っていたのだろう。急に現れた義侠の漢に驚愕し、次いで怒りに吊り上った蘇芳色の双眸を見てごくりと息を呑む。
「ハクから手を離せ」
 低く、地を這うような声だった。それはただ単純に怒鳴りつけるよりも恐ろしい。ビリビリと痛みすら感じるほどに空気が震え、本物の殺気を当てられた男達が喉の奥で引きつったような悲鳴を上げる。
 この國で武人としての最高位にいると言っても過言ではないオシュトル(ウコン)が、破落戸といえども一般人に本物の殺気を向けるなどあまりにも行き過ぎた行為だった。それはウコン自身十分に理解している。しかし止められない。
 一歩屋内へ踏み込めば、破落戸達が傷ついたハクをぶら下げたまま一歩後ずさった。彼らはこちらが手を離せと言ったのが聞こえなかったのだろうか。腹の奥が氷を詰め込んだように冷たく、逆に頭の中は燃えるように熱い。更に一歩進んで息を吸えば、吐瀉物の饐えた臭いと鉄さびの臭いが肺に充満した。
(……嗚呼)
 これはオシュトルが犯した罪の臭いだ。
 政敵に目を付けられやすくなると判っていながら、まだ子供のハクに隠密ではなく小姓という役割を与えて表舞台に立たせたこと。二度目の人生を歩んでいる己ならば大丈夫だと、無意識のうちに何の根拠もなく自分の力を過信していたこと。――『ハク』を傍に置きたい一心で起こした己の浅はかな行動の全てが大切なものをこんな目に遭わせたのである。
 後悔、怒り、後ろめたさ。胸の内で荒れ狂う感情があまりにも大き過ぎ、ウコンの表情は負の感情に歪むどころか逆に口元が大きく弧を描いていた。
 逆光の中でぐいと持ち上がる口の端に破落戸達が身を強張らせる。ヌグィソムカミ、と音もなく告げた唇の動きを読み取ってウコンは更に笑みを深めた。その通り。その通りだとも。ハクにとってオシュトルは禍日神(ヌグィソムカミ)でしかなかった。
「聞こえなかったか」
 ゆえにウコンが今一番殺してやりたいのは自分自身だ。この愚かでどうしようもない自分を消し去りたい。しかし自害するにしてもまずはハクの身柄を取り返さなくては。その一心で、ウコンは感情が振り切り平坦になった声で繰り返す。
「その手を離せ。……ハクを、返せ」
「っっっ!!」
 ビクリと破落戸達の躰が跳ねた。その拍子にハクを拘束していた手が外れて、少年の躰はどさりと床に落とされる。乱暴なその行為にウコンの眉間の皺が深まった。
 しかしされるがまま、力なく横たわった小柄な体躯から聞こえたのは「……っ、ぁ」という小さな呻き声。今にも消えそうなその音を蓬髪に埋もれた耳で聞き取り、ウコンはまだハクに息があることを知る。
 それがウコンの気の緩みを生んだのか。ほぼ生き物としての生存本能のみで敵の一瞬の変化を感じ取った破落戸が一度落としたハクの躰を拾い上げ、
「くそがっ!! そんなに大事ならてめぇが抱えてろ!!」
 力いっぱいウコンに投擲した。
 それを避けるなどという選択肢があるはずもなく、ウコンは左手に持ったままだった刀を手放し両手で子供の軽い躰を受け止める。脇でガシャンと鞘つきのままの刀が耳障りな音を立てた。が、それにかかずらっていられる余裕はない。
「ハク殿っ……ハク!」
 くたりと力の抜けた躰は至る所が赤黒く変色し、一部は血が滲んでいる。無事な部分の方が少ない。だがまだ温かく、胸はゆっくりと上下していた。生きている。ハクはまだウコンの腕の中で生きているのだ。
 ウコンの意識が完全にハクヘと向けられると、この隙にと考えた破落戸達が裏口から逃走を図る。しかし――。
「逃がしませんよ」
 そちらにはオウギが潜んでいた。ウコンにばかり警戒していた男達の眼前に一瞬にして現れた赤髪の青年は猛毒を塗布した刃で次々に彼らを切り裂いていく。
 集団の一番後方にいた破落戸が抜身の双剣を構えるオウギと傷ついた子供を両手に抱いたままのウコンとを見比べて、後者の方が容易いと判断したらしく、ウコンの方へ反転する。が、オウギの登場で足が止まったその僅かな時間があれば、ウコンが刀を抜くには十分。すでにハクを傍らに寝かせていた偉丈夫はこちらを振り返って目を見開く男に容赦ない一太刀を浴びせたのだった。


「オシュトル殿! おやめください、オシュトル殿!!」
 近衛衆の一人が悲壮さを滲ませた声で叫ぶ。その声は石造りの地下牢の中で反響し、看守達は職務を放棄して耳を塞ぎたくなってしまった。純粋に声がうるさかったからではない。そんなものは牢の番をしていればいくらでも聞く機会がある。看守達の顔色が悪い理由は、その声が止めようとしている人物の所業によるものであった。
 制止の声に続き、名を叫ばれた人物は返事代わりの何か≠行う。再び地下牢の空気を震わせたのは、
「ひいっ、も、や、やめっ! ゆるし……ぎゃああああ!!」
 別のもう一人の叫び声。
 最初は「私をこんなところに放り込んでただで済むと思うでないぞ!」と啖呵を切っていた貴族だが、今はこの通り。右近衛大将オシュトル自ら執り行う尋問に屈し、啜り泣きと絶叫を繰り返すばかりである。
 罪状はオシュトルの小姓を他人に依頼して誘拐・暴行させ、オシュトルを脅迫しようとした件。はっきり言って、大貴族に分類される今回の犯人が牢に入れられる類のことではない。常であればすぐに揉み消されてしまっただろう。宮廷に蔓延(はびこ)る腐敗貴族の力があればそれくらい容易いことだ。
 しかしオシュトルは容赦しなかった。己についてきたごく少数の近衛兵だけを従えて屋敷に乗り込み、無礼だと叫ぶ貴族を無理やり引っ立ててきたのである。そして行き過ぎた暴力でもって自白を促し、貴族が十分な内容を吐いた後も足らぬとばかりに尋問≠続けた。
 貴族の身柄確保に同行した部下も流石にこれはやり過ぎだと声を上げる。しかしオシュトルは止まらなかった。人道的に見ても法的に見ても許容範囲を逸脱していたが、そもそもこの行為に関してオシュトルは法も倫理も守るつもりがない。完全に私怨で行動を起こしていたのだ。
 相手はハクを殺そうとした犯人である。そもそもの原因はオシュトル自身にあるが、実際に手を出したのはこの男だ。当然、許せるはずがない。この貴族が直接依頼した仲介人とそこから依頼を受けた実行犯に関してはすでに取り調べが済んでおり、今は捕縛時に死亡した者を除いた残りが満身創痍で別の牢に放り込まれていた。残るはこの男のみとなっている。そしてこの男に対する尋問が今回の捕縛対象の中で最も苛烈であった。
「ゆるして、であるか……。許すも何も、貴公が必要なことを全て喋ればこの時間も終わる。最初にそう教えたであろう? もう忘れてしまわれたのか?」
「っ、だ、だから! もう喋ることなんて……ひぎぃ!!」
 両腕を広げる恰好で石壁に固定されていた貴族はこれまでの尋問――否、拷問だ――の中で唯一無傷のまま捨て置かれていた左腕に走った痛みで躰を跳ねさせる。他の手足はすでに骨を折られ、切り裂かれ、最早牢を出て正しく治療を施してもまともに動くことはないだろう。
 そして新しくオシュトルの手によって小枝の如くポキリと折られたのは左手の小指。痛みと恐怖で啜り泣く貴族にオシュトルはこれまで幾度も繰り返してきた台詞を告げる。
「某の小姓はこれよりもっと惨(むご)いことをされたのだが」
「……っ」
