そして貴方はいなくなる




《壱》


 完全な仮面(アクルカ)の力に呑み込まれ、歪な神と化したウォシス。願いは何かと問う彼の声に答えてしまえば、金を欲した男は全身を金塊に変えられ、すでに死した両親に会いたいと泣く子供はその幻影に誘われて山に迷い込み、どうせ死ぬなら愛しいヒトと一緒にと願った女はドロドロに溶けた躰で自身の恋人の肉を溶かし文字通り一つとなった。そして「生きたい」「死にたくない」と、生物として当たり前に持っている望みを答えてしまった者は、おぞましい姿をしたノロイ≠ヨと変えられ、ヒトとしての形も知性も失った。
 ヒトの願いを歪んだ形で叶えてしまう、歪んだ神。それを前にし、オシュトルの仮面を被ってこれまで戦ってきたハクもまた無意識のうちに願ってしまったのである。
 ――もしオシュトルが生きていれば、と。
 そして願いは叶えられた。
 死んだ者が死ななかった時間を作り出すために。
 無論、その願いに見合う代償を支払わされる形で。


《弐》


 男の『仮面の者(アクルトゥルカ)』は代々短命。帝より仮面を賜りし者達にとってそれはごく当たり前の事実だった。
 仮面の者は自らの魂を削って仮面から天外の力を引き出す。その姿を異形のモノへと変じ、強大な力を揮う機会の多い男の仮面の者は、当然のことながら支払う代償も大きかった。ゆえに彼等は若くして魂をすり減らし、最後には塩となってこの世から消え去るのだ。
 オシュトルもまた仮面を賜った当初よりその覚悟はできており、この國のため、帝のため、そして民のために己の魂を削ることを厭わず、力を揮い続けた。だがやがてオシュトルは奇妙なことに気付く。他の仮面の者に比べてどうやら己が支払う代償は少ない……否、全くと言って良いほど無いということに。
 それは同時期に仮面を賜ったミカヅチの状況と比べればはっきりと理解できた。彼の話を聞くに、仮面の使用に伴う魂の摩耗はある程度知覚できるのだという。己が身を削って天外の力を得、護るべきものを護るために戦えていることを、その感覚と共に知る――。この高揚感は計り知れないと、ミカヅチは同じ感覚を得ていると信じて疑っていないオシュトルに語った。
 その場ではオシュトルもミカヅチの言葉に頷いたものの、実際にはそんな感覚など得たことはなく、内心では酷く狼狽させられた。オシュトルはそんなものを知らない。魂を削る感覚を知覚したことなど一度もない。けれどこれまで十分に力を発揮できていないなどといったことはなく、双璧と並び称されるミカヅチと比較しても、また帝都で最強の矛とされるヴライと比較しても、決して劣らぬ戦果を残していた。
 自身の魂の摩耗を知覚できないほどオシュトルが鈍いだけなのか。それとも他の仮面の者より少ない対価で大きな力を引き出すことができているのか。自分と他者の差を知った時にはしばらく悩んだものだったが、やがてオシュトルは一つの結果に達する。仮面の者であれば当然のように知覚できるはずの魂の摩耗を感じない。それはやはり支払う代償が少ないということ。ならば己はより多くの機会により強い力が揮えるということではないか、と。
 幼い妹を残して自身が早世する恐れもひっそりと身の裡に隠し持っていたオシュトルは、自身の不思議な特性に気付いて以降、秘めていたその恐怖すら消し去って國に尽くし始めた。
 戦っても、戦っても、戦っても、オシュトルの魂は削れない。すり減らない。強大な力に対する代償をオシュトルが支払うことはない。
 護るために力を揮い続けることができるこの現実を、オシュトルは歓喜を持って受け入れていた。
 それは『ウコン』となってクジュウリから帝都へ、帝への献上品の護衛任務についた時も同じく。クジュウリの西方シシリ州にある集落で、後にオシュトルの隠密衆――そして懐刀になる青年と出会った時も、オシュトルは己が事実上の代償無しに仮面の力を使えるのだと、何の疑いもなく思っていた。


《参》


 トゥスクルよりヤマトへとやってきた少女クオンがクジュウリで保護した青年は、色々なことが足りない≠ミとだった。
 まず記憶がなくて名前もない。自分達『ヒト』のような耳と尻尾がない。体力がない。そしてハクと名付けた彼には味覚までなかったのだ。
 気付いたのは非常に苦い薬を煎じて飲ませた時。それまで随分と食事の際に淡々と食べるひとだとは思っていたのだが、ハクはたまらなく苦い薬でさえ食事の時と同じ調子で飲み干してしまった。
 味が判らないのかと尋ねたクオンにハクはあっさり是と頷き、おそらく眠っている間に失ったのだろうと独りごちる。
 保護した青年の異常事態に動揺していたクオンは――それこそハク本人には言わなかったが、己が間違った手順で彼を目覚めさせた≠スめに、記憶と一緒に五感の一つも奪ってしまったのではないかと後悔したのである――、記憶を失っているはずのハクの口から『眠っている間に』という単語が出た矛盾に気付くことができなかった。
 動揺の理由も話せぬまま慌てふためくクオンにハクはへらりと笑って「別に構わんさ」と告げる。
 味覚がなくても生きていける。それにきっと五感の一つが欠けたのは、その喪失そのものが必要だったからなのだろう、と。
 そう、たとえば誰かが何かを得るための代償として、ハクの五感の一つが欠損したのかもしれない。もしくは代償としてハクの何かが削られた結果、味覚の消失として表に現れたのかも。
 あまりにも簡単に、それでいてどこか嬉しそうにハクが言うものだから、クオンはたまらない気持になって顔をしかめた。眉間に力を入れなければ今にも大きな瞳が潤んでしまいそうになったのである。
 どうして、と少女は問うた。それが本当ならどうしてハクが誰かのために貴方の何かを支払わなくちゃいけないの、と。すると青年は陽だまりのように暖かでやわらかい笑みを浮かべ、
「自分が望んじまった未来のため……かもな」
 全てを忘れているはずなのに、全てを知っているかのような瞳でそう答えてみせた。


