【壱】


 鉱石人形というものがある。
 玉(ぎょく)や金銀を食べて成長するヒト――に分類していいのかどうか今も議論が分かれるところではあるのだが、とにかくヒトの形をしている――であり、彼または彼女を手元に置いて育てることは財を持つ者達の中で昔からもてはやされている物事の一つだった。
 質の良い宝石や金銀を食べさせるほど、その人形は美しさを増すと言われている。そんなわけで、鉱石人形を持つ貴族や資産家は互いにその美しさを愛でるだけでなく、己の財力や良質の物を集められる手腕を自慢する手段としても使っていた。
「ゆえに鉱石人形を美しく育てたいがため金を使い果たし、それどころか借金までして身を持ち崩した貴族もいると聞き及んでおります。父上もそのようになられるおつもりか」
 まだ十を数えたばかりの少年オシュトルは、母譲りの美しい顔(かんばせ)をしかめながら厳しい表情で尋ねる。
 一方、息子に詰問された父親はガハハと豪快に笑い飛ばし、「心配すんなって」と言いながら己の隣に座らせたもう一人の少年の頭をぐりぐりと撫で回した。オシュトルの対面に座る形となっているその少年は抗う術もなく「うお、おおお、うぅ」と呻き声を上げている。
 それだけならば多少のんびりした性格のごくごく普通の子供だと言えただろう。しかしオシュトルと同じ年頃と思しき彼は決して普通の子供ではなかった。
 まず見た目からして違う。とにかく白い。肩を少し超える程度まで伸びた髪も睫毛も有るかどうか判らないくらいにうっすら生えている腕や足の毛も全て白。肌もそれに負けず劣らず乳白色で、淡く輝いているようにすら見える。瞳も白なのか銀なのか判らないくらいの色で、白目との境界が曖味だ。おかげで瞳孔の黒い点のみが際立って見え、見つめられると居心地が悪くなってしまう。
 ただしここまでならば生まれつき色素が抜けている白子だと言うこともできただろう。だがこの子供はそうではない。本来ならば血の色が見えるはずの唇まで真っ白だったのだ。
 血までもが色の無い生き物。石膏を生き生きと彫刻できる者がいればこれに良く似た存在を作り出すことができたかもしれない。
 ――これこそ、噂に名高い鉱石人形。
 宝石や金銀を食べて色を得、そして成長する不可思議な存在。自分達と同じヒトに分類しても良いのかすら不明な何か。
 オシュトルはごくりと唾を呑み込む。この奇妙な存在に心奪われるヒトは多く、身の丈に合わぬ思いを抱いた者はすべからく自滅する。尊敬する父がまさかそのようなことには……とは思うが、万が一が起こらないわけではない。遠い帝都から聞こえてくる話を耳にしていたオシュトルは父の乱心によって自分の世界が崩れてしまうのではないかという恐怖に怯えていた。
「まさかとは思いますが、」
 彼を連れて帝都から戻ってきたばかりの父親はこの真っ白な――つまりまだ誰のものにもなっていない――鉱石人形を拾ったと言った。おそらく何らかの犯罪に巻き込まれた彼を保護したということなのだろう。それなら都のしかるべき部署に身柄を引き渡せば済むはずなのに、父はそれをしなかった。嫌な予感がオシュトルの背を這い上がってくる。
「この彼を我が家で引き取るつもり、など」
「その通りだ」
「父上!」
「落ち着け、オシュトル」
 もうすでに真白の子に魅入られていたか! と声を荒らげるオシュトルとは対照的に、父親は未だ落ち着いており、微笑を見せる余裕まである。オシュトルの反応を予見していたという風体だ。
 だがそれがどうした。ある程度栄えている國の皇や帝都住まいの大貴族ならばさておき、この家に鉱石人形を囲えるだけの財力はない。家を継ぎ、母を支え、これから生まれてくる弟か妹――胎にその子が宿っているため母は大事を取ってこの場にいないのである――を護る役目を負ったオシュトルが父を諌めなければならないのだ。
 エンナカムイという帝都から離れた田舎にまで連れて来られた少年には、可哀想だがこの家からは出て行ってもらう。普通の食事がとれる子供ならまだしも、こんな金のかかる生き物など我が家で世話できるはずもない。と、拳を握ったオシュトルだったが。
「盛り上がってるところ悪いんだが、自分は普通の飯でも大丈夫だぞ?」
「…………は?」
「そういうわけで、お前が心配するようなことじゃねぇのさ、オシュトル」
 真っ白な子供の発言に蘇芳色の双眸が丸くなり、父親は苦笑を浮かべる。色の無い子供は対照的な親子の反応にひょいと肩を竦めた。
「金銀やら綺麗な石やらを食えばそこから優先的に色を得てそれ相応の見た目っつーか色彩? になるんだが、普通に飯を食えば普通のヒトと同じ色味になるぞ。ただそうなると他人が自分達に求める『価値』がなくなるから、あまり食わせてもらえん。おかげでこっち側もそっち側も、普通の飯が食えることを知らない奴が多くなっちまってなぁ。ぶっちゃけ自分は甘味とか食わせてもらえた方が嬉しいんだが」
 相変わらずのんびりとした様子でそう告げ、最後にやれやれと言いたげに頭を振る白い少年。
 オシュトルは躰から力が抜けるのを感じた。次いで羞恥に襲われる。己の無知故に父親に怒鳴り散らし、名前すら知らぬ少年の前で失態を晒してしまったのだから。穴があったら入りたいとはこのことだ。顔を真っ赤に染めて縮こまれば、ダハハと笑う父の声が降ってきた。
「ま、そういうわけで、こいつはウチで普通の子として育てる。いずれ俺達と変わらねぇ色もついてくらぁな! な、シロ!」
「いや待て今勝手に自分に名付けたな? 何だシロって。安直過ぎるにもほどがあるし、白いのは今だけだ」
 少年が半眼でオシュトルの父を睨みつける。
「だがよぅ、鉱石人形ってのは持ち主が名前をつけんだろ?」
「それはそうだが、もうちょっと捻ってくれても良いんじゃないか。あと自分はあんたに拾われたが、持ち主になったかと言われればいささか違うような気がする」
「まぁそうだな。俺も涎垂らしてお前が帝都の悪徳官吏預かりになるのを待ってた貴族どもからお前さんを助けたつもりではいるが、流石に自分のモノにしたつもりはねぇや」
「だろう?」
 うんうんと頷き、白い少年は続けた。
「と言うわけで、もうちょっと恰好いい名前を所望する。今すぐ思いつかんのなら自分で考えるからしばし待て」
「しゃあねえなぁ」
「……なにその上から目線。納得いかん」
 ぼそりと呟く少年だが、自分がろくでもない官吏や貴族の手に渡らぬよう助けてもらった恩はあるらしく、あまり強い叛意は見せない。
 そんな父と少年のやり取りを聞いていたオシュトルが羞恥を振り切っておずおずと顔を上げる。すると視界の端にその動きを捉えたのか、白い少年がオシュトルに目を向けた。真っ白な眼球の中に瞳孔の黒い点だけが見えるあの目を。
「っ、」
「あー……すまん」
 オシュトルが息を呑んだ理由をすぐに察して顔を伏せる少年。慌てたのはオシュトルの方だ。彼は悪くないのに己が勝手に驚いてしまっただけで。
「い、いや。大丈夫だ。こちらこそ申し訳ない」
「でも見慣れなさすぎてやっぱりびっくりするだろう?」
「う……」
 それはそうだが、肯定したくない。
 そんな時、子供二人のやり取りを黙って見ていた父親が口を開いた。
「じゃあ名前もそうだが目玉の方もちゃっちゃと何とかしとかねぇとなぁ。なあガキんちょ、どうにかなんねぇか?」
「自分に丸投げか」
「お前さんのこと一番よく知ってんのはお前さんだろ」
「おっしゃるとおりデス」
 少年は溜息を一つ。それから少々言いにくそうに頭を掻き、ぼそりと呟いた。
「てっとり早く色をつけるにはやっぱり鉱石人形の本来の食べ物――つまり金銀とか宝石類がいいんだが……」
 普通の食事ですぐに色づくことはない。じっくりゆっくりと普通のヒトと同じような色になっていく。それが駄目ならやはり金のかかる方の食べ物が必要となる。
 オシュトルの言い分をしっかりと覚えていたであろう少年が気まずげにそう説明した。誰にも責められていないはずなのだが、オシュトルは肩身が狭くなるような感覚に襲われる。
 おそらく半分はそのせいで、そしてもう半分は早とちりしたことに関し少年に謝罪するつもりで、オシュトルは一つの解決策を思いついた。
「しばしお待ちを」
「オシュトル?」
 すっくと立ち上がった息子に声をかける父親。しかし説明するより実行してしまう方が早いと、オシュトルは目的の場所に向かって走り出した。


「これを其方にお譲りしよう」
「これは……琥珀か?」
 オシュトルが自室から持って来たのは濃い飴色をした透明感のある小さな石。それを真っ白な少年に差し出し、受け取らせる。
 乳白色の手のひらの上にころりと転がる琥珀色。上から覗き込んだ父親が「お前こんなもの持ってたのか」と呟く。
「以前、北側の崖で見つけました。陽の光を受けて輝いていたのがあまりにも美しかったので……」
「いいのか? これ、お前の大事なものなんじゃないのか?」
 少年が眉根を寄せる。己の見た目が周りに与える影響を気にしていたことからも判るが、おそらく彼はとても優しい心の持ち主なのだろう。
 オシュトルは首を横に振り、「構わぬよ」と告げた。
「その琥珀も棚の奥に眠らされているより其方の最初の『色』となった方が喜ぶであろう。どうか使ってくれ」
「……ふむ。じゃあお言葉に甘えて」
 小さな琥珀の塊を少年は口に含む。硬いはずの石は少年の口の中で高級な砂糖菓子のようにほろほろと崩れ、やがてこくりと呑み込まれる。そこから先の変化は劇的なものだった。
「っ、これは………」
 オシュトルが目を瞠(みは)った先、銀とも白ともつかぬ色だった少年の瞳が濡れたような深い琥珀色へと変わる。それどころか少し長めの髪まで琥珀色に輝きだし、眉や睫毛も淡く色づいていく。肌は相変わらず雪のように白いままだが、唇にほんのりと赤みが差した。琥珀色の石を摂取すれば琥珀色になるのかと思いきや、必ずしもそういうわけではないらしい。よく見れば小さな爪も薄桃色に変わっている。
(これは……身を持ち崩してまで宝石を掻き集める者の気持ちも判る気がする)
 内心で独りごち、オシュトルは喉を鳴らす。
 まるで世界が切り替わったかのように美しく、鮮やかになる少年。しかもその変化は己が手ずから与えたものによるものだ。ヒトが本能的に持っている征服欲や独占欲、所有欲が刺激され、もっともっと満たされたいと思わずにはいられない。
 これで微笑みの一つでも浮かべられたならば、確実にオシュトルは堕ちて≠オまっていただろう。ただし実際には「どうだ? ちゃんと変わったか?」と少年はオシュトルら親子の顔を交互に眺めるばかりで、愛想笑いの一つもなかった。
(むしろ、こちらの方がよいな)
 ヒトの欲を刺激する特異な体質と、甘い毒が滴るような笑み。そんなものより、あっけらかんと「お、大丈夫そう? よかったよかった」と、カラカラ笑う少年の方がずっと健全で、それゆえに美しく、そして好ましいとオシュトルは思う。
「これで目の方は解決っと。じゃあ後は名前だなー」
 一瞬息を詰めたこちらのことなど知る由もなく、少年は腕を組んで「何にするかな」と頭を悩ませている。父親はそれを静観するつもりらしく、口を挟んでこない。オシュトルは己が持って来た、そして今は目の前の少年の瞳に収まった甘い色を見つめてぽつりと告げた。
「はく」
「うん?」
「其方の目は琥珀色だ。故にそこから取って、『ハク』という名はどうだろうか」
「ふむ……ハク、か」
 色づいたばかりの琥珀色の双眸がひたとオシュトルに向けられる。
「お前はオシュトル、だったよな。それと比べるとカッコよさ的に負けてないか」
「か……っ!? いやしかし、某の名と交換するわけにも」
「いやいや、そこまでは言ってないから。まぁうん、そうだな。『ハク』でいい。今日から自分はハクと名乗ることにしよう」
 妥協と惰性という単語がオシュトルの頭の中をよぎったが、それは考えないことにして。己がつけた名を受け入れてもらえたことに、オシュトルは頬を緩める。少年――ハクが「うっ、その顔はずるい」と呟いたが、さて、それはどういう意味だろうか。父親を見上げれば、彼はニヤニヤと笑っていた。
「父上?」
「いや、お前に良い友ができそうだと思ってな。そんじゃ、ハク! これからよろしくな」
「ん? あ、ああ。世話になる」
 深々と頭を下げ、そして再び顔を上げるハク。その双眸は太陽の光を閉じ込めたような琥珀色に輝いていた。