 オウギとウコンによって助け出された時、ハクの躰は見るも無惨な状態で、すでに四肢は全く機能しなくなっていた。そしておそらく内臓も通常の方法では回復不能なまでに痛めつけられていただろう。
 あの後すぐ、黒い外套を頭からかぶった二人組が現れ、ハクの身柄を引き渡すよう要求してきた。黒衣の二人が誰の使者であるかを知っていたウコンがその要求に逆らえるわけもなく、また引き渡しを拒んだところで自分にハクの躰を元通りにできるはずもないと判っていたため、渋々応じたのだった。神の御技であればきっとハクの傷も全て癒えるだろうと信じて。
 しかし傷が癒えたとしてもハクに刻みつけられた痛みの記憶が消えるわけではない。怒りと憎しみがオシュトルの中で膨れ上がった結果、ハクと同じように、しかし恐怖心を煽るため殊更ゆっくりと、犯人の全身に痛みを与えているのだ。
 なお、オシュトルの常軌を逸した行動はハクが傍にいないことへの不安感も一因となっていたのだが、流石に現時点で本人がそれを自覚することはない。ただ頭を焼き切らんばかりの感情のうねりに従って尋問という名の拷問を繰り返していた。
 たすけて、ゆるして、と貴族の男は啜り泣く。しかしオシュトルはその情けなく汚らしい姿に仮面の奥で笑みすら浮かべて「ならぬ」と告げた。
「貴公はまだ必要なことを話しておらぬのだから」
(貴様はもっともっと苦しまなければならない)
 そしてまたポキリと小枝が折れるような音。薬指があらぬ方向に曲げられて男は地下牢の空気を絶叫で震わせた。
 普段から牢屋内での悲鳴や怒号を聞き慣れている看守達だけでなく、右近衛大将の私怨混じりの捕縛に賛同してここまでついてきた近衛兵でさえ、オシュトルの行動にとうとう目を背ける。これまで清廉潔白公明正大で通ってきた敬愛すべき武人が出自の知れぬ小姓一人のためにここまで堕ちたのか……と、背けられたその目が語っていた。


 オシュトルによる苛烈な取り調べの話はじわりじわりと貴族や宮廷関係者の間で広まっていった。
 田舎出身で年若い右近衛大将を敵視もしくは軽視していた者達は良くも悪くも清廉潔白公明正大という他称そのままの振る舞いをしてきたオシュトルの突然の凶行に恐れ戦き、一方、清らな彼の精神を好ましいと常々感じていた者達は戸惑いや怒りを抱くようになる。いずれにせよ、今回のオシュトルの振る舞いを正当な行いだと考える者はほとんどいなかった。
 これでもし被害者が出自の知れぬ子供ではなく、もっとずっと高貴な身の上の人物であれば、周囲の見方も大きく変わっていただろう。
 ヒトの命は平等だと声高に叫び、それに賛同する者は多くとも、現実として平民と貴族では同じ罪を犯しても平民の方が大きな罰を課せられ、また被害者が貴族であれば平民であった場合よりも刑はずっと重くなる。
 そんな世の中の仕組みは別段差別主義でもないヒトの深層心理にも作用し、いざとなれば無意識に差別的な思考を生み出してしまう。清廉潔白な右近衛大将に憧れて付き従ってきた兵達ですらそれに違わず、オシュトルの振る舞いに対して「たかが一人の子供のために」と眉を顰(ひそ)めるほどだった。
 オシュトル本人とてそれは重々承知している。だが取り繕うつもりは欠片もなかった。
 件の貴族にハクを襲わせた罪を償わせるにしても、周囲を賛同させるもしくは周囲の目を誤魔化すための方法はいくらでもあった。それをせずに相手を痛めつけたのは、ハクを失いかけ、今も傍にいないことで自暴自棄になってしまっていたからだ。
 どうせ一度終わった命なのだから、ハクが傍にいない世界で生きていてもその人生に大した意味はないだろう。彼が傷つき、生死の境を彷徨っているのに、自分だけのうのうと生きていたいとは思わない。
 加えて、オシュトルは何よりも自分自身を許すことができなかった。ハクが回復する可能性が残されている状況で流石に自ら腹に刃を突き立てるまでには至らなかったが、己の立場を悪くするという緩やかな自殺行為を選ばずにはいられなかったのである。
 結果として、ハクが襲われてからおよそ一月(ひとつき)の間にオシュトルの立場は驚くほど悪化した。未だ帝の勅命がないため右近衛大将の地位に留まっているが、彼(か)の者にその地位は相応しくないという陳情書が各所から上がっているという。
 朝堂の間でそれを親切にも教えてくれた左近衛大将にオシュトルは口の端を小さく持ち上げる。期待していたものとは異なる反応に仮面で半分隠れたミカヅチの顔が苛立たしげに歪むのが見えた。
「何がおかしい。貴様の立場が危ういのだぞ」
「それは初めから承知の上だ。……ふふ、こうも差別意識があからさまだと、いっそ笑えてくるというもの」
 命に貴賤はある。その変えようのない『事実』をオシュトルも目の前の男もよく判っていた。
 だからこそ可笑しい。もし傷つけられた彼が一体どこの誰であるのか、その真実が明るみに出た時、周囲の反応がどう変わるのかを想像すると、莫迦らしさに笑えてくる。
 無論、オシュトルの口から真実を明かすつもりはない。明かす権利を持つのはハク本人と彼の実兄たる帝のみだろう。
 そしてハクの身柄が帝の元へ移されてからおよそ一月。オシュトルの凶行が周囲に知れ渡った状態で未だ『誰』が傷つけられたのか明かされていないということは、帝にその気がないということ。記憶を失っているハクは当然明かせるはずもなく、そもそも意識が回復しているのかさえオシュトルの立場では判らない。
(某がおらずとも、聖上に保護された状態であれば其方が不自由を感じることはないであろう。ゆえに)
 ここが潮時か。
 もっとずっと『ハク』の傍にいたかったが、あの子供を代替品とした時、すでに運命は決していたのかもしれない。
「おい、オシュト――」
 未だオシュトルの苛烈なやり方にも、それを隠そうとしないことにも、苛立ちを覚えていたミカヅチが口を開く。が、まともに話しかける前に帝の準備が整ったという知らせが来たことで、彼の声はオシュトルをなじるためではなく御出座を告げるために発せられることとなった。
 そして大階段の先、御簾が巻き上げられたその場所に五つ≠フ影が現れる。
 一人は玉座の役目も果たす車椅子に腰掛けた帝。もう一人はその傍に佇む大宮司ホノカ。そして彼らのすぐ近くに白を基調とした豪奢な衣装に身を包む少年と、少年の左右に白い肌と褐色の肌の双子――鎖の巫が侍っていた。
 聖上のお傍にいるあれは誰だ? 鎖の巫を従えているだと? と、周囲がざわつく。それを八柱将であり実質的な大老でもあるウォシスが「お静かに」という一言で制した。
 広間が静まるのを待って、面紗で顔を隠した帝が口を開く。
「皆が驚くのもよく判る。よってまずはこの者の紹介から始めよう」
 白い衣装の少年が一歩前へ。帝と同じく顔を隠していた真っ白な薄絹が帽子と共に取り払われ、榛を溶かしたような黒髪と、深い琥珀色の双眸が露わになった。オシュトルと、それに隣でミカヅチもまた息を呑む。
「ハクよ、」帝が同胞≠フ名を呼ぶ。「皆に説明しておやりなさい」
「はい、兄上」
 少年がそう答えた一拍後、朝堂の間の空気が大きく揺らいだ。この場にいる全員がその瞬間に知ったのだ。自分達の目の前に一体誰が立っているのかを。そしてこの國に二人目の神が降り立ったという事実を。
