「あ、あああああ兄さま大変なのです! ハクさんが……!」
邸に駆け込んできた妹が町の風来坊ではなく右近衛大将の恰好をしている己に向かってそこまで口にしたところで、オシュトルはすっくと立ち上がった。 普段から己を兄と呼ばないよう気をつけている聡明な妹がこの慌て様である。只事でないのは確かだ。詳細は道中で聞くことにし、すぐさまウコンの装いに着替える。 そうして急ぎ白楼閣へ向かったオシュトルは妹が慌てている理由を目の当たりにして息を呑んだ。たとえ道すがら説明を受けていても、それは驚愕せずにいられない状況だったのである。 「アンちゃんがキラキラしてらァ……」 「そうだな。きらきらだな」 遠い目をして答えるハク。 恰好はいつもの白を基調とした異國風衣装である。しかし宝飾品を身に着けているわけでもないのに、ハクが身じろぎするたび小さな宝石が陽光を弾くかの如くキラキラと光が舞った。長椅子に腰かける彼の背後では――おそらくウコン到着前からであろう――アトゥイが興味深そうにハクの髪をサラサラと手で梳き、「ホンマ綺麗やなぁ。真珠のお粉をふりかけたみたいやぇ」と呟いている。 彼女が触れている様子からも、また見た目からも、ハクのあのやわらかそうな肌や髪が宝石の類に変化したわけではなさそうだ。それこそアトゥイが告げた通り、真珠や金剛石を細かく砕いて纏わせたかのよう。しかし指で扱いてもそのような物が付着することはなく、変わらずハクは頭のてっペんから指の先までキラキラと輝いていた。そのまばゆさに反し、とんでもない事態に本人は目が死にかけているが。 「原因が何か判らんが、こりゃ治るまで外にも出せねえな」 「掃き溜めの中の鶴ではなく、溝(ドブ)の中で文字通り輝くハクさん、になってしまいますもんね。ふふっ、これは目立って仕方ない」 顔役の異変ということで、白楼閣の詰所には鎖の巫を除く隠密衆全員が顔を出していた。なお、巫の二人はハクがこうなった原因を探るため、聖廟に一旦戻っているとのことである。 そんな中、詰所に集まった者達の一人であるオウギがウコンの言を受けてぼそりと発した言葉には、軽い口調であったものの、悪目立ちしてよくないものに目をつけられては大変だと純粋にハクを案じる気持ちが含まれていた。姉第一主義のオウギであるが、ハクだけは特別らしい。 「やっぱりそうなるかな。でも体調には問題のないハクをそのまま遊ばせておくというのも……」 隠密衆の財布を握っているクオンが頬に片手を添え、どうしたものかと首を傾ける。彼女の座右の銘は『働かざる者食うべからず』。白楼閣に籠ったままできるような仕事など今のところ無かったはずなので、「新しい仕事を探してこないと」くらいは思っているのかもしれない。ハクが「この状態で仕事……こんな状態なのに仕事か……」と項垂れている。 「流石にネェちゃんはブレねえなぁ」 ウコンは感心したように呟く。このクオンのお金にきっちりした性格のおかげで、今や大所帯となった隠密衆が高級旅籠屋である白楼閣に長期逗留できているのだろう。そしてそれを理解しているからこそハクも強く反対できない。 ただ、やはり訳の判らない状態で一人部屋に籠もり、黙々と仕事をこなしていくというのも大変だと思う。どうにかできないものかと思考を巡らせたウコンは、しばらくして「あ」と声を上げた。 「ウコン? どうした」 ハクがいつの間にか膝に乗り上げてきた幼女もといシノノンの相手をしながらそう尋ねる。幼い少女の目に螺鈿彫りのようなきらめきを宿す爪はよほど魅力的に映るのか、先程からハクの両手はしっかりシノノンの遊び道具になっていた。 ごく自然に少女の相手ができているハクにウコンは一瞬目元を和ませ、次いでニヤリと唇を吊り上げる。 