【弐】


 宝石を食べ、その輝きを身に取り込む美しき鉱石人形。
 己が財力や人脈を誇るためにも用いられるが、彼または彼女らが鉱石を口にして色づく様を一目見てしまえば、愛玩のために存在していることなど誰もが容易に理解できるだろう。
 しかしごく一般的な食事をとる場合、鉱石人形独特の美しさや輝きは現れない。ただ普通の『色』がついていくのみ。おまけに少食だったり食べないでいたりすると、再び色が抜けていく。初めてオシュトルがハクと顔を合わせた時、真っ白だったハクが甘味について語れたのはそのためだった。なるほど確かに、食べたことがないものについて好き嫌いを述べることはできまい。なお、宝石や金銀によってついた色はなかなか消えないらしい。やはり本来の食べ物とそうでないものは違うということなのだろう。
 ハクはオシュトルらと比べて非常に小食であり、そのためもう一年以上一緒に暮らしているにもかかわらず、未だ大して色黒でもないオシュトルと並べても驚くほど肌が白いままだった。それでも一応は一般人と言える程度に色づいている。唯一の例外は深い琥珀色を宿した瞳。最初に口にした琥珀以外金銀や宝石を摂取することもなかったため、その双眸だけが、ハクが鉱石人形であることをひっそりと示していた。
(まぁいつも覇気のない顔をしている故、詳しく知らない者であれば、まさかハクが鉱石人形であるなどとは思うまい)
 オシュトルはそう胸中で呟く。元々ハクを自慢の対象にするつもりで共にいたわけではないので、悔しいだとか悲しいだとか、そういう負の感情はない。むしろ自分だけが知っている秘密の宝箱のようで、有り体に言えばワクワクする。
「ん? 自分の顔に何かついてるか?」
「いや。大丈夫だ」
 ついつい横に座るハクをじっと見つめてしまい、訝った友がオシュトルの方を向く。オシュトルは何でもない風に頭(かぶり)を振って「ところでハクはどれくらい進んだ?」と話題を切り替えた。
 現在、オシュトルとハクの二人は邸の一室にて勉学の真っ最中である。愛でられるために生まれてきた鉱石人形のハクは本来であれば勉学など必要ない。しかしいつか父のような立派なヒトになりたいと日々精進するオシュトルの傍にいて、流石に何もしないわけにはいかず。躰を鍛えることは完全に向いていないと言って拒否したが、勉強だけはオシュトルと机を並べてこなすようになっていた。
「ん。もう終わりそうだ」
 オシュトルの問いかけに、ハクは計算帳をめくって回答が書かれた頁をパラパラと見せる。
「すごいな」
「まぁ合っているかどうかは答え合わせをしてからだが」
「何を言う。ハクが計算問題で間違えたことがあったか?」
「……ま、ないな」
 驕るでもなく、淡々と述べる。しかしそれが事実だった。
 筋力や持久力に関してはからっきしだが、ハクは当初から異様に頭が良かった。知らないことも教えればすぐに吸収して、応用までこなせるようになる。中でも算学は更にズバ抜けており、桁数の多い計算ですら計算器を使わず暗算で、しかも一瞬のうちに答えを弾き出してしまうのだった。
 オシュトルも両親も驚いて、これなら誰かに愛玩されずとも知力だけで金を稼いで暮らしていくことができるだろうと思われた。二人にそう言われたハクは「働くのか……自分が……」と、げっそりした顔で言ってみせたが。
 なお、そんなハクの様子にオシュトルは「なれば某が都で仕官し、采配師を要する立場になったあかつきには、ハクを高待遇で雇うとしよう」とかなり本気で告げたものの、ハクは苦笑してまともに取り合ってくれなかった。ハクを采配師として雇えるようになれば、いつも一緒にいられるし、それに何より彼の知略にきっと多く助けられることになるだろうと思ったオシュトルに対して、ハクは「自分なんか雇っても金の無駄になるだけだ。まぁ三食昼寝つきなら魅力的だが」と返したのである。
 そんなことがあっても、まだ一人で上京して仕官できる年齢にさえ至っていないオシュトルは本日もこうして勉学と躰の鍛錬に励むのみ。すでに勉学に関しては全くハクに及ばず――それでも真面目に課題に取り組むオシュトルの学力は一般を遥かに超えていたが――、己は躰を鍛えて、大人になって知略が必要な場面に出くわした時にはハクに頼もうと改めて思った。
 やがて時は流れ――。


 この場合、願い続ければ夢は叶うと言うべきなのか。
 青年期に差し掛かったオシュトルとハクは揃って帝都に上ることとなった。オシュトルは武官として仕官し、ハクは殿試に挑むために。
 あの面倒臭がりなハクがオシュトルと共に帝都へ向かい、あまつさえ殿試を受けるなど信じられないことだったが、驚くオシュトルにハクはこう言った。
 お前が自分を采配師にしたいと言ったんだろう? と。
 貴族や高位の武官につく采配師は、一般的に殿試に受かり殿学士の資格を得た者である。無論そうでなくても雇う側が是と言えば誰でも采配師を名乗ることができるのだが、やはり資格の有無は大きく、それは雇い主――ハクの場合はオシュトル――が周囲にどう見られるかにも影響してしまう。周りに軽んじられれば、それだけ自身の意見が通りにくくなったり、部下の兵士を上手く動かせなくなったり、良い点は一つもない。ならば殿学士になってしまった方が効率も良く、また後々面倒臭くないとハクは判断したのである。
 この時の興奮をどう言い表せばいいのか、オシュトルは未だに判らない。ただひたすら嬉しくて、久しく感情を反映させることのなかった尻尾がふりふりと揺れてしまったほどだ。ハクもそんなオシュトルを見て破顔し、「そんなに喜んでくれるとは思ってなかった」と照れくさそうに目元をほんのりと赤く染めた。
 そうしてオシュトルの仕官が決まったすぐ後、ハクは数年に一人しか合格者が出ないと言われる殿試に見事合格してみせた。
 まだ年若い青年――少年と言ってもいいほど――が学士の最高位『哲学士』の位を賜ったとあって、ハクの名は瞬く間に有名となる。当然、そのように才のある者ならばとハクを雇いたがる貴族や高位の武官が多く手を挙げたが、しかしハクが彼らの下につくことはなかった。
 ハクが彼らの誘いを断る際の文句は全て同じ。曰く、『めんどうだから嫌だ』である。おかげでハクは名前が知れ渡るのと同時に、大層な変わり者としても世間――特に宮廷に関わる者達の間――で有名になってしまった。
 しかしそんな中、オシュトルだけは真実を知っている。確かに面倒臭いと思っているのも事実だろうが、ハクはこうも言ったのだ。「お前のために殿試まで受けてやったのに、何故別の奴のために働かなきゃならんのだ」と。
 ハクの行為は全てオシュトルのためのものだった。特別に思っている者からそう言われて嬉しくないはずがなく、初めてハクからその言葉を引き出せた次の日は周囲から「あのオシュトルが!?」と驚かれるほど訓練に身が入らなかったものである。
 ともあれ。誰の下でも働かないと決めたハクだったが、日々無為に過ごして故郷から持って来た幾許かの金銭を食い潰すわけにもいかず、また仕官したばかりのオシュトルに己の面倒を全て看てもらおうとするのも無理な話である。したがって彼が取った手段は、哲学士にしては不釣り合いだが、彼としてはそこそこ満足のいくものだった。

* * *

「せんせー! さよーならー!」
「さようなら!」
「おう。気をつけて帰れよ」
 ぶんぶんと勢いよく手を振って帰路につく幼い子供達を「元気だなぁ」と苦笑しながら見送る一人の青年。背後から夕日が当たり、その髪は鮮やかな琥珀色にきらきらと輝いている。顔の造形は整っている方だったが、猫背気味の姿勢とぼんやりした眼差しが完全にそれを相殺しており、穏やかな雰囲気だけが強調されていた。
 そんな彼を慕い、先生と呼ぶ子供達は、青年が数年前からこの長屋の一角を借り上げて開いている私塾の生徒である。私塾が開かれた当時は教師役たる青年もまだ子供と言える齢であり、周囲の住民達はその実力を疑っていたのだが、ちょっとしたことがきっかけで彼の頭の良さを知ると、徐々に自分達の子供をそこへ通わせるようになっていった。幼い子供が多かったので、半分は子守りを目的としていたのも否定できないが。
 幸いにも青年は頭のつくりの他に子守りの才能にも恵まれていたため、小さな子供を預かっても難なくそれをこなしてみせた。本人としては特別なことをしたつもりはないと周囲に説明しているものの、当の子供達は青年を――時には実の親以上に――慕い、彼の言うことを素直に聞くのだから、ただの謙遜と受け取られてしまっている。
 本日最後の生徒を送り出し、青年はやれやれと肩を回した。コキッと小気味良い音がして、青年の主観的疲労度は更に上がる。ただしこの私塾は昼過ぎから夕刻までしか開いておらず、ごく一般的なヒトからすれば大した労働ではない……というのが、悲しいかな事実である。おかげさまで周囲からは『先生って頭は良いけど貧弱で面倒臭がり』という評価を頂戴してしまっていた。いまいち尊敬の念が集まらない。
 しかしながら周囲から尊敬されたいなど全くもって思っていない青年にとっては、さしたる問題ではなかった。要はほどほどに働いてほどほどの金子が手に入れば良いのである。
 何故なら――
「お前のための自分なんだからな」
 必要なのは過分な金子などではなく。ただ、己が身が彼のすぐ傍にあるということ。
「……ハク?」
 子供達を見送った後、ぽつりと独りごちた青年の背に声がかけられる。青年が振り返ると、そこには近衛衆の制服を身に着けた青年が立っていた。
「よう、オシュトル。お疲れさん」
 青年――ハクという名を持つ鉱石人形は、己に『色』と『名』の両方を与えた人物を眺めやり、眩しげに目を細める。そしてオシュトルが近衛府内で役職につけるようになってから度々告げている言葉を放った。
「そろそろ昇進したか」
 ――采配師がついても周囲から文句を言われない地位につけたか?
 ちょっとした部隊を率いるだけでは足りない。軍全体を指揮できるほどの地位を。その立場になってようやく武官は誰に構うことなく采配師を持つことができる。
 しかしこれまでの答えは「否」だった。そもそもオシュトルは田舎の下級貴族出身である。そう易々と昇進などできはしない。
 だが。
「した」
 オシュトルははっきりとそう答えた。
「明日から某は近衛少将だ」
「なるほど、じゃあもう采配師がついても問題ないな」
 武官としての最高位『近衛大将』から二つ下の地位。ここまでくれば采配師を傍に置いてもおかしくはない。
 数年に一人と言われる殿試に合格し、それどころか殿試合格者の最高位『哲学士』の位を持つ青年は、異様な速度で最低限必要な地位にまで上り詰めた親友(とも)に歩み寄り、その胸にこつりと拳を当てる。
「三食昼寝つきで雇ってくれるか、オシュトル」
「無論。某の采配師はハクをおいて他にない」
 ハクの拳を大きな手のひらで握り締め、オシュトルは力強くそう答えた。


【参】


 歴代最年少殿試合格者で学士の最高位『哲学士』の資格を持つハク。しばらく所在不明になっていた彼が――と言っても単に市井で暮らしていただけなのだが――突如宮廷に舞い戻り、しかも若くして田舎の下級貴族から右近衛少将にまで上り詰めたオシュトルの采配師の地位に収まったとあって、殿上人達は大いに沸いた。
 しかも空白期間を経てなお件の哲学士の才は全く衰えておらず、オシュトルの下で次々と斬新な策を打ち出しては雇い主の手柄としていった。また戦や捕り物だけでなく、日常の細々とした事務処理においても大層助けになっているようで、仕事に忙殺される役人達はオシュトルに羨望の眼差しを向けた。ちなみにそうして生まれた余裕によってオシュトルが『ウコン』という存在を作り出し、市井の民の手助けを始めたことは、彼に近しいごく一部の者達しか知らないことである。
 優秀な采配師を従え、清廉潔白をそのままヒトにしたかのようなオシュトルを多くの者達が慕った。部下の兵士は元より、市井の民も彼の高潔な精神と確かな実績に憧れを抱き、一時は検非違使・近衛衆に志願する者が倍増したほど。
 しかし國中のヒトから慕われる者など、ヤマトの支配者たる帝を除いて存在するはずもなく。オシュトルを讃え慕う声が大きくなると同時に、彼を妬み嫉み、貶し、あわよくば陥れてやりたいと望む者達もまた増えていった。
 やがてオシュトルが右近衛中将の位を賜った折、それ≠ヘ起きた。


