初めてウコンがハクのために夕食を作った日の翌朝。ウコンが起床した時にはすでにハクが朝食の準備を整えており、彼は自室から出てきた蓬髪の同居人の姿を認めると僅かに両目を細めて笑みを浮かべた。
「おはよう、ウコン」 「お、おう。おはようさん」 ベランダに繋がる大きな窓からの光がハクの輪郭を淡く浮かび上がらせ、キラキラと輝いているように見える。その姿に一瞬息を呑んだウコンはハクへの反応が遅れた。「どうした?」とハクが小首を傾げる。 「いや、ちぃと朝日がまぶしくてな」 「そうか。昨日頑張ってくれたからそれで疲れて眩暈がしたなんて言われたらどうしようかと思った」 冗談半分で告げられる言葉にウコンも調子を取り戻し、呵呵と笑う。 「んなワケねぇよ。むしろアンちゃんも嫌じゃなかったみてえだし、またやらせてもらいてえと思ってたくらいだ」 その都度あの綺麗な笑みを浮かべられては心臓がもたない気もしたが、それはそれ。ハクに喜んでもらえた時の高揚感が癖になりそうで、ウコンは照れ隠しの代わりに笑みを深めた。 「それは……」 一方、ハクはウコンの言葉を受けて数秒視線を彷徨わせ、昨晩と同じように頬を掻く。 そしてぽつりと言った。 「なんか、良いな」 「!」 「外出先で色々あってもウコンの顔を見るとほっとすると言うか、いつの間にか背負ってた重いものが一気に無くなったと言うか、とにかくすごく楽になったんだ。それが次もあるのかと思うと、こう、お前がここに住んでいてくれて良かったと心底思える」 「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇの」 うっかり嬉しすぎて服の下の尻尾を盛大に振ってしまいそうになった。しかしそれを見られるのはいい年した男として非常に恥ずかしい。恋人や家族の前であるならまだしも、自分達は現時点でただの同居人でしかないのだから。それ故に必死に堪え、ウコンはいつも通りの己を意識して声を出す。 「そんじゃ次にアンちゃんの方が遅く帰ってくる時は俺がまた出迎えてやんねえとな! 今度は献立の希望でも訊いとくかね」 「おっ、それはホントか!」 「応よ!」 「きゃーウコン様カッコイイー! ステキー!」 「ダッハハ!! そうだろうそうだろう!」 ノリのいいハクに合わせてウコンもわざとらしく腰に手を当てて胸を張る。大人同士の軽いじゃれ合いというやつだ。本心は盛大に飛び跳ねまくって今にもハクを抱き締めてしまいそうだったが、流石にこの場でそれをするのはまずかろうという理性が働き、ウコンが実行することはない。代わりに「じゃ、顔洗ってくらァ」と洗面所に向かい、その背にハクの「おー」という声がかかった。 二人揃ってダイニングテーブルにつき、テレビを見ながらハクが作った朝食を食べる。 献立はトーストと目玉焼き、ウインナーにサラダ。飲み物はコーヒーメーカーが上手に入れてくれたコーヒー。冷蔵庫にヨーグルトが入っているが、テーブルの上には並んでいない。欲しい者が欲しい分だけ勝手に取って食べる方式である。男の朝飯ならばこれでも上等な方だろう。 情報収集兼BGM代わりに点けているテレビからは朝のニュースに相応しいアナウンサーの軽快な声が聞こえてくる。天気や交通情報の他に傷害事件や政治家の汚職事件、女性アイドルに恋人がいたというスキャンダル。かと思えば休日の家族におすすめの観光スポット特集等々、内容はめまぐるしく切り替わる。 ただし生憎ハクの方は芸能関係に全く興味がないらしく、ニュースの半分くらいは聞き流している様子だった。かく言うウコンも大して真面目に見ているわけではない。