一人の少女の話をしよう。
少女の名はアンジュ。彼女はとても重要な地位にいた。大國ヤマトを統べる帝のただ一人の娘という地位に。しかし事実上彼女が負うべき責はまだ無く、建國から現在に至るまでその地位にあり続けている父親の庇護の下、天真爛漫自由奔放に振る舞っていれば良かった。長い刻を生きてきた帝がいつか御隠れになるなど想像できず、結果、彼の後を継ぐという光景を上手く思い描けなかったのも自由な振る舞いの一因だろう。 そんな中、彼女の傍に新しい存在が増えた。彼女の叔父であるその人物は、少女が将来を担うべき立場にあることを懇々と諭し、それに必要な知識と意識を持つよう助力してくれるようになる。叔父の働きかけにより少女は徐々に次の御世を背負う者――天子として本来持つべき心構えを持つようになり、また将来必要になる知識を積極的に吸収し始めた。幼さゆえまだまだ至らぬところは多いが、為政者として大切な一歩を踏み出していたのだ。 ただ、見える世界が変わってくると、これまで意識していなかったことを意識し、考えなかったことを考えるようになる。 國を継ぐこと、國を統べること。それを意識し始めた彼女は、叔父という己より帝に近い存在について思いを馳せるようになっていった。 彼女の教師役を務めるくらいなのだから、能力的には叔父の方が少女よりも格段に上である。しかし後から現れた叔父は次の帝であるはずの少女の地位を脅かさないため、また政治や民の生活に混乱をもたらさないようにするため、己は決して國を継がぬのだと内外に知らしめた。その方法は少女にとっていささか以上に好ましくないものだったが、仕方ないと言えば仕方ないのだろう。『無能』の仮面を被った叔父に周囲は見事騙され、相変わらず少女の方が次の帝に相応しいと考えている。大きな混乱も起こらずに済んだ。 國と民を思えば、この嘘は貫き通すべきもの。だが本当にそうなのか? と少女は考える。 本当に心から國と民を思うのであれば、まだまだ至らぬところばかりの少女を根気強く育てるのではなく、叔父本人が少女を育てるために割いている多大な労力の分も使い、今すぐにでも人々を導いていくべきなのではないか――と。 そう、広い世界が見え始めた少女にとって叔父の掲げる大前提『次の帝はアンジュである』が致命的かつ唯一の間違いなのではないかと思えるようになっていたのだ。 無論、いきなり後継者が変われば、國は小さくない混乱に見舞われるだろう。しかし叔父の手腕があればそれもすぐに収まるはず。そして混乱を収めた後に築かれるのは、少女では決して到達し得ない素晴らしい國。 少女は叔父を好いていた。初めてまみえた時はどんな人物か、父や周囲から少女に向けられていた愛情が減ってしまうのではないかと恐れもしたが、全ては杞憂に終わり。そうして己を全身全霊で大切にしてくれる叔父に好意を抱かぬはずがなかった。ゆえに叔父が少女を次の帝だと考えていることも、勉強を教えてくれることも、何もかもが嬉しくて仕方ない。だが、個人の感情だけで國は成り立たぬ。國を思う気持ちを芽生えさせた少女にとって、最早確実に叔父の方が國から必要とされるべき人物だったのだ。 包み隠さず真実を語るならば、少女はそう考えると同時に激しい劣等感に襲われ、大好きな叔父に嫉妬した。少女はヤマトを愛している。けれど己よりも叔父の方がヤマトには必要なのだから。 だから。だからこそ――。 「なぜじゃ」 少女は目の前の光景に恥じ、悔やみ、失望し、絶望する。 「アンジュ……?」 誰よりもこの國の次代を担うに相応しい少年が少女の方を振り返り、未だ頭から血を流しながら戸惑いの声で名を呼んだ。 「何故、余などを助けたのじゃ! ハク!!」 しかし少女は少年の呼びかけを無視して絶叫する。 「この國にとって本当に必要なのは其方じゃ! 何をやっても其方に追いつけぬ余など、いっそ捨て置いても良かったではないか! 余が傷つくより、いや、死ぬよりも! 其方に万が一のことがあれば、そちらの方がヤマトの損失になるのじゃぞ!!」 そして一旦口を閉じ、唇を震わせて。 