(まさかこの時代の技術レベルで衛星の周回軌道を計算する奴が出て来るとは……)
 両手を拘束されたままハクは胸中で毒づく。
 現在、ハクの身柄はエンナカムイ軍所有の輸送用航空機内にあった。プロペラの音が酷く煩わしいが、こうしてただの音を苛立たしく感じるのは、己の不手際に対する後悔と捕らえられる際に足に受けた銃創の痛み、そして何より自分が大人しくせざるを得なくなった相手側からの脅しによるものだろう。
 アンジュとチィが見繕ってくれた純白の衣装はエンナカムイ兵士達によって取り押さえられた際に土で汚れ、おまけに自身の血でも赤茶色く染まってしまっている。その姿はまさに地に落ちた魔女。敗北の証。両脇を固める兵士達に気付かれないよう、ハクはひっそりと唇を噛み締めた。
 そもそもハクの力は世間的に言われている魔法などではない。この力は純粋な科学技術によるものだ。ただしあまりに発展し過ぎた科学はそれを知らない者にとって魔法のようにも感じられるだろう。
 ハクを護り、ハクの命令に従って敵を討ち滅ぼす光の柱は、この惑星の衛星軌道上を周回している古代文明――この世界では神代(かみよ)と呼ばれている――の遺物、気象管理衛星アマテラスによるものである。本来、地上を人間の生存に適した環境に整えるため打ち上げられた人工衛星だが、使い方次第では攻撃にも転用することができた。
 おそらくこの時代で唯一アマテラスの管理者権限を持つハクはその力を用いてヤマトの守護を担ってきたのである。しかしアマテラスが惑星の反対側にある時間帯はその力を十全に発揮することができない。最重要機密とされたこの情報がヤマト側から漏れる可能性は非常に低いため、エンナカムイ側は幾度かヤマトの國境を侵して小競り合いを繰り返す中で、その戦闘の情報を収集し、ハクが動けない時間帯を割り出したのだろう。なお、この小競り合いの中でも決して少なくない死傷者が出ている。
 ハクの身柄を確保し、無理矢理交渉の席に縛り付けたエンナカムイの将校は、ハクが魔法≠使えない時間帯をほぼ正確に言い当てた後、ハクがこのまま大人しくエンナカムイに連行されなければその時間帯を狙ってヤマトに攻め入ると宣言した。ハクを欠いた状態で弱小國たるヤマトが軍事大國エンナカムイに勝てるはずもなく、その条件を飲むしかなかったハクは、現在アマテラスが使える時間帯になってもこうして苦難に耐えるしかないのだ。
 無論、敵の言いなりになるばかりではない。もしこの約束を違え、先にエンナカムイがヤマトに攻め入った場合、ハクは容赦なくエンナカムイを殲滅する≠ニ宣言している。ただ単に軍に大打撃を与えるだけではない。軍も、民も、皇も、國土も、彼(か)の國の全てを一昼夜以内に焼き尽くすと言ったのだ。それだけのことがアマテラスにはできてしまう。無論、これがただの脅しで済むことをハク自身も願ってやまないが。
 魔女の脅し≠ノ怯んだエンナカムイの兵達は今のところ約束通りヤマトに手を出してはいない。唯一そのことにだけは安堵しながら、ハクは輸送機の小さな窓から外を見る。すでに目視できる距離にまでエンナカムイの首都へと近付いていた。遠い昔は緑豊かな大地だったらしいのだが、今やどの國より発展し続ける科学技術によって彼の國は全体的に鉄錆の色が目立つ。この発展こそがエンナカムイを軍事大國足らしめていた。
 鉄錆色の國を治める皇とは一体どんな男なのか。自分を目の前に連れてくるよう命じたとされるエンナカムイ皇オシュトル≠フ姿を想像しながら、ハクは爪の間に土が入ったままの汚れた手をきつく握り締めた。