《肆》


 鎖の巫(カムナギ)。そう称される双子の少女達がクジュウリを訪れたのは、クジュウリ皇の居城として使用されている遺跡にて新たに発掘された遺物の確認と、当該区域そのものの確認及び(必要であれば)封印のためだった。
 任務を終えて帝への献上品である遺物と共に帝都へ向かう途中、帝都からの迎えの隊と合流する予定となっている集落にて、彼女達は偶然にも『彼』を見つけた。
 彼こそが自分達のただ一人の主。永遠に終わらぬ輪廻を断ち切ってくれる救い主。その存在に気付いた時、少女達の頬は熱を持ち、今にも心臓が飛び出しそうなほど胸が高鳴った。
 圧倒的な歓喜に包まれ、けれども次の瞬間、少女等は愕然とする。自分達の唯一の主となるはずの彼の魂が酷く摩耗していたのだ。
 特別な力を持って生まれた彼女達は他者の魂を知覚することができる。二人の目が捉えたのは、穢れを浄化し再び空へと還す大地の色をした魂。二人にとって何よりも美しいと思えるもの。それなのに、美しいはずの魂は酷くすり切れ、弱々しい光を放っていた。
 魂がこれでは、おそらく肉体的にもすでに異常が出ているはず。まだ目に見える異常――たとえば手足の欠損等――は確認できないものの、別のところで終焉が始まっているのは確実だった。
 唯一の主との出逢いと同時に彼を失う未来をも知った彼女等は、たとえようもない悲しみに襲われた。何人たりとも立ち入ることを許されていない車の中で二人は互いを抱き締め合いながら涙する。どうして、どうして。何故わたし達の救い主が、あの御方が、己の魂を削らねばならないのか。
 何かの代償として主の魂が削り取られているのだと彼女達は早々に理解していた。それがこの世界の理に則ったことであることも。
 しかし悲しみは治まらず、彼女達は目が腫れるほどに涙を流し、それを頭からかぶった外套で隠して主の前に姿を現す。今にも消えそうな魂を見るのはつらい。つらいけれども、心が求めるそのひとの傍に侍らぬという選択肢など最初から選べるはずもなかったのだから。


《伍》


 クジュウリ皇の末姫ルルティエが帝都への道中で出会った二人の男女、ハクとクオン。ハクの方が年上なのだが、クオン曰く彼女がハクの保護者であるらしい。記憶もなく雪山を彷徨っていた経緯や頼りない体躯、優しいのだがどこか浮世離れした雰囲気の青年にそれも仕方のないことかと思う。
 だがそれでもハクとて立派な成人男性だ。記憶がなくとも頭は回るようで、更には胆力もある。ルルティエも直接口に出すことはなかったが、クオンのハクに対する行動はいささか過保護に過ぎるように感じた。
 クオンは常にハクの傍にあり、彼を案じ、彼に不便が無いよう取り計らおうとする。それはまるで病人を看護する者のようでもあり、彼女と友達になったルルティエはしばしば首を傾げる羽目になった。
 その疑問が解けたのは出会いから随分と時間が経った後。ハクを顔役として、クオン、ルルティエ、ウコンの妹であるネコネが右近衛大将オシュトル配下の隠密衆となり、そこへ更に仲間が加わって大層賑やかになってきた頃のことである。
 隠密衆の拠点として長逗留している白楼閣の一角、宿泊客用の厨にて、ルルティエは時折ハクと共に甘味の試作を行っていた。そこで生み出された甘味は仲間達のみならず白楼閣で働く女子衆や町のヒトにまで人気で、すでに一部は作成方法をハクから教わった菓子屋が帝都名物として大々的に売り出しているほど。
 しかしその日は珍しく、甘味ではなく同日夜に予定されている宴の酒菜を用意するため、ルルティエだけでなくハクも厨に立つこととなった。どうやら先日、ウコンと飲みに出た先で食べた料理が大層美味く、そのウコン本人からまた食べたいのだがここで作ることはできないかとハクに打診があったらしい。
 男友達に料理を強請られて作ってしまう線の細い男性ばんざい……! とルルティエが胸の内で歓喜の涙を流したかどうかはさておき、周囲に小花を飛ばしかねない勢いで彼女はハクと共にひたすら手を動かしていた。
 その最中にふと気付く。料理に慣れているルルティエは専用のはかりを使わずともほぼ正確に計量できることもあり、調味料を目分量で投入して味見をしながら微調整を行っていた。しかしそれとは対照的に、ハクはどの料理に関しても最初にきっちり分量を量って調理し、味見を一切しなかったのだ。
 一度食べただけの料理を再現しようとしているのだから、その一品だけでも味見をした方が良いのではないだろうか。余計なお節介かもしれないと思いつつ、やっぱり「アンちゃんこれ美味ぇわ!」とハクに笑いかけるウコンを見たかったルルティエは、「ハクさま、どうぞ」と言って味見用の小皿を差し出した。
 それを見たハクは、
「ああ、すまん。自分は舌が莫迦になっちまってるから味見をしても判らないんだ」
「…………え?」
 申し訳なさそうに眉尻を下げ、ハクは小皿を受け取らない。
 ルルティエはきょとんとハクの目を見た後、それからじわじわと顔を青褪めさせた。
「ハクさま……それって」
「今まで話さずにいて悪かった。わざわざ言いふらすことでもないと思って……。ルルティエの料理がすごく美味いってことは知ってるぞ? 見た目も匂いも最高だからな。ただすまん。味ばかりは判らなくてな。自分でも本当に勿体無いとは思う」
 すまないな、と謝罪を繰り返すハクにルルティエはふるふると首を振った。ハクがそんなことで謝る必要はない。むしろ今までハクが抱える異常に気付けなかった己を恥じた。
「だからクオンさまはハクさまにああも構っていらっしゃったのですね。思えば、料理も見た目や香りを重視されていらっしゃるようでしたし」
「ああ、あれはなぁ……」ハクが頬を掻きながら苦笑した。「少し……いやかなり過保護だよな。そんなことまでしてもらわなくたって、自分は結構楽しく過ごせてるつもりなんだが」
 本心では嫌がっておらず、むしろその気遣いには感謝しているのだろう。それでもクオンが保護した男のために手間をかけ、心を砕くことに、ハクは申し訳なさを感じているようだった。
「ルルティエには今まで通りに接してほしい。変に気遣われる方がこっちも疲れる。な?」
 頼むよ、と告げるそのひとにルルティエは頷くことしかできない。一体自分にそれ以外の何ができたと言うのか。
「ああ、そうだ。代わりにルルティエが味見をしてくれないか。味が判ってた頃の経験と、あとは匂いと見た目からある程度は上手くできるはずなんだが、やっぱり誰かに確認してもらった方が良いだろうし」
「は、はい……わたしでよろしければ」
 そう言って小皿に料理を分けてもらうと、ルルティエはハクの手によるそれを口に運ぶ。「おいしいです」と答えた彼女にハクはやわらかく微笑んだ。ルルティエはハクとウコンが食べた料理の味を知らなかったが、きっとこれと同じ味がするのだろう。ハクの見事な特技をすごいと褒め称える前に、涙が出そうになるほど悲しかった。
「ハクさまのこと、ウコンさまには……」
「言わなくていい」
 当たり前のようにハクが答える。ルルティエは優しい響きのそれに耐えられなくなり、「すみません、少し」と囁くように告げて厨を飛び出した。
 ゆえに、知らない。
 残されたハクが困ったように頭を掻いた後、目を閉じて小さな囁きを発したことなど。
「あいつは知らなくていいんだよ。……自分が何を、どれだけ、代償にしてるかなんて」