これまで決して言葉にしてこなかった本音を告げる。 「ハク、余は其方に手間ばかりかけさせる。此度の件も同じじゃ。本来次の帝になるべき其方が期待してくれているのだから、せめてそんな其方のため、其方の労に報いるため、其方の望む為政者になるのだと、そう願って……張り切って、空回って、この始末。結局、余は其方にまとわりつく枷でしかない。期待には応えられぬ。なればどうか、ハク。國と民を想うなら、もうそろそろ余という枷を切り捨てて自由に歩き出すべきではないのか……?」 周囲一帯を炎が焼き尽くし、氷が覆い、風が切り裂き、土が盛り上がり、浄化の光が悪を断罪し、闇が全てを呑み込んだ後。アンジュ、ハク、そしてオシュトルのいる部分だけがぽっかりと無傷のまま保たれているその場所で、少女は少年に問いかけ、同時にひっそりと両の拳を握り締めた。 向かい合う少女と少年。天子と帝弟。 オシュトルは棒立ちになり、その光景を息すら忘れて見つめる。 立ち尽くすアンジュの元へハクが一歩また一歩と歩み寄った。そうして正面からそっと彼女を抱き締めると、 「アンジュ、お願いだ。そんなこと言わないでくれ」 かすれた声で懇願する。 「ハ、ク……?」 「お前が枷? 切り捨てる? 違う。捨てないでくれとしがみついているのは自分の方だ」 戸惑うアンジュにハクは微笑みかけ、血に濡れた手を乱雑に自身の服で拭うと少女の頭を優しく撫でた。 「アンジュ、お前の叔父は姪が大切で仕方なくてな。だから國に必要だとか必要ないとかなんて関係ないんだ。ただ大切だから、愛おしいから、お前を決して失えない。それだけなんだよ」 その上でアンジュがハクを本当は國のことなど考えていなかった独善的で情けない叔父≠セと見限るなら仕方ない。しかしもしそこに一片の慈悲や愛情があるのなら、どうか自分にアンジュを切り捨てろなどとは言ってくれるな。と、ハクは重ねて懇願する。 僅かに目線の高い少年を見上げてアンジュが両の目に涙を浮かべた。じわりと滲んだそれは容易く目尻から溢れ出し、まろい頬を伝って流れ落ちる。 「ッ、余は……余は、ハクの傍にいてもよいのか。國や民が余ではなくハクを望んだとしても、ハクは余を必要としてくれるのか……?」 「ああ。そもそも自分はどこかの誰かのように博愛主義者なんかじゃない。この両手に抱えられるだけの身内のことしか考えない男だ。これまで自分がやってきたことはどれもこれも己の大切な奴等のためで、そいつらが誰なのか……なぁ、アンジュ。もう判るだろう?」 思いの詰まったハクの言葉に少女の目尻からはぽろぽろととめどなく涙が溢れた。 「だから頼む。要らないなんて言ってくれるな。自分はお前にいてほしい。アンジュに笑っていてほしい。自分の大切な奴等が笑っていてくれるなら、そのためなら、國を守るのも滅ぼすのも何だってやってやるから。だから、な?」 その懇願に対し、何度も何度も少女の首が縦に振られる。 「すまなかった。本当にすまなかった、ハク。もう馬鹿なことは言わぬ」 アンジュが告げれば、ようやくハクの肩から力が抜けた。 「……っ、」 その光景を見つめ続けていたオシュトルは肺が圧迫されるような苦しさを覚えて無意識に襟元を握り締めた。 この苦しさは叔父と姪の思いやりの深さに胸を打たれたから? ――否。視線の先で行われているやり取りのことなどまともに頭に入ってきていない。ただオシュトルの中には自身が愛おしく思っていた『シロ』の本来の名を、そして己が蔑視していた帝弟の本心を知り、途方もない後悔だけが存在していた。 指先が凍りついたかのように冷え、ビリビリと痛いほど痺れが走る。逆に後頭部の辺りは血管の中を血の代わりに熱湯でも通っているかの如く熱い。喉はカラカラに乾いて心臓が早鐘を打ち、背中を汗が伝う。ひゅっと漏れた呼気は情けないにも程があるものだった。 (それがしは) 両手を持ち上げ、茫洋とした目で見下ろす。 (某は、何を見て、何を考え、誰に会い、何を話した。何と言った) ガチガチになった指先が激痛でも走ったかのようにビクリと跳ねる。 