 困惑も動揺も憧憬も畏怖もその全ての視線を受け止めて、下手をすれば天子よりも幼い容姿の少年は堂々と声を張り上げた。
「我が名はハク! このヤマトを創り給うた帝と血を同じくし、また同じ胎より生まれし者である!」
 未だ幼い少年の宣言にざわめきは大きくなり、一部からは批判の声さえ上がった。「有り得ない」「小僧め、身の程をわきまえろ」と。しかしすぐさま別の者に「自分達が神と戴く聖上自らお認めになられたこの事実を否定する気か」と反論されれば、その口を噤む他なく。とどめにウォシスが「聖上と弟殿下の御前ですよ、控えなさい」と冷たく命じれば、広間全体のざわめきもまた波が引くように収まっていった。
 静かになった空間に更なるウォシスの声が響く。
「殿下は御躰が弱く、その治療のため聖上の手により永い眠りについておられました。しかし先だってお目覚めになられ、この世のことを学ばれるため、お忍びである場所へと居を移されていたのです」
 ウォシスが一旦言葉を切る。その瞳が捉えたのは、同じく大階段の近くに佇むオシュトル。
「その場所とは、右近衛大将オシュトル殿のお邸です。身分を隠し、オシュトル殿の小姓として世に触れることで、眠っておられた間に起こった変化をその身で体験されていたのです。無論、お忍びといってもオシュトル殿にはハク殿下のことをお伝えしておりました。彼は聖上と殿下の御意思に従って、表向きはハク殿下をただの小姓として扱い、密かに護衛の任にもついていたのです」
 直後、ミカヅチが物凄い形相でオシュトルを見た。が、オシュトルにも答えようがない。
 ハクの正体を知っていたものの、それは知らないことになっている。そもそもウォシスの説明とは異なり、オシュトルと出逢った時点でハクは自身の正体を知らなかった。
 大階段の先にいるハクへとオシュトルは視線を投げかけた。薄絹に遮られていない深い琥珀色の双眸が僅かに細められる。怒っているのか、笑っているのか、悲しんでいるのか。感情が混ざり合うその表情から正確な意図を読み取ることはできなかった。
「さて、ここまで申し上げればすでにお気付きの方もいらっしゃることでしょう」
 オシュトルの思考を遮るようにウォシスの声が広間の空気を震わせる。
「殿下がとある逆賊により生死の境を彷徨った件についてですが――」
 その瞬間、この場にいる全員がオシュトルの行動の正当性を理解した。
 命には貴賤がある。同じ人殺しでも、殺されたのが貴族であれば、被害者が平民である場合よりも犯人の罪は重くなる。
 たとえオシュトル本人にその気がなかったとしても、この瞬間、ウォシスの言葉を聞いた者達はオシュトルが決して血迷った末に凶行に及んだわけではなかったのだと考えを改めたのだ。むしろあれではまだ手ぬるいのではないか。つい先程までオシュトルの行為をやり過ぎだと批判していた者達が手のひらを反したように件の貴族にもっと重い罰を与えねばと声を上げ始める。
 ほんの僅かな間にオシュトルの立場は一変していた。あからさまにオシュトルを敵視していた八柱将のデコポンポでさえ「なるほど。それなら当然の行いにゃも」と頷いている。あの小男に認められても全く嬉しくはないが、彼の態度は大貴族の総意の縮図。判りやすい指標である。
 また、「ヴライ殿ほどではないが帝を敬愛しているオシュトル殿だからこそ、あのような苛烈な手段を取ったのだな……」と、清廉潔白なオシュトル≠好いていた者達も、先程まで忌み嫌っていた行為を好意的に捉え始めた。
「オシュトル」
 広間に声変わり前の少年の声が響く。この場にいる全員が息を潜めてハクとオシュトルを見守った。
「此度、自分は貴殿のおかげで悪漢共に命を奪われることなく、こうして生き長らえることができた。感謝する」
「……っ、いえ。某は」
 むしろオシュトルの傍にいたからこそハクは殺されかけた。恨みこそすれ、感謝するなど有り得ない。しかしハクはオシュトルの言葉の続きを読み取ってふるふると首を横に振る。
「オシュトル、自分は貴殿に救われた。これは純然たる事実だ。どうかこの感謝を受け取ってほしい」
「はっ……勿体無き御言葉でございまする」
 胸に手を当てて一礼すれば、ハクが満足げに頷いた。
 これにより表向きオシュトルが弟殿下の護衛を務めていながらも悪漢共に誘拐されたという不手際は、ハク本人によって許されたこととなる。
 護衛対象であるはずのハクがまんまと襲われた件に関しても、黒幕である貴族をオシュトルが苛烈な手段で尋問した件に関しても、一切のお咎めなしとなるわけだ。
「貴殿には相応の褒美を与えよう。詳細は追って伝える。……帝弟の命を救ったのだ、期待していろ」
「ありがたき幸せ」
 オシュトルはもう一度深々と頭を下げた。しかし顔を伏せたまま、どういうことだと困惑する。
(この振舞い……ハク殿に記憶が戻ったのか?)
 その上で帝達を説得し、オシュトルのために一芝居打ってくれたのか。だとしたら、その思いはオシュトルに歓喜をもたらすものだ。
 しかし、
(であれば、ハク殿は某の元を離れて聖上と……)
 困惑と歓喜、そして何よりも記憶が戻ったハクが己の元から去ってしまうのではないかという恐怖に、オシュトルは仮面の下で顔をしかめた。



《漆》



 ハクが目を覚ました時、視界に映ったのはオシュトル邸の自室の天井ではなく、やけに明るい世界だった。太陽とは異なる無機的なまばゆさにハクは再び瞼を閉じた後、そろりと片目だけ開き、やがてゆるゆるともう片方の目も開ける。
 全身の感覚がどことなく遠い。覚醒しきらぬ意識のまま聞いたのは低く小さく唸るようなモーターの駆動音だった。それはハクにとって慣れ親しんだものでありながらも、地上の世界では最早存在し得ないもの。僅かに身じろぐと、ごぽり、と水泡の音がした。
(水の……中……? いや、ちがう)
 ここは、治療用カプセルの中だ。
 そう気付いた瞬間、意識がはっきりと覚醒する。ハクは淡く色づく液体の中で腕を伸ばし、湾曲した強化ガラスの壁面に両手をつけた。
(知ってる……。これは『前』に兄貴が入っていたのと同じタイプのカプセルだ。でもなんで自分が)
 こんな場所に入れられているのか。
 疑問が生まれてすぐ、その答えはハクの頭の中に浮かび上がる。そう、己は破落戸達に誘拐され、暴行されたのだ。おそらく生死に関わるほどの酷い怪我を負っていた。
(……っ)
 与えられた痛みを思い出して思わず己の躰を抱き締める。だが手も足も正常に動き、皮膚のどこにも斬られたり殴られたりした跡は見当たらなかった。内臓や骨の痛みもない。おそらく治療はほぼ完了しているのだろう。
(そうか、自分は助かったのか……)
 オシュトルとオウギが間に合ってくれたらしい。だが今こうしてカプセルに入れられているということは、兄も何かしたに違いない。
 さて、自分の何がどこまでオシュトル達の知るところとなってしまったのか。それを把握するには当事者である兄もしくは足が不自由な彼が使わしたであろう鎖の巫に訊くのが一番だ。
 バイタルサインの変化でこちらの覚醒には気付いたはず。おそらくもう少しすればここにやって来る兄達を待って、ハクは空気の代わりに己の肺を満たす溶液をはふりと吐き出した。


「なっ……! 自分は三週間も眠っていたのか?」
 予想はほぼ的中していたものの、治療していた期間が思っていた以上に長く、ハクはあんぐりと口を開ける。