「ああ、嫌だ嫌だ。何故(なにゆえ)このような場所に田舎の薄汚れた狗がいるのやら。田舎臭くてたまりませぬ。早くお山に帰ればよろしいのに」
 朝議に出席する右近衛大将について宮廷に参内していたオシュトルは、朝議終了後に大将と別行動となり、ハクを伴って宮廷を後にしようとしていた。しかし庭が臨める廊下を歩いていたところ、たまたますれ違った文官らしき男が着物の袖口で鼻と口を覆うようにしながら、わざとらしく眉をひそめて呟いた。
 オシュトルは足を止め、文官に向き直る。
 これくらいの嫌味など宮廷に上がる者にとっては往(い)なせて当然。成長して更に男としての色気まで加わった母譲りの美しい顔(かんばせ)に微笑を浮かべ、「未だ至らぬことの多い某に貴重なご忠告、痛み入る」と告げる。
「しかしこれは聖上より賜りし大事なお役目。某以上の適任が現れるまでは全身全霊を賭してこの職を全う致したく。何卒、今後とも國のため、民のため、宮廷の皆様方と共に聖上に御仕えできればと思うておりまする」
 容姿は時に武器にもなる。本能的にどちらが『上』かを相手に知らしめ、敵わないと思わせるのだ。おまけに全く淀みのない口調で相手に反論を挟ませず言い切ってしまえば、その後に言葉を続けられる者などほとんどいない。身の丈に合わぬ地位についている自尊心ばかりの者であればなおのこと。
 案の定、文官は二の句が継げずに口籠った。オシュトルは綺麗な笑みを浮かべたまま一礼してその男の前から去る。ハクが三歩遅れてその後に続いた。
 オシュトルの後に続いていることや宮廷に上がっていることから、榛を溶かしたような黒髪と平凡な容貌を持つ男が哲学士の資格を持つ件の采配師であることは、文官にも容易く予想できただろう。主人とは異なり迫力ある美しさもない采配師に目を留めた文官は、己の自尊心を守るために攻撃対象をそちらへと切り替えた。
「主人が狗ならその采配師は更にみすぼらしい痩せ狗ですな」
「(うへぇ、今度は自分かよ)」
 オシュトルにしか聞こえない大きさでハクが呟く。
 彼は自分に嫌味の矛先が向けられたのを喜ぶ性質ではないが、だからと言って明らかに憤慨するわけでもない。オシュトルと同様に軽く受け流すつもりであるようだった。それが一番面倒の少ない手である。
 しかし。
「我が采配師を貶めるのは止めていただこうか」
「っ!」
「ちょ……オシュトルっ、様!」
 宮中でつけることにしている敬称すら抜けそうになるほどハクが慌てた。だがオシュトルの視線はハクではなく文官へと向けられている。
 先刻までとは異なり、怒りや殺気という明らかに攻撃の意思を乗せた視線に文官は息を呑んで一歩後ずさった。
 地位ばかりの阿呆貴族共の嫌味をまともに受け取っていても仕方がない。へりくだるのとはまた違うが、嫌味など軽く受け流してしまうのが最善。……と頭では判っているし、事実そうしてきたからこそ今もこの地位につきつつ潰されずに済んでいるのだが、己ではなくハクを貶されたオシュトルからは我慢という文字が完全に消え去っていた。
 ハクほど美しく優れたものをオシュトルは知らない。豪奢な着物を纏った美姫も当代一の色男ともてはやされる役者もハクの魅力には敵わなかった。
 平凡そうでありながら実は目鼻立ちが整った中性的な顔立ちはオシュトルの好むところであったし、またただ単に外面的な美しさだけでなく、ハクの並外れた頭脳も、それを驕ることなく他者に気安く接する性格も、全てが愛おしい。ハクの隣にいるとまるで春の陽だまりで寝転がっている時のような心地よさを味わうことができた。
 そんな大切で愛しいオシュトルの一番の友であるハクを、何も知らない阿呆に貶されたのだ。たとえそれがオシュトルに勝てないと悟った負け犬の遠吠えであったとしても許せるものではない。
「この者は某にとってなくてはならぬ者。また最高の采配師であることは、この者の功績からも一目瞭然。故に斯様な言葉を向けられるのはあまりに不適切と言わざるを得ぬのだが、貴殿は如何様に考える?」
 疑問形であるが、決して謝罪以外の言葉を許す気はない。
 オシュトルはピリピリと空気を震わせながら、流石に手は出さないものの本気で相手を威圧する。周囲には異変を察した通りがかりの者達が何事かと足を止めて集まり始めていた。
 己が小馬鹿にした武官に気圧されつつも、衆目があるとなっては文官も引けなくなってくる。きょろきょろと視線を動かし、勝機はないものかと焦っているのがはっきりと見て取れた。
 やがて文官は己がこの窮地に陥った原因となる采配師に目を留める。正確には、采配師――ハクの平凡な容姿にはそぐわぬ美しい琥珀色の双眸に。
 嫌な予感がしてハクを背に庇おうとするオシュトルだったが、少しばかり遅い。鉱石人形たるハクの今や唯一残ったその証とも言える双眸を見据え、文官は嘲りを込めて告げた。
「おやおや……その采配師、鉱石人形ではありませんか。なのにその姿! いやはや、オシュトル殿のお家の格が知れますなぁ! やはり田舎の下級貴族に鉱石人形を飼うなど荷が重いのでは? だからそんなみすぼらしい姿のまま成長してしまうのですよ! ああ、おかしい。身の程も弁えず人形を囲い、あまつさえ何をトチ狂ったか采配師に! 玉や金銀を与えられない代わりに学でも与えたと言いたいのですか? ほほっ! 見栄もここまで張れれば立派立派!」
「禍日神(オニ)の首でも取ったかのように……」
 ぼそりとハクが呟く。呆れ交じりのその声にはやはり怒りなど滲んでおらず――……と、オシュトルは思ったのだが、どうにも様子がおかしい。
 文官がハクを指して鉱石人形だと告げたことで周囲はザワザワと騒がしくなっている。歴代最年少の殿試合格者が鉱石人形であったことも、それを召し抱えているのがあのオシュトルであることも、野次馬にとっては大変興味をそそられるものなのだろう。
 だがその渦中において、周囲の状況とは真逆にハクの顔から表情が消えた。波一つ立っていない湖面の如く透き通り、凍えるように冷たい水を連想させる。
「自分がどう言われようと気にするつもりはないんだが、自分をネタにオシュトルやお館様が貶されるのはあまり気分がよくないもんだなぁ」
 周囲のざわめきに混じってハクが独りごちた。
 その口調も声音も普段ののんびりとしたハクと寸分違わず、ともすれば彼が何を言ったのか理解できぬまま聞き逃してしまいそうになる。ただしオシュトルは普段からハクの言葉を聞き逃すような真似はしないので今回もはっきりと聞き取れたのだが、場の雰囲気と違い過ぎて背中がぞっと冷たくなった。
「ハ、ク」
「オシュトル様、戻りましょう。予定が押しております」
「ハク?」
「私(わたくし)が鉱石人形であることは別段隠し立てするようなことでもございません。それよりも今大事なのはオシュトル様のお仕事の方ではありませんか。ささ、もう行きませんと」
 急に綺麗な笑みを浮かべたかと思うと、ハクはオシュトルに口を挟ませることなく帰還を促す。意気揚々とハクを鉱石人形だと言い当て、それをネタにオシュトルを貶めた文官は完全に無視される形となり、思い切り鼻白んだ。
 その文官が文句の一つでも垂れようとした瞬間、ハクは相手に振り返って更にニッコリと笑みを深める。
「ご存知ですか? 鉱石人形とその持ち主を貶めた者は幸運と財から見放される……という話があるのですが」
「なっ!?」
「さてさて、真偽の程はどうなのでしょう」
 くすりと吐息を零してハクは文官に背を向ける。彼が雇い主の背に追いついたところでオシュトルが「その話、本当なのか?」と小声で尋ねると、ハクはけろりとした顔で「まさか」と返した。
「だけどな」
 先を続けたハクはうっそりと蠱惑的な笑みを浮かべ、獲物を狙い定めた肉食獣のように舌なめずりをしてみせる。
「今回に限っては真実にしてやるさ。お前自身とお前の大事な家族を貶めたんだ、落とし前はつけてもらわんといかんだろう?」


 数日後、宮廷からとある文官の姿が消えた。加えて本人どころか帝都内に屋敷を構える一族郎党全てが都を出ることになったらしいのだが、真偽の程は定かではない。ただ少しでも事情を知る者達は固く口を噤み、何があったのか、誰が何をなしたのか、決して話さなかったと言う。
 代わりに新しい変化が一つ。鉱石人形とその主人を貶めると、貶めた者は幸運に見放されるという噂話が、宮廷内でまことしやかに囁かれるようになったのだった。


【肆】


「ハク……それは?」
 夜。晩酌でもどうかと、同じ邸に住まうハクの部屋を訪れたオシュトルの視界に見慣れぬ輝きが映った。親友の訪問を受け「お」と声を上げたハクの前――文机の上には、行灯の光を受けてきらきらと輝くいくつもの宝石や砂金の大粒が無造作に転がされている。
 訝るオシュトルにハクは肩を竦め、やや呆れた口調で答えた。
「賄賂(わいろ)だな」
「賄賂……」オウム返しに呟きながらオシュトルは尋ねる。「そのような宝石類、どのように工面したのだ?」
 ハクが何かの策の一環として、手回し用に集めたものだと思ったのである。しかしオシュトルが不思議そうに尋ねと、ハクは顔の前でひらひらと手を振り苦笑した。
「ああ違う違う。こっちが用意して誰かに渡すんじゃなく、自分がもらったやつな。ほら、昨日自分だけ会食に呼ばれただろう? お前にちゃんと断ってから行ったやつ」
「あれか」
 先日、采配師として活躍するハクに話が聞きたいと、武にも優れた有力貴族からハクとその雇い主であるオシュトルにそれぞれ文が届いた。
 雇い主が右近衛中将とはいえ、大貴族に類されるその御仁からの誘いを断ることは難しく、またこの機にオシュトルの後援者にでもなってもらえれば御の字ということで、その貴族とハクとで食事の席が設けられたのが昨日。
 件の御仁が誠実さでも有名なヒトであったことから、てっきり文に書かれていた通り『采配師としてのハク』に会うため設けられた席だと思っていたのだが――。机の上に散らばる輝石を見て、オシュトルはハクが賄賂もとい貢物をもらう理由に思い至る。
「……鉱石人形の話がそこまで広まっていたか」
「らしいな。宮廷の皆様は噂好きだからなぁ。そんで『私のところで働けー。ついでに飾り物にもなってくれー』って誘いがこういう形で来たわけだ。無論ちゃんと断らせてもらったが。……しっかし随分と太っ腹な勧誘方法だよな?」
 机の上の宝石を人差し指でコツンと転がしながらハクは淡々と告げた。「どうせくれるなら酒か甘いものが良かった」と続く台詞は、彼がオシュトル以外の下につく気など微塵もないのだという意思を潜ませている。
 その様子に安堵しつつ、けれどもオシュトルは胸に黒くもやもやとしたものが消えずに残っていることを自覚してひっそりと眉根を寄せた。親友兼優秀な采配師を奪われずに済んでいるので、安堵しても良いはずなのに。
(なんだ、これは)
「ハクはその貰い物を本当に口にするのか?」
 鉱石人形に宝石や金銀を与えるとは、つまりそういうことだ。単なる装飾品としてではなく、より鉱石人形を美しく輝かせるための食物として贈るのである。でなければ宝石をそのまま贈ってくることなど有り得まい。加工し、すぐに身に着けられる形で渡されるはずだ。
 ハクをはじめとする鉱石人形は存在そのものが宝飾品であり芸術品。当人が何よりも美しく輝けるのだから、後から着ける飾りなど無駄でしかない。
 持ち主が己の選んだもので染め上げる。そうして世界に一つだけの美しい存在ができあがるのだ。
 ハクも贈られたこれらの宝石類を口にすれば、宮廷で嫌味など向けられようもないほど美しい色彩を得ることになるだろう。己の財を人々のために使うオシュトルでは決してできないことだ。とはいえ、あえて人々のために使うつもりでとっておいた金子を宝石に変えてハクに与えたとしても、彼は受け取らなかっただろうが。
 突然降って湧いたような、ある種の幸運。ハクが容易く他人に貶められないために使うべきもの。目の前にある宝石類はそれだ。別に食べてはいけないものでもない。むしろハクのこれからの立場を思うなら、食べておいた方が良いとも思える。
 だが、とオシュトルは思った。
 あれらがハクの体内に取り込まれ、ほぼ一生消えない色彩として定着する――。想像するだけで全身に嫌悪感が走った。実に苛立たしい。腹立たしい。誰に何の権利があってオシュトルの親友に色をつけられるというのか。
「オシュトル?」
「っ!」
 ハクに問いかけたまま思考の海に沈んでいたオシュトルはハク本人からの呼びかけにはっと意識を浮上させた。「どうかしたか?」と尋ねるハクは急に黙り込んでしまったオシュトルを酷く心配している様子で、それが申し訳なく思える。
「いや……すまぬ。少し考え事をしてしまってな」
「仕事のことならちゃんと自分にも相談しろよ? そのための自分……お前の采配師なんだから」
「ああ」
 その一言で胸の内にある黒い靄が薄まった気がした。表情にも変化が表れたらしく、ハクの顔に安堵が浮かぶ。
「とりあえず、酒だろ? ほら、飲もうぜ」
 言って、ハクはオシュトルを室内ではなく庭へいざなう。きらきらと輝く宝石になど見向きもせず、ハクの双眸に嵌った深い琥珀色はオシュトルとその手にある大徳利に注目していた。
 オシュトルは誘われるまま足を運ぶ。今夜は月が綺麗なので、ハクは月見酒と洒落込むつもりなのだろう。
「ああ、そうそう」
 どうでもいいことをたまたま思い出しただけという軽さで、先を行くハクが足を止め、オシュトルの方を振り返った。
「もらった宝石な、食う気はないから」
「ハク?」
「そりゃ食えばこの前の文官みたいに『鉱石人形のくせに』なんて言ってくる奴はいなくなるだろうが――」
 歩みを再開したハクがそのまま天に輝く真白の円へと視線を向ける。漆黒の闇の中にぽっかりと浮かぶのは白く輝く満月。その光に照らされた横顔がオシュトルの呼吸を止めた。
「お前が望んだわけでもないのに、お前の采配師である自分が他人から与えられた色で染まるわけにゃいかんだろう。それで『やっぱり鉱石人形は美しい』だなんだって褒められても、ちっとも嬉しく思えんさ」
 月光にきらめく琥珀色。オシュトルが唯一ハクに贈り、ハクが他人から唯一受け取った色。
 オシュトル以外の誰からも新しい色をもらうつもりはないと静かに宣言する姿はとても神聖で、息を呑むほど美しかった。
(嗚呼……)
 とくり、と心臓が鼓動を刻む。
 繰り返される鼓動は徐々にオシュトルの顔に血を集め、頬どころか首から上全体が熱を帯びた。
「さぁ酒だ酒だ〜! 月見酒〜!」
 即興で歌い始めるハクは赤くなったオシュトルの顔に気づけない。
 それが大層オシュトルをほっとさせる。こんな顔、見られたくはなかった。自分でもようやく自覚したというのに、早々にハクにまで悟られてしまってはたまったものではない。こちらにも矜持というものはあるのだから。
(いつから、なのだろうな)
 ハクをこんなにも強く想うようになったのは。
 自分以外の何者にも染めたくはないと、独占欲を抱くようになったのは。
 オシュトルはそっと目を閉じ、そして瞼の裏に浮かび上がった光景に口の端を持ち上げる。
 幼い自分が真っ白なハクに琥珀を与えたあの日。目の前で美しく染まる彼を見た瞬間から、きっとこの想いは始まっていたのだろう。そうして共に過ごせば過ごすほど、ハクに向ける想いは強くなっていった。ハクの何もかもが愛しくなった。ずっと隣にいて欲しいと思った。
(ハク)
 声を出して呼んでしまってはまだ赤みの引かない顔を見られてしまいそうで、オシュトルは大切な名前を心の中だけで呼ぶ。
(ハク、某のハク)
 うつくしいひと。オシュトルだけの、愛しい采配師。
(どうかどこにも行ってくれるな。某だけの傍にいてくれ)
 目を開けると、嬉しそうな気配が伝わってくるハクの背中が視界に飛び込んできた。それに手を伸ばして薄い躰を抱き締めようとする衝動をぐっと抑え込み、オシュトルは甘く慈しみに満ちた笑みを浮かべる。
(あの日からずっと、某は其方をあいしているのだ)

