「「寝過ごした!!」」
眠れない夜を過ごせば、残念ながら翌朝には当然のようにそれが響いてくる。無理ができるのは十代まで。その言葉を証明するかのように、ハクとウコンは各々の部屋でほぼ同時に叫びながらベッドから飛び起き、リビングに顔を出した。 「ウコンおはよう! 仕事は!?」 「ある!! 夜まで! あとアンちゃんおはよう!」 昨夜散々二人の頭を悩ませる羽目になった「明日はどんな顔をして会えばいいのか」という問題などすでに彼方へと吹っ飛んでいる。社会人であるハクとウコンにとってまずは決められた通りに仕事をすることが第一。特に比較的時間を自由に使えるハクのような在宅の仕事とは異なり、どうやら色々と時間に縛られるウコンの方はそれが顕著だった。 「ウコン、朝飯は!」 「できれば作ってくんな!」 コンビニメシは嫌! と贅沢なことをほざくウコンにハクは「応!」と返す。そして自分のこともほどほどに、ウコンのリクエストに応えるためキッチンへ。 ばたばたと出勤の支度をするウコンに合わせ、行きがけに食べられるような朝食を用意し、慌ただしくそのサポートをする。ウコンの慌て様が感染したかの如くその顔は真剣……と言うよりもそれ以外のことを頭から全て排除したかのような顔つきである。 そしてあっと言う間に着替えを済ませたウコンに手早く包んだ朝食を持たせ、「車には気を付けろよー!」と、どこかの母親のようなことを言いながらその背を見送ったのだった。 「…………嵐か」 一瞬にして静けさを取り戻した家の玄関で、ウコンを送り出して閉じた扉を眺めやる。なんだかどっと疲れた、と呟いて、ハクはフラフラとリビングに戻った。そういえば己の朝食を作っていなかったと思い出し、その足取りのまま更に奥のキッチンへ向かう。 自分一人だった時は食事にあまり頓着しなかったのだが、ウコンが居つくようになってからはそれも変わってしまった。彼に食べさせるためにそれまであまりまともに稼働していなかったキッチンを使っていれば、次第にハクも三食きちんと食べる癖がつき、今朝もそのままボンヤリ見送っても構わないはずのウコンに朝食を持たせ、なおかつ自分もまた胃に何か入れなければとごく自然に思うようになっていたのである。 「作り変えられてんなぁ」 ぽつりと呟き、その意味を後から解して頬に熱が集まる。すると連鎖して昨夜のことも思い出され、ハクはキッチンの隅で頭を抱えてしゃがみこんだ。 昨夜の一件もそうだが、自分が作り変えられていること≠煬凾ナはないのが本当に困る。 先程は慌てるウコンにつられて頭を真っ白にして動いていたが、今夜、彼が帰宅してからどんな顔をして会えばいいのかと、ハクは唸り声を上げた。 しばらく頭を抱えてうーうー唸っていたハクだったが、やがて顔を上げて立ち上がる。問題解決の糸口を思い付いたからではなく、単にしゃがんでいるのがツラくなってきたからなのだが、それはさておき。 立ち上がったハクはリビングのテーブルの上に置かれていたそれ≠ノ目をとめてパチクリと瞬いた。 「ウコンのスマホじゃないか」 あの男、急ぎ過ぎて大事なスマートフォンを忘れて行ってしまったらしい。 ハクはキッチンから出てテーブルへと向かう。端にポンとおかれた個人情報の塊を前に「ふむ」と呟き、腕を組んだ。 「中身は……見ちゃいかんだろうな」 何せ相手は未だ仕事内容ですら不明な男である。そもそもウコンという名が本名かどうかさえ怪しい。しかしこれの中身を見れば謎の多くが判明してしまうだろう。 遅刻ギリギリもしくは遅刻しているような様子だったウコンがわざわざこれを取りに戻って来る可能性は低く、自分が端末の中身を探るための時間は十分にあった。だがハクは頭を振る。知りたくないわけではないが、相手の了承なしに隠していることを暴く気にはなれない。それに自分は彼の人柄以外ほとんど何も知らない状態で好きになったのだから、それ以外の要素を無理に探る必要もないだろう。 