 あの怪我であれば、完治にかかった日数はまだ短い方なのかも知れない。しかし半月以上もオシュトルの達の所へ戻らずにいたという事実がハクの胸を押し潰す。亜人種である彼らにハクの治療方法などきっと説明されていないだろう。それがどれほどの心配をもたらすことになったか。
 ハクは現在、カプセルから出されて濡れた躰を拭い、服も与えられていた。おまけにまずは胃をびっくりさせないためと言って白湯を渡され、今はそれを啜りながら実兄と話をしているところである。
 地下空間でありながら、高い天井には青空が投影され、その偽物の空の下で鳥が舞い、大地では木々が茂り、花が咲き乱れる不思議な場所。以前もここで兄と会っており、『前』の記憶も合わせれば見慣れてしまったと言っても過言ではない庭園だ。
 円卓を挟んで兄と向かい合う席に腰を下ろし、ハクはまだ中身が残っている湯飲みを卓上にことりと置く。
「上≠ヘどうなってる」
「ほほっ、お前さんが知りたいのは上≠ナはなく彼ら≠フことじゃろうに。……まぁ随分と気を揉ませてしまっているようだがのう」
 帝としてヤマトの全体を把握している兄はそう言ってふっと苦笑じみた吐息を零した。
 ハクがオシュトルの元で世話になっていることをすでに承知しており、更には元々有能かつ好ましい人材としてオシュトルには目をかけていた兄である。おそらくハクの周りにいる者達の中で最も兄の意識に入りやすいのはオシュトルだろう。つまり兄は複数形で彼ら≠ニ称したが、実質的にその言葉が示すのは、全てではなくともほぼほぼオシュトル個人だ。そして『気を揉む』などという表現を使ったものの、本当に言葉通りであったなら兄は苦笑を交えたりしない。
「……自分のことでオシュトルに何か迷惑が?」
 もしそうならば由々しき事態である。
 しかし兄は頭(かぶり)を振った。
「いいや。お前の一件でオシュトルに迷惑がかかっているのではなく――」ハクとよく似た深い琥珀色の双眸が僅かに伏せられる。「お前が被害に遭ったことで、オシュトルが自暴自棄になりかけておるようでのう」
「あいつが? あのオシュトルが、自分が怪我した程度で自暴自棄に? どういうことだ、詳しく教えてくれ、兄貴」
「うむ……」
 一度ゆっくりと頷いて兄は語り出した。
 ハクが破落戸達に襲われた後、オシュトルは実行犯、仲介人、そして依頼者である高位の貴族、その全員を捕縛もしくは殺害し、捕らえた者達に執拗な尋問を行ったという。
 ただでさえ相手は大貴族だ。だと言うのにオシュトルは自らの動きを隠すことも、その行為に相応しい理由を挙げることも、また話を広めないために裏から手を回すこともしなかった。結果、清廉潔白公明正大と称されてきた右近衛大将らしからぬその話は宮廷関係者や兵士の多くが知るところとなり、今やオシュトルの名声は降下の一途を辿っている。
 まさに自暴自棄。これまで多くの貴族に敵視されながらも宮廷という魔窟で生き残ってきた彼らしからぬ態度である。
(それを引き起こしたのが、自分?)
 確かに今のハクはいつでも切り捨て可能な隠密ではなく小姓だ。そして『前』と同じく互いに認め合う親友でもある。だが、だからと言ってオシュトルがここまでらしくない″s動を起こすに足り得る一件だろうか、これは。
(だが実際にそうなってしまっている。このままじゃあいつは自分で語った夢も叶えられなくなるだろう。父親のように民と苦楽を共にするのが望み? 小姓一人失いかけたくらいでそんなヤケを起こしてちゃ、夢を叶えるどころか今の立場を追われて……いや、それどころか下手をすれば、これ幸いと政敵に目を付けられて首を落とされるぞ)
 何とかしなければいけない。
 あの男はこんなところで失われて良い存在ではないのだから。
「……なぁ、兄貴」
 湯飲みの中身はすっかり冷めてしまっている。指先もまた冷たい。しかし脳の奥がチリチリと熱を帯びていた。
「なんじゃ?」
「一つ頼みがある」
 現状を打開するためにはオシュトルの行動が相応しいものであったと皆に示せるような理由が必要だ。そしてハクはその理由を用意できてしまう立場にいた。
(オシュトルの立場が悪くなっているのは、あいつがどこの誰とも知れぬ小姓のために°・行に及んだからだ)
 無論、その手を使えば、ハクはこれまで『一般人のハク』として己が築き上げてきたものを失うことになってしまうだろう。全てが手から零れ落ちることはなくとも、大なり小なり変化はきっと起こる。だがそれらはハク自身が我慢すれば良いだけのこと。オシュトルという存在を損なわずに済むのであれば、安くはなくとも決して高くない買い物である。少なくともハクはそう思った。
(被害に遭ったのがただの一般人でなければ……オシュトルの暴走の理由が相応しいものであったなら……。そうすれば、)
 円卓の下でぐっと拳を握る。
 事は一刻を争う。間に合わなくなる前に行動を起こさなければならない。
 たとえ結果として出逢った仲間達のみならず親友からも距離を置かれてしまうことになっても。
(何よりもまずウォシスを説得して、それから一応アンジュにも話を通して……嗚呼、さっさと片付けて早くもう一度あいつの顔を見に行かないと)
 次に会う時はきっと手など触れられるはずもない場所での邂逅となるだろうが。
 握った拳を開いて、息を吸って、吐いて。ハクは兄を――……帝を真っ直ぐに見据え、告げた。
「自分を兄貴の弟だと公表してくれないか」


 朝議の場にて帝の実弟の存在が公表されると、オシュトルに向けられていた周囲の視線からあっさりと棘がなくなったことが、ハクのいる壇上からでも判った。困惑が納得へ、敵視が尊敬へ。これが神と称される帝の血筋が成す業かと、気を抜けば苦笑が漏れそうになる。
 しかし苦い思いをおくびにも出さず、ハクは薄絹が垂れた帽子をかぶって再び顔を隠すと、次いで皆に向け、政治の混乱を防ぐため己には皇位継承権が存在しないこと――正確にはすでに継承権を自ら放棄していること――、よって次の帝は変わらずアンジュただ一人であること、自身は主に巫達と共に聖廟にて祭事を司ること、それに伴い住居は宮廷ではなく聖廟内に設けることなど、諸々の説明を付け加える。
 反論は一切なかった。デコイは本能的に人間に従うようできており、なおかつ今は帝の威光さえも加わっているのだから。
 更にオマケがもう一つ。ハクは演じることに慣れていた。よって眼下の臣下達が望む『帝の隣に立つに相応しく、従いたくなるような神々しく威厳に溢れた帝弟』として振る舞うことも然程難しいことではなかったのである。
 ハクに関する説明が終わると朝議は通常の内容で再開された。広間を満たすのは若干浮ついた空気でありながらも、臣下の中で唯一事前に事情を知らされていた――更に詳細に説明するならば説得やら親子での話し合い≠竄轤十分に受けて、親の愛情が己にもしっかり注がれていることを自覚した――ウォシスが的確に進行役を務め、万事つつがなく進んでいく。
 面紗の奥から黙ってその様子を眺めるハクであったが、視線はどうしてもオシュトルの方に引き寄せられてしまっていた。手を伸ばしても届く距離にはいない親友(とも)。帝への忠誠心が高い彼のことだ、正体が明かされたハクを敬いこそすれ、やはり親友とは思ってくれていないのかもしれない。