特に芸能界のあれこれはニュースなどより余程詳細かつえげつないものが自分の耳に届くし、記者達の取材不足や見当違いの解説に苦笑が漏れそうになることさえあった。 だが、とある新作ドラマの制作発表会の話題に移ったところ、ふいにハクが自身の皿からテレビの方へと視線を向けて、 「あ、オシュトル」 その口から零れ落ちた名にウコンは息を詰めた。 無論、ハクが呼んだのはウコンではない。テレビに映し出されている俳優の名前である。ああ昨日のやつか、とウコンは内心で独りごちた。 舞台上では監督と脚本家を中心に、主要な出演者が顔を揃えている。オシュトルとミカヅチの姿もあり、ハクは記者からコメントを求められズームアップされたオシュトルをまじまじと見つめていた。カメラを引いて全員の姿が映っている時にだけテレビを見て、オシュトルがズームされると視線を外される……なんて場合よりはマシだが、これはこれで恥ずかしい。 テレビの中ではオシュトルが微笑を浮かべてドラマに対する意気込みを語っていた。 「このドラマ、オシュトルも出るのか」 「んお? あ、ああ、そうみてえだな」 ウコンの姿でオシュトルに関する話題を口にする。有り得ないことではないが、ハクとは初めてであるこの状況に尻尾の付け根辺りがムズムズした。 「もしかしてアンちゃん、オシュトルのファンかい?」 容姿端麗なことで女性からの人気が高いオシュトルだが、その真面目な性格や卓越した演技力から同性のファンも多い。が、それは一般的な認識であり、当人であるウコンがハクに「オシュトルのファンか?」と尋ねるのは、それなりに勇気が要った。ついでに自分は何を言っているのかと自己嫌悪や羞恥にも襲われる。 (でも気になるわな……) あれだけまじまじと見つめられてしまうと、もしかして、と思うのだ。そして肯定が返されたなら――。 (またサッちゃんに会った時に『はしゃぎすぎだ』って揶揄されっかも) その場合、甘んじて彼の嫌味もからかいも受けるつもりではあるが。と言うか、おそらくミカヅチもしくはサコンに何を言われても気にならないだろう。 と、ハクが肯定すると予想した上で彼の反応を待つウコンだったが。 「いや、別に」 「そうかー。やっぱアンちゃんもオシュトルのファ……ん? 別にって」 「だからファンかって訊かれたから別にって。自分が芸能系に興味ないことくらいお前ももう判ってるだろう?」 「そ、そうだったな……」 ハクが肯定してくれると思っていたせいで目が泳ぐ。同時に、穴を掘ってそこに埋まりたい気分になってしまった。何を浮かれているのかと、ハクが言葉通り俳優やらアイドルやらに全く興味のないことくらい共に生活してすでに知っていただろうと、ウコンは頭を抱えそうになった。オシュトルが人気だということは事実であるが、それを常識だと思いハクにまで当て嵌めてしまった自分が恥ずかしい。 「でも」 ウコンが羞恥でくずおれる前にハクがぽつりと続けた。 「綺麗な顔してるよな。これぞイケメンって言うか。おばさんから若い女の子まできゃあきゃあ騒ぐのも解る。こんな美形が近くにいたら、同性の自分でもちょっと、いや、かなり戸惑うっつーか、心拍数上がるんじゃないかね」 「〜〜ッ!」 今、完全にズボンの中で尻尾が膨らんだ。 ハクの視線は相変わらずテレビに向けられたままで、ウコンの変化に気付いた様子はない。そのことに安堵しつつ、ウコンは高鳴る胸の鼓動を静めるように胸の辺りで拳を握る。 (お、落ち着け某! ハク殿が褒めたのはオシュトルであって俺じゃなく、いやでも某はオシュトルであるからして……!) テレビではコメントを終えたオシュトルがふっと口元に笑みを刻んだ。