声すらまともに出せそうもないのにオシュトルの唇が戦慄いた。 真実など一欠片とて知らなかったくせに全て理解した気でいて、目の前で侮蔑の言葉を吐き、刺すような視線を向け、嘲り、憎み、しかしその一方で当の本人に惹かれているなどと囁いて。 そのなんと滑稽で、愚かで、浅ましく、惨たらしいことか。 一体どれだけ傷つけた。どれだけ我慢させた。己の見ていないところで何度その薄い唇を噛み締めさせた。 しかも当人の言葉を信じるなら、オシュトルの愚かにも程がある行為を受けてなお、まだこんな男が大切なのだと言う。切ないほどに、ひたむきに、こんな男を慕ってくれているのだと言う。 なんて綺麗な生き物なのだろう。愚かなほどに愛しいひとなのだろう。 それなのに、自分は。 襟元を握り締めているのとは逆の手でぎゅっと拳を作れば、強すぎる力により爪が皮膚を突き破って血が滲む。あの子はこの痛みの何万倍のつらさを味わったのだろうかと考えれば、力は緩むどころかますます強くなった。 (なんたる、傲慢) 清廉潔白が聞いて呆れる。 あの少年に合わせる顔がない。 今はまだ少年の意識はアンジュへと向かっているが、もしそれがこちらに向いたとしたら――。考えるだけで心臓が止まりそうになった。 (……っ) 一体何をもってすれば許されるのだろう。これまで重ねてきた罪を贖(あがな)うことができるのだろう。 そもそもこれは償うことができる罪なのか。こんなにも綺麗なものをことごとく傷つけて、貶めて。代償を払えば無かったことにできてしまえるものなのか。 ――そんなはずがない。 ぽたり、と握りしめた拳から赤い雫が滴る。それにすら気付かずオシュトルは武人として大事なはずの手を傷つけ続けた。 痛みなど感じない。それよりもっと酷い痛みを己は大切な少年に与えてしまった。 うつむき気味の視界に映っていた地面がぐにゃりと歪む。眼球は乾いていたが、代わりに酷い眩暈がした。耳鳴りのようにアンジュとハクの声が頭の中に響く。泣き声と、それをあやす声。大切だと、愛しているのだと語る言葉の連なりが、その言葉の対象ではないオシュトルの胸をギリギリと締め付けた。最早そんな自分に苦笑すらできない。 しかしその声音が急に様子を変える。 「ハクッ!」 「ちっ!」 アンジュの切羽詰まった声とハクの舌打ち。直後に耳障りな怒声が聞こえた。 「このクソガキがァ!!!!」 顔を上げたオシュトルの視界に映ったのは鎖の巫の術法で満身創痍になっていた賊の頭領。折れた剣を振り下ろさんとしたところでハクに手首を掴まれ、阻止されている。腕力が己より小さな女子以下であるはずの少年が一瞬でも賊の動きを止められたのは、相手が重傷だったからだろう。しかしハクとて十全の状態ではない。 しかも、 「!!」 オシュトルは目を瞠る。長い袖で今まで気付けなかったが、少年の右拳は強い力でぶつけたのか赤紫色に変色していた。 そんな手で相手の攻撃を止めようとすれば、当然のことながら長くは保たない。ハクが盛大に顔をしかめ、痛みを堪えるように歯を食い縛った。 だが少年が賊に押し負け、叩き斬られる事態にはならない。 世界が、流れる。 オシュトルとて自分がいつ走り出していたのか気付かなかった。ただ勝手に足が動き、一瞬のうちに敵との距離を詰める。賊がオシュトルの存在を察するよりも早くその手から剣を奪い取った後は流れるように少年と賊を引き離し、小さな躰を片腕に抱え込んで無事を確保。賊はその場に投げ捨てた。だがこれだけでは終わらせない。ハクを地面に降ろした後、起き上がった巨躯に向けて、オシュトルは奪い取った剣を躊躇なく振り下ろした。 「…………」 「ハク!」 全てが終わって見回せば、驚いたようにこちらを見上げる琥珀色と、ハクが無事でよかったと縋り付くアンジュ、そして術法を使おうとして発動までには至っていない双子の巫の姿。鎖の巫は強大な力を持っているものの、それと戦闘が得意というのは等号で結ばれない。彼女達が主を助けるまでに生まれた空白をオシュトルが埋める形となっていた。もしオシュトルが動いていなければ、巫の術の発動が間に合わず、ハクは大怪我を負っていたかもしれない。 