敵の目的にアンジュだけでなくオシュトルの排除も含まれていると気付いたところで、今から引き返せるはずもなく。そのまま進軍し、姫殿下達が賊に襲われたとされる場所で捜索隊一行が足を止めた瞬間、事態は動いた。
街道の両脇にはまばらに木が生えていた。森どころか林と呼ぶのさえ躊躇われるほどで、視界は大して悪くない。だがその木々の合間からオシュトル達に向かって幾本もの矢が飛んできたのだ。 「敵襲ー! 敵襲ーーッ!!」 鍛えられた兵達は即座に盾を構えるか遮蔽物に身を隠す。矢の数にも限りがあるはずで、無限に放たれる訳ではない。事実、矢の雨はすぐに止み、敵の撤退する気配が伝わってくる。少年と一緒に盾兵が掲げる盾の内側に避難していたオシュトルはそこから飛び出して声を張り上げた。 「追え! 逃がすな!!」 襲ってきたのは十中八九アンジュ姫殿下一行を襲った者達だろう。ここで逃がせば手がかりが消える、と迷わず進軍する。その傍らに少年が並んだ。 「オシュトル、これは自分達を敵の陣に引き込むための罠だ」 「承知の上。故に――」 オシュトルは背後に目配せし、一瞥を受けて近付いてきた同隊の者にこう伝えた。 「全員には知らせず、速やかに少人数の別働隊を作れ。人選は任せる。本隊の陰に隠し、敵に気付かれぬ場所に配すよう」 「承知」 部下は短く答え、隊の中に紛れる。再び少年の方へ視線を向ければ「流石だな」と称賛の声が返ってきた。 少年の言った通り、これは敵の罠だ。しかし彼等を追わなければきっと姫殿下の元へは辿り着けない。ゆえにオシュトルは秘密裏に別働隊を作り、いざという時はその少人数の隊が動いで姫殿下を助けられるようにしたのだ。 帝より仮面を賜り『仮面の者』となったことでオシュトルはほぼ全ての事象において力押しができる立場になっている。だが相手はアンジュとオシュトルの両方を亡き者とするため密かに策を巡らせてきた悪党。であれば、こちらもいざという時に切れる手札を増やしておくに越したことはない。 オシュトルは別働隊を作るよう命じた後、自身は力を持つ者が正直に敵を追い回す役を演じて、徐々に緑が濃くなる木々の向こうへと突っ込んでいった。 悪くなる視界、深まる緑。あちらこちらで剣戟の音がする。敵とオシュトルの隊の一部が早くも剣を交え始めているのだ。しかしオシュトル本人に直接斬りかかってくる者はなく、ちらちらと背中を見せるように走っては奥へ奥へと誘導している。 かなりの人数で構成されていた隊は木という遮蔽物によりいつの間にか散り散りにされ、オシュトルの傍には采配師の少年と捜索隊の部下三人しかついて来ていない。あまりにも鮮やかに隊を解体されて背中を嫌な汗が流れる。敵の誘導が上手いのだとしてもこれは少々おかしい。 オシュトルは少年と顔を見合わせた。少年の唇が苦虫を噛み潰したように歪められる。 「……捜索隊にも向こうの手の者が紛れ込んでいたようだな」 オシュトルが右近衛大将の位についてからまだ一年も経っていないため、右近衛府そのものに黒幕の仕込みがあったとは考えにくい。また苦楽を共にしてきた近衛府の兵に裏切り者がいたとは信じたくなかった。 おそらく右近衛府だけでは足らないとして補充された兵の中に黒幕の手の者が紛れ込んでいたのだろう。これは隊の大部分が右近衛府の兵で構成されていたがゆえの油断。仕込まれた毒は少量でも十分に効果を発揮してしまったというわけだ。これでは別働隊が期待通りに動いてくれるかすら怪しい。 しかし足を止める訳にはいかなかった。きっとこの先にオシュトルを無力化するための人質――アンジュ姫殿下がいるのだから。 苦い表情を浮かべつつも進み、ウマで駆けるのが難しくなってきたため仕方なく下馬する。少年の体力に不安はあったが、しばらく走っていると急に視界がひらけた。 「……っ!」 オシュトルらは息を呑む。木々の向こうにぽっかりと現れた空間には半ば崩れ落ちた古い砦が聳え立っていた。 人々に存在すら忘れ去られていた砦跡。その手前で見知った者が二人、そして十人以上の見知らぬ者達がオシュトルらを出迎える。 「姫殿下!」 オシュトルの声に項垂れていた少女が顔を上げた。 「っ、オシュトル! ……ッ!?」 