ハクは自分が選ばれない側であると重々理解しており、そして選んでほしかったという感情を隠すことには嫌と言うほど慣れている。隠すことの上手さに関しては想い人のみならず実の兄にさえ悟らせず、それはつまり誰にも気付かれないことと同義であった。
 そのはずなのに。
「アンちゃん、どうした?」
 帰宅して開口一番、本来ならば「おかえり」と出迎えたハクに笑顔で「ただいま」と告げるはずのウコンは、眉根を寄せて心配そうにハクの頬をそっと右手で撫でる。廊下に突っ立ったままハクは突然のそれを拒絶することもできず、ただ唖然と「は?」と発するのみ。一瞬、何を言われたのかすら判らなかった。
「なにが……だ?」
「何って。嫌なことでもあったのかぃ? 顔色あんま良くねェぜ」
 左頬だけでなく右頬にも手を添えてハクの顔を覗き込むウコン。その瞳に嘘は見えない。心からハクを案じているように感じられた。
 けれどそれも偽り。足元に転がっていた石ころがどう反応するのか、気まぐれに観察しているだけに過ぎないのだと思い出せば、熱が集まりかけていた頬も急激に冷めていく。
「アンちゃん……、ハク?」
 ウコンの眉間の皺が深まった。
 それだけで心臓は跳ねるし、同時に胸が苦しくなる。ウコンに全くその気がなくとも、ハクにとって彼は救い主であり、そして現在進行形で想い人なのだから。
 騙されていたと憎む気になど到底なれず、また怒りも湧かず。ただウコンが好きなのだという気持ちと、決して報われないという揺るぎない事実に悲しみが募る。救われた身として『出会わなければ良かった』とは思わないが、それでもウコンが、オシュトルが、テレビや雑誌の中だけの人物であれば、こうも苦しい思いはしなかっただろう。
 ハクはその苦しみを僅かでも吐き出すかのように小さな吐息を零し、意識して気の抜けた表情を作る。
「別に何もないって。それよりお前の方が疲れてるんじゃないか? 朝からドタバタしてこんな時間まで仕事だったんだし。いいからさっさと風呂入って飯食って休め。な?」
「……む」
「ウコン?」
「おう。あと風呂は飯の後でいいや」
 ウコンは納得いかないという表情で、けれども彼が抱いた違和感の正体を掴むこともできず、頷いて家の奥へ足を向ける。「りょーかい」と答えたハクはその背に数歩離れて続きながら、分厚い手が離れた頬に両手で触れた。
 与えられた熱を拭い去るように軽くこすり、「そう言えば」と話しかける。
「今朝、スマホ忘れてっただろう。テーブルの上に置きっぱなしだった」
「あ、やっぱそこだったかぁ。スマン、アンちゃん」
「いいって、自分は何もしてないし。次は忘れないようにしとけよ?」
「おう」
 振り返って一瞥してきたウコンの顔には屈託のない笑み。好きだなぁと思うのと、作るのが上手いなぁという感想。それが同時に襲ってきて、ハクはウコンの見えない所で拳を握り締めた。

* * *

 夕飯を食べ、ウコンが風呂を済ませてリビングに戻って来ると、そこにハクの姿はなかった。
 昨夜ハクが寝転がっていたソファに深く腰掛けて自身のスマートフォンをいじる。着信履歴を見てみれば、ミカヅチが言っていた通りマネージャーからの連絡が入っていた。
 あの後ミルージュからの連絡を受けて現場に戻ってきたマネージャーはオシュトルの前に両膝を折って崩れ落ち、「もうどうなることかと……!」と涙声で安堵してみせた。これまでオシュトルが連絡もなく遅刻や欠席をしたことはなく、またマネージャー自身も責任感が強く真面目な人物だったため、相当神経をすり減らしたのだろう。悪いことをした、と素直に思い、頭も下げた。
 けれど申し訳ないと思う一方で、仕方がないのだと言い訳したい気持ちもある。何せ今まで生きてきてこれほど他人に心乱されたことなど初めてだったのだ。
