「ふぅん、オシュトルには妹がいるのか」
「はい。身内贔屓と笑われるかもしれませぬが、母上に似たとても愛らしい子でして……」
 二度目の邂逅の後もオシュトルはハクの元へ通い続けた。さほど多くない時間、しかも内容は世間話程度だが、オシュトルの話にハクがふむふむと相槌を打ってくれるだけで心が弾む。
 実はハクの元へ再び会いに行けるようになってからもう一度父を伴って向かおうとしたのだが、やはり誰かと一緒だとここには辿り着けないらしい。ハクにもそう話したが、どうやらオシュトル一人だけでもここへ来られることの方が不思議なのだそうだ。どうしてなのかはまだ問えていない。訊けばハクは答えてくれるかもしれないが、きっとこの穏やかな時間も終わってしまうだろう。
 そんなわけで今も一人で会いに行っているのだが、足繁く通っているうちにオシュトルの態度は当初と比べて随分と砕けたものになってきていた。最初の方こそよく緊張したものの、慣れればハクが纏う陽だまりのような気配に気が緩み、こうなってしまうのである。ハクは「敬語も無くていいのに」とさえ言ってくれるのだが、流石に年上と一目で判る相手に同世代と話す時と同じような口調を使うのは憚られた。
「じゃあ今日はその子に土産でも持って帰ってやるといい。お前、最近ここにばかり来て、そんな可愛い妹の相手をちゃんとしてやれてないんじゃないか?」
「うっ」
 まさにハクの言う通りだったためオシュトルは言葉に詰まる。ハクに会えるだけで舞い上がってしまっていたせいか、大事な妹のみならずよく遊んでいた友人達のことも少々疎かになっていた。それをハク本人から指摘されると非常に居心地が悪い。大切なものを疎かにするくらいなら自分に会いに来るんじゃないと言われでもしたら酷く落ち込んでしまいそうだ。またそれとは別に、オシュトルを慕ってくれる可愛らしい妹の顔を思い出せば、大層申し訳ない気持ちにもなった。「あにさま」とまだ少々舌足らずな呼び方をする小さな妹を構ってやらずに何が兄か。
「ですが一体何を土産にすれば……」
 兄の名誉挽回とまではいかずとも、可愛い妹に土産を持って帰るのは良い案だと思う。しかし生憎彼女が喜んでくれそうなものなどパッと思い浮かばない。と言うより、オシュトルからのものであるならば何であっても喜んでくれそうではあるのだ。しかしそれでもやはり彼女がもらって本当に嬉しいものをあげたいというのが兄心だろう。
 甘いお菓子、可愛い髪飾り、綺麗な服。書冊……は、まだ早いだろうか。それにオシュトルも子供であるため、大した予算があるわけでもない。ハクはネコネへの土産に他人である己が助言すべきではないだろうと沈黙を決め込んでいる。そんなハクに見守られてオシュトルは「むう」と唸った。
 その時、視界にあるものが入る。目の前を横切ったのは一匹の蝶だ。木漏れ日が差すこの場所を蝶はひらひらと舞い、特に陽当たりがよい社の屋根の方へと上っていく。そのまま視線で追いかければ、オシュトルから見える位置に茎を伸ばしていた小さな花にとまった。
「花……」
「ん? 何かいいものは考え付いたか?」
「妹には花を土産にしようと思いまする」
「ほうほう、花か」
 いいんじゃないかと答え、ハクがその場から立ち上がる。
「ハク殿?」
「だったら良い場所に案内してやろう。時期的にちと早いかもしれんが、もう咲き始めているだろうからな」