* * *

 自分に食べさせるため贈られた宝石を見た時、ハクの中に湧き上がったのは酷い嫌悪感だった。
 別段、贈り主が気に食わない人物だというわけではない。むしろその逆。古くから帝都に根づく大貴族でありながら、オシュトルに変なやっかみを向けるでもなく、その働きを正当に評価している御仁である。宮中で醜い派閥争いをするというよりは、ひたすら真摯に武功を立てて帝に御仕えする……そういう類の、清々しい気質の持ち主だった。無論、派閥争いに巻き込まれないのはそれだけ力のある家柄だからこそ、というのもあるが。
 始まりは、用があって一人で参内したハクが宮中でその武官の小姓より文を手渡されたことだった。
 雇い主であるオシュトルに宛てたものと、ハク本人に宛てたもの。自分宛の中身を確認すれば、様々な意味で有名な哲学士であるハクと会って話がしてみたいとのことだった。後で確認したところ、オシュトルに宛てた方もほぼ同じ内容だったらしい。ただしそちらはハクに対する称賛の他にオシュトルの活躍に対しても賛美していたとのことだが。
 ハクとその御仁はこれまで言葉を交わすどころか宮中ですれ違ったことさえないが、朝廷に関わるにあたり関係者の情報収集を済ませていたハクの頭にはすぐにその顔が思い浮かんだ。(とある文官に朝廷よりご退場いただく際にもこの情報収集活動は非常に有用であったことは完全なる蛇足だろう。)
 別段、会って不都合がある人物ではない。この機を上手く利用して彼の御仁にオシュトルの後援者となってもらえれば、今後ハクの親友は宮中で非常に動きやすくなるだろう。
 相手の目的は何となく察していたが、それでも旨味を求めてハクは誘いを受けることにした。元より身分の差から断る方が面倒でもある。
 そうして迎えた会食の日。
 男としての渋みも十分な壮年の武官は、非常に嬉しそうな様子でハクを出迎えてくれた。酒よりも食事を楽しむことを主にした席は、散々相手に酒を飲ませ、酔って前後不覚になったところで己の言うことを聞くよう誘導する――といった、よくある手口とは全く逆の様相を呈している。あくまでも位がずっと下であるはずのハクを尊重し、対等に話をしたいと望む者のそれだ。
 事前情報通りの人柄にハクも大して警戒を必要とすることなく、楽しい時間を過ごすことができた。
 話の内容は主にハクが采配を振ってきた数々の作戦について。家柄は元より武官としても有名な彼のヒトは当時のハクの読みに感嘆したり、またこうすれば更に良かったのではないかと提案したり、歓談の相手としては申し分ない。経験に頼る部分などは特に向こうが優れており、ハクもなるほどと思わされることが多々あった。
 それだけで終われたならばどれほど良かっただろうか。しかしふと話が途切れた瞬間、武官の纏う空気が変わる。「ハク殿」と改まった声で名を呼ばれ、ハクの方もついに来たかと思った。
「貴公に折り入って頼みがある」
「希望に沿えるかどうか判らんが、聞くだけなら」
 この歓談の中で口調はすっかりハク本来のものに戻っている。最初は目上の者に接する態度だったが、どうにも痒いとこの武官本人に言われてしまったのだ。
「それで十分」
 男は頷き、真っ直ぐにハクを見据えて続けた。
「ハク殿、貴公を私の采配師として召し抱えたい。無論、オシュトル殿のところよりも更なる高待遇を約束しよう」
「あー……自分を買ってくれているのは嬉しいんだが」
 受ける気はない、とハクが断りの言葉を口にするより早く、武官の方が先に告げる。
「貴公が鉱石人形であることも承知の上。どうやら今はその瞳だけが、貴公が鉱石人形たる証のようであるが……私の采配師となってくれた暁には、ハク殿の望むままに玉も金銀も与えよう。これは私の言葉が嘘ではないと示すためのもの。どうか受け取ってほしい」
 そう言って武官が軽く手を叩くと、部屋の襖(ふすま)が開いて静かに小姓が入ってきた。ハクの前に差し出されたのは絹で作られた巾着袋。中身を確認するよう視線で促され、ハクがその通りにすれば、中から金や輝石がごろごろと転がり出てきた。
 巾着の中身は武官の言葉通り「自分には鉱石人形を養うだけの財力がある」と示すためのもの……であると同時に、別の意味も込められている。
 ――采配師となってくれるならば、今ここで、私が与えた色に染まってほしい。
 言葉にはされずとも目が語っていた。
 高潔とされる武人とて鉱石人形の魅力には抗えぬのか。それとも古い歴史を持つ有力貴族だからこそ、ただびとよりも『従わせ、染める』という鉱石人形の魅力を知ってしまっているのか。
 ともあれハクの中に湧き上がってきたのは強烈な嫌悪感だった。これまでの楽しい時間など完全に無視してひたすらに気分が悪く、吐き気まで催すほどである。
 しかしこの場で悪感情を露わにしても益はなく、ハクは自身でも驚くほど強烈な嫌悪感の理由を考えながら「すまない」と丁寧に頭を下げた。
「あんたの采配師になることも、鉱石人形として傍に侍ることも承服できん。自分の雇い主は生涯でただ一人だけと決めているんでな」
「それは鉱石人形としての矜持か?」
「いや、ハクという名を持っただのひととしての望みだ」
 顔を上げ、ハクは微笑む。オシュトルのことを想うだけで胸のムカつきがすっと引いていくのを感じた。
「だからこの宝石を受け取るわけにはいかん。謹んでお返しする」
 そっと武官の方へ巾着を中身ごと押し返せば、「それこそ受け取れんよ」と首を横に振られた。
「理由はどうあれ一度こちらが差し出したものだ。我が矜持を守るため、貴公の懐に収めてほしい。なに、食べてくれとは言わんさ。何かの折に金子の代わりとして使ってくれ」
「判った。では、これは受け取っておく」
 申し出を受けるためではなく相手の気持ちを尊重するためにハクは巾着とその中身を引き戻した。言われた通り懐に収めれば、武官は嬉しそうに目尻を下げる。
「ハク殿」
「ん?」
「一つ尋ねても良いだろうか」
「ああ」
 構わんが、と答えるハクに壮年の武官は問いかけた。
「確かにあれはいい漢だろう。しかし何故そこまで固執する。……いや、誤解はしないでほしい。彼を貶める気はないのだ。ただ、彼より高い地位にいる者……高い能力を持つ者……優れた容姿を持つ者……私でなくても、きっと今より良い待遇で貴公を迎えたいと望む者はいるだろうに」
「そうだなぁ……」
 食中酒として振る舞われたクワサ酒の入った盃を手に取ってハクはそこに視線を落とす。
 何故オシュトルがいいのか。何故オシュトル以外では駄目なのか。
 彼が初めて色をくれたヒトだから? それとも――
「何故なのかは自分でも判らん。ただ……そう、ただ、あいつの顔しか浮かばんのだ」
 ぽつりと落とされたハクの答えに武官は「ほう」と頷いて、独り言のように告げた。
「まるで恋に溺れた女のようなことを言う」
「そうだな。全くその通りだ。我ながら極めて非論理的で、失笑ものだと思う」
 だけど。
 ハクは盃から顔を上げた。
「あいつという沼にはまって溺れ死ぬならそれでも構わないと、たった今、自覚したよ」
 これまで全く意識してこなかった、自分がここにいる理由。
 あの男の隣に立ち続けたいという願いの根源。
 まるでそれが運命であるかの如く、初めて会ったあの日に自分は彼に惹かれたのだろう。そして共に過ごすうち、どんどん深みにはまっていった。もう抜け出すどころか、抜け出そうと考えることすらできない。
「……これは随分な惚気を聞かされてしまったようだ」
「気づかせたのはあんただぞ?」
 こんな問いなどされなければ、きっとハクは一生気づかずにオシュトルの隣で立っていられただろう。けれど考えてしまった。気づいてしまった。
「まったく……どうしてくれる」
「ふふっ、すまないね」
「笑い事じゃないんだが……」
 不足そうにしつつも、ハクの口元は笑っている。
 これでもう純粋な友情だけで彼に尽くすことはできまい。色々と自分自身で戸惑うことも多くなるだろう。面倒だ。あまりに面倒臭過ぎる。しかしオシュトルを特別に思う気持ちはそれだけでハクの胸を暖め、幸せな気持ちにさせてくれた。
「蒼の君」
「へ?」
 視線を上げたハクに壮年の武官はくしゃりと顔に皺を寄せて微笑む。
「蒼い着物を纏ったオシュトル殿だけの采配師。一途なハク殿に敬意を込めて、これからは貴公を『蒼の君』と呼ぶことにしよう」
「いや、それは」
 流石に恥ずかし過ぎる。
 そう言ってもこの壮年の武官は許してくれそうにない。「もう決めた」と、惚気を聞かされた意趣返しのようにニヤリと口の端を持ち上げる。
「蒼の君とその主人の幸いを祈って」
「ホントやめてくれ……!」
「乾杯!」
 男が手元の盃を勢いよく掲げれば、飛び散った酒がまるで砕いた水晶のようにキラキラと光り輝いた。


【伍】


「このまま順当に行くと数年以内にお前が次の右近衛大将になるだろうな」
 邸での仕事の合間に茶と菓子で休憩を取っていたところ、ハクが唐突にそう告げた。親友の言葉にオシュトルは微苦笑を零す。
「ハク、不謹慎であるぞ。確かに大将はそれなりの御年だが、その分、我らには足りぬもの……経験を多くお持ちでおられる」
「まぁな。だがこれは軍でも宮中でもすでに暗黙の了解とされていることだろう。おかげで貴族共からの嫌がらせも近年すこぶる活発になってきているわけだが」
「む」
「安心しろ。全部追い払ってやるさ」
 そのためのお前の采配師だ、とつけ足してハクが不敵に笑む。面倒臭がりで自己評価を低く見積もりがちのハクだが、やると決めたことは確実にやり遂げてくれる人物だ。オシュトルの前に立ちふさがる者の排除もハクにとっては「やると決めたこと」なのだろう。
 心強く、そして同時にこそばゆい。オシュトルもまた「そうであるな」と目元を和らげれば、ハクが気まずそうに視線を下げて茶を啜った。照れ隠しとは、なんと愛らしい。
 ハクへの想いを自覚して以降、彼の一挙手一投足、一言一句全てが愛おしく思えて仕方がない。毎日が幸せで、けれども不意に跳ねる己の心臓には困ってしまう。ちょっとしたことで妬心も抱くようにもなった。こんな自分がハクにどう見えているのか……。不安に思うこともしばしばである。
(だが)
 オシュトルは茶を啜り、湯呑の陰で唇に弧を描く。
 ハクが前よりもっと美しく、愛らしく見えるようになった。元々ハクと共に過ごす時間は楽しいものだったが、それが更に濃さを増した。
 きっとハク自身はオシュトルにこういった意味で想われているなんて全く予想していないのだろう。それでいい。「ハクにもこちらを想って欲しい」などという我侭を言うつもりはない。ハクはハクのままで、オシュトルの傍にいてくれれば。
「んんっ、えっと……それでだなぁ」
 まだ茶が半分程度残っている湯呑を手にしたままハクが咳払いをした。先程の話の続きらしい。
 彼が何の意味もなく先程のような発言をするはずがないので、オシュトルはすぐさま聞き入る体勢に入る。
「貴族共の嫌がらせの件は置いておくとして、だ。大事なのは左右の近衛大将どちらもがかなりの御年を召していること、そしてもう一つ……この時期に、『仮面の者(アクルトゥルカ)』が八柱将ヴライ将軍お一人のみということだ」
「ふむ」
 オシュトルは相槌を打つ。
 ハクの言う通り、現在、ヤマトの守護者――この國が持つ強大な力の象徴である『仮面の者』は四つのうち三つが空位となっていた。帝が適任であるとお認めになる者が現れない限り、仮面の者の空位が埋まることはないだろう。こればかりは席が空いているからという理由だけでヒトを当てはめられるものではないのだ。
 四つのうち三つが欠け、すぐには埋まる予定もなく。そして同時に双璧とされる者達も老い衰えた。この事態から、幼少期から連れ添ってきた親友の言いたいことを予想してオシュトルは口を開く。
「ヤマトの戦力が最も落ちている。少なくとも國外はそう考えてもおかしくない状況であるな」
「ああ、そうだ」
 ハクがいささか神妙なそぶりで頷いた。
「元々このヤマトは主に他國との交渉ではなく圧倒的かつ純粋な武力によって他國を併合もしくは属國とすることで大きくなってきた國だ。たとえ本当にその武力を使う気が無かったとしても、それがある≠ニいうだけで、多くの場合ヤマト側の意見を通すことができる。そこに卓越した交渉力は必要ない。常にヤマトの方が上なんだからな」
 これが何を意味するか解るか? と問われ、オシュトルは一瞬口を噤んだ。判らなかったわけではない。ただ、判っていても口にすべきかどうか迷ってしまったのだ。
 そんなオシュトルの心情を察してハクは「ま、思っててもお前の立場で容易く口にできる言葉じゃないわなぁ」と眉尻を下げた。しかし口にせずに済むことであれば最初からハクはこの話題を切り出さなかっただろう。他者の目も耳もないのをいいことに、ハクは結論を導く。
「おかげさまで、ヤマトの交渉力は実のところあまり高く……いや、ここで甘い言い方をするのは止そう。現状、残念なほど低い。朝廷にも飛び抜けて頭の良い奴はいるが、そいつがこの大國を動かして交渉を有利に進めるのは現実として今の状態じゃ難しいだろう。それでも今のヤマトと属國の民の多くは帝という類稀なる智を持つ存在に心酔し、叛意を持とうとすらしないから、問題なくやってこられた。またもし叛意を持つ者が現れたとしても圧倒的な武力でもって押さえつけることができる。……だが今、その肝心要の武力が最盛期の四分の一以下だ。そして、」
 忌々しそうに眉根を寄せるハクの口から本題が告げられた。
「キナ臭い動きをしている國が一つある。まともな交渉もできず、押さえつけるための武力もない。そんな時を今か今かと待ち構えていた國が……な」