 ハクという存在がウコンを、オシュトルを、そしてその世界を、鮮やかに塗り替えていく。これでもかと乱してきて、しかしウコンはそれが全く嫌ではない。むしろハクにならもっと世界を、己自身を、塗り替えてもらって構わないと思う。それはつまり、ウコンがハクの傍に居続けられるということだから。
 そんな特別な存在であるハクの様子がおかしい。
 当人は何もないと言っていたが、ずっと見ていたから判る。自身が演じることに慣れた者であるから、というのも理由の一つだろうが、何よりもハクのことが好きだから、判る。絶対ハクに何かがあった。
 一瞬、昨夜のことがバレたのかとも考えたが、どうにもそれが原因ではないように思われる。別の何か。おそらく今朝から今晩までの間に起こったこと。しかし寝坊してバタバタしていたせいでウコンとハクの間に特異な何かがあったとは考えにくい。ならばウコンが不在の間に、ハクにとってよくないことが起こったのか――。
 突如、思考を巡らせるウコンの手の中でスマートフォンが震えた。スリープモードが解除され明るくなった画面にはミカヅチの名前が表示されている。
 ウコンはハクがすでに自室に引っ込んでいるのを確認してから電話に出た。
「ミカヅチ殿、このような時間に如何(いかが)した」
『すまんな。今、電話は大丈夫なのか』
「問題ない」
 オシュトルとは違い、ドラマの撮影の後に別の仕事が一本入っていたミカヅチ。おそらくそれが終わった後で連絡してきたのだろう。しかし連絡をもらう理由が思い当たらない。はて飲み会の誘いだろうかと考えるオシュトルだったが、
『お前も暇ではないだろうから単刀直入に訊く』
 真剣な声にその想像を捨て去る。「ああ」と答えれば、ミカヅチは一拍も置くことなく尋ねた。
『同居人にウコンとオシュトルが同一人物だと伝えたか?』
「いや、まだだが。……急に何事か」
『……ということは。そうか』
「自分一人で納得しているようだが、当事者らしい某に説明はないのか」
 そう尋ねつつも嫌な予感がして鼓動が妙にはっきりと感じ取れるようになる。手のひらには汗が滲むのに、スマートフォンを持つ手の温度が指先からじりじりと下がっていくような気がした。
『慌てるな。ちゃんと説明する』
 オシュトルの変化を電話の向こうで感じ取ったのか、ミカヅチがなだめるように告げる。しかしオシュトルの緊張感は抑えられるどころか酷くなるばかりで、まったくもって効果がない。
 ミカヅチは焦りや不安を極力省いたいつも通りの声音で続けた。
『今朝、お前が遅刻してきただろう? その際、心配したマネがお前に連絡を入れた。泣きそうな顔で駅に迎えに行くと叫んでいたのだが……お前はスマホを家に忘れていたんだよな?』
「ああ」
『ならばマネからの電話に出たのは誰だ?』
「…………、」
 心臓が止まったかと思った。
 ぼんやりしていた『嫌な予感』が明確な形を取り、帰宅からずっと感じていたハクへの違和感の理由に到る。手が震えるのに、指先はスマートフォンに張り付いているかのよう。
『どんなに演じることが上手くとも、それが演技だと知られれば効果は激減する。下手をすれば欲しいものとは逆の感情を向けられるぞ』
「ッ、すまぬミカヅチ。連絡、感謝する」
『礼はいい。さっさと行け。こちらも連絡が遅くなってすまなかった』
「かたじけない」
 ウコンは早口で告げるとガチガチに固まっていた指先をスマートフォンから引き剥がして立ち上がる。向かう先はハクの部屋。当人が寝ているかもしれないと遠慮していられる余裕など一欠片とて無かった。

* * *

「アンちゃん、ちょっといいかぃ」
 自室の扉がノックされ、続いてウコンの声がする。
