数多の属國を従え、大陸で最も繁栄している國――ヤマト。その帝都から遠く離れた小國であるエンナカムイは、ヒトやモノの交流もさほど盛んには行われぬ典型的な田舎だった。
國をぐるりと囲む険しい山々によって外からは非常に攻めにくく、またたとえ攻め落としたとしても立地や資源等の面では大した旨味がないことから、建國以来エンナカムイが他國からの脅威に晒されたことは一度もない。こういう背景もあってか、決して裕福ではないものの皆が笑顔でのんびりと暮らせる。エンナカムイとはそういう國だった。 そんな小國の皇城から少しばかり離れた一角、町外れとなる場所に一軒の屋敷が建っている。 皇からの信頼も厚いとある下級貴族の一家が住まう屋敷だ。 豪放磊落を絵に描いたような父と、穏やかでありながらしっかりとした芯を持つ母、そして数年の内には元服を迎えるであろう年頃の少年と、ようやく一人で立って歩き、言葉を話し始めた幼い妹の四人が仲睦まじく暮らしている。 民を大切に思い、民に慕われる父の背を見て育った少年――オシュトルは、胸に強い憧れを抱きながら日々勉学と武芸の鍛錬に励んでいた。 が、彼とてまだ子供である。常に机に齧り付くか剣を振るばかりではなく、時には友と野山を駆け、川で泳ぎ、年相応に遊び回る。無論、子供だけで行ってはいけない所などは事前に両親からよくよく言い含められており、オシュトルが彼等の言い付けを破ることはなかった。 そう、なかった=B過去形である。 どこの國であれ、親から行ってはいけないと言われてそれを守る子供もいれば、あえて反抗しその場所へと突撃していく子供もいる。オシュトルは前者であったが、共に遊ぶ子供達の中には後者も含まれていた。そうしてオシュトルの制止の声も聞かず、彼等はとうとう立ち入りを禁止されていた森の奥へ足を踏み入れてしまったのである。 おそらくそこは、大人であれば大した場所ではなかったのかもしれない。しかし背の高い木々が空を閉ざすように葉を茂らせ、時折不気味な鳥の鳴き声が響く中、子供達は次第に怖気づき、最初にここへ来ようと言い出した少年がいてもたってもいられぬとばかりに逃げ出した。途端、他の子供達もその後に続いたのだが、ここで問題が起きた。なんと一人だけ恐怖のあまり見当違いの方向へ走り出してしまったのである。 オシュトルとてこんな場所に長居などしたくなかったが――ついてきたのも、遊び仲間を心配してのことだ――、このまま放置すれば行方不明者が出るかもしれない。仕方なくオシュトルは町の方ではなく、正反対となる森の奥に足を向けたのだった。 「こんなところに社(やしろ)が……?」 オシュトルが友を追って森の奥へ奥へと進んでいくと、これまでと打って変わって木漏れ日の差す場所へ出た。暗い森の中、そこだけがキラキラと輝いているようにすら見える。 暗さに慣れた目を僅かにしかめながら見据えた先には、小さな社が建っていた。すでに手入れされなくなって久しいのか、光を浴びるそれは至る所が苔生(む)しており、一番陽当たりが良いのであろう屋根などは苔と草花によってこんもりと鮮やかな緑に彩られていた。 緑の社。ふとそんな言葉がオシュトルの中に浮かび上がる。 誰からも忘れ去られたその場所は、けれどもヒトの手が入らぬからこそ命の輝きで溢れていた。 木漏れ日が差すその場所と暗い森の境界で立ち止まっていたオシュトルは、誘われるように一歩踏み出す。瞬間、何か薄い膜を通り抜けるのに似た感覚を味わった。だがそれが何なのか理解する間もなく、オシュトルは「あれ?」と目を瞬かせる。 (ひとが、いる) 誰もいないと思われた社の階段に白い人影が現れていた。そのひとは昼寝でもしているのか、一番上の段に腰かけたままこっくりこっくりと舟をこいでいる。 おそらく若い男。細身であるが、女性のようなやわらかそうな輪郭はしていない。ただし髪は少し長めで、後ろで一つにくくっていた。 髪は暗がりで見れば真っ黒に見えただろうが、今は陽の光を受けてまばゆい琥珀色に輝いている。おそらく髪が細くやわらかい性質なのだろう。一方、うつむいているため顔はきちんと確認できない。