 ハクが不穏な気配をさせている國の存在を知ったのは、過日、大貴族でありながら高名な武官でもある壮年の男――アルダンから采配師にならないかと誘いを受けたのがきっかけだった。
 アルダンから誘いがかかったのはハクが鉱石人形であることも大きく関わっていたのは事実である。しかし理由のもう半分はアルダンが『優秀な采配師』を欲したからでもあるのだ。
 采配師を欲したのは、それが必要となる場面が近々あるかもしれないからではないか。そう考えたハクはすぐさま情報を収集し、そうして此度の件――若獅子とも称される勇猛果敢な青年アペが治める國、ネリュンの情勢を知ったのだった。
「ヤマトから見て北西の地にあるネリュン。元々ネリュンはヤマト黎明期に下した國、つまりヤマトの属國になって久しく、おまけに今まで一度も反乱なんて起こしたことがない。しかしあそこはヤマトの力を目の当たりにして自ら頭を下げたんじゃなく、まだヤマトがどの國からも甘く見られていた時期に武力で叩き潰された國だ。だから大人しくしていても、歴史を振り返った時に色々と思うところもあっただろう。加えて他國との國交はあまり行われず、結果、國家間・民族間での混血も進んでいない。つまり遠い昔に抱いた恨みが混血によって薄まっていないんだ」
 詳細を求めたオシュトルにハクはそう語った。
「そうして、ここにきて若獅子が皇(オゥルォ)になった……」
「若い皇は勇猛果敢なんて言われちゃいるが、裏を返せば」
「猪突猛進」
「惜しい。ただの莫迦だ」
「辛辣だな」
「辛辣にもなるさ。厄介この上ない」
 ハクの言い方は軽かったが、言葉選びはいつもより厳しめだ。よほど腹に据えかねているのだろう。彼(か)の國は平穏を脅かし、親友が歩む道のりに暗雲を立ち込めさせる元凶なのだから。
 戦になってもきっとヤマトは勝つ。その件に関しては二人共心配していなかった。だが無傷では済むまい。八柱将と左右の近衛大将が率いる近衛衆はきっと戦場に遣わされ、少なくない数のヒトが命を散らすはずだ。また帝都の民が直接危機に晒されることはないだろうが、戦場近くに住む人々には様々な災いが降りかかる。戦渦に巻き込まれ家や田畑を失ったり、戦場から流れてきた兵達に襲われたり。
 そして、
「もし戦場へ派兵された際、お前が絶対無事に帝都へ戻れる保証もないんだからな」
 万が一ということがある。最悪の事態が起こらないために全力を尽くすつもりではあるが、自分とて万能ではないのだから。そう言ってハクは目を伏せた。
「武士(もののふ)であるお前にこうして面と向かって言うことじゃないかもしれんが、やっぱり戦なんて無いに越したことはない。オシュトルと違って國や民のことまで考えるなんて自分には無理だが、身近な奴……お前が傷つくのは嫌だと思う。……ははっ、笑ってもいいぞ」
「笑わぬよ」
 むしろこれほどまでにハクに思われている現状を嬉しく思う。
 オシュトルの返答にハクは再び顔を上げた。柔和な顔に浮かんでいるのは眉尻を下げた情けない笑みだ。
「お前なぁ、他人に甘過ぎやしないか?」
「なに、ハクにだけだ。最高の親友(とも)であり最良の采配師である其方を甘やかすくらい、別に構わぬであろう?」
「まったく……良い親友を持ったよ、自分は」
 ハクは肩を竦め、軽く息を吐き出す。
「ともあれ、そう遠くないうちに少しばかり都の外が荒れる。具体的な備えはこちらでしておくが、お前もそのつもりでな」
「相判った。万事任せる」
「任された」
 お前の期待に応えよう。
 声にされずとも美しい琥珀色の双眸がそう語っているような気がして、オシュトルは凶事であるにもかかわらず胸が躍った。


【陸】


 一部の者達にとっては予想した通り、ネリュンがヤマトに宣戦布告。同時に、ネリュン皇であるアペ自らが大軍を率い、ヤマトに向けて侵攻を開始した。
 ただし道中にはネリュンとはまた別のヤマトの属國が存在しており、まずはこの小國の軍とネリュンの軍とが戦闘を行うこととなる。
 彼我の戦力差を考慮してヤマトは早期に出兵を決定。八柱将のうち半分の者達が手勢を率いて、属國の救援とネリュン征伐のために帝都を出発、あるいは自身の國から兵を率いて戦地へと旅立った。
 今代唯一の仮面の者ヴライ、聖賢と名高きライコウ、優秀な先代からの七光りで八柱将の位についているデコポンポが帝都から、エヴェンクルガの國イズルハを治める皇トキフサが自國からという形である。これら四つの軍は件の属國の都を支点とした巨大な鶴翼の形に配置され、ネリュンの大軍を囲い込み、前方と左右から攻め入ることで見事に兵力の分散に成功した。
 ネリュン皇が分散したどの部隊にいるのかまでは掴むことができなかったが、ヴライ、ライコウ、デコポンポ、トキフサの四陣営はそれぞれ我こそが大将首を上げんとばかりに戦闘へと移行する。
 ヴライは帝より仮面を賜れるほどの実力の持ち主であり、彼が率いる兵もまた一人一人が非常に武に秀でていた。結果、彼が出陣(で)た戦場は純粋な武力のみで敵軍を押し潰すようにして圧倒する。
 ライコウは類稀なる戦術により、まるで最初から詳細な筋書きがあり、それに従って両陣営が動くかの如く戦況を推移させた。必要な被害を払って目標とした成果を得る。ヒトを駒として扱うある意味では完璧な運用方法で見事な勝利を掴んで見せたのだ。
 またトキフサ率いる陣営はほぼエヴェンクルガで構成されている。この種族の能力は他と比べて非常に高く、特に優れた俊敏性を活かして戦場を引っ掻き回し、見事な勝利を収めてみせた。なお、トキフサは元々戦いにおいて攻守共に堅実な采配で戦線維持の役割を務めることが多く、目覚ましい功績を上げることはあまりない。にもかかわらず今回このような結果を得られたのは、戦場が彼の属する國イズルハに比較的近い場所であったことが影響しているのだろう。故郷に要らぬ被害をもたらさないため兵の一人一人が全力を尽くした結果、このような勝利を収めたのだ。
 しかし残る一陣営――デコポンポだけは先の三陣営のようにはいかない。そもそも実力に見合わぬ自己顕示欲によって無理に戦場へ出てきた男であり、おまけに采配師が良案を出してもそれが自分の好みに合わなければ却下する始末。となれば戦場でどうなるかは推して知るべしだ。
 まさに自業自得としか言い様がないが、しかしそれでもデコポンポは大國ヤマトの八本の柱の一柱だった。ヴライ、ライコウ、トキフサは各自まだ戦後処理が残っているため急いで救援に駆けつけるわけにもいかず、そのため帝都に残っていた近衛衆が援軍として出陣(で)る羽目となる。
 援軍として帝の命を受けたのは左右の近衛大将率いる近衛衆。両大将自ら出陣するとあって、右近衛中将の位を戴くオシュトルもまた己専属の采配師たるハクと共に戦場へと向かった。


「なんだ……? 敵の動きがやけに速い。聖賢のライコウぐらい異様に頭の回る奴がいるのか、それともまさか千里眼の持ち主でもいるって言うのか?」
 後方の小高い丘の上に置かれた本陣を振り返ってハクが独りごちる。
 帝の勅命を受けてネリュンとの戦闘が起こっている地域へ赴いた両近衛大将とその兵達は前線より少し後方に陣を構えた。高齢で白兵戦には向かない二人の大将はその陣に留まり、逐次報告される戦況に応じて指示を出す。一方、中将以下は本陣からの指示に従って戦場を駆け廻り、敗走するデコポンポ陣営の兵の救出、および敵兵と遭遇すれば戦闘を行い、遊撃隊のような働きをしていた。
 一般的には高位であればあるほど剣を握って戦う機会が少なくなるのだが、圧倒的武力でもって他國を併合してきた歴史を持つヤマトでは、帝に次ぐ地位である八柱将ですら――一部を除いて――自らウマを駆り、その手で敵兵を屠るのが常。功績を挙げてこその高い地位というわけである。よって今回、右近衛中将であるオシュトルもまた直接戦闘に参加していた。となれば、オシュトルの采配師であるハクがそれにつき従って戦場に出ているのも道理であろう。
 己と同じくウマ(ウォプタル)に騎乗し、呟きを発した采配師へと自身のウマを寄せたオシュトルは、「ハク?」と小声で呼びかける。
「何か気になることが?」
「ん? あ、ああ。ちょっとな……」
 ハクは彼にしては珍しく言葉尻を濁した。
 現在オシュトルが率いる隊は、本陣から小さな森を挟んで存在するこの草原で一旦進攻を停止している。散り散りになって敗走していたデコポンポ陣営の兵達を保護もとい回収しているうちにいささか隊の規模が大きくなり過ぎてしまったため、このまま攻め入る側と本陣へ負傷兵を送り届ける側に編成し直しているところなのだ。
 その差配を終えたハクは次いで偵察から戻ってきた兵の報告を受け、何やらしばらく考え込んでいたのだが、ようよう発したのが先程の呟きだった。表情もあまり芳しくなく、オシュトルは己の采配師の異変に眉根を寄せる。
「敵の動きがやけに速いと聞こえたのだが」
「………」
「ハク?」
「オシュトル、すまんがもうちょっとこっちに寄ってくれるか」
 ハクに乞われ、オシュトルはその通りにもっとウマを近づけた。部下達には聞かせられない話題らしい。自然とオシュトルも気を引き締める。
「何があった」
「こういうことはあまり考えたくないんだが……」残念がるようにそう前置きしてハクが告げた。「右近衛府(うち)に間者が潜んでいるかもしれん」
「……なに?」
 声を荒らげるなどの顕著な反応は抑え込めたが、オシュトルはハクの不穏な発言にすかさず「どういうことなのだ」と説明を求める。
「ここまで自分達は順調に軍を進めて、デコポンポの尻ぬぐ……んんっ、兵の救出任務を全うしている。無論、戦場に突っ込んでいくわけだから敵兵との戦闘もすでに何度か起こったよな。幸いにも死者や重傷者は出ていないが」
「それはハクの采配のおかげであろう」
「お前が兵をきっちり鍛え上げてたからだろ。……ま、それはさておくとして。さっき偵察の兵が持って帰ってきた情報によるとだな、どうにも敵はこちらの隊を迂回する経路で動いているらしい。戦闘を避けようとするのは何度かの戦闘でうちの戦力を見極めたのと、それにこちらの目的が味方の敗残兵の回収だって気づいたからだろう。だが向こうも同じく斥候を放ってこちらの動きを調べているにしては、方向転換が早過ぎるんだ。戦った感触から考えれば兵の練度的に突然の進路変更が大得意ってわけでもないだろうし、それなら指揮する者が早期に決定を下しているとしか考えられない。だとしたら向こうの将は千里眼の持ち主か、もしくはこちらの思考が読める術者か……なんてことはおそらく有り得ん。それならネリュンは他の八柱将達ともっとマシな戦闘をしていただろう」
「しかしそうでないと言うことは……」
「こちらの情報が敵に漏れている」
 最早言葉尻を濁しても意味がない。ハクははっきりと言い切った。
 おそらく間者は一般兵ではないだろう。オシュトル達が実際に動き出す前に情報が漏れていると考えられるので、兵の末端にまで命令が行き渡るより早く動ける者――つまりそれなりの立場の者として近衛衆の中に紛れ込んでいるはずだ。
「そして自分達を含む近衛衆各隊の進攻方向を決定しているのは大将のお二人だから、間者がいるとすれば……」
 再び自分達の後方にある本陣へとハクが視線を投げた、直後。

 ――ドンッ

「なっ!?」
「おいおい、あの方向は……ッ!」
 本陣があるはずの場所で爆発が起こった。呪法によるものと思しき火柱が上がり、その光景に少し遅れる形で地面と空気がぐわんと揺れる。かなり強力な火属性の術だ。オシュトルもハクも視線の先に在る光景を受け止めきれずに、一瞬、呼吸すら忘れて完全に動きを止めてしまった。
 だが二人はすぐさま正気を取り戻し、オシュトルが動揺する部下達に向けて声を張り上げる。
「静まれェ!! 状況を確認する! 斥候班、ここへ!」
 その一喝により鍛え上げられた兵達もまた動揺を抑え込み、呼ばれた斥候係の者達がオシュトルの元へ走り寄ってきた。オシュトルは彼らに本陣の現状確認を命じる。
 同時進行で、ハクが本陣帰還組と進軍組に分けていた隊の再編成に着手した。時間的余裕があまりないと見て基本から編成し直すのではなく、元々帰還させる予定でそれ用の装備をさせていた組から戦闘可能な人員のみ選択し、更に少数をハク自ら指名してそこへ組み込む。移動速度の低下を招く負傷兵は一度この場所へ置いていくことにした。無論、傷ついたデコポンポ陣営の兵士らを狙って敵襲があっても対応できる程度の戦力は残している。この辺りの采配がハクは絶妙に上手い。あっと言う間に移動速度を重視した隊が編成されていく。
 本陣の状況を確認するため兵を走らせたオシュトルはそんなハクの背中を一瞥し、爆発の前に己の采配師が口にしていた話を思い出した。
(もしや大将殿のすぐ傍にまで間者が?)
 状況を確認しない限りそれは単なる推測でしかなかったが、ハクが危惧している間者は想定以上に近衛府の深部へ食い込んでいるのかもしれない。その可能性を考えてオシュトルは背筋に冷たいものが流れるのを感じる。たとしたら、あの爆発によって狙われたのは――。
「……某が大将位を賜るのはもう少し先でも良いのであるが」
 小さな呟きは決して傲慢さにより発せられたものなどではなく。
 集団の指揮を執る者として最悪の事態を想定し、万が一の際には確実に己の責務を果たせるよう心構えをしている者として、オシュトルは苦々しくそう独りごちた。


 左近衛・右近衛の両大将および大将つき采配師が死亡。その他死傷者も多数。ある程度予想していたとはいえ、偵察から戻ってきた兵の報告を聞いてオシュトルは一瞬言葉を失った。
 何故そうなったのか、原因・手段共に不明。近くにいた者の証言によると、大将達がいた場所で突然爆発が起こったとのこと。ちょうど何かの報告のため彼らの元を訪れていた近衛将曹もそれに巻き込まれてしまったらしい。
 一瞬にして頭を失った隊は大きな混乱に陥った。しかし爆発および延焼が本陣のごく一部に留まったこともあり、残っていた近衛将監や近衛将曹達の働きでなんとか再度まとまり始めているとのことである。なお、前線より少し後ろに陣を構えていたのが功を奏したのか、この混乱に乗じてネリュンの兵がすぐさま乗り込んでくるという事態にはなっていない。安堵していられる状況ではないが、こればかりは不幸中の幸いと言うべきだろう。
「大将不在となれば代理でお前が右近衛府の指揮を執ることになる。急がんとな」
「ああ。すぐに出るぞ」
 采配師の言にオシュトルは頷いた。
 ハクの指示の下、すでに最低限の戦力を備えた部隊は編成し終わっている。部下に残りの兵達を任せると告げ、オシュトルはウマに跨った。ハクもまた危なげなく騎乗し――ハクは気性の荒いウマにさえ好かれてしまうので、戦いを抜きにすれば純粋にウマを扱うことに関してオシュトル以上に上手くなってしまったのだ――、ウマの首をひと撫でする。
「緊急事態なんでな、頼むぞ」
 主の願いを了承するようにウマはクルクルと喉を鳴らし、その視線がオシュトルに向けられた。ウマも己の主が誰の号令を待っているのか知っているのだろう。
(主人に似て頭のいいウマだ)
 胸中で独りごち、オシュトルは編成し直された部隊に向かって声を張り上げた。
「これより我らは本陣へ向かう。進発せよ!」