鮮やかな琥珀色がオシュトルを見てほっとする。しかしその後すぐ別の場所を向いて驚きに目を見開いた。だがその彼女がどこを見ているのかオシュトルが気付く前に、もう一人の見知った人物――先程オシュトルに別働隊を組織するよう命じられた兵士が慇懃無礼な仕草で一礼する。 「お待ちしておりましたよ、オシュトル殿。少々余計なものもくっついているようですが、これくらいなら問題ありませぬな」 言うや否や、正面の賊ではなくオシュトルに付き従っていた者達のうち一人が背後から少年の腕を捻り上げた。 「いっ……」 「シロ!」 オシュトルがそれを声を荒らげると残り二人の部下――否、捜索隊に紛れ込んでいた裏切り者達がその前に立ちはだかる。 「退かぬか!」 「そのような言葉はご自身の立場を分かった上で口にしていただきたい」 ニヤリといやらしく口の端を持ち上げる兵士。今ここで抵抗すれば大事な姫殿下の安全は保障しないということだ。 「くッ!」 「そこの子供は采配師とのことでしたが、ほうほう。どうやら右近衛大将の大事な御方らしい」 オシュトルの焦りを含んだ声に男達がくつくつと下卑た笑みを浮かべる。その声を掻き消すようにアンジュが「やめよ!」と声を張り上げた。 「や、やめるのじゃ! 其方等が欲しているのは余とオシュトルの身柄であろう? なればそこな子供に危害を加えるでない!」 しかし少女の気丈な振る舞いは何の役にも立たず、男達は「姫殿下は本当にお優しい方ですねぇ」と猫撫で声で嘲る。それどころか男達は面白がって少年が痛みを覚えるよう更に腕を捻り上げた。 「っあ……」 「シロッ!」 「やめるのじゃ!!」 少年の呻き声にオシュトルだけでなくアンジュまでもが顔を青くして叫ぶ。 だが腕を捻った男は構うことなく少年をアンジュの隣まで引き摺って地面に膝をつかせた。片腕はまだ捕まえたまま。縄で拘束しないのはその必要がないからと判断したためだろう。確かにあの少年は非常に力が弱い。 アンジュが己の横に連れて来られた少年へと身を傾ける。 「ハ、」 「姫殿下、ご無事ですか。お怪我は」 「ッ!」 自身が危機に陥ってもアンジュに語りかける少年の口調には落ち着きがあり、その声音はとても柔らかかった。アンジュは唇を噛み締めて、「大事ない」という一言だけ絞り出す。それを聞いて少年はほっとした気配を滲ませるのだから、オシュトルもアンジュもたまったものではなかった。 「けっ」 賊を恐れる様子のない少年に頭領らしき粗野な雰囲気の輩が忌々しげな顔をする。だが少年の代わりにアンジュが怯えたことで溜飲を下げたのか、手や足が出ることはなかった。 そして賊達の興味は無力な少年からこの場で最も大きな力を持っているであろう男へと移る。 アンジュを人質にとられていることで完全に抵抗を封じられた右近衛大将オシュトル。帝から賜った仮面もアンジュが敵の手に在っては使うことなどできない。 オシュトルは歯噛みした。二人を助けるための手段が思い描けない。 左右に目をやれば、オシュトルの部下を装っていた賊共が得物を構えてニヤニヤと嗤っている。しかもすぐに死ぬことが無いようにとの考えなのか、どちらの男が構えているのも鞘がついたままの剣。無論、それとて力の強さや当たり所によっては即死だが、刀身を晒したまま扱うよりも余程上手くなぶることができるだろう。 次いで人質となった二人に視線を戻す。これからオシュトルの身に降りかかることを悟った少年少女等は片や「やめるのじゃ」と声を震わせ、片や紗の向こうからでも判る強い眼差しを向けている。 少年の言わんとしていることをオシュトルは重々承知していた。黒幕はアンジュもオシュトルも排したいと考えている。つまりここでオシュトルが手も足も出ずなぶり殺しにされても、それで代わりにアンジュを助けてもらえるなど決して有り得ない未来なのだ。 (しかし) どうしろと言うのか。 もしもの時に用意した別働隊は失敗し、オシュトルの前には捕らわれてしまった大切な人々。そのどちらも決して欠くことはできない。 また何故かオシュトルは、あの少年であれば自分に何かあっても最後には上手く対処してくれるのではないかと思えた。