しかし肌は白く、この國の男達どころか女達よりも触り心地が良さそうだった。 オシュトルはまばらに生えた木を避けながら社の方へと更に歩を進める。 暗い森の中を歩いていた時には全く感じなかったというのに、今はどこからともなく芳しい花の香りが漂ってきていた。足元は一面やわらかな苔で覆われており、足を踏みだすたびにふかふかとオシュトルの体重を受け止める。後ろを振り返れば、暗い森との境界からここまで一人分の足跡が点々と続いていた。一旦立ち止まったままぐるりと辺りを見回しても、足跡はオシュトルのものしかない。 新雪に第一歩を踏み出した時のような高揚感と、神聖な場所に踏み込んでしまったと気付いた時の畏怖。その二つが同時にオシュトルの中で生まれ、まだ成長途中の躰はふるりと震える。しかし振り返って再び社の方を見れば――とはいっても、オシュトルが見ていたのは『社の方』ではなく、『社の階段で居眠り中の白いひと』であるのだが――、やはり足はそちらへ向かって動き出した。 引き寄せられるように一歩一歩と近付いていく。やわらかく苔生した地面のせいなのか、足取りは妙にふわふわとしていて現実味が薄い。 すでにオシュトルの頭からは友を探すという当初の目的すら抜け落ちていた。突如として目の前に現れた光景に魅入られたまま躰だけが動いている。まるで白いひとの眠りを妨げてはならぬとばかりにシンと静まりかえったその空間には鳥や蟲の鳴き声もなく、ただオシュトルが苔の地面を踏み締めるたびに生まれるごくごく小さな足音だけが響いた。 そうして社の階段にまで辿り着く。白いひとを下から見上げる形になり、オシュトルはようやく彼の顔をきちんと見ることができた。 殊更美しいというわけではないが、柔和でひとのよさそうな容貌をしている。薄い瞼の奥にある瞳は何色だろうか? 陽の光のような金か、夕焼け空のような赤か、星々が煌めく夜のような黒か、この苔のような緑か、空のような青か、それとも大地のような茶か。 オシュトルが近付く間に眠りが深くなり始めたらしく、上下していた首はすでに下を向いたままで、薄い唇からはすぅすぅと寝息が零れている。それを認識した途端、オシュトルの耳が髪の中でピクピクと動いた。唾を飲み込み、階段に足を掛ける。 なお階段は数段しかない木製のもので、体重の重い大人が少し荒っぽく足を掛ければ踏み抜いてしまいそうな朽ち具合だった。 ゆえに。 ――ギシリ。 「……ん、ぅん?」 「!!」 オシュトルが階段に足を掛けた途端、これまで静寂を保っていた空間に思わぬ大きな音が立つ。階段の板の軋みは普段なら大した音でなくとも、この静けさの中ではオシュトルの心臓が口から飛び出すほどの大きさに聞こえた。しかも深い眠りに落ちかけていた件の青年が音のせいで目覚めようとしている。 焦りと驚きで躰を強張らせてしまったオシュトルは声をかけることも逃げ出すこともできずにただ青年を凝視するしかない。袴の外に出しっぱなしにしていた尻尾がぶわりと面白いくらいに膨らんでいた。 やがてオシュトルが見上げた先に新しい色が灯る。 薄い瞼がぴくりと小さく震え、殊更ゆっくりと開かれた。白い衣をまとった青年の双眸はオシュトルが想像したどれとも異なる琥珀色。悠久の刻を閉じ込めたかのような深い色合いにオシュトルは息すら忘れて見入ってしまった。 眠りの淵から追い出されたばかりのそのひとは幾度か瞬きを繰り返し、ようよう己のすぐ傍にまで他人が近寄って来ていたことに気付いたらしい。オシュトルの姿を視界に捉えると、「こども?」と不思議そうに首を傾げた。 「お前、どっから来たんだ?」 「え、あ、あの、そっ、某は……!」 「あー。別に取って食いやしないから落ち着け? な?」 「〜〜ッ!」 自分の至らなさが悔しく、また恥ずかしくて、オシュトルは顔を真っ赤にしながら唇を噛んだ。高過ぎも低過ぎもしない耳触りのよい青年の声に聞き入っている余裕すらない。ぎゅっと服の裾を掴み、勝手に浮かんでくる涙を零すまいと顔を上向かせる。 「そっ、それがし! は!」 「うん」 きっとオシュトルの顔は情けないことになっていただろう。しかし青年は笑いもせず、オシュトルの言葉をゆっくり待ってくれている。