「今のアンちゃんにぴったりな仕事がある」 「げっ」 「ウコン、その話詳しく聞かせてほしいかな!」 対照的な反応をするハクとクオンに苦笑を浮かべ、ウコンは言った。 「ひとところに留まってする仕事だから余計なヒトの目には触れねぇ。だが一人きりで黙々とこなすモンでもなく、同じ部屋で仕事する相手も確保可能。勿論その相手はアンちゃんの事情をよっっっく心得てる奴だ」 「ふむふむ。確かにハク一人じゃさびしいだろうし、怠けちゃう可能性もあるから、見張ってくれる相手がいるのはいいことかな」 「見張りって……そんなに自分は信用ないのか」 同じ部屋で作業する者を見張りと言い換えるクオンにハクのげんなりした雰囲気が濃くなる。だが彼女にとってそんな反応は意味をなさない。綺麗に無視してウコンに話を促した。 「それで、その仕事って?」 ウコンは大仰な仕草で「ああ」と頷き、そして告げる。 「右近衛大将の邸に籠ってオシュトルの旦那の事務仕事の手伝いだ」 「アンちゃんなら絶対できると思ってたんだよなぁ。うんうん、こりゃ楽だわ」 「お前、オシュトルの恰好でその口調はやめろって。ネコネが見たら絶対引くぞ」 オシュトル邸、執務室。 邸の主人の清貧を美徳とする……とまではいかないが、邸を飾って権威を誇示しようなどとは決して思わぬ性格を体現したかのような飾り気のない部屋に、今だけは不釣り合いなほどきらめくものが存在していた。そのキラキラしいもの、もといハクは、満足そうな上司兼親友の様子に半眼を向ける。 「む、失礼した」ごほん、と、わざとらしく咳払いを一つするオシュトル。「ハク殿の予想以上の仕事ぶりに、つい嬉しくなってしまってな」 「そうか? 計算したり、お前が振ってくる話題に答えたりしてるだけだろう? いつもの力仕事より断然こっちの方がやりやすい」 「其方は相変わらず自己評価が低いようであるな」 オシュトルがしみじみと呟けば、ハクは納得いかなさそうに眉根を寄せた。やはり彼はのらりくらりとした普段の生活態度に似合わず自己評価が異様に低い。 帝都に来たばかりの頃は文字すら読めなかったと言うのに、彼はすぐさま読み書きを習得してみせた。そして今は右近衛大将の事務の補佐を十分にこなせている。おまけに元々頭の回転が速く、オシュトル達には考えつけもしないような案をぽんと出す優秀な頭脳の持ち主であり、雑談交じりにオシュトルが少々考え込んでしまう案件について話せば、すぐさまはっとするような意見を返してきた。 改めて、恐ろしいほど良い拾い物をしたと思う。おまけにハクは雇用者と被雇用者の関係だけではなく親友としても心地良くつき合える人柄の持ち主だ。そんな人物が傍にいるというこの時間を喜ばずにいられようか。こんなに楽しく事務仕事ができた記憶などオシュトルにはとんと無かった。 「まぁ雇ってくれてるお前が気分よく仕事できているならそれでいいんだが」 ハクはたとえ疑問を呈しても他者の意見を真正面から否定するような男ではないので、結局、今回もあっさりとそう言い放つ。こちらの意見を認めると言うよりは受け流すその態度に多少残念さを覚えつつも、オシュトルは「で、あるか」と短く答え、止まっていた筆の動きを再開させた。 「おやおや、オシュトル殿。最近宮廷に顔を出される頻度が下がっておいでのようですが、何か変わったことでもございましたかな?」 ハクを邸に滞在させ、仕事を手伝ってもらうようになってからしばらく。彼の有能さゆえオシュトルも宮廷で一人仕事をこなすより、可能な限り机でできる仕事を自邸に持ち帰るようになっていたのだが、たまたま廊下で顔を合わせた殿上人にそう嫌味たらしく言われてしまった。 こんな些事でも文句をつける対象にするか、もしくは不名誉な噂を立てるために使いたいと考えているのか、その殿上人はニヤニヤと下品な笑みを浮かべている。