「アーンーちゃん! 今日の晩飯なに?」
「お、おおう。ウコンか。火を使ってる時にそれすんなっての。危ないぞ」 夕飯用の鍋の中身を確認していたハクの背後に近付く影、もといウコンがその肩を抱き、同じように鍋の中身を覗き込む。気配を感じ取れなかったハクは急に触れた体温にビクリと肩を跳ねさせ、ついでに幼い子供がよく親から言われるであろう注意を口にする。 「んお? ははっ、わりぃわりぃ」 だがウコンに堪えた様子はなく、ニカリと笑って軽い謝罪をするのみだ。それも仕方あるまい。注意するハクの口調にも表情にも怒りなど一切含まれていないのだから。 (それに、それどころじゃないっての。ああもうウコンの奴、そんなくっ付くなよ……!) 菜箸を握る手に力がこもった。 ウコンに向ける感情の種類を自覚して以降、想いを告げる気はなくともやはり行動には感情が滲み出てしまうものであり、ハクもそれは認識していた。ハクの行動によりウコンが喜ぶのを見るのは嬉しい。ウコンが笑顔を一つ向けてくるたびに小さな幸せを両手いっぱいに与えられているような、そんな幸福感に満たされていた。 だがウコンからの働きかけとなれば話は別である。何しろ突然与えられるそれにハクはまったく心構えができていない。軽い接触だけで心臓は跳ねるし、ウコンにその気がないと判っていてもこうして後ろから抱き締めるようにされてしまえば、激しくなる鼓動によって相手にこの想いを悟られてしまうのではないかと気が気ではなくなる。 (と言うか最近なんかこういうことが増えてきたような……。前はもっと距離を保っていた気がするんだが!?) 思っても、問い質すことはできない。ただ単にウコンがハクに慣れただけなのだろうか。もしくは本当にハクの気のせいなのか。 「なぁなぁアンちゃん! これ、前に俺が美味いって言ったやつだろ?」 「え? あ、ああ」 「ちょうどまた食いてぇと思ってたとこだったんだよなァ。ありがとな、アンちゃん」 鍋を覗き込んでいた髭面がハクの方に向けられる。蓬髪と髭のせいで豪快な人物のように捉えられがちだが、至近距離で見たそれは意外なほど端正な顔立ちをしていた。夜明けのような、もしくは陽が落ちる最後の瞬間のような蘇芳色の双眸がすぐ傍で輝いている。 右目の下にある黒子が色っぽくて、ハクは思わず息を呑んだ。 「ウ、コン! 近いって」 「おっ、おお。すまん」 ハクの言葉にウコンもハッとして躰を離す。急に冷えていく背中と肩にさみしさを覚えたハクは、なんて自分勝手な、と内心で苦笑を漏らした。そして顔にまだ熱が集まっていないことを確認すると、先程の己の慌てぶりを誤魔化すため、一息ついてわざとおどけた声を出す。 「いやぁ〜髭面の男前にキスでもされるのかと思った。お前くらいのイケメンなら引く手数多だろうに、わざわざこんな平凡な男が相手だなんて逆にこっちが申し訳なくなると言うか」 「ダハハハハッ! いやいや、アンちゃんももちっと背筋伸ばして歩くようになりゃァ周りの見る目も変わるだろ」 「そうかねぇ」 「そうそう」ポン、とウコンはハクの肩を叩き、踵を返す。「メシ、楽しみにしてらァ」 「期待してくれるのは嬉しいが、あまり期待しすぎてくれるなよ。こちとら料理の腕も一般人レベルなんだから」 「アンちゃんが作ってくれるもんにハズレなんてねぇって」 「ったく……嬉しいことを言ってくれる」 何か用があるのだろう。自室へと引っ込んだウコンの背を見送ってハクは肩を竦める。呆れたような声を出してみたが、やはり期待されると嬉しい。しかも相手はウコンだ。 俄然やる気が出てきた自分の単純さを笑いつつ、ハクは鍋に向き直った。 「あっぶねぇ……本当にやっちまうところだった」 自室に引っ込んだウコンはドアに背を預けて両手で顔を覆う。頬がじんわりと熱くなっていた。 ハクへの想いを自覚した今、どうにも以前より接触が増えてきてしまっている。 傍にいたい。触りたい。 ひとを好きになれば当然のように湧いてくる感情だと知識では知っていたが、実際に己がそうなってみると、行動を起こした後で戸惑うことがしょっちゅうだ。先程もまたハクの唇がすぐ傍にあると気付いた瞬間、顔を近付けそうになった。ハクが注意しなければ本当にくちづけていたかもしれない。 「いやいやまだだろ。まだそんな関係じゃねぇっての」 恋い慕う相手をいずれはこの腕に抱き締めてやりたいと思うけれど、今はまだその時期ではない。まずはハクにも同じ気持ちを抱いてもらって、こちらの正体もきちんと明かして、その上で己のものになってもらいたいとウコンは思う。 だが。 「……我慢できんのかねぇ」 顔を覆う手のひらの内側で、ウコンは「はあ」と重く少し熱っぽい溜息を零した。 その熱が引いたつもりでまだ引き切っていなかったのか。 夕食を終え、風呂も済ませて脱衣所から出てきたウコンは、リビングのソファで寝転がっている家主の姿を見つけてそろりそろりと忍び足で近寄った。 