「焦らなくてもいいからな」と声をかけられ、オシュトルはようやく着物が皺くちゃになるほど強く握り締めていた指を解いた。 「オシュトル、と、申します。この森を――」と言って、オシュトルは自分がやって来た方向を指差す。「抜けた先より、まっ、まい、り、ました」 「森を抜けた先……? 子供の足じゃかなりの距離だろう? なんでまたこんな所にまで」 「それは」 言いかけて、はたと思い出す。己の当初の目的は―― 「! そ、そうです! こちらに某と同じくらいの齢の子供が訪ねて来ませんでしたでしょうか!?」 「へ?」 「一人、森を出るはずが森の奥へと走って行ってしまって……」 「なるほど。お前はそいつを探しに来たわけか」 「はい」 オシュトルはこくりと頷いた。 青年は顎に手を当てて「そうさなぁ」と呟く。オシュトルがやって来るまで眠りこけていた彼だから、他の誰かが近くを通りかかっていたとしても気付けた可能性は低いだろう。案の定、彼は「自分は見ていないが……」と続けた。 直後、一羽の小鳥がどこからともなく飛んできて彼の肩にとまる。小鳥は青年の耳元で可愛らしくピィピィと鳴き、青年が「ん。そうか」と告げて指を近付けると甘噛みをした。そうしてまたどこかへ飛び去っていく。 「あの、では某は友を探しに」 これ以上青年から得られる情報がないのなら、名残惜しいが友を探しに行かねばなるまい。しかしオシュトルが別れを告げて踵を返そうとした途端、青年がそれを引き留めた。 「いや待て。これ以上森を探し回らなくてもいいかもしれん」 「え?」 「一度町に帰ってみるといい。その子が先に森から引き返してお前の帰りを待っている」 「どうしてそのように言い切れるのですか」 もしかして子供だけでは入ってはいけないとされる森から早くオシュトルを帰そうとしているのか。気遣いは有り難いが、それでも森を彷徨っているであろう仲間を放置して自分だけ戻るわけにはいかない。 そんな考えが顔に出ていたのか、青年は微苦笑を零して「大丈夫だから」と言った。 「まだ陽も高い。今なら一度町に帰って、その子が戻っているか確認してからまたここに来ることだってできるだろう。お前の友人が帰宅済みならそれで良し。戻っていないなら今度は大人達も連れて探した方がよっぽど効率も良いぞ」 「……」 確かにそうだ。一理ある。 迷いを見せるオシュトルの背を押すように、青年は重ねて「だろう?」と問いかけた。 「それに探している友達だけじゃなく、お前も戻って来ないと親御さん達が心配しているかもしれない」 「!」 「判ったら一旦戻れ。自分もお前くらいの齢の子を見かけたら森の外まで案内しておくから」 「本当ですか?」 「ああ」 「……わかりました」 オシュトルはようやく頷いた。その頭を青年が優しくぽんと撫でる。 「ほら、早く帰りな」 もう一度頷いてオシュトルはその手から離れる……が、一度足を止めて振り返った。 「あの」 「ん?」 「お名前を聞いても構いませぬでしょうか」 「自分の?」 「はい」 たまたま出会っただけの大人なのだから、さして名を尋ねる必要はない。しかしやはり名残惜しさが勝ってしまい、オシュトルの足を止めさせたのである。 だがオシュトルの行動に青年は不審がることも不快に思った様子もなく、あっさりと答えた。 「自分はハクと言う」 「ハク、どの……」 「殿≠ネんて付けられるようなモンじゃないんだがなぁ」苦笑し、青年――ハクは頬を掻く。「ほらオシュトル、行きな」 「はっ、はい! では、また!」 「おー。…………、また=H」 青年がオシュトルの言葉を反芻して首を捻るも、すでにオシュトルは走り出していた。どうせ町の方へ戻るなら少しでも早い方がいい。 そんな子供の背を見送ったハクはふにゃりと眉尻を下げて呟いた。 「そうか。また≠ゥ」 小さなその呟きが落ちた直後、木漏れ日が差す社の階段にはすでに人影などなく。 どこからか漂ってくる芳しい花の香りも消え失せて、代わりに主の眠りを妨げぬため息を潜めていた動物や蟲の気配が徐々に戻ろうとしていた。 2016.10.09 privatterにて初出 タイトルの読み方は「リョクシャハクシン」です。 |