《陸》


「あやや。クオンはんて、おにーさんに対してすごく過保護やのに、時々こうして頭ぎゅーってするんよねぇ」
「まぁあれはあれで仲が良い証拠なのかもしれませんが」
 とても痛そうです、と青い顔で呟くキウルの視線の先にはクオンの白く美しい尻尾で頭をギリギリと締め付けられるハクの姿。痛い痛いと叫ぶハクの声に紛れて、骨が軋む音さえ聞こえるような気がする。これがしばらく続いた後、怒りを鎮めたクオンがはっとして慌てて尻尾を緩めるのだが、基本的にそこまでやりきるのがお馴染みの流れだ。尻尾による制裁が中断されることはほぼない。どうやらハクを大切にしたいのはクオンの本心なのだが、怒りや羞恥がある一定の値を超えると辛抱たまらなくなって手が出る……前に尻尾が出てしまうらしい。
 キウルと共にクオンの『お仕置き』の現場を目撃してしまったアトゥイははんなりとした空気を崩すことなく微笑む。時折本気で骨の軋む危ない音が聞こえてくるのだが、ハクの悲鳴はどこか演技染みている。つまり実際には大したこともないのだろう。キウル程度なら騙されてしまうようだが、戦場に立つ経験の多いアトゥイにはそれが判った。
 この仕置きが済んだらおにーさんと一緒に飲みに行こうと勝手に決めて、アトゥイはその場を去る。ハクと飲みに行くならハク本人に伺いを立てるのではなく――強制的に連れて行くからだ――、皆のご飯を作ってくれるルルティエに話を通す必要があった。彼女に今日の夕飯は要らないと言っておかなければ、余計な手間をかけさせる羽目になる。
「今日はどこのお店に行こかなぁ」
 うふふと微笑み、アトゥイの足はルルティエの部屋へ――……向かいかけ、けれども結局は一旦自室へと向かう。
「念のためやぇ」
 そう呟いて自室に取りに戻ったのは傷薬。悲鳴に混じって聞こえた音や、あの尻尾の下にできているであろう締め付けの跡を思えば、どうにも放って置けそうにない。
 ハクにとってあれは全然痛くないようではあるのだが――。
「まさか、なぁ……」
 戦場では時折あるのだ。
 必要だから。そうならなくては、大切なものを護れないから。
「おにーさんが、痛みを感じないひとだった……やなんて、そんなはず」
 だってここは戦場じゃない。こんなにも平和で楽しくて暖かい場所なのに。