それに合わせ、ハクもまた眩しげに目を細めて「うわ、ホントにカッコイイよなこいつ」と笑うものだから、 「うぐっ」 ハクを凝視していたウコンは呻き声を上げて呆気なく撃沈した。ズボンの中で窮屈そうにしている尻尾だが、もしこれを外に出していたとしたら今頃ばっさばっさと盛大に振られていたことだろう。 (俳優とかアイドルとか全然興味ねえくせに、そんな、褒めるとか、アンちゃんの超絶技巧に俺ァもう完敗だ……ッ!) 「……ウコン? どうした」 オシュトルから別の役者にカメラが切り替わると途端にテレビから視線を外したハクが、テーブルを挟んだ向かい側で顔を伏せている同居人の姿にきょとんと目を丸くする。ウコンはきっと赤くなっているであろう顔を上げるわけにもいかず、「なんでもねぇ」と返す他なかった。 朝食の席で告げられたウコンの言葉が嬉しくてたまらない。ハクは自室のパソコンの電源を入れながらくふりと笑う。 今度ハクの方が遅い帰宅になった時にはウコンがまた夕飯を作って出迎えてくれるのだそうだ。いつになるか判らないことではあるものの、その時を想像するだけで胸の奥が温かくなってくる。 件の同居人は今日も仕事があるためすでに家を出ており、帰宅は夕食の頃になるとのことだった。ハクも日中は仕事を進めるつもりでいるが、そう難しい内容でもないため、下手をすると――順調に進みすぎると――昼過ぎには終わる可能性がある。つまり午後から暇になってしまう。 さてどうしたもんか。時間があるならちょっと凝った夕飯でも作ってみるか……。そんなことを考えながらパソコンを操作していると、デスクの傍らに置いていたスマートフォンがメールの着信を告げた。 端末を手に取り送信者の名前を確認したハクは、つい先程まで持ち上がっていた口角を元に戻す。そして文面を全て読み終えると、愛しさと困惑が混ざった苦い笑みを浮かべた。 「ホント、義姉さんは……」 メールを送ってきたのは兄の嫁となった義姉のほのか。内容は、昨日ハクが兄とだけ面会して自分とは会わなかったことを冗談交じりに責めたものと、可能ならば今日にでも自分と会わないかというものだった。 兄も義姉も本当にハクを愛しく思ってくれている。ハク自身もそれを十分理解しているからこそ二人を好いており、そしてそれ故に彼等と会うのが心苦しい。 才能に溢れた兄と、彼の隣に並んでも何ら遜色ない義姉。その片方を家族としてではなく恋情を向ける相手として見てしまったからこそ、二人に幸せになってほしい思いと何故そこに自分がいないのかという思いがぶつかってハクを苦しくさせるのだ。 しかし。 「まぁ……今日なら会えるか」 ハクの唇はそう言葉を吐き出していた。 ほのかに会うのは嬉しいけれど悲しくて、苦しい。そのはずなのに今の自分はすんなりと彼女に会うことができると思った。同時に脳裏をよぎったのは同居人が浮かべた満面の笑み。 本日予定していた仕事の量を再度頭の中で計算して、ある程度の余裕を考慮した時刻を返信する。義姉からはすぐに喜びのメッセージが送られてきて、それを読んだハクには微笑を浮かべる余裕すらあった。 (今夜はウコンとどっかに食いに行こうかね) 義姉と会うならしっかりした献立の夕食を作るには少々時間が足りなくなるだろうから。それなら二人で出かけて外で食べてくるのも悪くはないだろう。 そう考えると、途端に今夜のことが楽しみになってくる。鼻歌まで歌いそうな雰囲気で椅子に座り直すと、ハクは軽いキータッチで仕事を片付け始めた。 「ごめんなさいね、ハク君。急に呼び出しちゃったりして」 「いやいや、ほのか義姉さんのご指名とあらば」 待ち合わせの喫茶店。