そう思い、テーブルに背を向けたハクだったが――。 突如、固い天板の上に置かれたスマートフォンが細かく震えてガガガガと音を立てる。意外と大きなそれにハクはビクリと肩を跳ねさせ、そちらを振り返った。 ガラス面が上に向けられていたため一目で誰かから電話がかかってきたのだと判る。この手の機種はロックをかけていても電話だけはロック解除せずにとれるようになっており、ハクはテーブルの前に戻ってそれをまじまじと見つめた。 画面に表示されているのは当然のことながら全く知らない名前である。だが呼び出し音代わりのバイブレーションはずっと続いており、電話の向こうの相手が必死であることが感じ取れた。よほど重要な案件なのか。 ハクは思わずスマートフォンを手に取る。せめて電話の相手にウコンがスマホを忘れて出掛けてしまったことだけでも伝えた方が良いだろう。本来の持ち主に、勝手に使ってすまないと心の中で謝罪しつつ、ハクは画面に表示されているボタンを人差し指でスライドさせた。そして端末を耳に当て、 「あの」 『オシュトルさん遅刻ですよ! 今日は朝一で撮影だったじゃないですかぁぁぁ! 今どこにいるんですか!? とにかく△△駅まで車で迎えに行きますんで、待っててくださいね!!』 「…………………………は?」 一瞬にして通話が終了したスマートフォンを見下ろし、ハクは信じられないと目を見開いた。 今、電話の相手は何と言った? 聞き間違いでなければ、とある超有名人の名を口にしなかっただろうか。しかもファン等ではなく、彼の仕事に直接関わっていそうな気配を漂わせて。 間違い電話かな、とも思ったが、旧世代の電話とは違い、アドレス帳に登録されているであろうそれを間違える者も少ないだろう。となると、このスマートフォンの持ち主がイコール名を呼ばれた人物であるというわけで。 「……オシュ、ト、ル?」 画面が真っ暗になり沈黙したスマートフォンを手に、ハクは唖然と呟く。 そして先入観や思い込みをなるべく排し、頭の中であの蓬髪髭面と雑誌やテレビの中でしか目にできない整った容貌を重ねてみれば、 「ははっ、マジか」 ぴたりと一致した。 「お前が遅刻とは珍しい」 「いや、昨夜色々あってな……」 「……ほう?」 なんだ想いが実って昨夜は仕事のことを忘れるほどお楽しみだったのか。と、ミカヅチが思った瞬間、「違う」と即答される。こいつはヒトの心が読めるのかと横に目をやれば、「心は読めんが流石に良くないことを考えているかどうかくらい判る故」と半眼で返された。やはり心を読んでいる気しかしないのだが、当人がこう言うのであれば、オシュトルは心が読めないのだろう。 (まぁ確かに、他人の心が読めるなら今更こうもモダモダしておらんだろうしな) 遊びはこの辺にして、ミカヅチは遅れて到着したオシュトルのことを監督達に伝えて戻ってきたマネージャーのミルージュを出迎える。本来この役目はオシュトルのマネージャーがすべきなのだが、当人の姿は撮影現場になかった。 「おい、お前のところのマネはどうした」 「? ここにおらぬのか?」 「居ないも何も、遅刻したお前を駅まで迎えに行くと電話で叫んでいただろう。半泣きだったぞ」 あれは流石に哀れを誘った。ミカヅチは電話にようやく出たオシュトルに向かって涙目になっていたマネージャーの姿を思い出し、やれやれと頭を振る。 「電話で?」 しかしオシュトルは全くに身に覚えがありませんという風体。やがてはっとし、己のポケットを漁り出す。しかしそこからスマートフォンが出てくることはなく。 「むう。家に置いて来てしまったようだ」 「……可哀想に」 ミカヅチの中でオシュトルのマネージャーに対する同情心が更に増した。今頃彼は待ち人が来ない駅前で死にそうな顔をしているに違いない。 