《漆》


「トゥスクルまで保たんかもしれんな……」
 ふいに聞こえた呟きにオウギは足を止めた。
 シャッホロ皇の娘アトゥイに連れられる形でウズールッシャまで赴いた隠密衆。その任務もひとまず終了し、陽も落ちた現在は天幕を張って、見張りを除く皆が各々就寝までの時間を好きに過ごしている。
 ハク率いる隠密衆の一員ではあるものの、かねてより別口でオシュトルから直接仕事を受けることもあったオウギは、今回もウズールッシャとの戦に伴い、別働でこの地へ遠征していたオシュトルの元に顔を出してきたばかりだった。
 誰にも気付かれることなく外から戻ってきたオウギは、焚火から離れた暗がりで星空を仰いでいるハクを見つけた。先程の呟きは彼が発したものであるらしい。
 オウギは気配を殺したままその背後に忍び寄り、初めての戦場≠終えて気が抜けてしまっていると思しき顔役に話しかける。
「何が保たないのですか?」
「っ、その声はオウギか……。驚かすなよ」
 ビクリと肩を跳ねさせた後、ハクが振り返ってオウギをジト目で睨み付けた。期待通りの反応にオウギはニコリと笑みを浮かべながら「申し訳ありません」と慇懃無礼な態度で一礼する。
 オウギが神出鬼没なのは今に始まったことではないため、ハクがわざわざどこに行っていたのかと問うことはない。また問わずともある程度予想はついているはずだった。何せ彼はノスリにも知らせていないオウギとオシュトルの繋がりをすでに知っているのだから。
 案の定、
「またあいつと悪巧みでもしてたのか」
「おや、人聞きの悪い。僕があのヒトと悪巧みをしたことなんて今まで一度も――」
「じゃあ言い方を変えよう。こっちに厄介事を持ち込む算段でもしてたのか?」
「ははは。まぁ厄介事と言うより、単に明日は帝都に帰還せずこの地で敗残兵がいないか確認する作業に回ってほしい、とのことなのですが。正式な依頼は明朝、文で届けられるそうですよ」
 オウギがあっさりと告げれば、ハクはがくりと肩を落とした。次いで「ホントあいつは人使いが荒い……」と独りごちる。それもハクが優秀だからこそだとは、今は言っても嫌味にしかならなさそうなので、オウギも口を噤んだ。
 代わりに話題をハク関連へと転換する。
「それでハクさんはどうされたのですか? 貴方らしからぬ弱気な呟きだったように思うのですが」
「まるで自分がいつも強気な態度でいるように聞こえるな」
「強気……とまではいきませんが、貴方が何かを面倒臭がることはあっても、怖気づくことは今まで一度も無かったと記憶していますよ」
「……」
 ハクがしかめ面で唇を引き結んだ。この件に関して反論はないようである。
 オウギはハクの隣に並び、先程まで青年が見上げていた空を仰ぐ。本来であれば帝都よりも多くの星が見られたことだろう。しかし今オウギの目の前に広がっているのは、三分の一ほどが赤々と染まる空だった。
 そして赤く染まっている方向にはウズールッシャとの戦で陥落した属國マルルハの町がある。敗者となり、あまつさえ人質を取られ剣奴(ナクァン)としてヤマトに敵対するよう強いられたマルルハの民が暮らす土地。そこを焼き払ったのは、ヤマトの八柱将が一人ヴライだった。
 ヴライ本人が本陣へ退いた後もその炎は鎮火することなく町を焼き続けており、その炎の色がこうして空に映し出されているのである。
「……あまり長く見ていたい色ではありませんね」
「色、か……」
「ええ。赤は好きです。姉上の髪色でもありますから。しかしこの空を染める赤は……僕は一生好きになれそうにない。あんな町もヒトも焼き尽くす炎なんて」
「そうだな」どこかゆったりとした声音でハクは頷いた。「お前とノスリの髪の色なら自分も好ましく思えるが、あの男の炎は――……」
 最後まで言い切ることなくハクは口を閉じる。
 自分でもらしくないことを言ってしまったと、口にした後で思ったオウギは、揶揄するでもなく静かに同意を返したハクに唇をほころばせた。こういうことができるひとだから、自分はここから離れられないのかもしれない。
 薄く笑みを浮かべたオウギが空から視線を外し、隣に立つハクの横顔を見つめた、その時。
「……でも、ああそうか」
 空を見上げたままハクが呟く。
「この空は今、赤いのか」
「…………え?」
 思わず青い眼を見開いてオウギはハクを凝視する。深い琥珀色を宿した双眸は確かに空を見上げていた。瞳には赤く燃える空が映り込んでいる。
「ハクさん……? いや、そんな。でも貴方、まさか目が」
「ああ」こちらを向き、ハクが両目を細めて笑う。「色が判らなくなった。形も曖味にしか見えてない」
「いつから。いつからですか!」
「今日の夕刻くらいかな」
「何故そんなにも平静でいられるんですか。すぐにクオンさんを――」
「いや、いい」
「しかし!」
「無駄なんだ」
 にこにこと幸せそうに笑ったままハクは告げた。
「無駄? 無駄とはどういうことです」
「これは大事なものを護るために自分が差し出した代償だ。願いは叶えられたのにその対価を支払わないなんて理に反するだろう?」
「貴方は一体何をしたんですか」
「言っただろ? 大事なものを護ってる」
「それなら僕達もお手伝いしますから、貴方一人で背負う必要なんてないはずでしょう!」
「背負う必要があるから背負ってるのさ。神様ってのは予想以上に性格最悪で、随分と悪趣味な真似をしてくれるらしい」
 ――アイツの代わりにガリガリと魂を削るのは構わんが、そのせいで五感が欠けるなんて面倒過ぎて仕方ない。というか明らかにこの『オマケ』は悪意の産物だろう。
 というハクが胸中で零す呟きがオウギの耳に届くことはなく。どういうことだと顔をしかめるオウギにハクは眉尻を下げて言った。
「嘘も己が地獄に落ちるまで貫き通せば真実となる。そう言ったのはお前だったよな? なあ、オウギ。手伝ってくれないか」
「貴方の目が正しく見えていると皆さんに思わせるよう嘘を吐け、と?」
「ついでに自分の手助けもしてくれると有り難い。……返答はすぐでなくていい。どうか考えておいてくれ」
 言うだけ言ってハクはオウギに背を向ける。とてもではないが、その足取りは目が不自由な者とは思えない。それだけ彼は本気なのだ。
「ハクさん……」
 自分達の顔役の背を見送ってオウギは彼の名を呼ぶ。優しい嘘はきっと彼の護りたいものを傷つけないためのものなのだろう。
 けれど。
「優しさでもヒトは傷つくことがあるんですよ……?」
 残念ながらオウギの落としたその声が届いてほしいひとに届くことはない。