 皇が会う気になるまで皇城の地下牢へと放り込まれたハクだったが、半日もしないうちにそこから出され、風呂と食事を与えられると豪奢な部屋へ身柄を移された。
 どれもこれもエンナカムイ皇の命令なのだと言う。ハクの世話をした侍女の話によると、ここへ来るまでのハクへの待遇の悪さは兵達が勘違いしたことによるものであり、本来、エンナカムイ皇はハクを連行≠ナはなく招待≠キるつもりだったのだとか。
 だがそう説明されても未だ脅されていることに違いはなく、またエンナカムイが幾度となくヤマトの國境を侵したことも変わらない。エンナカムイ側にとっては遊びのような戦闘だったかもしれないが、たったそれだけでこの大國の戦力を知るには十分な被害が出たのだ。
 ハクがここから逃げ出せば、一体ヤマトはどうなってしまうのか。赤子の手を捻るより容易く押し潰されてしまう未来が脳裏をよぎる。たとえ待遇が改善されようと、未だエンナカムイ皇の為人(ひととなり)どころか顔さえ知らない状態で、気を許すことなどできるはずもなかった。
 それは皇自らハクがいる貴賓室を訪れた時も変わらず。ハクは部屋の扉をノックされても、「魔女殿」と低く美しい声で呼びかけられても、決してそちらを振り向こうとしなかった。
 だが。
「………………ハク」
「ッ!」
 エンナカムイ皇が口にしたのは、未だハクと親しい者にしか知らされていなかった『白き魔女』の名前。流石にハクの肩が震える。何故、どうして、と疑問が嵐のように胸中で渦巻いた。
 そうしている間にもエンナカムイ皇はハクから数歩離れた場所で跪く。
 あの皇が。周辺諸國が揃って恐れる強國の主が、たかが一人の女の前で膝を折ったのだ。
 ハクは躰を震わせてくすんだ空を睨み付けた。まだそちらは向けない。
 しかし――
「ハク、すまぬ。何度謝罪しようとも許されることではないと理解している。だが、どうか謝らせてほしい。余は……いや、某はただ其方に再び見(まみ)えたかっただけなのだ。――エンナカムイ皇オシュトルとしてではなく、ただ、あの幼き日々を過ごしたウコンとして」
「ッ!?」
 ガタンッと椅子を倒しながらハクはとうとう立ち上がる。振り返って目にしたのは、己と同じ年頃と思しき青年だった。
 ハクのものとよく似た風合いの黒髪に、意志の強そうな二股の眉。切れ長の双眸に収まるのは夕暮れとも夜明けともつかぬ蘇芳色の瞳。美しいが冷たい印象を抱かせるそこに色気と少しばかりのやわらかさを添えるのは右目の下にある泣き黒子だった。
 すっと通った鼻梁の下にある形の良い唇が、ようやく振り返ったハクを見てゆっくりと開く。
「ハク……ずっとお前に会いたかった」
「自分もウコンに会いたかったさ……だが」
 コールドスリープから目覚めてまだ間もない頃に出逢った少年。その面影を色濃く残す美しい青年が眉尻を下げた表情でハクを見上げている。
 幼かったあの頃、ハクは彼とひたすら楽しい時を過ごした。目覚めたばかりで全くわけの判らぬ世界。ただひたすら彼との時間だけが輝いていた。もしかしたらハクがヤマトを好きになれたのは、彼の存在があってこそ、だったのかもしれない。
(自分が魔女として力を揮ったのだって……)
 ハクがヒトを殺してしまえる力を使ったのは、大切なものを護るため。自分を育ててくれた國を、大好きだと言ってくれる人達を、でき得る限り護り通すため。
 ただそれでも目を閉じて真っ先に浮かんだのは、幼い日々を共に過ごした少年の顔だった。
 ウコンが突然姿を消した後もきっとヤマトのどこかで暮らしているに違いないと信じた。そして彼がいる國を、また彼との思い出がある國を誰にも穢させないため、ハクは『白き魔女』となり、失われたはずの力を使ったのだ。
 それなのに。
 ――どうしてお前がそこにいる。
 ――何故ヤマトにお前が剣を向けた。
 胸が苦しくて、つらくて、眉間にぎゅっと力が籠もる。ウコンはもうハクの知るウコンではないのだろうか。
 ようやく出会えたヒトなのに、あの幼き日々のような笑みは微塵も浮かべることができなかった。