「ミルージュ、こいつのマネに連絡を入れておいてやれ」 「はい、判りました!」 スマートフォンを忘れたオシュトルに代わり、ミルージュが連絡を入れる。その傍らで、オシュトルが電話に出なかったのなら、マネージャーが(一方的に)話していたのは誰だったのか……。その疑問が脳裏をかすめ、眉間に深い皺が寄る。だがそのことをオシュトルに話す前に、オシュトル到着の知らせを受けた監督がミカヅチ達を呼んだ。 「行くぞ、ミカヅチ殿」 「あ、ああ」 今は仕事に集中。己にそう言い聞かせ、ミカヅチはスイッチを切り替える。ふと浮かび上がった疑問は意識の奥底に沈められ、本日の仕事が終わるまで再浮上してくることはない。 どうしてオシュトルほどの人物が姿を偽り、立場を隠し、己のような何の取り柄もない男の傍にいたのか。ハクがそれについて考えるための時間は十分にあり、リビングのソファに腰かけて沈黙したままのスマートフォンを眺めつつ、ゆったり思考を働かせる。 出会いはおそらく偶然だろう。撮影の打ち上げか、それとも接待の一種なのか、とにかく彼は『ウコン』の方の姿で泥酔するまで酒を飲み、たまたまハクに発見された。しかしその翌朝、目覚めた彼が何故ハクの家に住まわせてほしいと頭を下げてきたのかが判らない。そんなことをせずともオシュトルならばきっともっと良い家に住んでいるだろうし、生活の面倒を見てくれるような者も雇うなり何なりできただろう。髭を付ける等の面倒な手間をかけずとも、そのままの彼で衣食住は満たされていたはずだ。 ならば可能性として考えられるのは、自身が受ける『サービス』ではなく『サービスする人物』に用があったということ。有り体に言えば、ハクに興味があったのではないか。 その考えに到った瞬間、ハクは高揚するのではなく、逆に胃が冷たい鉛の塊で満たされたような気がした。 もし対象が絶世の美女や元々彼にとって大事な人物であるならば、傍にいたいと思う理由にも納得できる。それらは非常に理解しやすいものだ。しかしハクは自分自身に大した価値があるとは思っていない。どこを探しても人気俳優であるオシュトルが好ましく思えるような点など見つからず、それこそ彼にとって己は路傍の石のような存在であろう、と。 在るか無いかも判らない石ころが世界の違う存在に興味を持たれるならば、それはおそらく物珍しさや気まぐれが原因。 つまり。 「自分の傍にいてくれたのは、ただの遊びか」 唇がじわりと痺れ、その感覚を消し去るようにハクは唇を噛み締めた。 (悔しがるなよ。普通に考えれば当たり前のことじゃないか) あんなにも持っている<qトが自分のような持っていない℃メを相手にするなど、それくらいしか理由がない。 (むしろこっちは感謝すべきなんだ。あいつのおかげで実るはずもない想いを昇華することができた。呼吸がラクになって、毎日が楽しくなった) 酒を酌み交わせばまさに気分は最高で、他に何も知らなくてもウコンがハクの知るウコンあってくれるならそれでいいと思っていた。むしろ下手に何かを知ってこの関係が崩れてしまうことの方を恐れた。 (たとえあいつが自分のことをどう思っていようと、自分はあいつに救われた。その事実があれば十分だろう。元々得られないはずのものを、一時とはいえ与えられたんだから) 夢だったことを嘆くのではなく、夢を見られたことを幸運と思え。 そう己に命じるハクの視界は急激に滲んでいき、天井を見上げれば照明も壁紙もゆらゆらと揺らぐ。 (なぁ、だからさ。頼む) きつく目を閉じれば何かが目尻からこめかみへと落ち、唇が戦慄いた。微かな音も吐き出せないままハクは胸の辺りを握り締め、ただ胸の内で告げる。 (痛むな、心臓) 自分は誰かに選んでもらえるような人間ではないと、至極当たり前の事実を再認識しただけなのだから。 なのに。 しぬほどいたい。 2016.07.19 privatterにて初出 |