《捌》


 旧人類の遺産を、そしてタタリと化した同胞を救済する使命を引き継いでほしいと願った兄に対し、弟は即答を控えた。無理もあるまい。目覚めて、失っていた記憶の多くを先日ようやく取り戻せたばかりなのだから、戸惑うこともあるだろう。
 そう思い、すぐに答える必要はないと兄たる老人は付け足したが、未だ青年の姿をした弟は僅かな逡巡の後、言った。
「自分が見つかる前に、遺産の後継者にしようと作った命があるんじゃないか?」
「……」
「やっぱりな。自分が遺産を引き継いだら、そいつはどうなる。役目を取り上げられてハイそうですかと納得するような奴なのか? 言っとくが、いざこざに巻き込まれるくらいなら自分はこの件から手を引くぞ」
「むう……」
 青年――ハクには明かしていなかった『息子』の存在を言及され、老人ことヤマトの帝は呻き声を上げる。「何故判った」と尋ねれば、「ほのかさんとチィちゃんに似せたひとを作るくらいなんだから、兄貴があんた自身の複製体(クローン)かはたまた自分の遺伝情報を使ったデコイか……その辺を作り出す可能性ってのも考えられないわけじゃないだろ」と返される。
 ハクの言う通りだった。ただしその響きはよく知る兄の思考をトレースしたと言うよりも、あらかじめ知っていたことを口にしただけ、という雰囲気がある。
 そんなまさかな、と帝は心中で呟いて、円卓の対面に座す弟をひたと見据えた。
「確かにあれは私の複製体だ」
「弟が見つからなかった場合の後継者にするための?」
「いや」
「兄貴?」
 首を横に振る兄に弟は怪訝な顔をする。帝は苦笑した。この弟は永い眠りのせいでシステムの根本的な規則を忘れてしまっているようだ。もしくは解った上であえて尋ねているのか。
「言ったであろう? 儂が作り出したのは儂の複製体……。忘れたわけではあるまい。情報保護の観点から、通常複製体にシステムの管理者権限が与えられることはない。管理者権限を持つ者が複製体に準管理者としてある程度の権限を与えることはできるが……それでも人類の遺産を全て引き継ぎ、使用できる権限は彼奴には与えられぬよ」
「……そういやそうだったな」
「最上位管理者権限のレベル5に対し、私が彼奴に与えたのはシステムの規定レベルでの運用とメンテナンスが可能なレベル4まで。それ以上はたとえ儂が望んだとしてもシステムそのものが許可しない」
「じゃあなんで減数分裂を用いた我が子じゃなく、わざわざ兄貴の複製体なんて作ったんだ。遺産を引き継がせるつもりじゃなかったのか?」
「私が死ぬなら、後継者を欲することもあっただろう。だがな、お前が現れるまで儂は己が死ぬなどと考えておらんかったのじゃよ。私が死期を悟ったのはお前が現れたからこそ。若い姿のままのお前が……この世界で最初にして最後の希望であるお前が現れてようやく、私は自分の役目も終わりだと気付いたのだ」
「つまり最初から複製体を作ったのは、後継者にするためじゃなく、あんた自身の補助をさせるためだった、と?」
「ああ、そうなるな。だがその考えも彼奴の成長を見守るうちに消えてしまってな。彼奴には儂が課した役目に縛られることなく、好きなように生きて欲しいと願うようになっていったのだ」
「……そのこと、本人に説明したことは?」
「はて、そう言われてみれば……どうじゃったかな」
「……はぁ」
 何故か弟に半眼で見られた。おまけに「だから中途半端な知識だけ与えられて自分が後継者だと思い込んで暴走しちまうんじゃねぇか」と、うんざりした表情で呟いている。
「もしや彼奴がお前に何かしたのか?」
「したって言うか、これからするって言うか……」
 ハクの答えは歯切れが悪い。彼の中にある『話せないこと』を誤魔化すように、ハクは「ともかく」と少し口調を強めにして言った。
「後継のことは考えておく」
「おお! そうか」
「あと一応言わせてもらうが」帝の言葉を半ば遮るようにしてハクが続ける。「弟が現れたせいで兄がもうすぐ死ぬだとか、そういう自己申告されて喜ぶ人間になったつもりはないぞ、自分は。ここまで生きたんだから、あと数百年くらい生きても誰も文句は言わん。存分に生きてくれ」
 弟が早口で告げたその台詞に帝はきょとんと眼を瞬かせる。それからじわりとその意味を解し、「ほっほっ」と笑って満面に喜色を浮かべた。
「そうじゃのう。手を尽くせばあと数百年くらいこの意識を保たせることも不可能ではなかろうて」
 ここには別の肉体に意識の上書きをする技術もある。今己が使っている肉体を使用し続けることに固執しなければ、己が弟と共に生き続ける未来もないわけではなかった。
 兄の答えに弟も一応の満足はできたようで「そうそう」と頷いている。素っ気なく見えて実はとても家族思いな弟の様子に帝は胸の奥がほっこりと温かくなるのを感じた。
「というわけで、自分はそろそろ帰る。後継のことはちゃんと考えておくから、兄貴の方は自分の複製体にしっかり事情説明しといてくれよ。そいつが大事なら、時にはつらい現実だって隠さず見せてやるべきだ」
「そうじゃの……」
 席を立ったハクに合わせ、帝も車椅子を操作しながらこの地下空間と地上を繋ぐエレベーターへ向かう。
 今日は弟の言葉に色々と考えさせられた。可愛い我が子だからこそ『彼』には教えていないことがたくさんある。しかし明言はされなかったものの、どうやらそれが原因で実の弟に少々被害が及んでいるらしい。ならば隠し続けることのデメリットにも目を向けねばならないだろう。
 ただし。
「少し時間をもらっても構わんか?」
「……余程そいつが大事か」
 弟は兄の思いを正確に読み取ってくれたようだ。
 大切だからこそ、きっと『彼』を絶望させてしまう真実を容易く口にすることはできない。「しょうがない兄貴だな」との弟のボヤキに、兄は苦笑するしかなかった。
 ――それがどんな悲劇を招くかも知らず。


 玉座の後ろにある隠し通路から地上へと出た兄弟は、念押しのように後継者の件をまた少し口にしてから各々の場所へ戻った。そのやり取りを、地下で散々話題にした『彼』に聞かれていたと気付くことはない。
「わざわざ摘める芽も摘まずに自分の寿命を縮めるつもりはないからな」
 兄と別れた弟はぽつりと呟く。
 あの男の暴走を止めることができれば、自分の親友が命を削って力を揮う未来も消えてなくなるはず。そうすれば代償を支払っている己とて、もう少しばかりこの日々を続けられるはずだった。
 だがほんの少しの気の緩みにより、兄を説得して危機を回避しようとした弟の願いが叶うことはなく。
 世界の歯車は決して抗えぬ力によって回り始めていた。


《玖》


 唐突なヤマトのトゥスクル侵攻、そして帝の暗殺及び姫殿下の暗殺未遂。大波に翻弄される小舟の如く、オシュトルは濡れ衣により投獄され、そしてトゥスクルから急ぎ戻ってきた隠密衆によって姫殿下共々助け出され――……今度はその彼等を護るために強敵と対峙していた。
 八柱将であり、またオシュトルと同じく仮面の者でもある武人――豪腕のヴライ。オシュトルを帝暗殺の犯人だと思い込まされ、怒り狂ったままここまで追ってきたヤマト最強の矛。
 先の戦いによりだいぶ体力は削られていたが、悪条件はオシュトルとて変わりない。むしろ救出されるまでに受け続けた拷問はオシュトルを酷く弱らせ、今でさえ立っているのがやっとのほどだった。
 しかしここで引くわけにはいかない。ヴライの目的はオシュトルだ。そのオシュトルが仲間と共にいれば、彼等に要らぬ被害が及ぶ。
(無論、ただで負けてやる気もないが)
 僅かにだが勝算もある。危機的状況なのは違いないが、オシュトルもハク達と生きる未来を諦めたわけではなかった。
(だがヴライが追ってくるならば、やはりあの時、ハクの言うことを聞いてとどめを刺しておけばよかったやもしれぬな)
 天守での戦いの折、動けなくなったヴライにハクはとどめを刺そうとした。それを止めたのはオシュトルだ。情けをかけられたとヴライが憤慨することは目に見えていたが、奪わずともよい命を奪う必要はないとオシュトルはハクを説き伏せた。
 その結果が『これ』であるならば、やはりハクの方に先見の明があったということなのだろう。この失敗を挽回するためにも己は生きて彼等の元へ帰らねばならない。
 オシュトルは改めてそう決意し、ヴライとの戦いに挑んだ。
「仮面(アクルカ)よ、扉となりて根源への道を開け放て!」