 照明も点けずに暗い部屋でぼんやりとパソコンの前の椅子に座っていたハクは、隙間から僅かに廊下の灯りが漏れる扉へと視線を向けた。
「……ウコン?」
「ああ、よかった。まだ起きてたか」
「起きてはいたが……何の用だ?」
 椅子から立ち上がりもせずにそう尋ねる。声だけはなんとか取り繕うことができたものの、扉を開けて迎え入れるほどの気力はなかった。鏡を見ていないので詳しいことは判らないが、きっと顔色もあまり良くないだろう。一目でウコンに不調を見抜かれたくらいなのだから、そうに違いない。
「ちぃと話したいことがあるんだが、時間をもらえねぇか?」
「話したいこと……」
 ぼそりと独りごちる。
 ウコンが話したいこととは何だろうか。顔を合わせた際にふとしたタイミングで言葉を交わすことはあったが、こうしてわざわざ相手の部屋を訪ねて話をしたいなどと言い出すことは、互いに今まで一度もなかった。個人の時間や空間というものを無意識に尊重しようとしていたのかもしれない。
(もしくはそこまでするほど相手に興味が無かったか)
 胸中で呟けば自嘲の笑みが零れる。
 ともあれ、これまで二人の間には無かったパターンだ。そしてそれが起こったということは、明確な変化のしるし。
「自分が気付いたことに気付いたってところかね」
「アンちゃん?」
 扉越しではこちらの呟きがよく聞こえなかったのだろう。少し不安げなウコンの声がする。
 ハクが真相に気付いたのは『オシュトルのスマートフォン』にかかってきた『オシュトルのマネージャー』からの電話をハクが取ってしまったこと。マネージャー本人は通話相手がハクだと気付いていなかったようだが、オシュトルが彼から連絡をもらったのだという事実を知れば、他人が電話を受けたことくらい直に判るはず。そして『オシュトルのスマートフォン』が置かれていたのはハクの家。この家にはハクしかおらず、つまりハクがマネージャーの言葉から何を知ったのか、オシュトルが知ることとなる。
 ウコンはどうする気なのだろう。こちらで遊んでいたことを謝ったりするのだろうか。
(あの超大物が? こんな何もない一般人に?)
 有り得ない、とハクは笑った。道の端に転がっていた石ころを蹴飛ばして謝罪する人間がいるだろうか? いないだろう。それに元々謝ってもらう必要などない。ハクが彼に礼を告げるならばまだしも。
 となると、隠し事が明らかになり面白味がなくなってしまったこの関係を解消すると宣言されるのだろうか。その可能性が一番高いな、とハクは思った。一度は綺麗なヒトの目にとまったものの、結局、石ころはまた道の端に戻されるのだ。
 そして、それでいいのだろう。これは偶然にも一瞬だけ交わった道のおかげでハクが救われた、そんなさみしくて少しだけ幸せな話だったというだけのこと。
(好きだなんてぶっちゃけるわけにはいかんが……ま、礼を言うくらいはしたいよな)
 そう思えば少しだけ動く気力が湧いてくる。
 椅子から腰を上げたハクは静かに扉へ向かう。一歩踏み出すたびに足がもつれそうになったが、それには気付かないフリをした。
 扉は施錠していないので、開けようと思えばいつでも開けられる。しかし廊下側にいるウコンは律儀にハクが扉を開けるのを待ってくれて――
「ッ、アンちゃんすまねぇ! ちゃんと話さにゃならんことがあるんだ!」
 ハクが部屋の灯りを点けてウコンの前に出るより先に、痺れを切らした同居人によって扉が乱暴に開かれる。廊下からの光が瞳孔を刺し、暗さに慣れていたハクは目を眇めた。
「ちょ、ウコ――」
「アンちゃん……なんで部屋の電気点けてねぇんだ」
「っ」
 胸に抱える暗い部分を指摘されたような心地がしてハクは言葉に詰まる。いくら嫌なことから目を背けて綺麗な言葉だけを並べようとしても、まるでこの部屋を満たしていた闇のようなそれ≠ェ存在している事実は変わらない。