 ハクが幾度オシュトルに視線を向けようとも全く目が合わないという現実がその予感を後押しした。ただ単にオシュトルが真面目で、今は朝議に集中しているからと考えるのが普通であっても、また頭ではそれを理解していても、後ろめたさを抱えるハクからしてみれば己の立場の変化によってオシュトルの心が離れてしまったようにしか感じられなかったのである。
 容易く落ち込む己を自覚してハクは面紗の奥で眉間に皺を寄せた。元より、一度は失った親友だ。その彼が再び生きてくれているだけでも良しとしなければ。それに傍にいなくてもオシュトルを護ることはきっとできる。むしろ帝弟という権力を持っている今の方ができることは多いだろう。悔やむ必要は微塵もない。
 そう胸中で繰り返し、ハクは理詰めで己を納得させる。論理的な思考は己の得意とするところだ。
 しかし。
(……胸に穴があいたような気分だ)
 現実から目を背けるように、視線はオシュトルから何もない空間へ。そんなハクを左右から心配そうに見上げる鎖の巫。そして、ハクの視線が外れるのと入れ替わるようにして少年を見つめた視線が一対あったことを、ハク本人が気付くことはなかった。



《幕間》



「主様つらそう」
「やはりオシュトル様のことでしょうか」
 朝議が終わり、ハクは聖廟の地下へと引っ込んだ。それに付き従い庭園まで下りてきたウルゥルとサラァナは互いにそっくりな顔を向かい合わせる。
 帝は宮廷(うえ)での政務があるためここにはいない。付き添うホノカも同じく。ハクのために茶と茶菓子を用意しながら、肌の色が異なる双子は主の憂いを払うために何ができるのかと思考を巡らせた。
 オシュトルの窮地を救うために帝弟として公の場に姿を現したハク。目的は達成できたものの、これまで通りの気安い態度でオシュトルをはじめとする友人知人達と言葉を交わすことはできなくなってしまった。帝の弟が一般人のように軽い気持ちで市井に下りることなどできるはずもなく、またできたとしても相手の方がこの國に降り立ったもう一人の現人神という存在に委縮するだろう。
 まさしくハクは『日常』を失った。その日常の中でもおそらく大きな部分を占めていたのがオシュトルである。何せ彼はオシュトルの小姓兼親友として帝都で生きてきたのだから。
 オシュトルとこれまで通り付き合えなくなってしまったと落ち込んでいるのであろう二人の主。しかしオシュトルならば……という希望が双子の中にはあった。朝議の最中、ハクがオシュトルから視線を外した後、その姿を見上げる別の視線があったことを二人は知っている。仮面の奥に収まる蘇芳色の瞳に込められたものはおそらく単なる驚愕や畏敬などではない。
「主様」
 卓上に茶と茶菓子を置き、ウルゥルが呼びかけた。
「オシュトル様にお会いになりたいですか?」
 姉の呼びかけにサラァナが続ける。
 問われ、ハクはきょとんと目を丸くした。それからじわじわと幼い容貌に似合わぬ苦笑を浮かべ、「それは難しいんじゃないか」と答える。
 主の答えはウルゥルとサラァナの問いかけに対する正しい答えとは言えない。二人が聞きたいのはハクの望み。しかしハクが言葉にしたのは彼の望みではなく、ただの現状に基づく予想だ。
「ウルゥル? サラァナ?」
 黙り込むのみならず僅かに不機嫌そうな表情を浮かべた二人にハクが困惑を露わにする。
 自分達の主は判っているのだろうか。こんな表情で、「会うのは難しい」……だから会えないという事実を口にすることの意味を。それが示すハクの本心を。己の心を事実で覆い隠して見て見ぬフリをするハクに二人の胸の内で不満が生まれる。
 ハクに奉仕することが、突き詰めて言えばハクに幸せを感じてもらうことが、二人にとっての喜びである。しかし今、ハクの心は悲しみに沈み、不恰好な笑みを浮かべることしかできない。オシュトルの話題を出せばそれが顕著になった。
 ハクを幸せにしたい二人は揃ってふぅと息を吐き、己の表面から怒気を取り除く。そうして主を前にしての無礼に「「申し訳ありません」」と謝罪し、
「少々御前を失礼したく」
「やるべきことができましたので、少しの間、お傍を離れさせていただきたく存じます」
「あ? ああ、わかった。自分は地下(こっち)にいるから」
「了解」
「承知いたしました」
 一礼し、二人はハクの前から去る。
 ウルゥルとサラァナが何をするために傍を離れたのか判らないハクはしばらく二人の背中に視線を投げていたが、やがて逸らされ、茶器のこすれ合う小さな音が生まれる。自分達が磨きに磨いた技術で煎れた茶が主の好みに合ってくれることを願いつつ、二人は前を向いたまま小さな声で呟いた。
「まずは聖上に確認」
「無断での外出は流石に心配をおかけするでしょうから」
 何せハクは一月前に誘拐され、瀕死の重傷を負わされた身である。突然いなくなったとなれば、兄である帝がどれほど心配することか。更に、もしハクの身に危険が及べば、今度こそ帝はデコイを目の敵にして暴走しかねない。
 今回は帝自ら動く前にオシュトルが先んじて犯人を見つけ出し、苛烈な制裁を加えた。よってハクが治療用カプセルに入っている間はオシュトルのやりたいようにやらせていたのである。ハクが目を覚まして更なる制裁を望むならば己も帝として、そして何より兄として、存分に動くつもりで。ただし目を覚ましたハクは大事なものを護るのに精一杯であり、犯人に対し自ら報復することは頭にもなかったようだが。
 閑話休題。
 兎にも角にも、帝への目通りである。ハクが聖廟の地下に閉じ籠るのを嬉々として受け入れた――何せ聖廟の地下はどこよりも安全だ――帝であるが、外出の必要性を真摯に説けばおそらく理解してくれるはず。ハクの憂いは帝も望むところではない。
「主様とオシュトル様にもう一度対話を」
「主様の憂いを払うお手伝いを、わたし達が誠心誠意務めさせていただきます」
 二人は声を揃えて告げる。
「「それこそが我らの喜びである故に」」



《捌》



 朝議を終えて早々に邸へ戻ったオシュトルは誰もいない執務室に足を踏み入れ、そのガランとした様子に唇を引き結んだ。
 ハクがいない。傷が癒えても彼はここに戻ってこない。
 玉座の傍らに立つハクの姿を見た時、無事に傷が癒えたことを喜ぶ前に彼が己の隣にいないことを嘆いた。あまりにも自己中心的、自分勝手な思考回路である。オシュトル自身、唾棄すべきものだと感じたが、それでもあの時、朝堂の間で抱いた気持ちはオシュトルの心の大部分を占めていた。無論、今も同じ気持ちである。
「オシュトルさま、お帰りなさいませです。……オシュトルさま? どうかなさったですか? 何か気になることでも……」
 邸の主人の帰宅を察してネコネがやって来たものの、オシュトルの常ならぬ様子に首を傾げる。大事な妹に心配をかけるなど兄失格だろう。しかしオシュトルは現状を正しく理解した上で呟いてしまっていた。
「ハク殿はいないのだな」
「何をおっしゃっているですか……?」
 己と同じ形の二股に別れた少女の眉がきゅっと中心に寄る。
「ハクさんは、あに……オシュトルさまの伝手で安全な場所に保護されていると、そうオシュトルさまご自身がおっしゃっていたではありませんか」
「ああ、そうであったな」