* * *

 やはり兄が心配だと車を飛び出していったネコネを追いかけ、ハクもまた走り出す。
 その口元に浮かぶのは諦観と苦笑。「やっぱりこうなるのか」と疲れたように呟いて、もうかなり機能しなくなりつつある視界に桃色の髪飾りをつけた少女の背を捉えた。
「ま、いいか」
 これが自分の願いの果てにある世界なら、それで。

* * *

 仮面の力を使ったオシュトルとヴライの戦いはまさに死闘と称する他ない、苛烈を極めるものだった。
 だがそれでもオシュトルは希望を見出す。元の体力は随分と削られていたが、オシュトルは他の仮面の者と異なり、力を引き出す際の負担が非常に少ない。皆無と言っていいほどである。ゆえにどれだけヴライが猛攻を続けようとも耐えられる自信があった。そして仕掛けられる攻撃の合間にできた隙を狙い、己の拳をそこへ撃ち込む。
『決シテ貴様ニハ負ケヌ! ヴライ!!』
 一進一退の攻防は続く。
 だがヴライも自身の命を欠片も残さず使い切っても構わぬとばかりに仮面を通じて力を引き出し、オシュトルを圧倒しようと攻撃を繰り返す。そのせいでオシュトルが決定打を放つことはできない。
 オシュトルは自ら隙を作ってわざとヴライに攻撃させ、その隙を突く戦法へと切り替えた。だが実行に移そうとした、直後。
「兄さま!!」
 ここにはいるはずのないネコネの声。そしてネコネが放った決定打にならない″U撃によりヴライの躰がぶれ、結果、オシュトルが放った攻撃はヴライに当たらずにその背後へと擦り抜けてしまった。
 オシュトルとの戦いに水を差されたヴライはすぐさま邪魔者――ネコネへと視線を向ける。赤い眼光は苛立ちと殺意に満ちていた。身が竦んで動けないネコネを、おそらく車から飛び出した彼女を追って来たであろうハクが身を挺して庇おうとする。しかしヴライの攻撃をひと一人の躰で防げるはずがない。
 オシュトルは覚悟を決めた。いくら仮面の使用に自覚できる負荷がないとはいえ、ヒトの身が酷く傷ついている今の状態でこんなこと≠してしまえば己もただでは済まないだろう、と。
 しかし動き出した足は止まらない。ネコネとハクに向けて攻撃を放とうとするヴライの前にオシュトルはその身を投げ出す。ハクもネコネも死なせない。この二人を失って自分が生き延びたとしても、それはオシュトルにとって何の価値もない未来なのだから。
「兄さま!!!!」
 自分達の代わりに攻撃を受ける兄の背を見つめ、ネコネが悲鳴を上げる。それでもオシュトルは更に力を求めた。この二人を護れる力を。何を差し出してもいい。己の魂全てを使い切っても、二人を護ってみせる。
『仮面ヨ! 我ハサラニ求ム! 我ガ魂ヲ喰ライテ、天元ヲ越エシ天外ノ力ヲ示セッ!!』
 ヴライから受けた傷が治る。全身に力が溢れる。気分が高揚する。
 だが魂が摩耗していく感覚はない。オシュトルは『モットダ!!』と力を求めた。もっと、もっと。二人を護り切れる力を。
 ハクとネコネを背に庇い、オシュトルは溢れ出る力でもってヴライに再度挑みかかった。残り少ない命を全て仮面に差し出す勢いで力を揮っていたヴライはその迫力に気圧される。オシュトルの力はあの傷ついていた男が揮えるようなものではなかった。それこそひと一人の命をそのまま使い切るような勢い。……否、魂の摩耗を感じる者であれば本能的に歯止めをかけてしまうはずなのに<Iシュトルの力の使い方はそれすら感じさせないものだった。
『キッ、貴様ァァァ! 何故……ッ!』
 圧倒される。己が負ける。
 それを悟った次の瞬間、致命傷を喰らったヴライはそのまま深い谷底へと落ちていった。


