オシュトルが泣き止むまでその身を抱き締めていたハクは、ぐずぐずと鼻をすすりながら上げられた顔を見て苦笑を零す。
「お前の泣き顔なんて初めて見た」 「そ、うで……あろう、か」 「ああ。昔一度だけ、泣きそうな顔をした時はあったけどな」 ハクがウコンを庇って怪我をして、その治療の跡を見せた時の話だ。ウコンの目尻に涙は浮かばなかったが、あの凛々しい眉をへなへなと情けなく下げ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。 「その後で確か……」 泣き過ぎて赤く染まった目尻をそっと指先でなぞり、今もまだこの胸の奥で息づく想いをほんの少し言葉に乗せる。 「お前がプロポーズをしてくれた」 「そしてハクは某の結婚の申し出を受け入れてくれた」 身を起こしたオシュトルはそう告げた後、目の前の女が半裸状態であったことを思い出したのだろう。慌てて己のマントの留め具を外すと、その布でハクの躰を包み込んだ。 「すまなかった」 そう告げる彼の目が先程よりも赤みを増しているのは、幼き日の暴走を思い出してか、それとも女体を前にして照れているからなのか。 (この齢と地位で女の躰を見慣れていない……なんてことはないか) 胸の奥がほんの少しだけ痛んだのには目を瞑り、特別な女性の躰だからこそ照れてしまった<Iシュトルの本心に気付かぬまま、ハクは己を包み込むマントの端を掻き寄せた。 「ハク?」 身を護るような動作にオシュトルがほんの少し悲しげに瞳を揺らめかせる。たったそれだけでハクの中には罪悪感が生まれ、布を掴む指先から力が抜けた。今のオシュトルは諸外國から冷酷な兇皇と恐れられている。しかし彼の中にはまだ確かにハクと同じ時を過ごした優しい少年が生き続けているのだ。そんな男に悲しげな顔をされてしまってはハクも頑なには拒めない。 「マント、ありがとな。というか随分とまぁ良い生地をお使いで。流石大國の皇がお召しになっているだけのことはある」 おどけたようにそう言えば、オシュトルの表情から幾分硬さが削がれた。ほっと胸を撫で下ろした美丈夫は頭を振って「乱暴を働いてすまなかった」と再度謝罪を口にする。 「結婚の約束までした其方が某と離れている間に他の男とどうにかなっていたらと考えた途端……自制が利かなくなってしまった。情けない話だ」 「ん? そういやそんなこと言ってたな……。自分に男だって? ないない。こんなぐうたらでオマケに奇怪な女を嫁にもらおうなんて言う奴は、それこそ小さい頃のお前くらいなもんだろう」 救國の魔女だと崇める民衆はいるけれど、それも今だけだ。平和になり、戦力が不要となれば、きっとハクは皆から畏怖される。しかもアマテラスを攻撃に転用し、その威力を見せ付けてしまった後だ。恐れられ、遠ざけられるだけならまだマシで、こんな危険な存在と生きていくのは御免だと処刑を望む声が上がるだろう。 (それでも……) 十二分に先のことを予測していてもなお、ハクは力を使った。優しく愛らしい二人の君主のために、彼女達を支える素敵な笑顔の人達のために。そして愛しい少年と過ごした大切な日々を誰にも土足で踏みにじらせないために。 ウコンがオシュトルという真名で強國の皇になっていたと知ってもその意志は変わらない。きっとヤマトのどこかで平和に暮らしているだろうと思っていた男はヤマトを攻める側になってしまっていたが、それでもあの小さな國にはハクの大切なものが詰め込まれているのだから。 「……ハク、そのことなのだが」 悶々と考え込んでいたハクの思考を遮るようにオシュトルが名を呼ぶ。彼がしばらく黙していたのはオシュトルもまた少しばかり考え事をしていたためらしい。考え事がまとまったのか、もしくは考えを口に出す決心がついたのか、蘇芳色がはめ込まれた切れ長の双眸がひたとハクを見据える。 「ハクを嫁にしたいと望むのは小さい頃の某≠セけと言ったな。だが、今もまだ某は其方と添い遂げたいのだと言ったら、信じてくれるだろうか」 「…………へ?」 ぱちくり、とハクは両目を瞬かせた。「すまん、もう一回」と我が耳を疑ってそう告げれば、オシュトルは一瞬言葉に詰まった後、射抜かんばかりの眼力の強さでハクを見つめて告げる。 