 流石に重傷のハクを救い出した際、帝の使いがやって来て彼を連れて行ったなど説明できるはずもなく。ネコネや家人には、身の安全を図るためハクはこの邸とは別の場所で保護していると説明していたのである。真実を知るのは、オシュトルを除けばオウギのみ。
 オシュトルの非論理的な様子にネコネはますます首を傾げた。しかしややもして彼女ははっと息を呑む。ハクの所在を知っているはずの兄がぼんやりしたままあの少年の所在を尋ねるような真似をするということは――
「まさかハクさんに何かあったですか!?」
 オシュトルの着物の裾を掴んでネコネが詰め寄る。彼女の勘違いに気付いてオシュトルは頭を振った。
「いや、心配は無用だ。今は傷も癒え、すっかり良くなっている」
「そうなのですか……」ネコネが安堵の吐息を零す。「良かったのです」
 ネコネはハクを慕っていた。怠惰を好み隙あらば休もうとするハクに目くじらを立て、彼が余計な一言を付け加えてはその脛を蹴るなど、なかなか激しい付き合い方ではあったものの、聡明な彼女は心の中でハクの能力を認め、尊敬すらしていたことだろう。
「ハクさんのことですから、きっとダラダラ惰眠を貪っているに違いないのです。早くこちらに戻ってオシュトルさまのお手伝いを再開してもらわなければ」
 兄がハクの回復を伝えても、やはり自分の目で彼の元気な姿を確認したいのだろう。微笑ましさで口元が緩むと同時に、胸の奥で斬り付けられたような激しい痛みが生まれる。
「それに、ハクさんが戻ってくればオシュトルさまも……、っ」
「ネコネ?」
「いえ、なんでもないのです」
 ネコネはそう答えるが、彼女が何を言おうとしたのか、オシュトルには薄々理解できていた。おそらくハクが戻ってくれば、オシュトルの凶行≠ェ止まると、彼女は思ったのだろう。普段通りに振る舞っていても、彼女もまたオシュトルの変化に困惑している者の一人だ。
(ああ、しかし)
 オシュトルは胸中で独りごちる。
(この子の惑いも最早必要なくなるのか)
 それはハクが戻ってくるからではない。オシュトルの凶行が落ち着くからでもない。ネコネの困惑が解消されるのは、オシュトルがどうしてこのような行動に走ったのかを知り、納得するから≠セ。
「……ネコネ、実はな」
 すでにハクの正体は殿上人全てに知れ渡っている。放って置いてもやがて彼女の耳に入るだろう。しかしこの邸の家人とネコネにはオシュトルの口から伝えるのが筋というもの。
 名を呼ばれ、「なんですか?」と先を促すネコネにオシュトルは一瞬口ごもり、しかし大して間を置くこともなく言葉を紡ぎだした。
「ハク殿のことなのだが――」


 ネコネを白楼閣に帰してからどれくらいの時間が経ったのか。
 朝議は正午過ぎに始まり、邸に戻ってネコネと言葉を交わしたのがちょうど八つ時だったと記憶している。その後、オシュトルはずっと政務机の前に座って一人、紙に筆を走らせていた。窓から差し込む光はすでに赤へと色を変え、手元が暗くなり始めている。仕事を続けるならばそろそろ行灯に火を入れるべきであろう。
「……ネコネに教えたのはいささか急であったか。いや、下手に隠し事をしても益はあるまい」
 ハクの正体が現人神たる帝の弟だと聞かされて、ネコネは一瞬理解しかねるように躰の動きを止めた。しかしやがてそれがどういうことであるのかあらゆる意味で理解したらしい。「だから兄さまはあのような振る舞いを……」と、兄の凶行に得心がいき、安堵の表情を浮かべた後、じわじわと一旦浮かべた喜色を喪失させて彼女はうつむいてしまった。「もう『ハクさん』に会うことはできないのですね」そう呟いた妹の声が悲しみに震えていたのをオシュトルははっきりと覚えている。
 彼女の言う通りだ。もうオシュトルもネコネも簡単にはハクに会えなくなってしまった。帝弟は巫と共に祭事を司り、普段は聖廟に籠るということだから、下手をすれば姿を見ることさえ一生叶わないのかもしれない。触れて、言葉を交わすなど以ての外である。
「……、」
 溜息とするには小さく、しかし呼吸と称するにはあからさまな吐息を一つ。
 同時に筆の動きも止まった。目を通すべき書簡はまだあるのだが、大量の鉛を呑み込んだかのような心地ではこれ以上仕事をこなせそうにない。らしくもなく、ふて寝でもしてしまいたくなった。
 仕事に嫌気がさしたと言うより、物を考えることをしたくないのだ。目を開けていればそれだけでハクの姿が脳裏をよぎる。最早手を伸ばすことすら許されないのだと幾度も幾度も頭の中で繰り返された。それがあまりにも苦しくて、流石のオシュトルも耐えられそうにない。
 オシュトルはついに筆を置き、明らかな溜息を零した。
 またハクと離れ離れだ。死別ではないものの、今度はハクの心すらこの手にはない。彼は唯一の家族である兄と幸せに暮らすのだろう。笑って日々を過ごすのだろう。そしてオシュトルの隣にハクの笑顔が戻ることはなく、オシュトルが彼の隣で笑うこともない。
 自分で蒔いた種だと言うのに、愚かにも帝を恨んでしまいそうだった。
 見当違いかつ不敬にもほどがある思考を打ち切るためにも、本当に床に入ってしまおうか。行灯に火を入れず薄暗いままの室内でオシュトルは寝室へ移ろうと腰を上げた。
 直後。
「――何者だ」
 襖の向こうに複数の気配がある。
 オシュトルは刀掛台に掛けていた刀を手にし、音もなく立ち上がった。刀は左手で鞘の部分を握っている。自然体でありながらいつでも素早く抜刀できる状態だった。
 気配はネコネや家人達のものではない。しかも彼女らであれば、ここに来るまで気配を殺し、部屋の前で突然存在を悟らせるなどという真似はする必要がないだろう。同様の理由でオウギである可能性も考えられなかった。あのエヴェンクルガの青年の場合、最初から最後まで気配を悟らせないのが常だ。
 オシュトルの誰何の声に返答はなく、沈黙が落ちる。
「ここが右近衛大将オシュトルの邸、その執務室と知って訪ねて来られたのか」
 二度目の問いかけをしてオシュトルはまた少し待つ。襖の向こうに敵意や殺気はない。あるのは、困惑、戸惑い、躊躇あたりだろうか。鍛え抜かれた武人とは違い、技を磨いた影の者でもない、ただの一般人のような気配が頼りなく揺れている。
「答えよ。貴殿は何者で、何のためここへ参られた。答えぬのであれば――」
 斬り捨てる、と脅しのためにそう口にしようとした時、ようやく廊下側からの返答があった。
『入ってもいいか』
「……………………………………………………、ぁ」
 襖の向こうから聞こえた声にオシュトルの躰が固まる。仮面の奥で蘇芳色の双眸が限界まで見開かれ、音もなく「まさか」と唇が動いた。
『突然押しかけてすまない。入っても構わんだろうか』
「ハク、殿……?」
 それはもうまともに会えないはずのハクの声だった。
 油断を誘うために刺客が声真似をしている可能性を考える余裕もなく、オシュトルは刀を放り出して襖にとりつき、壊さんばかりの勢いで押し開く。パァンッと大きな音を立てて横に開いた襖の向こうに、驚いて目を丸くしている琥珀色の瞳の少年の姿があった。その傍らには鎖の巫の姿もある。
「本当にハク殿であるのか」
「あ、ああ。中に入れてもらえるか?」
「それはもちろん……だが」