【漆】


 近衛大将とその采配師が殺害された衝撃は当然のことながらオシュトル達が本陣に到着した後も色濃く残ったままだった。しかしそれでも部隊がある程度まとまっているのは、近衛大将の鍛え上げた兵達が優秀であった証拠だろう。
 オシュトルの到着を受け、代理で兵をまとめていた近衛将監はその任を近衛中将たるオシュトルに譲り、自身は補佐役に収まる。報告によると、オシュトルと同じく部隊を率いて本陣から離れていた少将はまだこちらに到着していないらしい。部隊の編成に手間取っているのかもしれない。
 本陣の中央から少し外れた場所に四方を幕で覆った即席の陣所を作り、オシュトルは粗末な机の上に新しい地図を広げてハクと共に本陣から離れている各隊へ指示を出す。呪法によって焼き尽くされた本来の陣所からは風に乗って焦げ臭いにおいが漂ってきていた。両大将と采配師および共に焼死した近衛将曹の遺体はすでに丁重に奥の天幕へ運び込まれていたのだが、それでもどこかヒトが焼けた時のねっとりとした油っぽさが混じっている気がする。
「一度全軍を本陣に集合させた方がよろしいのではないですか?」
 各隊へそのまま敗残兵の救出任務続行を指示したハクとオシュトルに、オシュトル到着まで兵をまとめていた近衛将監がそう進言した。犯人も正確な襲撃方法も不明なままで兵力を分散させるのは適切ではないと考えたのだろう。それは一理ある。しかし。
「敵の手が判らない以上、一ヶ所に兵力をまとめておくのは危険だ。もしまだ大将達を襲ったあの火神(ヒムカミ)の仕掛けが残されていて、自分達が集合した時に発動されたら……なんてことも考えられなくはないだろ?」
 自分ならそうする、とハクはつけ足して将監の進言を退けた。
 オシュトルもハクの言い分に否やはない。上官への具申は罰せられる可能性があることを知りつつ、それでも近衛衆を思って行動に移した将監へ、オシュトルは労わりの笑みを向ける。
「某も同意見なのでな。しかし其方の言葉、胸に刻んでおこう」
 そう部下に真摯な態度で対応した。
 近衛府の者であれば二人の意見に納得して頭を下げ、陣所から退出する――……というのが通常の流れだったのだが。
「……そうですか。ではこの場に最もヒトが集まっているのは今ということなのですね。これ以上は集まるどころか、場合によっては減りかねない」
 やけに冷めた、もしくはがっかりした様子で部下は呟く。急に纏う空気が変わってオシュトルもハクも訝しげな表情を浮かべた。
 オシュトルがその部下の名を呼ぼうとした、その時。
「■■■■■■」
 ヒトが通常使うものとは異なる言語。近衛将監がそれを唱えた∴齡曙縺A陣所の外で複数の火柱が上がった。
 咄嗟にオシュトルは傍にいた近衛将監を取り押さえ、ハクが幕の外に出て現状を確認する。しかしハクが報告するまでもなく、炎によって生み出された激しい熱風と連続して起こった爆発による振動、そして兵達の叫び声で地獄絵図が広がっていることは想像に難くなかった。
「貴様っ、何をした!」
 オシュトルは怒鳴るようにして地面に押さえつけた近衛将監を問い質す。
「まさか貴様が近衛府に潜んでいた間者か!」
「おや。すでに問者が紛れ込んでいることには気づいていらっしゃいましたか」
 かなりの力で押さえつけられているにもかかわらず近衛将監は平然とそう告げる。額に脂汗が滲んでいることから痛みは正しく知覚しているようだが、それを越す何かが彼の中に渦巻いているのだろう。
 近衛将監はニイと唇を吊り上げて嘲笑った。
「ですが気づくのも、行動するのも、貴方はあまりに遅すぎた。この周囲一帯には事前に爆発炎上の呪法を仕込んでいましてね。本陣に配備されていた兵諸共、貴方が連れてきた精鋭達は大勢死亡したことでしょう。……ふ、ははは。ははははっ! いい気味だ! 自分達が地獄の門前に立たされたとも知らずおっ死にやがった!!」
「お前、ネリュンの者か」
 幕の内側に戻ってきたハクが眉間に皺を寄せて問う。
「アペが挙兵しなければこのまま一生ヤマトの兵として人生を終えるつもりだったのか?」
 それくらいこの部下は立派に働いていた。ゆえにオシュトルも彼を取り押さえていてなお、この男が敵であったなどと信じ切れないでいる。
 だが間者自身は違うらしい。
「我らの皇はヤマトを滅ぼすために必ず立ち上がってくださる。そう信じていたからこそここまでやってこられたのですよ、采配師殿」
 そう言って近衛将監はあっさりと今までの己の功績を否定してみせた。全てはこの地位にまで食い込み、ヤマトの上層部に近づく機会を得るためのもの。そうでなければ何故憎きヤマトの兵として戦えるというのか。
「情報を流し、最後は己の命を代償にしてヤマトの兵力を削ぐのがお前の役目か」
「見事なものでしょう? 祖國の兵に最適な道筋を示すのみならず、左右の近衛大将に彼らの采配師達そして右近衛府の中将と彼が率いる精鋭達、その他多数の近衛兵の死! 私と、もう一人の同志、たった二人の命でヤマトの力をここまで削ぐことができるんですから」
 オシュトルに身動きを封じられているにもかかわらず、これからその本人を殺害するのだと言外に宣言する近衛将監。もう一人の同志とはおそらく両近衛大将が死亡した時、報告のため近くにいたとされる近衛将曹のことだろう。
 先に将曹が大将と采配師のみという限られた、しかし重要な人物達を殺害することで、異変を察知した配下の者が他の近衛兵達を引き連れて本陣に集まる。そこを狙って、事前に仕掛けておいた呪法を発動。将官も一般兵も同時に、そして大量に殺害できるというわけだ。
 と、そこまで考えてオシュトルの背骨を強烈な悪寒が駆け上がってきた。最初に、裏切り者の近衛将曹は自らの命を犠牲にして近衛大将を屠った。手段はおそらく、今、幕の外で兵達を殺している爆発炎上の呪法と同じものを自らに刻んで発動させたのだろう。そしてこの近衛将監は言った。オシュトルもまた己が屠るのだと。ならば、その手段は――。
「ッ!」
「オシュトル、そいつから離れろ!!」
 同じ考えに至ったハクが叫ぶ。
「遅いですよ!」
 両目に狂気を滲ませて、立ち上がった近衛将監は禍日神(ヌグィソムカミ)の如く笑う。その胸元には真っ赤な文字らしきものが浮かび上がっていた。
 文字は瞬く間に輝きを増し、
「アペ様万歳! 野蛮なヤマトに敗北を! ネリュンに勝利あれ!!」
「くっ――」
 オシュトルは将監から離れハクの元へと駆け出すが、その背を舐めるように閃光が照らす。
「ハクッ」
「オシュ、……ッ!」
 ハクを護るように己の躰でしっかりと抱き込む。
 直後、将監の躰を内側から食い破って溢れ出した爆炎がオシュトル達に襲い掛かった。


「……っ、おい。オシュトル、大丈夫か」
「ああ……。特に動かぬところはないようだ」
 オシュトルはハクを抱き締めていた腕を解きながら、二人して立ち上がった。
 近距離での爆発にもかかわらず、ハクを庇ったオシュトルの背中が盛大に焼け爛れているといったことはない。全体的に煤けており、多少毛先や着物の端が焦げ、皮膚にも打撲痕や軽い火傷(やけど)はあるものの、戦えないほどの怪我は負わずに済んでいる。ハクは更に軽傷で、彼の頬についた土を親指で擦って落としながらオシュトルはほっと一息ついた。
 おそらく地面に転がり姿勢を極端に低くしていたのが功を奏したのだろう。爆発が横方向と上方向に広がったため、爆心――視覚情報からの推論だが、自爆した近衛将監の腹部から胸部辺りだと思われる――よりも下に位置していた二人は爆炎に直接曝されずに済んだのだ。もし直立したままだったら――……。今頃オシュトルもハクも両近衛大将や彼らの采配師達と同じ場所へ行っていたかもしれない。
 自分達の幸運を喜んだオシュトルは、しかし次に周囲を見渡して愕然とする。
「………………あ、ああ」
 そこには地獄が広がっていた。
 四方を囲っていた幕は焼け落ち、随分と見晴らしが良くなってしまっている。そして焼け焦げて何十何百ヶ所と抉れた大地には数多の兵士が転がっていた。
 炎に焼かれて完全に肉体が炭化してしまった者。爆発で躰を吹き飛ばされ、全身を強く打ちつけ死亡した者。爆発で飛ばされた石や刀剣類によって躰の一部が抉られた者。同じく、脚や腕が吹き飛ばされた者。炎に皮膚を舐められ、躰の半面が焼け爛れている者。
 無事な兵士などほとんどいない。いたとしても、地獄の如き光景に心が折れてしまっていた。胃の中身を吐き出すか、ただひたすら涙を零すか、それとも狂ったように笑い続けるか、でなければ失神して倒れるか。焦げ臭さと肉の焼けるにおいと、恐怖によって垂れ流された汚物のにおいに包まれて、オシュトルの口は意味のないただの音を紡ぐことしかできなかった。
(なんだ、これは)
 近衛衆の制服に使われている澄み切った空色の布が、焼け焦げ、血に濡れ、土に汚れている。
(皆が……)
 本陣に配備されていた兵と、オシュトルが率いてきた兵と。そのほとんどが死亡もしくは重傷を負った。
(先程まで、ほんのついさっきまで、生きていたのだぞ。呼吸をし、喋り、駆けていた。それなのに)
 大将の死亡により、前線方面へ散っていた各隊が引き返して本陣へ兵を集結させると予想し、周囲一帯に仕掛けられていた呪法。それを発動させたのはネリュンの間者だった男。だがその男に「今こそ実行の時だ」と思わせたのは、オシュトルの行動であり――……。
「オシュトル。お前、今、何を考えた?」
「ッ!?」
 突然真横から声をかけられ、オシュトルは息を詰める。声がした方へ首を巡らせると、地獄にあってなお変わらぬ美しい琥珀色と目が合った。
「……は、く」
「まさかこの光景がお前自身のせいだなんて思っちゃいないよな?」
「っ、それは」
 息を呑むオシュトル。
「図星か」
 はあ、と深い溜息をつき、ハクはただただ冷静に宝石と同じ輝きを宿す瞳でオシュトルを見据えた。
「いいか、一度しか言わんからよく聞けよ」
 顔を逸らすことさえ許さないとばかりに、ハクは両手でオシュトルの頬を包み込と、
「こういう時に責任を負うのは采配師の仕事だ」
 そう言い切った。
「問者の存在や目的を読めなかった自分に非がある。死んだのはお前の部下だ。だから悲しめばいい。別の手段を取るべきだったと悔やめばいい。だが、責任は――」己の胸元に手を当ててハクははっきりと告げる。「采配師たる自分に、ある」
「ハ、ク……しかし」
「だから」
 ハクがオシュトルの反論に耳を貸すことはない。言葉を途中で遮り、オシュトルが与えた琥珀色で真っ直ぐにオシュトルを射た。
「勝手にお前自身のせいにして、責任を感じて、その重さで折れることは許さん。……それにな。お前が折れて足を止めたら、自分はこれから先、一体誰のために策を練ればいいんだ?」
 最後は少しおどけたように微笑んで、たった一人のための采配師はそんなことを言ってのける。
「……優秀な采配師を欲する者は、某でなくともいくらでもいるであろう。しかも……ハク、其方は鉱石人形だ。采配師として働かずとも、衣食住を保証したがる者は大勢いる。其方の好む、怠惰な暮らしができるぞ」
 ハクから目を逸らすことを許されないままオシュトルは答えた。これで平時通りの喋り方ができていれば、ハクは怒ったかもしれない。呆れたかもしれない。だが今、この時、唇を割って零れ落ちたオシュトルの声は情けなく震えていた。
 だからなのか。
「お前は馬鹿だなぁ」
 凄惨な光景とは真逆の、春の日差しのような暖かな笑みを浮かべてハクはオシュトルを見る。
「オシュトルは自分が誰かのものになるのが望みなのか?」
「……ッ」
(そんなはず、なかろう)
 誰がハクを譲りたいなどと思うものか。他人の隣に立つハクを見たいと思うものか。
 彼はオシュトルの采配師だ。他の誰のものでもない。
 オシュトルではない誰かの隣に立つハクを想像するだけで、肺は鉛が溜まったように重くなり、喉が詰まって苦しくなる。怒涛のように押し寄せる感情は上手く言葉にすることさえできず、ただオシュトルの唇を震わせた。
 結果として沈黙が生まれると、ハクはそれをどういう意味で取ったのか、「ふむ……」と呟く。そして、
「お前が要らないと言うのなら、自分はここで首を掻き切って死ぬとしよう」
「ッ!?」
 目を瞠るオシュトルにハクはあっさりと続ける。
「前にも言っただろう。お前がくれた琥珀(いろ)以外に染まるつもりはない。オシュトル以外のものになってそいつの色に好き勝手染められるなら死んだ方がましだ。もちろん、そう簡単にくたばりたくはないから何とかこの窮地を脱せないか考えているんだけどな」
 そう言ってハクはへらりと笑うが、オシュトルの両頬を包む手は未だ外れそうにない。むしろ更に力が込められ、「自分から目を逸らすな。しっかりと声を聞け」と言われているようだった。
「鉱石人形だからってだけじゃない。ハクという一人のひととして自分をここまで染めたのはオシュトル、お前だ。だから責任を持って最後までお前が自分の世話をしろ。親父殿みたいに、民と苦楽を共にする立派な漢になるんだろう? 途中で折れるな。お前のためにここまでついて来た自分をこんなところで捨ててくれるな。……それともこう言った方が効果的かね」
 するり、とハクの指がオシュトルの頬を撫でる。
「自分はオシュトル以外いらないんだって」
「……本当に其方は好き勝手言ってくれる」
 頬を包むハクの手に己の手を重ねながら、オシュトルは言葉を絞り出した。
 ここで沈黙を保つのはただの莫迦だ。秘めたままでいようとした想いをこんな凄惨な場で明かすなど正気の沙汰ではないが、しかし黙ったままではあまりにも愚かな男に成り下がってしまうだろう。
「ハク」
 指一本一本を絡めるように優しく、強く、撫でて。
 オシュトルは告げた。
「先程の愚かな発言はどうか忘れてほしい。其方の隣に立つのは某だけだ。誰にも渡しはせぬ。某が色をつけた某だけの愛しい者……ハク、其方を手離してなるものか」
「……っ」
 これまでオシュトルばかりが驚かされてきたが、ようやくハクを驚かせることができたらしい。琥珀色を大きく見開き、頬をうっすらと赤く染める大切で愛しい者の姿にオシュトルはようやく微笑んだ。