「あの頃からずっと変わらずハクを愛している。我が妻になってはくれぬか」 「――ッ!」 あまりにも強い眼力に心臓を貫かれたかのようにハクの呼吸が一瞬止まった。先程この國で共に暮らしてほしいとは言われたが、まさかそこまで想われていたなんて。 「だ、だがお前は皇だ。妻……后(きさき)だって、もう」 「おらぬ。其方以外の女に触れるなど反吐が出るな」 「いやいやいや、綺麗で魅力的なヒトだって沢山いただろうに反吐とか言うなよ」 「うん?」ハクの言葉にオシュトルは不思議そうな顔で首を傾げた。「其方以上に魅力的な女性などおるまい。ああ、それとも一般的な美醜だけで言っているのか? なれば確かに國一番とも称される女はいた。だが其方以上の魅力など全く感じられぬよ。どんなに外面が美しかろうと其方の聡明さや陽だまりのような暖かさに敵う者などいるはずもない」 一切躊躇なく言い切ったオシュトルにハクはぽかんと口を開ける。過去の自分はこの美丈夫の中で恐ろしいほど美化されているのではなかろうか。第三者からすれば己の中のオシュトル(ウコン)も大概だと言われる自覚はあるのだが、オシュトルの方はその更に上を行っているように感じる。 (いやでもそれなら今の自分を見て多少なりとも幻滅してるはずじゃ……) ちなみにオシュトルは美麗さに磨きがかかっており、もし彼が昔のように笑ったならば、美醜にはあまりこだわりのないハクであっても心拍数が跳ね上がるだろうと予想された。 ともあれ。 「國一番の美人より、こんな野暮ったい女の方が良いって?」 「ああ」 「他の女なんて反吐が出る、と?」 「いかにも」 「じゃあもしかしてお前まだ童貞……」 「一応、次代を残す皇の責務としてそちらの教育は受けている」 つまり女の肌は知っていると即答するオシュトルに、ハクは莫迦らしいと判っていてもまた胸が痛んだ。 しかし。 「……の、だが」 「うん?」 オシュトルの言葉には続きがあるらしい。大変言いにくそうにしている彼に「どうした?」と先を促せば、蘇芳色の瞳が逸らされてぼそぼそと喋り出した。 「教育と称し初めてそれ専用の女を抱かされた時に…………吐いた」 「え」 「何故妻にすると約束した其方以外を抱かねばならぬのかと思った瞬間、どうしても耐え切れなくなったのだ。そうしたら、こう」 「げろげろと」 「うむ」 「わー……」 それ以外の何が言えただろう。二回目以降はなんとか成功したとか言っているが、あまり頭に入って来なかった。 だがそれでもハクの口角はゆっくりと上がっていく。 (まだそんなに好きでいてくれるのか) 嘘でも冗談でもなく、妻にと望むほどに。他の女に触れられないほどに。 歓喜で胸がいっぱいになり、喉の奥までせり上がってくるような感覚に襲われる。決まりの悪そうな横顔が愛しくて、今すぐ抱き締めてやりたいとすら思った。 こんな時、自分にも彼のような耳や尻尾があったなら、如実にこの感情を表してくれたのだろうか。盛大に尻尾を振ってお前の言葉が嬉しいと、口に出さずとも伝えることができたのだろうか。 (いや) しかしハクは自身の考えを即座に否定した。 たとえ尻尾で感情表現ができたとしても、己がこの場で喜びを露わにすることはない。 何故なら―― 「オシュトル」 こちらを向いてくれ、とハクはその名を口にする。 声音の変化に何かを感じ取ったのだろう。オシュトルもまた真剣な表情でハクを見つめ返した。 ああ、なんて綺麗な男なのだろうか。まるで一流の職人が透明な氷から削り出した芸術品のよう。けれどハクは彼が氷でできた物ではなく、熱を帯びたヒトなのだと知っている。そしてずっと昔から己はその熱を愛していた。 「自分もお前の妻になりたい」 「ハクッ!!」オシュトルが大きく目を見開き、両手をハクの肩に添える。「そうか! そうか!! ならばすぐにでも――」 「けどな」 しかしハクはオシュトルの声に滲む歓喜を己の心ごとばっさりと斬って捨てた。 「自分はこの國のものにはなれん。さっきも言っただろう。あの國を……ヤマトを捨てることはできないんだ」 だからエンナカムイに住むことも、ましてやエンナカムイ皇の妻になるなどできるはずもない。 