(だって仕方ないじゃないか。自分は馬鹿みたいにこいつが好きで、でもこいつは自分の手が届くような相手じゃなくて、それどころかきっと――)
 笑ってくれたのも、声をかけてくれたのも、触れてくれたのも、きっと全部遊び。ただの気まぐれ。
 頭の中でそれを言葉として思い浮かべるのさえ厭わしく、ハクは唇を噛んだ。こっちは真剣で、向こうは冗談。悔しくないはずがない。しかしウコンが部屋の灯りを点け、その表情までもが容赦なく彼の前に晒される。
「アン……ちゃん……?」
「話、だよな。できればこの部屋じゃなくてリビング……いや、お前の部屋でも構わんか」
「えっ、お、おう」
 ビックリしつつもウコンは頷く。いきなり話をするならウコンの部屋がいいと言い出した家主に驚くのは当然だろう。が、おそらくもう間も無く彼が出て行くのを見送るしか術のないハクにとって、自室やリビングで真実を全て白日の下に晒す行為――つまり己の惨めさを痛感する行為――などしたくなかった。
 何故ならウコンが去った後もその記憶はハクを苛み続けるだろうから。どうせ受け取るしかない嫌な記憶ならば、使わない部屋に押し込めてしまえばいい。そしてその部屋を存在しないものとして、ハクはまた元の生活に戻るのだ。
 ウコンと共に彼の部屋へ向かう。同居を始めてから初めて入った部屋はきちんと整頓されていて、豪放なウコンよりもオシュトルとしてのイメージの方が強かった。
 ハクをどこに座らせるのかウコンは少々迷った後で、ライティングデスクに付属の椅子を勧める。彼自身はベッドに腰かけた。
「……で、ウコン。話って何だ?」
 なけなしのプライドが声を取り繕わせる。先刻とは異なり、あまりにもハクの様子がいつも通りだったせいか、ウコンの目が見開かれた。だが自身が言っていた通り話をすることの方が重要だと判断し、一度深く息を吐き出してから姿勢を正す。
「アンちゃんに言ってなかったことを言おうと思う」
「たとえば本当の名前とか?」
「……ッ」
 ハクがこっそり驚くくらいウコンの肩が顕著に跳ねた。バチリと音がするほど目が合ったウコンは次いで視線を下げ、「ああ」と頷く。
「やっぱアンちゃんは知っちまったのか」
「すまんな。探る気は無かったんだが……」
「いや、スマホを忘れてった俺が悪い」
 ウコンが遅刻などしなければ、ハクが真実に気付くこともなかっただろう。いつか終わりが来るとしても、もう少しだけ優しい夢を見られたはず。しかし最早それを言っても仕方のないことだ。ハクは知ってしまったし、ウコンも知られたことに気付いた。
 これで、全部おしまい。
「かなり本気で驚いたぞ? だがまぁよく見れば同一人物なんだよな。髪を乱して髭をつけただけで、こうも判らなくなるもんなのかね」
「一応こちとら役者だからな。これで飯食ってんだから、それなりに雰囲気とかも変えられらァな。ま、一番は先入観のおかげなんだろうが」
「ははっ、確かに。まさかテレビで見ない日はないってくらい有名な俳優が自分の家のすぐ傍で泥酔したまま転がってるなんて思わんだろうな」
「あれは……返す言葉もねえ」頭の後ろを掻きながらウコンは続ける。「だがこうしてアンちゃんに受け入れてもらえてほっとしたぜ」
「……」
 ウコンにはハクの態度がそう見えたらしい。なんだかウコンの方がハクに捨てられずに安堵しているような感じだ。実際は真逆の立場なので、それはあまりにも奇妙なことだったけれど。
 ハクの沈黙を肯定と受け取ったウコンが肩から力を抜いた。そして腰かけていたベッドから立ち上がり、ゆっくりとハクの方へ近付く。
「じゃあ俺がオシュトルだってバレたついでにもう一つ。アンちゃんに伝えたいことがあるんだが」
「ほほう。これ以上自分に何か言いたいことが?」