時間通りに現れた相手に、わざと大仰な仕草でハクが一礼してみせれば、美しいプラチナブロンドの女性――ほのかが、口元に手を添えて透き通るような淡い笑みを零した。 「ふふっ、あの人も貴方くらい冗談が上手ければいいのだけど」 「兄貴にこっち方面を求めるのは難しいんじゃないですかねぇ」 「そうね」 「でもそれがいいんでしょう?」 そんな兄だから、彼女は好きになった。着席しつつハクが軽い調子を意識して尋ねれば、ほのかはうっすらと頬を染めてこくりと頷く。その仕草一つ一つが美しく、そして可愛らしくて、ハクは目尻が下がる思いだ。けれど兄を想って微笑む美女を前にしても、かつてのように重く苦しい気分にはならない。さみしいとは思うけれど、それだけである。 (なんでかねぇ……) 昨日、兄と対面した時はもっと苦しかった。そして本来なら兄と会うより義姉と会う方がハクにとっては精神的難易度が高いはず。しかし現実として、そうはなっておらず。 ウェイターが持って来たメニューを見つめてどのケーキを頼もうか悩んでいる義姉を眺めつつ、ハクはこの変化の原因であろう二十四時間以内に起こったことを思い出す。ただしそれほど時間はかからない。すぐに一つのことに思い至り、ああそうか、と内心で独りごちた。 (自分はもうほのかさんが好きなんじゃない。いや、もちろん人として好きだけど、でも恋愛感情の一番とかじゃなくて) おそらくそれはある時点を境にじわじわと様子を変えていったはず。しかし決定的な変化が起きたのは昨日の夜だ。 今、ハクが義姉に対して抱く感情は、家族に対するもの――……とは、まだ言い切れないが、随分と近くなってきているような気がする。ほのかへの恋心が昇華されつつあるのだろう。 そして彼女の代わりにハクの思考を埋め始めているのはあの不思議な同居人だった。ハクがほのかに向ける感情をじわじわと変化させるきっかけになった男。彼がいたからハクの心は癒され、そして新しい一歩を踏み出せるようになったのだ。 「ハク君、どうかした?」 注文するケーキが決まったらしい義姉がメニューから顔を上げ、そしてハクの顔を見て小首を傾げた。 「え?」 「何かいいことあったのかなって。今の貴方、すごく優しい顔をしていたから」 「優しい顔、ですか」 「ええ。とても素敵な表情よ」 ほのかが浮かべたのはハクの大好きな笑みだった。慈母のように、聖女のように、優しくて、暖かくて、ふわふわした微笑み。それはかつてハクの心臓を跳ねさせ、けれども彼女が兄のものになると知った後は苦しみしか生まないものだったが、今のハクは穏やかな気持ちで受け止めることができた。 その理由は、きっと。 「そうですね。いいことがあったんです。と言うか、前々から自分のすぐ傍にあったんですけど、ようやくそれに気付けたと言うか」 「あら素敵じゃない。詳しく聞いても?」 「それは勘弁してください。自分でも正直に口にするにはちょっと恥ずかしいんで」 「あらあらあら。ますます興味深いのだけれど……ふふ、でも、そうね。大切なものは自分の胸にしまっておきたくなっちゃう気持ちも判るから、今日は訊かないでおいてあげる」 「ありがとうございます」 愛らしい義姉の姿にやっぱり自分はまだまだこの人が好きだなぁと思いつつ、けれども彼女ではない人物が己の一等高いところに居座っていることに気付いてしまったハクは、ぺこりと頭を下げて自身もまた淡い笑みを浮かべる。 これからはきっと彼女と会うのも、兄と会うのも、楽しい時間になるだろう。けれど自分が一番喜んでしまうのは――。 (ウコンと過ごす時間なんだろうな) 心の内で呟く。 自覚した思いは躰を巡り、二つの深い琥珀色をとろりと甘くとろかせた。 2016.07.12 privatterにて初出 |