それはオシュトルという名の少年が不思議な社を見つけるよりも十年以上前の話。
 エンナカムイの片隅に一組の夫婦が暮らしていた。
 立派な体格を持つ豪気な性格の若い男と、触れれば折れてしまいそうな体躯でありながらたおやかさと凛とした清廉さを併せ持つ美しい女。夫婦は実に仲睦まじく、祝言を挙げた後、数ヶ月して女の胎には男との子が宿った。
 悪阻やら何やら大変なことも多々あったが、日に日に膨らんでいく胎を眺める夫婦の顔は幸福に満ち、自分達の初めての子が生まれてくることを心待ちにしていた。
 だが臨月を目前にして女が体調を崩した。突如倒れたかと思うと高熱を出し、意識は混濁。男の甲斐甲斐しい看病も幾人もの薬師による懸命な治療も功を成さず、女は見る間に弱っていった。言葉にはされなかったものの、このままでは胎の子共々……と、女を診た薬師は誰も彼もが思ったことだろう。
 原因不明の病に伏した女は時折おぼろげに意識が戻ると、ひたすら夫に謝罪の言葉を繰り返した。このままでは胎の子まで死んでしまう。愛しい貴方を残して常世(コトゥアハムル)に旅立ってしまう。貴方を独りにしてしまう……と。
 そのたびに男は妻の弱気を振り払うように言葉を尽くしたが、女の体調が戻る気配は一向になく、その命は最早あと数日か、というところにまで来てしまっていた。これまで胎の子が流れなかったのは奇跡に近かったのかもしれない。だがこのまま女が死ねば子も同じく死んでしまうだろう。
 男は誰にとも知れず願った。どうか妻と子を助けてほしい。何を代償にしても構わない。この二人の命が助かるのなら、己の全てを……この魂を捧げても構わない。
 その願いが聞き届けられたのか、連日の看病で疲労困憊、意識も朦朧としていた男は幻覚≠見た。
 桶の水を変えようと少しだけ妻の元を離れた男の目の前に白い青年が現れたのである。
 骨のような質感の不思議な仮面によって顔の上半分を隠した青年は、白い衣をひるがえし、真っ白な花弁と共に男の目の前に降り立った。シャンッと甲高い音を立て鉄扇を広げた青年はそれで口元を隠しながら男に問う。
「何を代償にしても叶えたい願いがあるのは汝か?」
 男は即座に頷いた。妻のトリコリと彼女の胎の中にいる子の命が助かるのであれば何を差し出しても構わない。どうかどうか、あの二人を助けてほしい。
 その願いに真白の青年は諾と返した。藁にも縋る思いだった男はその返答を聞き満面に喜色を浮かべる。だが青年は淡々とした口調で「ただし」と付け加えた。
「お前の妻と胎の子の命を救う代償はお前が支払うものではない。この願いの代償は胎の中にいる子供の人生だ。本来であれば母子の命を救うのであるからして、子だけではなく女の残りの人生も頂戴するところなのだが……そちらはおまけだ。まだ胎にいる子を救うのであれば、母の命も必要であるからな。女の救済は子の命を救うための手段として見ることとしよう」
 心身共に疲労していた男だったが流石にその意味を解せば頷くことなどできなかった。ふざけるなと怒鳴り散らし、青年の襟首を掴み上げる。されるがままの青年は邸の壁にその痩身を押し付けられても文句ひとつ洩らさず、ただ一言「せっかちだなぁ」と場違いなほどのんびりとした口調で告げた。
 ついでにその一言が発せられると同時に、青年が纏っていた不可思議な――神聖さすらあった――空気がふわりと霧散する。残ったのは春の陽だまりのような穏やかで慈愛に満ちた空気だ。
 そんな空気の中、青年が男の手を指先で突けば、思わずと言った風体で男も拘束していた手を離す。青年は「あーしんどかった」と呟きながら再度男に視線を合わせた。白い仮面の奥から深い琥珀色の瞳が覗き、穏やかに細められる。
「願いを叶えるためには代償が必要だ。お前の願いを叶えるために自分は子供の人生をもらわねばならん。それが理だからな。しかし別に誰かの人生をもらったからと言って、自分がそこに関わらないといけない……なんてことまでは決まってないだろう?」
 つまりどういうことだと男が尋ねれば、青年はニコリと微笑み、言った。
「今お前の妻の胎の中にいる子の人生を自分は確かにもらう。だがその子の人生を意図的に狂わせることは決してない。可能な限り無関係無関心を貫き、その子の人生に自分は関わらんことをここに誓おう」
「……そんなんでいいのかよ」
 なんとも言えない理屈のこねくり回し方に苦み走った表情を浮かべる男。そんな男の顔を見て、青年は呵呵と笑った。
「だってなぁ。他人の人生をもらうなんざ、面倒以外の何ものでもないじゃないか」
 そうして男の願いは叶えられ、男が桶の水を交換して妻の元へ戻った時にはもう、彼女を苦しめていた熱は下がり、容態は安定していた。薬師を呼んで確認させたところ、胎の子も無事らしい。
 どうしていきなり……と首を捻る薬師に男から言えることは何もなかったが、とにかく危機は過ぎ去ったのである。
 その後、女は玉のような男児を産み落とした。夫婦の子は『オシュトル』と名付けられ、大病を患ったり大怪我を負ったりすることもなく、すくすくと立派に成長したのであった。