「言いたいっつーか、まぁ、なんだ」
「ウ、コン?」
 ハクの目の前まで歩み寄ったウコンがその場に膝をつく。両手をそっと握られハクは誰の目にも明らかに狼狽えた。
 己がオシュトルであると告げて、それで彼の遊びは終わるはずではないのか。それがまだ続く? 楽しかったぜそれじゃあさようなら、とウコンが告げて、自分はそれを見送って。それでしばらくの間テレビや雑誌をまともに見られなくなったりして。そういう結末を迎えるのではなかったのか。
 全く予想し得なかった展開にハクが目を白黒させていると、ウコンはじっとこちらを見上げ、やがて照れ笑いにしか見えない表情を浮かべた。
「最初、ちゃんと俺がオシュトルだって言えなかったのは、あの<Iシュトルが酔っぱらって一般人に保護されたなんて醜聞を生み出すわけにゃあいかなかったからなんだが、それとは別にもう一つ理由があってな」
 ハクの手を握る力が強くなる。
「一目惚れしたんだ。俺が目を覚まして最初にアンちゃんが笑ってくれた時、惚れた。あン時は自覚もできてなかったんだがな。でも判らないなりにもこのままアンちゃんと繋がった縁が切れちまうのは嫌だと思った。ただし自分がオシュトルだなんてバレたら、アンちゃん絶対引いただろ? そんできっと俺とアンちゃんの関係はそこで途切れてた。だから俺はウコンを名乗った。自分がオシュトルだなんて正直に言えなかった」
 まるでドラマの主人公のような台詞だった。
 両手の甲にしっかりと他人の熱を感じながらその言葉を聞いていたハクは、だからこそ怒りに震えそうになる声を何とか平常通りになるよう抑えて口を開く。
「一目惚れ? 他人をからかうのも大概にしろよ」
「は?」
 目を点にするウコン。
 流石は役者。まるで真実を告げても信じてもらえなかった男のような顔だ。遊ばれている方としてはたまったものではないが。
「だから。いい加減、自分で遊ぶのはやめてくれって言ったんだ」
「遊び? アンちゃんは俺が言ったこと全部冗談か何かだと思ってんのかぃ?」
 ウコンの語気が鋭くなる。それに対抗するかのようにハクもまた声を荒らげ始めた。
「だってそうだろう? そうじゃない方がおかしい。自分には何もない。誰かに選んでもらえるようなものなんて何も! そんな人間に、よりにもよってお前のような奴が惚れただって? なんだそれは。逆ならまだしも、そんなのは有り得ない。ふざけるのも大概にしろ!」
「ふざけてんのはそっちだろうが!!」
「!?」
 突然立ち上がり叫んだウコンにハクは息を呑む。間髪を容れず胸倉を掴み上げられ、はずみで椅子が音を立てて倒れた。
「おまっ、なにす――」
「嘘じゃねぇし冗談でもねぇ! ましてや遊びなわけが……ッ、遊びであってたまるか!!」
 至近距離でハクを睨み付ける双眸はギラギラと怒りに輝いている。激昂。まさにその表現が相応しい。演技でも何でもなく本物をさらけ出してウコンは怒っていた。
「俺の想いを否定すんな!!」
「否定もなにも!!」
 しかしハクも引かない。引けない。ウコンの胸倉を掴んで叫び返した。
「本当のことだろうが! 自分とお前はそもそも住む世界が違う! 次元が違う! そんな相手が言った言葉の何を信じられる!? 演技じゃないって言える!?」
「……ッ!」
 出会って初めて声を荒らげたハクにウコンさえも息を呑む。だがハクの怒りは収まらない。いや、これは怒りではなく悲しみなのか。その区別もつかないままハクは叫んだ。
「お前みたいな全部持ってる%zがどうしてこんな何も持ってない£jに惚れるんだ!? 一体どこに惹かれる要素がある!? 言えるもんなら言ってみろ!! 証明できるもんなら証明してみせろ!!!!」