 頬に添えられていたハクの手から離れ、しかし与えられたぬくもりを心の大事な部分にしっかり刻みつけて、オシュトルは再び周囲に視線を向ける。そこには相変わらず地獄が広がっていた。しかしもう意味のない呻き声を上げることも、このまま膝からくずおれてしまいそうになることもない。
「さぁ、ハク。この窮地を脱するぞ」
「はいよ。雇い主様の無茶なご要望も叶えてみせますか」
 そのための采配師、自分なのだから。と、頬から赤みを引かせ、いつも通りの調子でハクが答えた。地獄にあってなお変わらぬその姿にオシュトルはまぶしささえ覚える。
「ハクは強いな」
 思わず零れた呟きにハクが「ん?」と小首を傾げた。
「いや……こんな状況でも冷静に振る舞えるのだなと思ってな」
 もちろんそれが厭わしいわけではない。むしろありがたい。ハクがそのままでいてくれたおかげでオシュトルは足を止めずに済んだのだから。
 しかしハクは決して惨劇を好む性質でも心を持たぬヒトでもない。それなのに何故オシュトルを支えることができたのか。
「そりゃまぁ自分はお前ほど清廉潔白でも公明正大でもない。他人が傷つけばいいとは思わんが、決して博愛主義ではないな」
「だから兵が死んでも平気だと……そんなことはあるまい」
「ああ。それにこいつらは……」周囲を見回し、ハクは眉間に皺を寄せた。「自分にとっても大事な部下だ。可能な限り無事に家へ帰してやりたかったとも。けどな」
 傷ついていないわけではない。心が折れそうになっていないわけではない。しかし逆接を用いてハクは告げる。
「自分の隣にはお前がいた。大事な部下を一瞬で失って動揺しているお前の隣で、その采配師である自分まで狼狽えてどうする。こういう時に主人の不足部分を補ってこその采配師だろう。……お前の隣に立つためだけに生きていた。そういう自負があるから、自分はお前の隣にある限り、折れるわけにはいかんのさ」
 無論、全てのそういう考えの持ち主がハクと同じ行動を取れるとは限らない。しかしハクにはできた。オシュトルを想い、そのために止まりそうな足を奮い立たせてくれた。
 それがどれほどの意味を持っているのか。想像し、オシュトルの全身がぞくりと震える。とんでもない歓喜と快楽が躰を満たした。己がハクにとっていかに重要な存在なのか、愛しく思っている本人の口から語られて、何も感じぬはずがないではないか。
 愛の喜びを語るには不適切過ぎる場所で、だからこそオシュトルはたった一言だけ返す。
「なれば、某が足を止めることは永遠にないのであろう」
 それはハクへの無類の信頼の証であり、同時に命尽きるまで――もしくは命が尽きた後も――手離すつもりがないことを示す言葉だった。


【捌】


「兵の数が足りないか……」
 大将の殺害を囮にし、大勢の兵士を本陣まで戻らせて一気に殺害せしめたネリュン。この好機を見逃すつもりは、当然あちらにはないだろう。間も無く敵がここまで押し寄せてくる。大将と中将を失い、兵を大勢欠き、敗走するしかない近衛衆――と、あちらは考えている――を後ろから喰らい尽くし、勢いに乗ってヤマトの防御を突破するために。
 それを理解した上で自分達が取れる手段の乏しさにハクが独りごち、唇を噛んだ。地獄の如き惨状の中から動ける者を集めてみたものの、その数はいっそ笑えるくらいに少ない。また伝令を走らせ、森の向こうに待機させたままの仲間を含む残りの左右両方の近衛兵を招集してはいるが、間に合うかどうか怪しいところだった。
(間に合ったとしても数は心許ないのだがな)
 ハクの傍らに立ち、オシュトルは胸中で呟く。
 また兵の数が少ないのみならず、こちらが回収したデコポンポ軍の負傷兵達を守りながらという制約がつくので更に厄介だ。
 しかしその横顔を眺める限りでは、オシュトルのための采配師は諦めるつもりなどないことが判る。吹き曝しの焦土の真ん中で、爆風に飛ばされた荷物の中から引っ張り出した地図と睨めっこを続けていた。
 頭の中に叩き込んだ情報と照合し、現在、味方と敵がどの辺りを移動中なのか推測する。やはり敵の襲来前に自軍と合流できる可能性は低いと見たのか、ハクの表情が険しくなった。しかしふとその瞳が丸みを取り戻す。琥珀色の双眸が見つめる場所と同じ一点に視線をやり、オシュトルは「ハク?」と自らの采配師の名を呼んだ。
「如何(いかが)した」
「んー……ここがなぁ……」荒事に不慣れな指がとんとんと地図の一点を叩く。「最初から兵が派遣されていない。どうしてここだけ不自然に捜索を避けてるんだ?」
「ふむ。大将閣下の指示によるものであるな」
 右近衛中将の地位を頂くオシュトルにも思い当たる理由がないので、大将達にしか知らされていないことがあるのかもしれない。ただもしヤマトにとって禍となるものなら、オシュトルなどのある程度の地位を持つ者達にはそれとなく話が通されていたはずだ。それがなかったということは、決して悪い者ではない……と、思いたいのだが、はてさて。
「調べるか?」
「調べておきたいが、偵察に割ける兵がない」
 ハクがそう答えた直後。
「オシュトル様、ハク様! たった今見張りの者から伝令が!!」
 本陣の外周に配した見張りから伝令係が駆けてきた。すわ敵襲か、と予想以上の早さに焦る二人だったが、しかし駆けてきた兵の顔つきを見て訝る。絶体絶命の危機に陥ったにしては表情が明るいのだ。
「何があった」
 オシュトルが問いかければ、駆けてきた兵は「はっ!」と一度その場で敬礼してから報告した。
「アルダン様率いる軍が我らとの合流のため、すぐ近くにまで来ているとのことです!」


 八柱将ほどではないが、ヤマトでも有数の力を持つ貴族の当主――アルダン。ネリュンがヤマトに侵攻する途中でぶつかることになったヤマトの属國を治める豪族に、彼の妹が嫁いでいたのである。そして妹の息子である皇子達、アルダンにとっては甥達が今も戦場を駆けているという。
「だからこそあんたもまた部隊を率いてここまで進軍してきたと」
「ああ。貴公を我が采配師にと望んだのも、これを見越してのことでな」
 ハクの問いかけにアルダンは頷いた。
 焦土の上に死体が点在する地獄の如きその場所に一瞬顔をしかめただけで大きな動揺は見せず、彼(か)の将は自身がこの場にいる理由を簡潔に説明した。実妹が嫁いだ先の國を逆賊の徒に荒させるわけにはいかない。ゆえに己もまた戦場に出てきたのだ、と。
 アルダンの家柄であれば、左右の近衛大将達にその話が伝わっていたのも不思議ではない。よって二人の大将はアルダンに配慮してオシュトルとハクが不審に思った件の兵の配置を行ったのだろう。またおそらくだが、大将達がアルダンの件を部下に伝えなかったことで、近衛府に潜んでいた間者もアルダンとその私兵達の存在を知らずにいたはずである。ということは、こちらへ向かってきているネリュン軍は事実よりも随分と低くヤマトの兵力を見積もっているということだ。
 ほんの少し勝機が見え、オシュトルは僅かにだが肩の力を抜いた。
 ここにいる近衛衆とアルダンの兵を合わせれば、ネリュンの攻撃にある程度持ち堪えることができる。その間に各地へ散らばっていた別の隊の近衛衆と合流すれば、一気に攻勢へと出られるはずだ。
(そうなると、ここにいる近衛衆は一時的にアルダン殿の指示に従って行動することになるであろうな……)
 オシュトルは胸中でそう呟いた。
 こちらの戦力は極限まで削り取られている。一方、アルダンは近衛大将が配慮するほどの大貴族であり、戦闘可能な兵士も十分な数を有している。であれば円滑な行動に移るためにもオシュトル達がアルダンの指揮下に入るのは当然のことと言えた。
 オシュトルは隣に立つハクを見やる。すると同じくオシュトルに顔を向けていた彼と目が合った。ハクはオシュトルの視線を受け、こくりと頷く。
 そして、
「アルダン殿、無礼を承知でお願いする。自分にあんたの軍の指揮を任せてもらえんだろうか」
「っ、ハク!?」
 指揮下に入るという宣言ではなく、真逆の「自分の指示に従ってくれ」というハクの発言を聞き、オシュトルは隣で目を剥いた。だがアルダンに向けられたハクの表情は真剣そのものであり、真正面からそれを受け止めた本人も「ほう」と興味深げに相槌を打つ。
「随分と自信があるようだが」
「作戦如何によっては他の近衛衆との合流までの時間稼ぎじゃなく、攻めてくるネリュンの兵をここにある戦力だけで撃退できるだろう」
「っ! ハク、それは誠か」
「ああ。アルダン殿も自分の策を聞いてはくれないか」
 オシュトルの問いかけにハクは頷き、アルダンにも伺いを立てた。壮年の将は過日、自身が自らの采配師にと望んだ年若い男の視線を受け止めて口の端を持ち上げる。
「是非とも聞かせてもらいたい」
 そしてハクの説明が始まった。

* * *

「我らが同胞の命、無駄にするでないぞ! 今こそヤマトに穢されたネリュンの誇りを取り戻す時!」
 集団の先頭でウマに跨り声を張り上げるのはネリュン國の皇アペ。赤みがかった黒髪とそれより更に赤みの強い瞳は、まるで彼の苛烈な性格を表しているかのよう。消極的な事勿れ主義を貫いていた先皇たる父親とは異なり、若獅子とも称される青年は、敵國に潜ませていた手駒からもたらされた情報により今こそヤマトに目に物見せてくれると息巻いていた。
 この日のために自身が皇位を継ぐずっと前よりヤマトに放っていた間者が命を代償にして作ってくれた好機だ。これを無駄にしてはネリュンの誇りなど守れない。アペに賛同した兵達は彼の宣言に興奮の雄叫びを上げ、進軍を開始した。
 強大な武力でもって他國を滅ぼし、または属國としてきたヤマト。だがしばらく平和な世が続いた今、ヤマトが誇る武力は最盛期の半分にも満たない。しかも内政は腐敗が進み、力のない者が自己満足のためだけに戦場に出てくるようにもなったという。アペはそんなヤマトの綻びを突いた。
 ネリュンがヤマトに反旗をひるがえせば、複数の八柱将がヤマト防衛およびネリュン殲滅のために出てくるだろう。その中には実力を伴わない者――デコポンポというヤマトの恥部も高確率で含まれる。
 アペがそう予測した通り、デコポンポは戦場に出てきた。主人の無理な命令に応えるためなのか兵の一人一人にはそれなりの実力が備わっていたものの、頭が莫迦では手足が上手く動くことはできない。結果、ヤマトの最も脆い部分を突く形でアペは自らが率いる主力をそこにぶつけ、大勝した。
 しかしながら本番はここからである。ヤマト側もデコポンポが大きな穴になることはある程度予想していただろう。すぐに左右の近衛大将が援軍として派遣された。アペが狙った通りに。
 八柱将とはまた別に帝の直下に組織された近衛府。八柱将の誰かが窮地に陥った際――と言っても下手を打つのは現在一人しかいないのだが――、最も動かしやすいのはそこだ。そうしてアペは長らくヤマト側に気づかれぬよう連絡すら取ることを禁じていた間者に最後の命令を下した。その命をもって近衛兵達の『首』を刈り取れ、と。
 命令は見事に遂行され、今や近衛衆は頭どころか手足すら大きく欠いた状態である。ここを突破し、自分達はヤマトに攻め入る。遠い音に踏みにじられた自國の誇りを今こそ取り戻すのだ。
 近衛衆の本陣へ他部隊の兵が合流する前に決着をつけるべき本作戦では機動力が重要となる。よってアペが率いる隊は騎兵で構成されていた。ウマ(ウォプタル)の腹を蹴ってアペ達は小高い丘を駆け上がる。ヤマトの近衛衆が丘の頂上に敷いていた立派な本陣は今や見る影もなく、焼け焦げた大地で僅かに生き残っていた兵達が迫り来るネリュン軍を目にして慌てて丘の反対側へと逃げていった。
「追え! 野蛮なヤマトの兵を一人残らず血祭りに上げよ!」
 アペの号令に兵達が応と声を張り上げる。太刀を抜刀し、またある者は槍を構え、丘の向こうで情けなくこちらに背を向けているであろう敵兵共の首を落とすべく更にウマを加速させた。焦げて抉れた大地をウマの爪が掻き毟っていく。そして頂上に辿り着いた部隊はそのまま丘を下り始め――。
「っ、これは!」
 丘を下る自分達の目に飛び込んできた光景にアペは息を呑んだ。しかし足を止めようにも勢いのついた騎兵がそう容易く止まれるはずもない。
 顔を青ざめさせるアペの視界の隅でネリュン軍を待ち構えていた一人の青年がすっと手を上げ、そして振り下ろす。

「放て」

 戦場には似つかわしくない淡々として、気の抜けた、穏やかさすら感じる声が自軍の兵に命じる。直後、敗走する僅かなヤマト兵を追って丘を下り始めたネリュン軍に向け、数多の矢が横から、そして頭上から、雨のように降り注いだ。

* * *

 自軍の兵が放つ矢によって次々にネリュンの兵が倒れていく。その光景に琥珀色の両目が細められた。
「順調……だな」
 ハクは丘の上に敷かれた本陣に囮として僅かな兵を残し、残りの近衛衆とアルダンの兵のうち弓兵を全てネリュン群が駆け下りてくるであろう道の両側に配していた。丘を下り始めたネリュン兵は自分達を狙う数多の弓矢に気づいても、一度ついてしまった勢いによって簡単には足を止めることができない。結果、彼らは矢の雨の中へ突っ込んでいくしかないのである。一部は弓兵を片づけようと隊列から外れてこちらへ向かってきたが、そんなものはただの的でしかない。瞬く間に矢を射られ絶命していった。
 そして這う這うの体で矢の雨を抜け出したとしても、丘の下で待ち構えていた騎兵および剣や槍といった飛び道具以外を扱う歩兵によって各個撃破される。初撃の命令はハクに任され、オシュトルとアルダンはその迎撃する側へ回っていた。
 横から、上から、絶え間なく放たれる矢によって多くのネリュン兵が落馬し、その命までもを落としていく。やがてオシュトル達とネリュン兵の先頭集団との戦いが始まった。突然の矢による洗礼と予想もしなかった兵力に動揺したネリュン兵はヤマトの近衛衆とアルダンの兵によって次々と貫かれ、切り裂かれ、あっと言う間に総崩れ状態へと陥っていく。
 その光景を丘の中腹より少し上の辺りで眺めながらハクはふうと息を吐き出した。混戦状態となった今、余程の名手でなければ矢を射ても仲間の邪魔にしかならないだろう。警戒は解かず、しかし矢を射る手は止めさせて、ハクは次の指示を出す。
「総員、近接戦闘用意」
 ハクの命令に合わせて兵達が弓から剣や槍に得物を持ち替えた。
 弓兵であっても弓しか扱えないわけではない。戦場では己の武器を失っても誰かから奪って、もしくは落ちていたものを拾って戦い続けなければならないのだから。近衛衆のみならずアルダンの兵も相応に訓練されていたようで、躊躇なく得物を変えてハクが下す命令を待っている。
 周囲をざっと見渡し、素早く準備を整えた兵達に向かってハクは命じた。
「ネリュンの兵を殲滅せよ。吶喊(とっかん)!」