オシュトルはその場で片膝を地面につき、ハクに対して頭を垂れる。 「……、」 己などが一体何を言えば良いのか。数瞬迷って口を開いた。 「ご無事で何よりです、殿下」 迷った割に、唇を割って零れ落ちた声は心底ほっとしたのだと誰もが判るほどに感情が籠っている。貴方が無事でよかったと、護れてよかったと、心から思っている者のそれ。 偽ることのない本心を吐露し、オシュトルは改めてハクの無事に安堵した。その躰だけでも護れてよかった、と。 だがそんなオシュトルにぽつりと少年の呟きが落とされる。 「自分はお前の嫌いな弟帝なんだが」 「……ッ」 なのに何故助けたのか。悪意などなく、それはただ純粋な疑問。 だからこそオシュトルは息を呑んだ。 思わず上げた顔からは音を立てて血の気が引き、心臓がばくばくと激しく打ち鳴らされる。舌がもつれて上手く言葉が出てこない。助けるのは当然なのだと、その一言すら発せなかった。 「そ、れがし、は……ッ!」 本当は貴方が大切で。愛しくて。 でもそれを告げる権利など疾うになく。 「冗談だ。だからそんな今にも死にそうな顔をしないでくれ」 絶望と後悔に暗くなりつつあった視界がその一言で光を取り戻す。目を見開くオシュトルに、お面にも紗にも遮られることのない柔らかな笑みが向けられた。 「オシュトル、お前が『帝弟』に対して下していた評価は全て意図してそうするよう仕向けられたものだ。だからお前に一切の責はない。気にするな」 ハクもまたその場に膝を折り、視線を合わせてくる。 「……ハク、殿下」 眉尻を下げてへにゃりと表情を崩す彼。武人たるオシュトルとは比べるべくもない小さくてやわい手のひらが、ひたり、と男の両頬に添えられた。 「それに自分は今こうしてお前が名前を呼んで、助けてくれただけで十分嬉しい。『ハク』としてお前にそんな優しい目を向けてもらえるなんて、もう絶対にないだろうと思っていたからな。こうして正体を明かしたのだって、騙していたのかと憎まれ、『シロ』さえ嫌われてしまうと思っていたくらいだ」 少年は「へへっ」と小さな笑い声を零す。 そしてぽつりと、 「嗚呼、お前に嫌われなくて本当に良かった」 心底ほっとしたようにそう呟いた。 「……っ」 その笑みに胸が詰まる。オシュトルはごくりと唾を呑み込んで呼びかけた。 「殿下、」 「どうかハクと。許されるなら、お前にはハクと呼んでほしい」 「某などが殿下の御名をお呼びしてもよろしいのでしょうか」 「よろしい、じゃなくて。どうかそう呼んでくれ」 「しかし某は貴方を酷く傷つけた」 「お前は何も悪くない」 悪いのはこういう方法を取った自分だと少年は告げる。 「オシュトルが國と民を大切に思っていることは知っていた。だから『無能な帝弟』を快く思わないのは当然。そう理解していたはずなのに、自分はお前から……ウコンから向けられる笑顔が嬉しくて『シロ』だなんて偽りの自分を作っちまった。お前はあんなにも自分(シロ)を大切にしてくれたのに、ずっと嘘を吐いていて本当に悪かったと思ってる。結局、自分はお前に甘えて、こうして今も困らせてしまっているな」 その言葉を聞いてオシュトルは唇を震わせる。そうして己の頬に添えられた小さな手を自らの手で包み込むようにし、許された通りに、望まれた通りに、その名を口にした。 「……ハク」 「っ、ああ」 ハクがこの上なく嬉しそうに破顔した。それはまるで大輪の花が開くかの如く。両目はキラキラと輝き、頬が薔薇色に染まる。 それが何よりも美しく、尊いと思った。 (ハクを傷つけた罪は消えぬ。たとえ本人が許したとしても某自身が許せない) けれど傍にいたい。それがどんなに図々しく、不相応なことであっても。 「ハク」 「ん?」 優しく名前を呼ぶだけで幸せそうに微笑む彼。こんなにも健気なひとに己が仕出かした仕打ちを思えば今すぐにでも腹を斬ってしまいたくなる。だがそれより強い欲を抑えきることができずにオシュトルは懇願した。 「其方の傍にいさせてほしい」 頬を包み込んでいた手がぴくりと跳ねた。 