ハクはヤマトという國が好きなのだ。護りたいのだ。あそこは大切な人々が住まい、大切な記憶が詰まった場所だから。 きっぱりとそう告げれば、オシュトルの目から急速に輝きが失われていった。ほんの少しだが昔のような笑顔を取り戻しかけていたのに、それさえ冷たいものへと変じていく。 肩を掴む手には力が籠り、ともすれば痛みに顔をしかめそうになる。それでもこの痛みがオシュトルの悲しみを表しているというのであれば、ハクは彼から与えられる痛みを受け入れるしかなかった。 「すまない。お前の隣には、もう、立ってやれんのだ」 「…………そう、か」 短く告げたオシュトルがゆっくりと躰を前に倒し、ハクの首筋に額を押し付ける。ハクはされるがまま。突き放すことも、逆にその背を撫でることもない。互いの想いを知ってなお彼の手を取らぬ己にそんな資格など欠片もありはしなかった。 「ヤマトに帰してくれ。自分はあそこであの國を護らにゃならん」 「………………」 オシュトルは口を開かない。無言でハクの躰を抱き寄せ、やわらかな肢体に縋りつく。それが彼の答えなのだろう。 「ウコン……オシュトル、どうか自分を――」 あの國へ帰してくれ。 そう言いかけたハクの言葉を遮ってオシュトルが告げる。 「では其方が護りたいもの全てを灰にすれば、ハクは我が妻になってくれるのか」 「もしそんなことしてみろ。この國を灰にしてやるとお前の部下に言ったはずだ」 間髪を入れずにハクはそう返した。 どうか引いてくれと願いを込めて反応を待つ。天秤の両側に乗った愛しいものをこれ以上失いたくはなかった。 だが、オシュトルは肩を震わせ、「優しいハクにそのようなこと、できるはずがない」と告げてから、思いもよらない言葉を口にする。 「だが……、其方になら滅ぼされてもよいかもしれぬ」 「っ! おまえ、何を」 「本気だ。其方になら……ハクになら」 そう言ってオシュトルは更に強くハクに縋りついてきた。 まるで一滴の水もなく砂漠を彷徨い続けたヒトのように掠れて今にも消えそうな声がハクの鼓膜を震わせる。 この國へ攫われるようにして連れて来られ、望んでもいない玉座に座らされ。間もなく母が病死すれば、己を己として見てくれる者など一人もいなくなった。それでも何とかして己の血に課せられた使命を全うし続けたが、結局はこのザマである。自分が皇を続けても辞めてもヒトが死ぬ。その責を全てオシュトルに押し付けて、讃え、憎み、嫌悪し、恐れるのだ。 「もう、たえられぬ」 「……っ!」 「ハク……其方と過ごしたあの日々に戻りたい。其方がいれば……其方がいてくれれば、それだけで、きっとあの日々を取り戻せるであろう」 しかしそれが叶わぬのなら、もはや、こんな世界になど――。 「オシュ、トル……」 男を抱き締めそうになる己の腕をハクは必死の思いでその場に押し留めた。拳を作り、望みを理性で握り潰す。 幼い姫君達に出逢えた自分とは異なり、オシュトルはずっと一人でこの十数年を過ごしてきたのだろう。その孤独が彼をここまで絶望に追いやってしまった。 判っている。痛いほど理解できる。 だがハクは魔女だった。ヤマトを護る『白き魔女』なのだ。 「それでも、だめだ。お前の傍にはいられない。今、魔女がヤマトを捨ててエンナカムイにつけば、あの小國は容易く攻め滅ぼされるだろう。あそこには大切なヒト達がいる。護りたい笑顔がある。そしてお前との思い出も。だから、無理なんだ」 さあ、この手を離してくれないか。ハクがそう囁けば、オシュトルの肩が小さく跳ねた。 首筋に押しつけられていた重みが徐々に軽くなる。触れ合っていた熱が感じられなくなり、そうして再び蘇芳色が目の前に現れて―― (これで、終いだ) 最後に情けない顔は晒せたくないと、ハクが口角を上げようとした、その時。 「であれば、エンナカムイはヤマトに同盟を申し入れよう」 「……………………、え?」 はたとハクの動きが止まった。恰好をつけようとして中途半端なまま固まった顔は、さぞかし奇妙なものになっていただろう。だがオシュトルは失笑することもなく、ひたすら真摯な表情でハクを見つめている。 「ちょっと待ってくれ。