* * *

 ハクの策は見事に当たった。勢いづいて丘を駆け下りてきたネリュン兵が次々と矢の餌食となり、生き残った者もオシュトル達に容赦なく斬り伏せられていく。
 想定を遥かに超える兵力と予想もし得なかった作戦に動揺したネリュン兵の相手は実に容易い。一方、ネリュンからの間者によって多くの仲間達を失った近衛衆の猛りは凄まじく、自らもまた刀を振るいながらオシュトルはヒトの心がどれほど戦況に影響を及ぼすのか改めて理解させられることとなった。
 しかし混戦の中、ヤマトの兵が恐れ戦いたように身を引いている箇所があることにオシュトルは気づく。何事かとそちらへ向かえば、人垣の向こうに赤みがかった髪が見えた。
(もしや)
 炎を混ぜ込んだかのような黒髪と、それよりも更に赤みの強い瞳。他のネリュン兵とは異なる派手な装飾の戦装束。そして不利な状況でありながらも折れることなく苛烈に剣を振るい続けるその姿。
 未だヤマト側の他の陣営でネリュン皇の首を取ったという報告は上がっていない。オシュトルは刀の柄を握り直して、まだ若い獅子の如く吠える男の前に歩み出る。
 突然現れた青と白の装束の人物に男は躊躇なく剣を振り下ろした。しかしそれは難なくオシュトルに受け止められる。他の兵とは違うと感じたのだろう、若獅子の男が目を眇めた。
「ネリュン國の皇、アペ殿とお見受け致す」
 ぎちぎちと鍔迫り合いを続けたまま、オシュトルの声は混戦となったこの戦場に似つかわしくない落ち着いた響きを宿していた。それが癪に障ったのか、男は「ああ?」と眉尻を跳ね上げる。が、苛立ちの表情はオシュトルの姿を改めて眺めると、見る間に驚愕へ変化していった。
「いかにも俺はネリュンの皇、アペだ。……だが、貴様は、まさか」
「某はヤマトの右近衛中将オシュトルと申す者」
 言って、オシュトルは鍔迫り合いを続けていた刀を振り払う。ギィンッ! と弾かれた刀の強さにアペは目を見開き、そして憎々しげに唇を歪ませた。
 アペのその表情を前にしてオシュトルもまた僅かに口の端を持ち上げる。
「残念ながらまだ死んではいなかったのでな。貴様らが奪ったヤマトの兵達の命を贖わせるためにも、その首、貰い受けるぞ」


【玖】


 ネリュン皇アペの首によって此度の戦は終結した。
 首級を挙げたのは右近衛中将オシュトル。
 敗走したデコポンポ軍の兵の多くを救出・保護したのみならず、ネリュン皇をその手で討ち取るという華々しい功績と共に帝都へと凱旋した。
 これによりオシュトルは右近衛大将に昇進。加えて帝より仮面(アクルカ)を賜り、しばらく空位が続いていた『仮面の者(アクルトゥルカ)』の一人となったのである。


「流石は蒼の君の采配とでも言うべきか」
 白い仮面で顔の上半分を隠す形となった美丈夫に壮年の武人が声をかける。
 この度、新しく二人の♂シ面の者が誕生したことで宮中は酷く騒がしくなっており、どこへ行ってもオシュトルは人々の注目の的であった。しかし朝堂の間に程近い廊下であるにもかかわらず、今この場にオシュトルをちらちらと窺っては噂話をするような他人はいない。宮廷の中心部であってさえ人払いができてしまえるほど目の前の男は権力と手腕を備えているという証だ。
 しかし全身全霊で警戒すべき相手ではないということもオシュトルはすでに知っていた。むしろこの人物には警戒ではなく感謝をせねばなるまい。あの時あの戦場で彼が現れてくれなければ、オシュトルは無事に帝都へ帰ってこられなかったであろうから。
「ご無沙汰しております、アルダン殿」
「よしてくれ、オシュトル殿。すでに貴殿は私に頭を下げるような立場でもあるまい」
 軽く頭を下げて礼を取ったオシュトルにアルダンがゆるゆると頭を振る。その要請に応じてオシュトルは顔を上げると、ついでとばかりに少し気になったことを問いかけた。
「ではお言葉に甘えて……。しかし、蒼の君≠ニ言うのは一体」
「ああ、それか」
 アルダンの視線がオシュトルを通り越し、その背後に控えていたもう一人の人物へと向けられる。オシュトルがそちらを振り返り「ハク?」と大事な采配師の名を呼べば、先程からずっと黙りっぱなしだったハクの肩がビクリと跳ねた。
「……ハク?」
 目が合わない。視線を明後日の方向へ飛ばしたハクはオシュトルの呼びかけに応えることなく小さな声で「その呼び方は止めてくれと言ったのに」と恨みがましく呟いている。
「もしや」
「お察しの通り、そこの名采配師殿のことを勝手にそう呼ばせてもらっている」
 オシュトルの呟きに続けるようにアルダンは答えた。
「何せハク殿は私が采配師になってくれと声をかけても全く靡いてくれず、それどころかオシュトル殿……貴殿以外の采配師になる気はない、つまり貴殿以外の色に染まるつもりがないとまで言い切ってみせたのだ。だからオシュトル殿だけの采配師という意味で、貴殿の着物の色を取って『蒼の君』としたわけでね」
「だからそう呼ばんでほしいとあの時散々言っただろうに!」
「言われはしたが、了承したつもりはないぞ、ハク殿」
 思わず声を荒らげるハクにアルダンがにっこりと微笑んだ。その笑みに込められているのは若者を見守る親のような愛情が半分、そして誘いを断られたのみならず惚気まで聞かされた男の可愛い恨みが半分という具合である。
 ハクがアルダンの誘いを断ったことは知っていたが、まさかこの壮年の武人に冗談半分とはいえここまでさせるとは、ハクはどれほどオシュトルへの想いを語ってみせたのだろうか。想像し、オシュトルは袴の中で尻尾が膨らむのを感じた。
 一方、そんなオシュトルの変化になど気づかぬまま、アルダンはハクに対して更なる攻勢に出る。
「これは単なる蛇足だが、私の軍……特にネリュンとの戦で貴公が振る采配の下で戦った者達が私を真似てハク殿を『蒼の君』と呼ばうようになっていてな。そろそろ帝都で留守番をしていた兵達にもその呼び方が定着し始めている頃かと」
「〜〜〜!?!?!?」
 ハクは最早声もなく、代わりに「なんてことしてくれてんだこのおっさんは!」と琥珀色の目が語っていた。アルダンは己をすげなく振った采配師の様子ににこやかな笑みを浮かべたまま、しかしほんの少し声の調子を変えて「だが」と逆接で続けた。
「その呼び名がこの短期間で定着するほど、ハク殿の采配が卓越していたということだ。貴公なくして此度の戦の早期終結は見られなかったはず」
 からかいを排除した落ち着いた声音にハクもオシュトルもハッとする。二人が「しかし戦の早期終結はアルダンの存在があったからだ」と告げようとすれば、それを察した壮年の武人は先んじて首を横に振る。「私にはあのような奇策、欠片も思いつけなかった」と。
「聖上もそれをお認めになられたからこそ、その采配師と共に戦を収めてみせたオシュトル殿に仮面をお与えになられたのだと、私は思う。仮面を使いこなせる素質を持ち、自身が優秀であるのみならず、その傍らに立つ采配師までもが優秀なのだ。このような男、引き立てぬわけにはいかんさ」
「身に余る光栄だと今でも思わずにはおられませぬ」
「まぁ自分みたいな采配師がついていなくたって、今回、もう一人の方はしっかり仮面の者になったわけだがな」
 ぽつりとハクが零した言葉にオシュトルは「ああ」と頷いた。
 この度の戦で新たに仮面の者となったのは、オシュトルだけではない。ヴライに続き、オシュトルと共に帝より仮面を下賜されたのは、大貴族に名を連ねる生粋の貴人であり、しかし同時に武に優れた鳴神の漢――。
「ミカヅチ殿か」
 アルダンがその名を口にする。
 左近衛府で左近衛中将の地位についていた武人のことはオシュトルもよく知っている。知っているどころか軍に仕官した時期もほぼ同じであり、接点は多くあった。しかも相手は自身が大貴族でありながら、相手が田舎の下級貴族であろうと一般人であろうと、そのような色眼鏡でヒトを見ることがない。ゆえに公言しているわけではないが、互いに好敵手であると思ってきた。その男がオシュトル同様、左近衛大将に昇進し、同時に帝より仮面を賜ったのである。
 なお、ミカヅチ本人曰く、己が大将に昇進するどころか仮面の者にまでなったのは、田舎の下級貴族出身であるオシュトルの活躍を受けて宮中の貴族達がその牽制のための神輿として大貴族たるミカヅチを担ぎ上げたからではないかという思いがあるそうだ。無論、あの聖上が高々宮廷に巣食う豚(ブルタンタ)達の言葉如きで全く適さぬ者を仮面の者にするとは欠片も考えられないが、それでも幾許かの影響はあったかもしれない。敵國の皇の首級を挙げたわけでもなく、ただ単にオシュトルの対抗馬としてのみ大将の位と仮面を授かったのではないか……。強面に似合わず大層真面目な男は僅かばかり釈然としない気持ちであるようだ。オシュトルからすれば、彼は仮面を賜るに十分な素質を持ち、功績を上げていると思うのだが。
「彼も大変だな。根が真面目過ぎるせいで気苦労も多かろう」
「アルダン殿の仰る通りかと」
「彼の実力を知る者からずれば、此度の聖上のご判断は全く不思議でも何でもないのだが」
 壮年の武人の言にオシュトルは心の底から同意する。ハクも同じらしく、うんうんと首を縦に振っていた。
 ハクはオシュトルの采配師であるため間近でミカヅチの活躍を見てきたわけではないが、自身が集めた情報のみならずオシュトルが認める好敵手という点からも件の男の実力を正確に測っているのだろう。
「だがいずれ迷いも晴れよう。今はまだ若いのだから存分に悩むと良い。もちろんオシュトル殿、貴殿もな。そしてそう遠くないうちに二人の名はヤマトの双璧としてこの國中……いや、属國の端、その向こうにまで知れ渡ることとなるだろう。そしてその時は『蒼の君』の名も広まっているやもしれぬな」
「は!?」
 すっかりまだ若い両近衛大将の話題に移ったかと思いきや、いきなり自身の二つ名の話を蒸し返されてハクが驚きに目を見開いた。そんなハクを見てアルダンがにやりと人の悪そうな表情を作る。
「私の兵達にはハク殿の呼び名に関して全く口止めというものをしていないのでな。これから活躍すればするほどその名は広まっていくだろう」
「いやいや、そんなこと……」
「あり得ぬと? そんなはずはない」
 顔の前で手を振って否定するハクにアルダンは苦笑し、更なる否定を重ねてみせた。
 ただしその苦笑はすぐに引っ込められて、オシュトルを一瞥したアルダンは真っ直ぐな視線でハクを射る。
「何せ貴公は若くして数々の武功を立て無官の身から右近衛大将にまで上り詰めた男の隣に唯一立つことを許され、また自身もそれを望んだ、最高の采配師であるのだからな」
「……」
 ハクは唖然とアルダンを見据えていた。が、やがて口の端が持ち上げられる。散々『蒼の君』と呼ばれることを恥ずかしがっていたハクだが、第三者から己が唯一オシュトルの隣に立てる者だと認められ、その顔つきが変わった。
「最高、か。今の自分がそうであるとは言い難いんだが……」
 宝石と同じ輝きを宿した琥珀色の双眸がオシュトルに向けられた。
「こいつの隣に立つ限りは、それを目指したいと思っている。自分は極度の面倒臭がりだと自覚しているが、それでもオシュトルのためなら何でもしてやりたいんでね」
「ハク……」
 圧倒的な歓喜がオシュトルの躰を満たす。
 それは一瞬、傍にアルダンがいることさえ思考の外に追いやって、オシュトルの目にはハクしか映らなくなるほどだった。
「なれば某も其方の隣に立つに相応しい男として在り続けねばな」
「おう。とことんまでついて行ってやるから安心しろ」
 互いにニッと笑い合ったのは自分達を引き合わせ育てた親の影響かもしれない。そうしてアルダンの方へと再度視線を向ければ、壮年の武人はやれやれと頭を掻いて苦笑を零した。
「ふむ……。やはりどうあってもハク殿が私の元で采配を振ってくれる未来はなさそうだ」
 残念がるというよりは最早楽しんでいるようでもある。
「凄惨な戦場ではあったが、ハク殿の采配の下で戦えた我が兵は幸運だったのだろう」
「そう言ってもらえるなら采配師冥利に尽きる」
 答えるハクにアルダンは深く頷いた。
「今後とも貴殿らの活躍を楽しみにしている。右近衛大将オシュトル殿。そしてその唯一無二の采配師、『蒼の君』ハク殿」


 壮年の武人がそう予言した通り、やがて右近衛大将オシュトルの名は左近衛大将ミカヅチと共にヤマトのみならず多くの國々に知れ渡ることとなる。と同時に、オシュトルが唯一傍に置いた采配師の名も。オシュトルのみを主と定めていたことから『蒼の君』と呼ばれるようになったその采配師は、公私ともにオシュトルを支え、末永くその隣に在ったという。







「壱」2016.07.09 Privatterにて初出
「弐」以降2017.03.01〜2017.03.18 pixivにて初出

【捌】における多数対多数の戦闘描写は電撃文庫より刊行中の「天鏡のアルデラミン」という小説(の第Y巻)からお知恵を拝借いたしました。こちらも最高に面白いのでご存じない方は機会がありましたら是非。