 ヒトの姿に戻ったオシュトルはすぐさまハク達の元へ駆け寄った。
 仮面から力を引き出した結果、人型の傷も癒えたらしく、躰はなんの痛みも訴えずオシュトルの望むままに動く。「ハクッ、ネコネ!」と声を上げれば、ハクに肩を抱かれるようにして庇われていたネコネがその腕の中から飛び出してきた。
(あ、ハクが)
 飛び出すネコネの勢いに押され、ハクが呆気なくころりと地面に転がる。自分よりずっと幼い少女にもいいようにされるとは、本当にハクは体力も膂力もない。
「兄さま!!」
 ひしと兄に抱きつき、兄さま、兄さま、とまだ幼い少女が涙を流す。ハクの非力さに肩の力を抜きつつ、オシュトルは仮面の奥の双眸を細めて「心配をかけたな」と妹の頭を撫でた。
 ネコネは兄に助力するつもりが却って邪魔をし、危機に陥れてしまったことを深く悔いているようで、どれだけオシュトルが宥めようともまだしばらくは泣き止みそうにない。ただし涙が止まらないのは兄が無事に戻って来てくれたことへの喜びもあるのだろう。「ごめんなさい」に次いで「ご無事で良かったのです」と涙まじりに繰り返していた。
 妹に慈しみの目を向けたオシュトルは、それから彼女を追いかけ身を挺して護ろうとしてくれた親友を視界に捉える。ハクはまだその場を動いておらず、ネコネに押し退けられた時のまま地面に転がっていた。力の抜けた体勢は、今にも「あー疲れた。もう無理。動きたくない」とでも言い出しそうである。
 仮面の者同士の戦いに巻き込まれて死ぬ思いをした後ならば、そうなってしまうのも仕方のないことかもしれない。何せ彼は戦に直面したのもウズールッシャの件が初めてだと言うような男だ。ただしそうは言っても今この場で彼がこちらへ駆け寄って来ないのは、何よりも兄妹の邪魔をしたくないと考えているからではないだろうか。
 だがオシュトルにとってハクは今までなかったほど己に近しい存在である。今更そんな風に遠慮されても座りが悪いことこの上ない。ネコネに「な? オシュトルは大丈夫だって言っただろ?」と不躾に言って脛を蹴られたり、オシュトルに「無茶をするな」「心配させるな」と怒って謝罪を求めてくれたり、何でもいいから彼なりのやり方でこちらに関わってほしかった。
 妹の頭を撫でる手はそのままにして、オシュトルは「ハク」と親友の名を呼ぶ。そうすればきっと面倒臭がりな親友はのそりと怠そうに起き上がり、「だからあの時、ヴライにとどめを刺しておけと言っただろう」等の悪態を吐きながら深い琥珀色の双眸にオシュトルを映し出してくれるはずで――
「……………………ハク?」
 ハクが起き上がってこない。ネコネも気にかかったようで、小首を傾げながら「もしかして打ち所が悪かったですか」と若干顔を青褪めさせる。
 いや流石にハクも少女に押し退けられただけで気絶までするはずが……と思いつつ、心配になったオシュトルは彼女の頭から手を放してハクの方へと歩み寄った。
「ハク、そろそろ起き上がってくれねばネコネも心配して……」
 親友へと向けられていた微笑が強烈な違和感を覚え、ピシリと音を立てて固まる。
 地面に寝転がったままのハクの目は両方とも開いていた。だがその双眸には何も映っていなかったのだ。
 オシュトルが空へ向けられるその目に映ろうとハクの傍らに膝を折り身を乗り出しても、己を見下ろす仮面の男に焦点を合わせる気配はない。硝子玉のようにあるがままを反射するだけ。
「……ハ、ク?」
 唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
「ハク……ッ、ハクッ! ハクッ!!」
「うるさいぞー。叫ばんでも聞こえてるって」
 硝子玉のような目のままハクが眉間に小さく皺を寄せた。ようやく返された反応にオシュトルはほうと息を吐き出す。
「ハ、――」
「随分と声が近いんだが……。オシュトル、お前、そこにいるのか?」
「……っなにを、言っている」
 ハクの視界にオシュトルは映っているはずだった。だがハクはそんな問いを発し、次いで息を呑むオシュトルの気配に「ああ、いるんだな」と独りごちる。
「その様子じゃ、どうやらお前もネコネも無事らしい。ははっ、よかったよかった」
「ハク、其方一体何を。いや、その様子……もしや目が見えておらぬのか」
 思わずハクの躰を抱き起こして上半身を己の胸に寄りかからせる。ハクの躰からは力が抜けており、くにゃくにゃとされるがままになっていた。
 ハクの顔は相変わらずこちらを向かない。深い知性を感じさせるあの目が自分を見ないだけで今にも心臓が凍りつきそうな心地がした。
「目は……ああ、そうだな。今が月も星もない夜じゃないとすれば、完全に見えなくなったらしい」
「……ッ!」
「どうして!」遅れて駆け寄ってきたネコネが兄の反対側に両膝をついて叫んだ。「どうして目なんか見えなくなってるですか! さっきまでわたしと一緒に兄さまの戦いを見ていたじゃないですか!!」
「そうだなぁ。途中までは見えてたんだが」
「じゃあ何故! あっ、もし見えないなんて冗談で兄さまをからかおうとしてるなら許さないのですよ! 足を蹴るだけじゃ済まさないのです!!」
「痛いのは困る……。だが、残念ながら嘘じゃないんだよな、これが」
 オシュトルの腕の中で躰を完全に弛緩させたままハクが呟いた。皮膚を通して伝わってくる頼りない感覚にオシュトルはまさかと顔色を失くす。
「ハク……もしや其方、目が見えぬだけでなく、躰も動かぬのか」
 だから起き上がらなかったのか。だから顔を相手に向けることすらしないのか。こうしてオシュトルにされるがままになっているのか。
 問いかけるオシュトルに対し、ハクがふっと口元に弧を描く。
「と言うか、たぶんそろそろ――」
 ハクが言い切るより早く、オシュトルの腕にあった重みが突然ごっそりと失われた。
「……………………ぁ」
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
 腕に抱いていたハクの躰が急に軽くなったのだ。元々軽い男ではあったが、冗談では済まない軽さになる。
 恐る恐る視線を下げると、ハクの腹の辺りが大きく抉れている。布地が陥没し、そこにあったはずのものが消失してしまったことを示していた。
「ハク……これは何の冗談だ?」
 尋ねても、ハクは薄く笑ったまま答えない。
「ハク、頼むハク、答えてくれ。これは……この状況は何なのだ。某は其方とネコネを護れたはずではなかったのか」
 お願いだから教えてくれと懇願するオシュトルにハクはようよう口を開く。僅かに動いた唇にオシュトルが耳を澄ませて発せられる言葉を待てば、
「本来ならあり得ないことを……あってはならないことを、願った。……これが自分の運命(さだめ)だ。だから、これでいい」
 もたらされたのは説明の言葉でもこの状況を打開するための言葉でもない。
 それはただ最期を迎えるためのもの。
「ハク……待て、ハク。待ってくれ」
 オシュトルが聞きたいのはそれではない。最期なんて迎えたくない。
 親友を支えていたはずの手にザラザラとした塩の感触が感じられるようになり、それを必死に頭の外へ追い出しながらオシュトルはひたすらハクの名を呼ぶ。
「ハク、某は――」
「お前に出逢えて……お前と、お前達と、一緒にいられて……本当に楽しかった」
 盲(めし)いた目に辺りの景色を反射させながら、まるで白楼閣にいた時の光景を見ているかの如く、本当に楽しそうに、心から愛おしそうに、ハクは告げる。
「これ以上一緒にいられないのは残念だが……まぁ、お前が生きていてくれるなら、それでいいさ」
 望みは叶った、と音もなくハクの唇が動く。
 その意味をオシュトルが尋ねる前に、ハクは陽だまりのような笑みを浮かべて、