「――というわけで、お前の人生は自分がもらったんだ」
「まったく、あなたという御方は」
 ひとが好いにも程がある。
 自分には何の得もないくせに誰かの願いを叶えてしまうなんて。オシュトル自身がその願いの成就によって救われた命であるものの、ハクのお人好し加減には尊敬を通り越して若干ながら呆れてしまった。
 そんなこと言われても、他人の人生まで背負うなんて本当に面倒臭過ぎるし……と、ハクは独りごちる。
「ともあれお前の人生……生きている時間以外の何かをもらわんとなぁ」
「そうですね。願いは叶えていただいたのですから……」
 しかしオシュトルがハクに渡せるものなどあるのだろうか。そもそも『人生』という大きなものをすでに差し出している身である。これ以上渡せるものなど――。
「あ」
「オシュトル?」
 一つだけ思い当たってオシュトルは声を上げた。一緒に考えていたハクが不思議そうに名を呼ぶ。
「何か思い付いたのか?」
「某がハク殿に差し出せるものと言えば、これしかありません。――我が魂です」
「は? え、ちょ、おい待て」
「ですから、」
「待て、早まるな! っていうかこれ以上言葉にするんじゃな――」
 い、とハクが最後の一音を言い切る前にオシュトルはそれを口にした。

「叶えていただいた願いの代償として、御身に我が魂を捧げましょう」

 直後、二人がいる空間全体にキンッと澄んだ音が響いたような気がした。
 びっくりしてオシュトルが両耳を手で塞ぐと、その視線の先には何故か額を押さえて項垂れるハクの姿。耳から手を離し、恐る恐る「どうかしたのですか」と尋ねれば、青年はじろりとオシュトルを睨め付けながら唸るように言った。
「お前どうするんだ……」
「え?」
「今ので契約が成立しちまったぞ」
 つまりあの瞬間、オシュトルの言葉はただの提案ではなく、正真正銘ハクに自らの魂を捧げてしまったのである。
「人生をもらうだけでも重いってのに……魂とかホントどうすんだ。死後も縛り付けろってか。そりゃないだろ……」
 まことに不本意です、とハクの顔にはデカデカと書かれていた。
 オシュトルは尻尾も耳も力なく垂れ下げて「申し訳ありませぬ」とうつむく。
「某の魂を捧げるなど、迷惑でございましたか」
「……あ、いや。そうじゃなくてな。別に自分が嫌がってるわけじゃなくて」
 本人が自覚している以上に沈んだ声だったため、ハクが慌てて言い繕う。別にオシュトルの人生のみならず魂――つまり死後の状態――まで己のものにしたこと、ひいてはオシュトル本人を厭うつもりはない。だがこの契約はオシュトルの方が嫌なのではないか、とハクは尋ねる。
「だってもし自分が口約束を破ってお前にちょっかいかけようと思えば、いつだってお前の今の人生も死後も……いや、来世もそれ以降も、滅茶苦茶にしちまえるんだぞ? そんな不条理があってたまるか」
「ハク殿……」
 どうやらハクはオシュトルのためにこの事態を厭ってくれているらしい。
 そうと判れば現金なもので、オシュトルの耳も尻尾も瞬く間に元気を取り戻し、上げた顔には笑みが浮かぶ。オシュトルの笑みを見て、ハクが「お前、なに笑ってんだ」と溜息をついた。
「何故(なにゆえ)厭うことなどありましょうや。某はハク殿に今生の命を差し出しているからこそ、其方に会うことができた。であれば、この魂を差し出したことによって、死後も、来世も、ずっとハク殿にお会いできるということ。某にとってこんなに嬉しいことはございませぬ」
 オシュトルは鉄扇を握っているハクの手をそのまま両手で掬い取り、ぎゅっと握り締める。
 心臓がドキドキと激しく脈打っていた。見上げた先には、白い仮面の奥から覗く優しくて聡明な琥珀色の光。こんなにも綺麗なひとと今生も死後も来世も関われるなんて、幸せ以外のなにものでもない。
「ハク殿、そのように難しい顔をなさらないでいただきたい。某はハク殿と結ばれたこの縁をとても得難い物だと思っております」
「……お前、齢の割に恰好いいこと言うよな。将来が怖い」
「? よく判りませぬが、ハク殿に褒めていただけたのなら重畳です」
 ハクの手を握り締めたままにっこりと微笑んで見せれば、諦めたように青年が溜息をもう一つ。それから緩んでいた雰囲気を改め、背筋を伸ばして重々しく告げた。
「願いの対価、しかと受け取った。これより汝は今生のみならずその魂の有る限り永久に我がものとなる」
「承知仕りました、我が神よ」
 オシュトルは握り締めたままだった繊手に額づく。忠誠の証なら足の甲にくちづければ良いのかもしれなかったが、流石にハクもそんなことは望んでいないだろう。
 再び顔を上げたオシュトルは清々しい気分でハクを見つめた。
「これからもずっと一緒ですね」
「そうだな。お前さんが死んでも、自分達はずっと一緒だ」
 ハクが笑う。
 嗚呼幸せだ、とオシュトルは思った。













2016.11.17 pixivにて初出