* * *

 跪いていたオシュトルはおもむろにその場で立ち上がり、真っ直ぐハクを見つめた。
 ハクは同性の中でも背が高い方なのだろう。しかしあの頃は全く同じ高さだった目線が今はオシュトルの方が少し見下ろす形になってしまっている。こちらを見上げる深い琥珀色に胸が高鳴り、場違いな己の反応に苦笑が漏れた。
「ウコ……オシュトル?」
「どちらでも構わぬよ。其方が呼んでくれるのであれば、どちらであっても某の真名だ」
 その言葉は本心からのもの。ハクが呼んでくれるならウコンであってもオシュトルであっても等しく冷え切っていた心に熱が生まれる。
 彼女の顔を見たことにより、オシュトルの中では傍にいてほしいという願望がますます強くなっていた。オシュトルの命令によって彼女の國と彼女自身に及ぼした被害のことも忘れてはいない。だが欲しいのだ。傍にいたいのだ。あの優しい時間を取り戻したい、そしてハクがいれば、ハクだけがいてくれれば、きっと取り戻せるはずだとオシュトルは信じていた。
「ハク……」
 愛しい名を呼びながらオシュトルは白い頬へと手を伸ばす。
「どうか某と共にこの國で暮らしてはくれぬだろうか」
 伸ばした指先がハクの頬に触れ、