 オシュトルが半歩引いて躰をずらせば、ハクはゆっくりと――どこか躊躇いがちに――部屋の中に足を踏み入れる。一方、双子の巫は廊下に留まり、そのまま主に黙礼して襖を閉めた。
「其方は帝弟であろう。このような所にいて大丈夫なのか」
「そう言う割に、あんたは自分に臣下の礼の一つも取らないんだな」
 部屋の中央で振り返り、ハクが口元を歪ませた。笑おうとしたのだろうが、どうやら失敗したらしい。その事実がハクの考えの一端を窺わせる。
「其方は某に跪いてほしいのであろうか。某はハク殿を親友(とも)だと思っていたのだがな」
「! ……っ」
 オシュトルの言葉にハクがはっと息を呑む。深い琥珀色の双眸を大きく見開き、「まだ、じぶんを……」と唇を震わせた。
「まさか、あんたはまだ自分を親友と言ってくれるのか」
「……其方がそう呼ぶことを許してくれるのであれば」
「許すも何もない。自分は……自分だって、オシュトルを大事な親友だと思っている」
 そう言って伏し目がちになったハクは胸の中央に片手を添え、心臓の痛みを耐えるように「……ああ」と感嘆を零した。
「そうか、そうか……。あんたはまだ、自分を親友と呼んでくれるんだな」
 伏し目がちであるものの、その口元が今度こそ綺麗な笑みの形になるのをオシュトルの目はしっかりと捉えていた。この暗がりでも判るほど色を失くしていた顔に赤みが戻る。再びこちらを向いたハクの瞳はきらきらと輝き、肩から力を抜いてふんわりと春の陽だまりのように微笑んだ。
 オシュトルがハクとの距離を嘆く間、ハクもまた親友と呼び合った相手が遠くに行ってしまったと悲しんでくれていたのである。その事実に躰が震えた。
 あの大怪我も突き詰めればオシュトルのせいであるのに、聡明なハクがそれに気付かぬはずがないのに。彼はオシュトルを責め立てるでもなく、それどころか未だ親友だと思ってくれている。おまけに宮廷を抜け出してまでオシュトルに会いに来てくれた。
 ハクから向けられる好意にオシュトルはぐっと唇を噛み締めた。気を抜けば情けない声が出てしまいそうだ。
 手を伸ばせば容易く届く距離にハクがいる。オシュトルのためにここまで来てくれたハクがいる。その事実に幸福を覚え――……そして、もしや、と。ある一つの考えに思い至った。
「ハク殿」
「ん?」
「某の恥ずかしい思い違いかもしれぬのだが」
「なんだよ、もったいぶって」
 ハクの態度はすっかり以前の通りになっていた。
 オシュトルはそれに心地よさを感じながら、しかし同時に今から尋ねる内容が頭をぐるぐると巡って心拍数を上げていく。もし否定されたら、それこそこの場で腹を斬りかねない。しかし尋ねないわけにもいかないのだ。
 一呼吸置き、オシュトルは言った。
「もしや其方が朝議の場で聖上の弟君であらせられると公表したのは、某の立場を守るためであったのだろうか」
 無論、記憶喪失の一般人として右近衛大将の小姓を続けるより、帝の実弟としての地位を築いた方が、ハクは良い暮らしを送ることができる。だからこそ正体を明かしたのだと言われればそれまでだ。
 しかし帝弟という椅子に座れば、快適な生活と共に様々なしがらみに囚われることにもなる。それにもかかわらず立場を明らかにしたのは、帝弟と明かすことで、周囲を敵だらけにしてしまったオシュトルを救おうとしたからではなかったのか。オシュトルを大切に想ってくれているハクであるならば、その可能性は十分に考えられた。否、オシュトル自身がそう思いたかった。
 問われたハクは質問の意味を噛み砕くようにしばらくの沈黙を挟む。だが、やがてそのかんばせはじわじわと赤く染まり、「……え、いや……まぁ……その」と、視線を逸らしてしどろもどろになり始めた。
「ハク殿、違っただろうか」
「ち、がわ……ない、けどっ! 改めて言われるとだな……っ」
 盛大に恥ずかしがりながらハクがしかめっ面を晒す。
 だが実のところ顔に集まる熱量はオシュトルとて負けていなかった。己で問いかけておきながら、それでも恐れていたのとは正反対の答えが返されて、歓喜に胸が熱くなる。喉が詰まってまともに声が出せない。
(ハク殿は、某のために……)
 オシュトルのために、その手に掴んだ愛しいものを手放し、あまつさえ面倒なしがらみに囚われることさえ良しとした。あのハクが、だ。怠惰で、面倒臭がりで、どうすれば最も楽ができるかを一生懸命考えるような男が、ただ一人のヒトのために最も面倒な手段を選んだのである。
 これが嬉しくないわけがない。オシュトルの中でハクが唯一のひとであるのと同じように、ハクにとってもオシュトルは特別なヒトであるという、紛れもない証拠なのだから。
「っ、おい。何とか言えよ」
 オシュトルが喜びで声を失くしていると、ハクが視線を逸らしたまま唇を尖らせた。しかしすぐに尖った唇は引っ込められ、眉尻が下がる。
「もしかして……迷惑だったか」
 こちらの沈黙を拒絶と勘違いしたらしい。流石に放置しておけず、オシュトルは無理やり喉を震わせた。
「それは違う!」
「オシュトル……?」
 ハクが顔の向きを戻し、再び琥珀色と視線が合う。
「嬉しくないわけがなかろう。傍にと望んだ親友が己の身を犠牲にして某を護ってくれたのだ……こんなに心が震えることはない。ハク殿には感謝してもし足りぬ」
 オシュトルはハクの両手を掬い取ってぎゅっと握り締めた。
「むしろ某はまず其方に謝罪せねばなるまい。某のせいでハク殿は大怪我を負ったのみならず、その後の対応に不足があり窮地に陥った某を救うため其方から安楽な生活を取り上げる結果となってしまった。すまぬ。正直に言って、どうすればこの恩を返せるのか想像もつかん」
「……オシュトル、あんた自分がヘマをしたって自覚はあるんだな」ハクがなんとか赤味の引いてきた顔で呆れたような溜息を一つ。「貴族に制裁を下すにしろ、裏から手を回すなり何なりしてもっと上手く立ち回れただろうに。今回の件はちょっと自暴自棄過ぎやしないか?」
 どうやらハクから見てもオシュトルが普通でなかったことは明らからしい。オシュトルは苦笑を浮かべる。
「言い訳のしようもない。……しかしハク殿が失われかけたのだ。到底正気ではいられまいよ」
 その台詞にハクがぱちくりと両目を瞬かせた。そして驚きの表情のまま「そんなに自分のことが好きなのか」と呟く。
「某のために帝弟であることを明かした其方も似たようなものではないか」
「確かにそうだが……いや、でも」
 ――自分がオシュトルを特別視しているならともかく、あんたまでもが自分をこんなにも特別扱いしてくれているなんて。
 ハクの唇が音もなく告げる。
 だが、それを言うならオシュトルとて同じ言葉を返したい。
 オシュトルが少年のハクへ注ぐ愛情は、付き合いの短さを考慮すればあまりにも大きいものだろう。しかしそれは『前』の記憶があるせいであり、オシュトル本人にとってのみ不思議ではない状況である。しかしハクはどうか。このハクがオシュトルに注いでくれる愛情は、常識的に見て大き過ぎやしないだろうか。『前』の記憶を持っているならまだしも――。
(待て)
 己の考えにオシュトルは仮面の奥で瞠目する。
 ハクから己に注がれる愛情の大きさを改めて自覚して、その異様さにようやく気付いた。
(なぜ某はここまでハク殿に好かれているのだ?)