 滅多にしない――むしろおそらく人生で初めて――の激憤にハクは肩で息をする。だがウコンを睨み付ける視線だけは逸らさない。ウコンからどんな反論が来ても全部否定して突き返す気でいた。
 しかし。

「全部だ」

「はあ?」
 ハクの胸倉を掴んでいた手が外され、代わりにもう一度両手を包み込んでくる。ギラギラと怒りに満ちていた蘇芳色は落ち着きを取り戻し、少し前までハクに向けられていたのと同じかそれ以上に親しみのこもった視線がハクを優しく撫でていった。
「俺はアンちゃんの全部が好きだ」
「お前は、何を」
「アンちゃんが言えって言ったんだぜ? どこが好きなのかって」
「……は」
 ウコンを掴み上げていたハクの手が緩む。そのまま重力に従って落ちるかと思いきや、ウコンの方に引っ張られて指先にくちづけが落とされた。
「なっ!?」
「と言うか気付いたら好きだった。さっき言った通りたぶん一目惚れなんだが、自覚したのは最近でな。知らん間に好きになってて、気付いたらアンちゃんの何もかもが良いものにしか思えなくなってた。まぁそれも普通のことだろ? 好きなヒトはどんなところも好きに見えるって。だから、全部。俺はハクの全部が好きだ。アンちゃんが笑うとな、周りの空気までキラキラ輝いて見えるんだ。まぁこれは初めて言葉を交わしたあの朝からそうだったんだが……さっきも言った通り、きっと俺ぁアンちゃんの笑顔に惚れたんだろうな」
「笑顔に惚れたって……」
 信じられないし、有り得ない。首を横に振り、音もなくそう告げるハクにウコンは微笑みかけた。愛しい愛しいと、蘇芳の目がうるさいくらいに語っている。
「普通に考えて有り得ないってか? じゃあそれってつまり運命ってことじゃねぇの? 俺がアンちゃんに惚れることは最初から決まっていた。だからアンちゃんが笑っただけで……たったそれだけで、世界が変わって見えたんだ」
「ッ!!」
 蓬髪髭面でも何らマイナスにはならない、極上の笑み。余裕があれば「イケメン俳優の本気」だ何だと言えたかもしれない。だがハクは言葉を失い、呼吸すら一瞬止まって、躰を硬直させた。
「そん、な、わけ」
「ある。俺はアンちゃんに、ハクに惚れてる。だから嘘を吐いてでも一緒にいたかった。この手を――」ハクの手がぎゅっと強く握り直される。「――この手を、離したくなかった。アンちゃんの傍にいられるなら何だってしようと思った」
「……っ」
 ない。そんなことは有り得ない。
 ハクは何度も何度も首を横に振り、ウコンの言葉を否定する。だがウコンは根気強く「俺はアンちゃんに惚れてるよ」「ハクが好きだ」と繰り返し、指先に唇を落とした。
 それがしばらく続き、
「アンちゃんは俺が有名な俳優サマだから、自分みたいな一般人は相手にされるはずがない……それこそ俺の遊びか冗談じゃなけりゃ、って思ってんだよな?」
 睦言を止めて、問いかける。それまでに繰り返された言葉のせいでいっぱいいっぱいになっていたハクは思わず頷いてしまった。
 ウコンがニカッと歯を見せて笑う。
「じゃあその立場がなけりゃ、アンちゃんは俺の言葉を信じてくれんだな。しかもアンちゃん、その顔からすると別に俺に好かれてんのが嫌って感じでもなさそうだし」
「え?」
 驚くハクの手をウコンが放す。そして彼が向かったのは部屋の外。
「え、ちょ。ウコン?」
 反射的にその背を追いかければ、ウコンは足早にリビングへと向かい、テーブルの上に置きっぱなしになっていた己のスマートフォンを手に取った。そして踵を返しキッチンへ。
「本当はへし折っちまえばそれが一番判りやすいんだが、このメーカーのは丈夫なんだよなぁ。ま、カバー外して水没させりゃあ……」
「待て待てちょっと待て! お前、スマホをどうするつもりだ!?」