 ――パシン

「っ、ハク」
「すまんが、それはできん。自分はヤマトの『白き魔女』なんだ」
 オシュトルの手を叩き落とし、ハクは硬い声で告げる。琥珀色の瞳は逸らされてオシュトルを見ていなかった。
「……、」
 優しい熱で融け始めていた心臓が再び凍りついていく。
「だってあそこは――……オシュトル?」
 黙り込んだオシュトルを訝って視線を上げたハクがことりと首を傾げる。成長しても相変わらず容易く折れてしまいそうな細さだ。
 その細さを強調するように、首元には白い布製のチョーカーが着けられている。また清楚さを漂わせる白いワンピースでありながら、襟ぐりはかなり大胆にあけられており、ふくよかな胸の谷間が見えてしまっていた。シミひとつない、何者にも踏み荒されたことのない新雪のような肌がオシュトルの視界に飛び込んでくる。
(何故(なにゆえ)、彼の國に固執するのだ)
 もしかしてハクはヤマトに大切なヒトがいるのだろうか。
 ああ、いるのだろう。あの優しくて、穏やかなハクが自らの命を危険にさらしてまで護っている國なのだから。
 十数年ぶりに再会したハクはあの頃の温かさを残したまま美しく成長を遂げていた。きっと彼女を想う男も一人二人では収まるまい。彼等の中にハクもまた想いを返した男がいたのかもしれない。そしてその幸福な男がハクのこの白雪のような肌に――。
「オシュトル……? ウコン?」
 ゾワリと全身の毛が逆立つ。
 血が頭に上るような、けれど同時に引いていくような、奇妙な感覚。視野が狭まり、ハク以外のものが見えなくなる。腹の底の方がひたすらに熱くて、そして。
「そうか。某とは共にいられぬか」
 唇を割って零れ落ちた声は、触れれば凍りつきそうなほど冷え切っていた。
「オシュトル、どうし……いたっ」
 ハクの腕を強く引き、己の胸に抱き寄せる。左手で腰を抱き、右手を頭の後ろに添えた。すっぽりと収まりのよい躰はまるでオシュトルのために誂えたかのようで、口元には自然と笑みが浮かぶ。だがその笑みはどこまでも冷え切った冷笑だ。
「おいっ、オシュトル! 放せ!」
 握った拳で背中を叩かれるが、相変わらず非力なようで痛くも痒くもない。それどころか慰撫されているのかとさえ思えてしまう。
 オシュトルはしばらくハクを抱き締めた後、腰に回した左腕はそのままに、右手だけを後頭部から頬へと移動させて視線を合わせた。
「お前いきなり何を――」
「帰さぬよ」
「っ!」
 大きく見開かれた双眸は本当に宝石のように美しくて、オシュトルはますます口角が上がっていくのを感じる。だが笑みを浮かべるオシュトルに反してハクの表情は強張り、躰も硬くなっていた。小さな震えが触れているところから伝わってくる。
 オシュトルは冷笑を浮かべたまま白い頬に滑らせていた指先を顎に添え、ハクの瞳を覗き込んだ。
「ハク、其方はヤマトへ帰さぬ。誰にも渡すものか」
「お、しゅ……んんっぅ!」
 そのまま無理やり唇を合わせた。
 混乱している隙に舌をねじ込み、小さな口内を蹂躙する。口が閉じられないよう右手でしっかりと顎を押さえて、オシュトルは思うが侭にハクの上顎や歯列を舐め、奥に引っ込んだ舌を絡め取り引っ張り出す。どんどんと拳で躰を叩かれるが、その程度の抵抗で止まれるものではない。より強くハクの身を抱き込んでオシュトルは深く口づけた。
「んぅ、う、んーっ!」
 暴れようとする脚の間に自らの脚を差し込んで更に抱き寄せれば、軽い女の躰はオシュトルの腿に乗り上げる形で僅かに爪先を浮かせる。唇を合わせたまま軽く揺すってやると、やわらかな尻がひくりと震えた。
「ぅんっ、ふっ……っ、んっ」
 口内をいじられ、下肢にまで淡い刺激を送られるハクは、酸欠も相まって目元を赤く染め上げる。至近距離でそれを見つめるオシュトルは満足そうに目を細めた。脚も震え始めており、力が入らなくなっているようだ。ためしに腿から降ろしてやれば、ハクの躰はそのまま絨毯の上にくずおれた。
「っ、は、あ! オシュトル、何を考えて――……」
 唇を解放されたハクはオシュトルを見上げて声を荒らげる。
 だがオシュトルの方はハクの唇を解放するや否や、その場に膝を折り、両手で彼女の胸元の布を掴むと左右に思い切り引っ張った。高級な絹のワンピースはビリビリと無残に引き裂かれ、その奥から淡く輝くような肌が現れる。
「――ッ!?」
 まろび出た乳房を鷲掴めば、痛みと驚きでハクが声を失った。
「ハク、ハク……。もしやすでにこの肌を知った男がいるのであろうか」
「ひ、おしゅとる、やめ……っ! い、たいっ」
「ハク、ハク、ハク」
 愛しいひとの悲鳴すら聞こえずにオシュトルはその躰を押し倒す。真っ白な首筋にきつく吸い付けば「いっァ!」とハクが短く悲鳴を上げた。だが一つでは満足できない。オシュトルは赤い華を首筋だけでなく鎖骨の周辺や乳房にも次々に咲かせ、引き裂いたワンピースを更に乱して腹の方へと――
「………………おしゅとる?」
 急にオシュトルの動きが止まり、ハクが顔を上げた。己を押さえ付けていた力もほとんどなくなり、不思議そうな顔をしながら上半身を起こす。
 オシュトルはそれを止めなかった。否、止められなかった。
 引き裂いた白い布地の奥から現れたのは、真っ白い肌の上に痛々しく走る大きな傷。だが血を流すことは無く、すでに塞がって久しい。ヘソの傍から脇腹にかけて広がるその古い傷跡は、
「俺≠フせいで、ハクが負った……」
「ああ、この傷のことか」
 上半身を起こしたハクはそのまま逃げるのではなく、腹の傷に目が釘付けになって動けないでいるオシュトルの頭をそっと撫でた。優しい手の感触にオシュトルの躰が震える。
「お前まだ気にしてたのかよ。図体はデカくなっても変わらんなぁ」ハクはすくりと笑い声を零した。「……ああ、なんだ。そうか。お前はあの時からなんにも変わっちゃいない。自分の……大切な、」
 降ってきたのは優しい、優しい、ハクの声。
 見上げると、服を裂かれ凌辱されそうになってもなお嫌悪に歪むことのないハクの微笑があった。
「ハ、ク……」
「ウコン。これは大事な奴を護るために負った勲章だ。だからそんな顔をするな」
「……っ!」
 瞬間、オシュトルの中で何かが弾けた。
 長年押さえ付けられていたそれは一瞬にしてオシュトルの裡から溢れ出し、そうして目尻からほろりと零れ落ちる。
「ぁ……っぅ」
 一体何年ぶりになるのだろう。國に連れ戻され、間もなく母が病死した時以来だろうか。
 滲む視界にオシュトルは顔をしかめて、そのままハクの腹に額を押し付けた。
「っ、ふ、ぅ、うあ、あ、ッあああああああああああああ!!!!!!」
 ハクが身を折り、そっとオシュトルの頭を抱き締める。大好きなひとのぬくもりに包まれて、オシュトルは「すまない」と「悪かった」を幾度も幾度も繰り返しながら泣き叫んだ。





(ごめんなさい。ごめんなさい。嫌いにならないで。あなたが大好きなんです。どうかどうか傍にいて。わたしのものになってください。もう二度と離れ離れになりたくないから)







2016.11.08 Privatterにて初出