ただしそれは拒絶ではなく――。 「もちろん」 少年がゆっくりを頷く。 そうして琥珀色の双眸を細め、とうとうその目尻から透明な雫を零し。 ハクは初めてオシュトルに涙を見せながら叫ぶように言った。 「傍にいてくれ。どうか、ずっと、自分の傍にいてくれ……!」 ずっと言いたくて、ずっと言えなかった言葉。 万感の思いを込めたそれにオシュトルは小さな手を包み込んでいた己の手を一旦離し、代わりに薄い肩を抱く。アンジュと双子に見守られながらハクの頬に唇を寄せ、こめかみから伝う血と混じった涙を羽根のような軽さでそっと吸い取った。 そうして、至上の色を宿した瞳と視線を交わし、告げる。 「拝命いたします」 ずっと、お前の傍に。 今度こそ。 少年帝弟
おまけ 「まぁいろいろ引っかかる会話があったように思うのじゃが、ハクが幸せならそれで万事良しとするか」 ハクの指示でウルゥルとサラァナから治癒の術法を施されながらアンジュが呟く。その言葉を聞き取り、双子の巫達が交互に答えた。 「心配ご無用」 「姫殿下が気にかけられている部分に関しては、主様のもう一人の理解者がしっかりとお灸を据えてくださるはずですので」 「シャッホロ皇ソヤンケクル様」 「あの方は以前より主様を本当に大事にされておりました。きっとオシュトル様が宮廷に戻り次第、しっかりきっちりお話の時間を設けてくださるでしょう」 「………………は?」 アンジュがぽかんと口を開ける。また少女等の会話を流し聞いていた男二人も各々反応を見せた。 ソヤンケクルという名が出て、思い当たる節があったオシュトルは悔しさに奥歯を噛み締める。そう言えばあの男、以前自分の目の前でハクを抱き上げていたではないか。 一方、ハクは以前より世話になっている偉丈夫を脳裏に描いて、「そういえば」と手のひらに拳を軽く打ちつけた。 「シャッホロに降嫁しないかって誘われていたな。実際には帝室を抜けて婿入りだけど」 「「はあ!?!?」」 「流石主様」 「暖かい土地で暮らすのもきっと楽しいかと思われます」 ヤマトの天子と右近衛大将は揃って声を裏返し、ヤマトではなくハクに仕えている双子は自分達が主と共にシャッホロへ移り住む未来を想像してそれも悪くないと呟いた。 そして、 「なんじゃ、ハクにはすでにちゃんと頼れる者がおったのか。……よかった」 「いくらソヤンケクル殿といえどもハクは渡せぬ」 驚愕の後に放たれた二人の言葉。それは同時でありながらも完全に趣を異にしている。互いに互いの言葉を理解した後、アンジュはゆっくりとオシュトルの方へ頭を巡らせ、オシュトルは同じ速度でアンジュから逃げるように目を逸らした。 「のう、オシュト――「アンジュ! お前は本当に優しい子だな……ッ!」 アンジュが据わった目で何かを言わんとしたが、それより先に姪の健気さと思いやりの深さに胸を打たれた叔父が力強く少女を抱き締めた。途端、引き攣っていたアンジュの顔がほわんと蕩け、幸せそうに目を細める。 一方、残されたオシュトルの側では治療を終えたウルゥルとサラァナが彼の視線の正面に陣取り、感情の読み取れない無表情で淡々と告げた。 「仕方のないこと」 「オシュトル様のせいで主様が大層落ち込まれている時に心の支えになってくださっていたのがソヤンケクル様ですので」 「うぐ」 矢でも受けたかのようにオシュトルが胸を押さえて呻く。思い当たることが多過ぎるせいで何の言い訳も反論もできない。 だが呻いた後でちらりと一瞥したハクがアンジュを抱き締めたまま幸せそうに笑っているのを見て、ふっと目元を和らげる。確かにソヤンケクルがいてくれたからこそ、今こうしてハクが笑っていられるのかもしれない、と。 「では彼の御方に感謝すると共に、帝都に戻り次第しっかり絞られてくるとしよう」 「それが賢明」 「終わられましたら、どうぞ主様が待つ聖廟までお越しください」 双子は頷き、そして最後に声を揃えてこう告げる。 「「主様はオシュトル様のことが本当に大好きでいらっしゃいますので」」 《おまけ:終》 2016.06.11 Privatterにて初出 |