 水道のレバーを上げて水を出し始めたウコンをハクは慌てて止める。同居人の手には彼のスマートフォンがしっかり握られていた。あれが壊れてしまえばオシュトルの仕事に差し支える。
「あン?」ウコンはハクを振り返って無邪気とも言える笑みを見せた。「こいつを壊すんだよ。そうしたらもうマネージャーから連絡は来ない。この家の住所は誰にも教えてねえから、俺がスマホを壊してここに籠もっちまえば誰も俺を見つけられねえ。つまり俳優オシュトルは廃業ってワケだ」
「はあ!? おま、そんな、予定に入ってる仕事は。俳優業は」
「要らねえよ」
 ウコンは即答した。
「アンちゃん以外なんも要らねえ。オシュトル自身も、オシュトルとして築き上げてきたものも、全部捨ててやる」
「それはお前が自分のことを好きだって証明するためか……?」
「おうっ!」
 顔は無邪気な笑みを浮かべていたが、目が真剣だった。本当にハクに自身の言葉を信じてもらうためなら何だってするし、何だって捨てられる。そう語るような蘇芳。
 ハクはひくりと喉を震わせる。ウコンは動きの止まったハクからシンクへと躰を向け直し、今度こそ己のスマートフォンを水の中へ――
「判った! 判ったから!! 信じる! お前の言葉、全部信じる!! だからこの齢で他人様に迷惑かけるようなことはするな!!!!」
 叫んだ直後、フローリングと硬い物がゴッとぶつかる音がして――後にスマートフォンが落下したのだと知った――、同時にハクの視界はウコンでいっぱいになる。
「アンちゃん、好きだ!」
 鼻先が触れ合うほど近くで、ハクの腰を抱いたウコンが満面の笑みを浮かべた。反射的に身を引こうとするハクだが、逃がさないとばかりに更に強く抱き締められて身じろぎすら難しい。
「好き。好き。アンちゃんが、ハクが好きだ」
 ハクが信じると言ったことが余程嬉しかったのか、ズボンの外に飛び出た尻尾をぶんぶんと振り回しながらウコンはハクを抱き締める。
 己とは異なり随分とがっしりした腕の中でハクはゆるゆると力を抜いた。よく考えてみれば……否、よく考えるまでもなく、これはつまり、己とウコンは両想いというわけで。
(まじか)
 急激に頬が熱くなり、ハクはウコンの肩口に額を押し付ける。今、顔を見られたら非常にまずい。
「アンちゃん? どうした?」
 しかしハクの願いとは裏腹に、ウコンが喜びと心配が入り混じった声で顔を覗き込もうとしてきた。
「いや、なんでもないから」
「なんでもないって言われても……」ウコンは一瞬口籠り、そしてぼそりと告げる。「耳も首も真っ赤だぜ。熱でもあんのかぃ?」
「ッ!!」
 ばっと面を上げ、耳にも首にも伝わってしまうくらい顔を真っ赤にしたハクが半ば叫ぶようにして言った。

「なんで自分はお前みたいな厄介な奴を好きになっちまったんだろうって考えてただけだ!!!!」

 沈黙が落ちる。己が口にしたことに気付いてハクが「……あ」と声を漏らした。
 しかしながら今更取り消しが効くわけもなく。
「う、こん……?」
 効果音をつけるなら「ぱあああああ!」くらいだろうか。ハクはウコンの周囲に数多の星のような光が瞬いて山程の花弁が舞い散る様を幻視する。
「おい、ウコン」
「なぁアンちゃん、それってつまり」
 ハクの腰に回っていた腕が一本になり、けれども抱きしめる力はますます強く、そしてウコンの方へ引っ張られ。空いた手はハクの顎をそっと掬い上げるようにして。
「俺達のこの生活が『同居』じゃなくて『同棲』になるってことだよな?」
 この上なく嬉しそうな表情でウコンがそう言ったものだから、ハクは近付いてくる唇にそっと目を閉じ、触れ会う直前にこう言った。
「そういう遠回しじゃなく、恋人になったって直球で言ってみせろよ、ばぁか」






POP STAR







2016.07.20 privatterにて初出