「後は頼んだぞ、オシュトル」

 逝ってしまった。


《拾》


 オシュトルがネコネと共にエンナカムイへ辿り着き、まず最初にしたことはハクの死を告げることだった。
 失意のクオンは元々彼女の持ち物であったはずの大事な鉄扇すら受け取らずこの地を去り、残った者は沈痛な面持ちでエンナカムイを護る頑強な城門の奥へと入っていく。
 彼等の背を見送りながらオシュトルは茫然と立ち尽くしていた。実際の所、どうやってここまで辿り着いたのか、そして皆にハクのことを何と説明したのか、記憶が定かではない。ただ淡々とありのままを話したように思うのだが……さて、どうだったのだろう。
 そんな立ち尽くすオシュトルにすいと近寄る影があった。白い肌と褐色の肌という違い以外は全く同じ姿をした双子の巫、ウルゥルとサラァナである。ハクを主と仰ぎ慕っていた彼女等が目の前に現れたことで、オシュトルはようよう口を開いた。
「何故ハクがあのようなことになったのか、巫様方はご存じであられるのでしょうか」
「肯定」
「発端は判りかねますが、仕組みは理解しております」
 そう答える彼女達の顔に表情は無かった。人形めいた美しい顔でじっとオシュトルを見つめている。……否、睨み付けている。
 巫達の顔には長時間及び大規模な術の行使に伴う疲れが滲んでいた。おそらくオシュトルが到着する直前まで臥せっていたに違いない。しかし万全とは言えぬ体調であっても彼女達は起き上がり、ここに来た。
 オシュトルを睨み付ける双眸は疲労も合わさってやけにギラついている。そこに込められた感情はこちらに対する嫌悪か憎しみか……と思ったものの、どうやら一番大きな感情はそれではないらしい。
「悔しい」
「わたし達は全て承知しておりました。主様の置かれた状況も、悲劇を止める手立ても。しかしわたし達には何もできなかった。我が身の破滅こそ主様が唯一お望みになられたことだったからです」
「ハクが唯一望んだことだと……?」
 あれが? あのように自らの形すら失くして命を奪われることが?
 オシュトルの瞳は困惑に揺らぎ、その心情を表すかのように一歩後ずさる。
「正確には、破滅は代償」
「主様が真に望まれたのは、我が身が破滅しても護るべきものを護ること」
 だが巫達は容赦しない。淡々と隠された真実をオシュトルの眼前に曝け出す。
「これは我等の我侭」
「あなたに真実を告げることを、きっと主様は望んでおられないでしょう。ですがわたし達は自らの意思であの御方に従い、あの御方に尽くしてまいりました。あの御方に尽くすこと自体、我々の望みであり、我侭でした」
「だから今度もその我侭を通す」
「聞いてください。知ってください。我らが主の願いとその結果を」
「やめ、て、くれ……」
 酷く嫌な予感がした。心臓が早鐘を打ち、彼女達の言葉を聞くなと頭の中で声がする。『それ』を知ってしまえば、己は正気ではいられない。
「我等は同胞が欲しい」
「共に悔やみ、共に嘆き、あの御方の名を叫ぶ。あなたはその一人目であらねばならない」
 いつも無表情だった双子が泣き笑いのような顔を浮かべる。
 悔しくて悲しくて申し訳なくて、けれども誰かを自分達と同じ所にまで引き摺り下ろすことに悦を感じる、どうしようもない姿。
 オシュトルは逃げ出すことも耳を塞ぐこともできず、ただその場に立ち尽くした。聞くな、知るな、と頭の中で声がするのに、胸の奥から聞かねばならない、知らねばならない、と叫び声が上がる。彼女達と同じ所に落ちなければ、己は『彼』に寄り添えない。
 後ずさることも忘れたオシュトルの姿に双子は両目を細めた。それは少し、彼女達の主の笑い方に似ている。
「躰が塩と化すのは仮面を通じて力を求めた者の定め」
「根源への扉を開き、力を得るには、必ず代償として魂を差し出さねばなりません」
「しかしあなたにはそれが無かったはず」
「それはあなたの身代わりになる存在がいたから。……では、誰が代わりに力の代償を支払っていたのでしょうか」
 双子がオシュトルに歩み寄った。左右からオシュトルの袖を引き、膝を付かせる。そうして耳元に顔を近付け、決して他者に聞こえぬよう潜めた声で交互に告げた。
「護ろうとして、護られていた」
「あなたは誰かを護るために力を欲したのでしょう。しかし主様はそんなあなたを護るためにご自身の魂すら差し出されました」
「そう」
「つまり」

「「あなたの望みが主様を殺したのです」」

 あなたのことを恨みはしない。それがあの御方の望みだったのだから。
 けれど知ってほしい。どうしてと泣き叫んで。置いて逝かれた我が身を嘆いて。
 そんな双子の巫の願いを正確に理解し、オシュトルは地に膝をついたまま天を仰いだ。
「某の望みがハクを殺したのか……」
「肯定」
「あなたが死地へ向かわせ、わたし達が見殺しにしました」
 これからもっとそのお話をいたしましょう、とサラァナが告げる。どうやら彼女が語るべきハクの話はまだまだあるようだ。
 オシュトルは静かに頷いて立ち上がる。どれだけ胸に穴が穿たれようと、心臓に爪を突き立てられようと、己は彼女等の話を聞かねばならない。ハクの願いが彼に何をもたらしていたのか、何をどんな風に奪っていったのか、その全てを。
 一歩、前へ踏み出した。その先に何があってもオシュトルはもう歩みを止めることなどないだろう。
 視線の先に佇む城門はまるでオシュトル達を呑み込むように暗い穴を覗かせていた。







2016.10.22 Privatterにて初出(タイトルは「《仮題》代理消滅」でした)