 たかが帝都への道中で出逢い、才を見出して小姓として傍に置き、そう長くもない月日を過ごしただけだ。にもかかわらず、ハクがオシュトルに向ける感情は、まるであの青年のハクが『オシュトル』を生かすために自身を殺した時と似た強さを持っている。
 否、『似た』どころの話ではない。『オシュトル』という存在を世界に存続させるため『ハク』を殺したハク。そして今、オシュトルを護るために『小姓のハク』を手放して(殺して)『帝弟』になったハク。これらは意味の上で完全に同じだ。
(まさか……前提条件が間違っていたのではないか)
 頭の奥が煮えたぎるような、逆に氷の塊を突っ込まれたような、表現しようのない衝撃に襲われる。
 そんなはずがないと否定しても、一度姿を現した疑問は消えることなく、予想を裏付けるかのように次々と『証拠』をオシュトルに突き付けてきた。
(そうだ、文字。聖上の弟として認められたのであれば、このハク殿もやはり大いなる父(オンヴィタイカヤン)の一人。だが大いなる父が使っていたのは神代文字だ。そうであるにもかかわらず、ハク殿は最初からこの世界の文字を習得していた)
 それだけではない。ハクはまだ幼い子供の姿でありながら知識量が豊富なだけでなく、経験によって培われる類の精神的・思想的な面でオシュトルと同等かそれ以上にものを考え、意見を述べることができた。流石にこれは出来過ぎではないだろうか。
 かつてオシュトル自身が考えた通り、今のハクはまるで子供の躰に大人の精神が入っているかのような振る舞いをする。そのせいでオシュトルが何度子供のハクに青年のハクの姿を見てしまったことか。
 しかしその幻視が真実に至るものだとしたら?
 無意識に躰に力が入り、手を握ったままのハクが「い、たい。オシュトル、痛い」と声を上げた。
「っ、すまぬ」
 一回り以上小さな両手を握る力を緩め、しかし外すまではいかず、オシュトルは改めて目の前の少年に意識を向ける。
「はくどの」
 恐怖か、歓喜か。
 自分でも判らぬまま声が震えた。
「何故、其方はそれほどまでに某を慕ってくれているのであろうか」
「オシュトル?」
「もしや」
 ドクドクと肋骨の下で激しく心臓が動いている。口の中がカラカラに乾いて舌が顎にくっ付いてしまいそうだった。
 だが問わねばなるまい。確認せねばなるまい。
 己が最大の勘違いをしていたのではないかという、この事実を。
「もしや其方も『前』の記憶を持っているのではないか」
「……ぇ」
 握り締めていた手に汗が滲む。オシュトルの手のひらの中で小さな手に力が籠る。そして深い琥珀色をした綺麗な両目が大きく見開かれ――。



《玖》



「まさか、お前も?」
 これまで半分無意識のまま、『前』と『今』の区別をつけるように使っていた呼称が変わる。どこか一歩引いた「あんた」ではなく、親しいひとに向ける「お前」という呼称。それをやはり半分無意識のまま口にしながら、ハクは己の胸の内側に響く激しい鼓動を感じていた。
 そんなまさか、そんなことがあるのか。と頭の中で否定を繰り返す。しかし確かにそう考えれば辻褄が合うのだ。大した付き合いもないうちからハクに将としての才能を見出したことも、あまつさえ「陽だまりのよう」と称したことも。そしてちょっと目をかけた小姓が傷つけられた程度で、あまりにも過剰で異常な制裁行為を行い、ハクが正体を明かして出張るまでに至った件も。
 隠密ではなく小姓だから切り捨てられなかった? そんなはずがない。オシュトルとて伊達に宮廷という魔窟を生き抜いてきた男ではないのだ。必要な保身すら怠って暴挙に走るなど、その原因に相当なものがなければ絶対に有り得ない。
(だからって『前』を覚えていれば必ずしも己の保身よりこっちを取ってくれるとは限らんのだが……まぁそれはこいつとの友情を過信……自惚れさせてもらうとして、だ)
 ごくり、とハクは唾を飲み込んだ。緊張で指先は冷たくなっているはずなのに、オシュトルに包まれるようにして握られたままの手の内側が妙に汗ばんでいる。鼓動は速く、引き摺られるように唇が震えた。
「実は、な」
「ハク殿?」
「昔、大切な親友がいた」
 問いかけに答えるでもなく突然語り出したハクにオシュトルは訝(いぶか)るが、続く言葉に口を噤む。話を聞く体勢を取った相手にハクは再び口を開き、ゆっくりと語り出した。
「自分には大切な親友がいた。真面目で、と言うか堅物で、國と民のために人生を捧げてしまうような奴で、矛盾してるかもしれんがかなり茶目っ気もあって、一緒にいると楽しい奴だ。しかしまぁ雇われてるこっちにいつも無理難題をふっかけてくる、困った奴でもあったよ。だがそいつの見ているものを思えば、手伝わずにはいられない。そいつが自分と妹を庇って死んだ後も、自分が奴の意志を継ごうと思ってしまうくらいには大切な男だった」
 オシュトルが手を握ったままなのをいいことに、ハクはそこに額(ぬか)づく。祈るような仕草に頭上でオシュトルの息を呑む気配がした。
「きっととても特別だった。自分を殺してもいいと思えるくらい、大切な男だったんだ」
「ハ、ク……」
「オシュトル」
 ハクは顔を上げた。見上げた先にあったのは仮面があっても隠しきれないオシュトルの歓喜の表情。顔の両側ではいつもならきちんと髪の間に隠されている耳がパタパタと忙しなく動いてその存在を主張していた。
 こことは別の世界の記憶があるせいでハクはこのオシュトルをどこか『前』のオシュトルの代替品のように見ていた節がある。それが全てではないが、『前』にできなかったことを今度こそ成し遂げようという気持ちはあった。
 ということは、おそらくオシュトルも同じなのだ。少年の姿をしたハクを青年のハクの代わりにしていた。だからこんなにも早くから愛情を注いでくれていた。……同時に決して小さくない罪悪感を抱きつつ。
 しかしそれは杞憂だったのだ。自分達は最初から一番求めていたひとの傍にいたのだから。
 目を見れば、互いに真実を理解したことが判る。
 だからハクは目の前の男が陽だまりのようと称した空気を纏いながら朗らかに笑って言った。
「記憶があるなら話は早い。お前の代わりに頑張った分、しっかり追加労働手当てをもらわんとな。結局『前』じゃ払ってもらってなかったんだし」
「其方の働きに対する報酬となれば一生かかって払い切れるかどうか……だが、一生かけて其方に払い続けるのもまた良い。それはすなわち、一生其方との縁が続くということなのだから」
「そうそう」
 頷き、ハクはオシュトルの顔に向かって手を伸ばす。その動きに合わせて外れた温かな拘束は、代わりにハクの腰へと回った。
 そちらはオシュトルの好きにさせつつ――ついでにオシュトルが少し腰を屈めることになるので、こちらとしても都合が良いのだ――、ハクは美丈夫の顔半分を隠す仮面を両手でそっと取り外した。
 仮面越しでも十分見えていたつもりだが、なかなかどうして。想像以上に甘ったるい瞳が現れ、ハクの鼓動が跳ねる。美形も極めれば性別問わずということらしい。こんな男に自分が化けていたとは、未だに少し信じられない。
 が、そんな感情はおくびにも出さず、ハクは少々偽悪的にニヤリと笑ってみせた。
「一生かかってでもしっかり取り立ててやるから、覚悟しておけよ。オシュトル」
「相判った。実に楽しく充実した人生になりそうであるな」
 答えると共にオシュトルは外された仮面ごとハクの躰を抱き締める。
 触れたところからじわじわと熱が伝わってきて、大きな躰に包まれたままハクはゆっくりと目を閉じた。躰から力を抜けば、温度と共に温かな幸福が内側へと染み入るようだ。
「ああ、きっと楽しいものになる」
 オシュトルの言葉に頷く。そう、きっと楽しいものになる。
 冷たい雨の下で親友の白く砕けた骸を眺めることはない。決してそんな未来には至らせない。
「この先、いかなる難関があろうとも、お前となら何とかなりそうだ」
 かつて月夜の川岸にてこの美丈夫本人から言われた台詞を口にすれば、相手が微笑んだのが躰の震えで判った。
「違いない」
 答えるオシュトルの腕の力が更に強くなる。それに身を任せ、ハクは再び歩むことになった人生を、この瞬間、はじめて心からの歓喜と共に受け入れた。







2017.02.11〜2017.02.17 pixivにて初出