本日もさっさと仕事をまとめてハクと共に自邸で過ごそうと考えていたオシュトルは、突然降ってわいた面倒事に仮面の奥でひっそりと眉根を寄せた。 ただしそれを相手に気取られるほど、オシュトルが帝より『仮面(アクルカ)』を賜る前からかぶり続けた仮面は脆くない。 「いえ、なにぶん邸に仕事を持ち帰った方が捗るようであると最近ようよう判りましてな。これまでより更に國に、民に、そして聖上に尽くすため、効率の良い方法を選んだまでのこと」 「ほほう! それは失敬失敬。いやなに、もしかして民に慕われ、万民を等しく大切に思われているオシュトル殿にもとうとう情人(こいびと)ができたのかと勘ぐってしまいましてな」 「ふっ、そのようなこと。若輩者である某にはまだ遠い存在でしょう」 一瞬、脳裏をハクの姿がよぎったが、彼は殿上人が揶揄した情人や姫妾の類ではない。唯一無二と言っても過言ではないほど貴重で大切な親友ではあるけれど。 (ああ、こんな男の発言一つで我が一番の親友(とも)を思い出してしまうなど、ハク殿に申し訳ないな) 彼のことを考えるなら、もっと心地よい場所で。少なくとも、目の前の性悪貴族の汚い顔を見ながら思い出して良いほど安いものではない。 そんな思考回路に疑問を抱くことなくオシュトルはごく自然にそう考え、頭の中のハクには一時退散してもらう。あとできちんと邸に籠っているであろうハク本人を目にしつつ癒されようと、本人の承諾なしに予定を組んだ。 となれば、更に早く帰りたくなるというもので。 オシュトルは顔の上半分を隠す仮面があっても判る美しい顔でニコリと微笑むと、その笑みに気圧された殿上人が言葉を詰まらせた瞬間に矢継ぎ早に言葉を連ねる。 「申し訳ないが少々急ぎの案件がある故、これにて失礼する。何か火急の用があれば我が邸へ使いをくだされば、すぐにでも対応いたそう。それでは」 折角ハクとの楽しい時間が待っているのに、こんな所になど一瞬たりとも長居したくない。性悪貴族が復活しないうちにさっさとその横を通り過ぎ、オシュトルは先程脳内から一時退散してもらっていたハクのことを思い出しながら口の端をゆっくりと持ち上げる。 「ふふっ、ハク殿にはいつもよくやってもらっているし、今日は少し良い酒を開けてみるか」 そうすればきっとハクが――原因不明のキラキラしているあれも加わっていつも以上に――キラキラとした目を向けてくれるだろう。絶対に、絶対に、美しい。それがオシュトルだけに向けられるのだから、想像するだけで頬が緩んだ。 こうして親友を邸に滞在させ、どんなに仕事が忙しくとも宮廷から帰ればいつでも顔を合わせることができるのは、ハクが外出できない状態になっているからこそ。それはおそらく期間限定で、ハク本人のためにもなるべく早く解決した方がいい問題である。 しかしオシュトルはその遠くない未来が少し惜しい。白楼閣を訪ねずともいつもハクが傍にいてくれる状況はとてつもなく心地よいのだ。 (いっそハク殿が一生あのままであれば) そうしたらずっと自分が彼を囲っておけるのに。 などという自分勝手な夢想をして、それは駄目だろうと頭を振る。だが魅力的な夢であることに変わりはなく、オシュトルはもう少しだけ夢想を続けた。 下世話な話題に上るのは業腹だが、そんな噂をされるような位置にハクがいてくれたなら。己の隣に立ち、微笑み、手を握るハクの姿はあまりにも甘美で、髪の合間に隠した耳が震える。 「情人など微塵も要らぬが、」 ――ただ、ハク殿がほしい。 その言葉はまだ声に出すべきではないような気がして、オシュトルはそっと口を噤んだ。 2016.06.30 Privatterにて初出 |