エンナカムイはヤマトを攻め落とすつもりじゃなかったのか?」 幾度となくヤマトに攻め入り、最終的には切り札であり最大戦力である魔女の奪取にまで成功したエンナカムイ。オシュトル個人はハクかもしれない人物に会って本人かどうか確かめたかったからということだが、國として見てみれば、エンナカムイは完全にヤマトを滅ぼし、併合する気でいたはずだ。それこそ、周辺諸國に恐れられる軍事大國らしく。 だがハクの予想に反し、オシュトルは「何をおかしなことを」と不思議そうに告げた。 「そもそも、某はこれまで降りかかる火の粉を払うことはあったが、自ら他國に攻め入ったことはない。好戦的だったのは先皇までだ。故にこちらに手出しもしていなかったヤマトをわざわざ攻め落とそうなどとは微塵も思っておらぬし、臣下達にもそのようなことはさせぬ」 不本意だが、エンナカムイ軍がヤマトの國境を侵したのは全てヤマトを手に入れるためではなく、魔女を手に入れるためであった。 そう捕捉するオシュトルにハクはしばらく唖然とし、やがて「あー、うー」と呻き声を上げた。 頭の中を巡るのは、これまでヤマトを護るため自らの頭に叩き込んできた諸外國の動向に関する情報の数々。それをきちんと精査し、組み立てれば、オシュトルが皇になって以降エンナカムイが自ら他國に攻め入った記録など何処にもない。全て勝手にエンナカムイを恐れて先手必勝とばかりに攻撃した國がエンナカムイに反撃され、そして敗北したものばかりだった。 「エンナカムイとヤマトが同盟を結べば、其方の力が使えぬ時に我が軍がヤマトの護りを固めることで、他國の侵攻を防ぐことができる。無論、同盟を結ぶ大前提として其方にはこちらに移り住んでもらうこととなるが、これにより手薄となる部分も我が軍で補完しよう。これならばヤマトに不利はあるまい? こちらの國に関しては、あの魔女≠ェエンナカムイをも守護するとでも言えばどうとでもなろう。ああ、安心してくれ。言葉通りハクを働かせることなどせぬよ。其方はとても面倒臭がり屋であるからな」 昔の付き合いで知り得た性格のことまで引っ張り出してオシュトルは難なくそう告げてみせる。これが一般人の戯言ならハクもまともに取り合わなかっただろう。しかし目の前にいる男は大國の皇だ。彼の意志はその國の意志となり、彼の言葉はその國の言葉となる。そして國は、一度放った言葉を容易く無かったことにはできない。 「本気か」 「ああ。本気だ。……それに、な」 オシュトルはとんだ勘違いをしていたハクを笑うでも、また怒るでもなく、ここからが大事なことなのだと言いたげに真剣な眼差しを向ける。 自然とハクの背筋も伸びた。ごくりと唾を呑み込めば、やけにその音が大きく聞こえる。 オシュトルの唇が開いた。 「それに、同盟し、ハクが我が妻となれば、たとえ世界が平和になり其方の力が不要になったとしても、『同盟國の皇の后』を処刑しようなどと言い出す輩は現れまいよ。いたとしてもこの國の力でその全てを押さえ付けてみせよう。誰にも其方の首を落とさせはせぬ」 「ッ! お前、気付いて……!」 ただ周囲に不思議な光球を漂わせるだけではない。一瞬にして敵の大軍を滅ぼし得る力など、戦の世でなくなれば瞬く間に恐怖の対象となってしまうだろう。その時、民衆がハクに望むのは末永い守護ではなく、消滅。自分達を護っていた力がもし今度はこちらに向けられたなら……。ハク≠知る者達は別としても、彼等を除く多くの人々の意思がそちらに傾く可能性は十分にあり、そしてヤマトの君主達は大多数の意思を無視することができない。そのことをオシュトルも気付いていたというのか。 ハクは驚愕に目を見開く。その頬をそっとオシュトルの両手が包んだ。 「判らぬはずがなかろう。某はこれでも國を統べる皇だ。それに……」 オシュトルの顔が近付いてくる。 ハクが愛した男の、何よりも美しい色がすぐ傍に。 「世界で一番愛しい其方のことなのだからな」 羽根のように軽く優しいそのくちづけをハクは目を閉じて受け入れた。 こうして世界は転換期を迎える。 誰にも手出しできぬほど強く、しかし優しくあろうとする國が、その最初の一歩を踏み出したのだ。 2016.11.10 Privatterにて初出 |