先に風呂を済ませていたハクはTシャツにハーフパンツという薄着で、すやすやと気持ち良さそうに寝息を立てている。テレビが点けっぱなしになっているので、おそらくごろ寝をして番組を流し見ていたところ、うとうとと眠りに落ちてしまったのだろう。 ウコンは肩にかけていたタオルで荒っぽく己の髪の水気を拭った後、ハクの寝顔を上から覗き込んだ。 ソファの側面――ハクの頭がある方から覗き込めば、ウコンの視界に映るハクの顔は上下逆さまとなる。「おお、珍しいアングル」と小さな声で呟いて、ウコンはまじまじとハクの寝顔を観察した。 まだ少し湿った髪はいつもより色を濃くして、幾本かが頬にかかっている。外に出ることが少ないせいか、それとも生来のものなのか、ハクの肌はウコンよりも白い。ただし今は風呂上りなので白の上にほんのりと桃色が乗っていた。 形のいい眉、伏せられた薄い瞼、髪や眉と同じ色の睫毛は涙袋の辺りに小さな影を落としている。すっと通った鼻梁へと視線を滑らせれば、薄く開いた唇に辿り着いた。 「……」 白い肌とは違う赤みを帯びたそこへウコンの手が無意識に伸びる。指先で羽根のようにそっと軽く触れれば、確かなぬくもりと弾力が返ってきた。思わずごくりと唾を呑み込む。 (もいっかいだけ) じんと痺れたような指先を再び近付けた。女のような口紅やグロスを塗りたくってべたべたしているそれとは違い、僅かにカサついた感触が指先をくすぐる。それが妙に心地よくて、一度だけと胸中で呟いたことなど忘却の彼方へ。そうしてふにふにと唇を押し潰し、赤色が形を変えるのを眺めていると、徐々に己の心臓の動きがはっきりと感じ取れるようになっていった。 だが、 「……っ、んぅ」 「っ!」 ハクが小さな呻き声を上げ、ウコンはぱっと指を離す。起きたのか、と一歩後ろに下がって様子を窺うウコンの姿は、傍(はた)から見れば相当に間抜けなものだっただろう。しかしここにはハクとウコン以外の人物はおらず、そしてハクが起きることもなかった。呑気な家主は再びすよすよと寝息を立て始める。 「……」 ウコンは再びハクに近寄った。心臓が痛いくらいにドクドクと動いている。起こしてしまったかもしれないと緊張したせいもあるだろうが、この鼓動の理由はそれだけではなく。 ぐる、とウコンの喉が鳴る。ハクの寝顔に影がかかった。ソファの背もたれに片腕をついたウコンは、そのまま覆い被さるようにしてハクに顔を近付ける。 やはり薄く開いたままのハクの口。そこから目を離せない。 体重を支えるのとは別の腕でそっとハクの顎を持ち上げ、僅かに上向かせる。ウコンは己の唇を舐めて湿らせると、その水気を分け与えるように、 「ハク……」 眠り続ける青年の唇とゆっくり重ね合わせた。 バタバタと慌ただしく走り去る足音は大きなドアの開閉音の後にようやく静まる。リビングから元客間へと音の発生源が去った後、その音が聞こえる前から起きていた<nクはパチリと両目を開いた。 そして両手で己の口元を押さえ、 「〜〜〜〜〜〜ッ!!」 ひたすら不審な物音を立てないよう無言で身悶える。 (い、いいいいい今!) 唇に残るぬくもりと柔らかな感触。マシュマロのような、と表現することはよくあるが、それよりもずっとしっかりしていた。 触れられたことへの嫌悪はない。あるのは驚きと、歓喜と、それから、 「……舌、ちょっと、入って、きた」 圧倒的な羞恥。 顔を真っ赤に染め、涙目になりながらハクは呟く。 最早、口から出るのはそんな片言でしかない。それほどまでに衝撃的だったのだ。想い人が己と同じ気持ちを抱いているかもしれないという喜びを押し退けて、ウコンの行動によりハクの心臓は今にも破裂しそうになっていた。 (明日どんな顔して会えばいいんだ) 唇を指で突かれた時点で目覚めていたが、何をされているのか判らなくて――そして別段ウコンであれば嫌でもなくて――眠ったフリをしていたハク。それがもたらしたこの結果を、ウコンはハクが知らないと思っている。ならば何もなかったような顔をしてまた「おはよう」と言えば良いのだろうが……。 (まともに顔、見れるのか) そして、そもそも。 (眠れる気がしない) 明日は目の下に立派なクマをこしらえてベッドから抜け出る羽目になるかもしれない。 (明日どんな顔をしてハク殿と会えば!?) 同時刻、ウコンもまた口元を手で押さえてその場にしゃがみ込んでいた。 「でもアンちゃんのくちびる気持ち良かった……」 ぼそりと呟き、その感触を思い出してウコンは更に身悶える。興奮しすぎて先程から耳がピコピコと震え、ズボンの中に押し込めていられなくなった尻尾はぶんぶんと激しく振られていた。 「ヤバい。興奮しすぎて眠れそうにねぇ……明日も仕事だってのに」 悔やんでいるのに悔やみ切れていない声。どうしても嬉しいことが先に立ってしまっている弾んだ声で、ウコンはへらりと幸せそうに表情を崩した。 2016.07.16 privatterにて初出 |