 ハクの後ろについて社の裏に回ると、そこには細い道が伸びていた。進むにつれて芳しい花の香りが徐々に強くなってくる。オシュトルは、くん、と鼻を鳴らした。
「こちらからとてもいい匂いが……」
「だろう? あともう少しだ」
 振り返ったハクはそう言って再び前に向き直る。
 この小道にも木漏れ日は差していたのだが、やがて前方が殊更明るくなってきた。空気自体もあの苔生した空間に比べて少し乾いている気がする。
 ただしハクの背中に隠れて向こうに何があるのかまでははっきり見えない。脇から覗き見ようと躰を揺らすのも恰好がつかないと思い、黙ってついて行くオシュトル。しかしふいにハクが立ち止まり、すっと横に退いた。
「さあ、着いたぞ」
 そしてオシュトルは息を呑む。
「――――――すごい」
 見計らったかのように少し強めの風が吹き付け、オシュトルの目の前に広がるそれ≠フ匂いと色彩を一層強く運んできた。
 鼻孔を擽る芳しい花の香り。そして咲き乱れる薄紅(うすべに)色の花の絨毯と風に乗って舞い上がる花弁。突然森が途切れたかと思うと、そこにあったのは一面に広がる花畑だった。
 まだ満開には至っておらず、せいぜい五分咲きといったところだろう。しかし圧巻である。ぐるりと見渡してもそこにあるのは美しい花ばかり。エンナカムイにこんな場所があるなどオシュトルは今まで全く知らなかった。
「ここから妹に持って帰る花を摘んで行くといい。こんだけありゃ取り放題だからな」
「よろしいのですか!?」
「別に誰かの持ち物ってわけでもない。好きにすればいいんじゃないか?」
 ハクにそう言われ、おまけに背中まで押される。一歩踏み出せば二歩目も軽く、オシュトルは花畑の方へと歩き出した。
 花の傍らでしゃがみ込み、天へと伸びる細い茎を手折れば、オシュトルの手の中で薄紅色の美しい花が花弁を揺らす。それに妹の喜ぶ顔が重なってオシュトルの頬も緩んだ。これならきっと彼女も喜んでくれるだろう。
「ハク殿、感謝いたします」
 幾本か手折った花を持ち、オシュトルはここまで連れてきてくれたひとを振り返る。オシュトルの背中を眺めていたそのひとは薄紅色の花束を持って微笑む少年の姿に目を丸くし、「なんともまぁ色男なこって」と苦笑を浮かべた。
「ハク殿?」
「なんでもない。それじゃあその花が元気なうちに妹のところへ持って帰ってやらんと」
「はい。そうですね」
 オシュトルは頷き、ハクと共に来た道を引き返す。「また来てもよいでしょうか」と尋ねれば、ハクはわざわざ振り返って口の端を持ち上げ、「もちろん」と答えた。
「自分の許可など要らんさ。この道はいつでも通れるようにしておくから、好きな時に来て、好きなように眺めればいい」
 ハクの言い方にはオシュトル一人で花畑を訪れる可能性が含まれている。無論ハクはそこまで意識したつもりなど無いだろうが、オシュトルは少々唇を尖らせた。
「流石に一人で来てもあの美しさを十分堪能できるとは思えませぬ」
 やはり大事な誰かと共に見るからこそ、美しいものはより一層美しく感じられるに違いない。オシュトルがそう反論すれば、ハクは苦笑で肩を震わせてから「確かに」と答えた。
「だったらまた自分と来ても良いし……そうだな、たぶんお前の妹ならここまで来られるんじゃないかね」
「ネコネが、ですか?」
「ああ。一人じゃ難しいだろうが、あの社に辿り着けるお前が導けば可能なはずだ」
「しかし父上は来られませんでした」
「幼い子供限定ってことだな」
「つまりハク殿は稚児趣味……」
「なんでそうなる」
 うんざりとした目がオシュトルに向けられる。だが、それは当然ただの冗談であり、目が合うと途端に二人して笑い声を漏らした。
「ま、妹が来たいって言ったなら、そのうち連れて来てやれよ」
「承知しました。某もネコネにはあの光景を見せてやりとうございます」
「いい兄ちゃんだなぁ」
 ふんわりと目尻を和らげ、唇に弧を描くハク。春の陽だまりのような優しいその顔にオシュトルはハッと息を呑み、それから何故か熱くなる頬を隠すようにうつむいた。前方を行くハクが前に向き直ってしまえばそんなオシュトルの変化に気付けるはずもなく、社のある場所へ戻ってくる頃には少年の顔色も戻っていたのだが――。
「…………」
 その時感じた鼓動の速さはオシュトルにとって忘れられないものとなった。


「とってもきれいなのです! あにさま、ありがとうなのです!」
 オシュトルが花を持ち帰ると、妹のネコネは頬を紅潮させて喜びを露わにした。受け取った花束に早速顔を近付けてくんくんと匂いを嗅ぐ。あの花畑から摘み取った花は今もまだ芳しい香りを発しており、ネコネの赤い双眸が幸せそうにとろんととろけた。
「いいにおいなのです……。あにさまは、このお花をどこでみつけたのですか?」
「それは――」
 今や完全に見逃してもらっている状態ではあるものの、本来両親から行ってはいけないと言われている場所である。ゆえにそのまま正直に話してしまうのは憚られた。かといってここまで喜んでくれた妹を騙すのも心苦しい。
 ならば、
「あにさま?」
「もうすぐお前の誕生日であろう? その時に連れて行こう」
(父上と母上の承諾もきちんと得ておかねば)
 決して危険な道のりではないこと、そしてネコネを喜ばせたいというこの思いを真摯に伝えれば、きっと許してくれるはずだ。
「ほ、ほんとうなのですか! ぜったいなのですよ!!」
「ああ。楽しみにしているといい」
「はいなのです!」
 大きな目をきらきらとさせ、心なしか飛び跳ねながら小さな躰が家の奥へ向かう。おそらく花を少しでも長持ちさせるよう、花瓶を用意するつもりなのだろう。「ははさま!」と母を呼ぶ声が聞こえた。
 妹の反応にオシュトルもまた微笑む。ネコネが誕生日を迎える頃には花畑も見頃になっているはずだ。それにハク曰く、ネコネくらいの齢の子供であれば、オシュトルの導きであの場所へ辿り着けるのだという。ならば父と社のある場所へ向かった時のようにはならないだろう。
「……そうだ。ハク殿にも報告せねばな」
 妹が大層喜んだことを伝えれば、花畑を教えてくれたハクもきっと喜んでくれるはず。その時に浮かべられるであろうやわらかな笑みを思えば、オシュトルの胸はあっと言う間に熱くなった。







2016.11.15 pixivにて初出