言えばきっと少年は激怒してしまうだろうが、いざとなれば彼に全てを託して己は消えてしまっても大丈夫なのだ、と。 その考えが顔に表れたはずはないのだが、視線の先で少年がぴくりと肩を震わせる。唇が戦慄き、音もなく「なにを」と呟いた。 直後、 「さぁ跪け!」 得物を構えていた賊の一人が思い切りそれを振りかぶり、オシュトルの脚を打ち据えた。折れることはなかったが、衝撃にオシュトルは膝を折る。アンジュが短い悲鳴を漏らし、その横で少年がまたも声無く「やめてくれ」と呟いた。 「姫殿下の命が惜しいなら大人しくしてろよ」 下卑た声がオシュトルの頭上から降ってくる。すぐ後に背側から肩を打たれ、躰が折れたところで今度は腹側を殴られる。重い打撃音が響き渡り、砦の石壁に当たって反響した。 それでもオシュトルは抵抗しない。できない。ただ痛みに耐え、アンジュの悲鳴を聞き、そして―― 「……っ、あがッ!!」 思い切り頭を殴られて一瞬意識が飛ぶ。帝から賜った仮面も弾き飛ばされた。仮面は装着した者に天外の力を与えて異形のモノへと変えることができるが、それ以前に純粋な身体能力を強化する作用も持ち合わせている。これが外れれば、すなわちオシュトルの肉体は単に鍛えられたヒトのものへと戻るということ。そんな状態のオシュトルに次の一撃が迫る。 「やめろっ! やめてくれ!!」 聞こえたのはそれまで声を堪えていた少年の懇願だった。 賊を楽しませるだけの悲鳴や懇願を口にする暇があるなら解決策を導く。おそらくずっとそうしていたであろう少年が、しかしとうとう耐え切れなくなったのだ。 「オシュトル……ッ!」 地面に膝を付いたまま乞うように片腕を伸ばす。その哀れな様を面白がって、オシュトルを殴りつけていた賊達も一旦なぶるのを止めた。「おうおう、可愛らしいもんだなぁ」と嘲弄し、少年が怯えると判っていてオシュトルを殴るフリだけをする。 「し、ろ」 「もういやだ。お前が傷つくのは見たくない。お前が死ぬのは、お前が消えてしまうのは――ッ」 半狂乱になって何かを掴もうと伸ばされる腕。しかし何も掴めず握り締められる指。その目は顔の上半分を隠す紗のせいでどこを見ているのか判らない。オシュトルの名を呼びながら、けれどオシュトルではないものを見ているようであり、しかしただひたすらオシュトルだけを見つめているようでもあり。 そしてその必死な様に傍らにいた少女が動いた。 「オシュトル、反撃せよ! 余のことは考えるな! それにハ……シロには守護がある故、問題ない! じゃから……きゃ!」 最後まで言い切る前にアンジュの腕が捻り上げられた。「アンジュ!」と、少女の悲鳴に正気を取り戻した少年が声を上げる。 少女の腕を捕らえたまま賊の頭領が舌打ちを零した。 「ごちゃごちゃとうるせーんだよ、姫さん。いいからアンタは黙ってオシュトルの野郎がなぶり殺されるのを見物してりゃあいいんだ」 「っ、はなせ! 離すのじゃ! オシュトルっ、其方は失われてはならん! 余は其方を信じ、其方のために心を砕き、其方を大切にしている者を知っておる! その者のためにも死んではならんのじゃ!! それに、その者がおれば國も安泰! だから余に構わず抗うのじゃ!!」 「だからうるせえって言ってんだろうクソガキがっ!」 賊の頭領が小さな躰を殴りつけるべく腕を振り上げた。アンジュのような少女が体格のいい男に思い切り殴られれば、最悪それだけで死んでしまいかねない。しかしオシュトルの位置からでは到底間に合うはずもなく。 姫殿下! と焦るオシュトルの声に合わせて影が走る。油断していた賊の腕を無理やり振り切り、白を基調とし青が差し色として入っている衣をはためかせてアンジュと大して変わらぬ小柄な人影が彼女を庇うように抱き締めた。と同時に、男の拳が少年の頭部を殴りつける。 「――ッ、」 声すら出せず、少年の躰が宙に浮く。そして受け身すら取れずに薄い躰が地面で跳ね、ごろごろと転がり、うつ伏せの状態で止まった。躰はぴくりとも動かない。殴られた時に飛ばされた帽子が遅れて地面に落ちる。 アンジュが悲鳴を呑み込むように両手で口元を押さえた。 「〜〜〜〜ッハ、」 「シロ!!」 オシュトルも思わず駆け出そうとする。だがそれを許してくれる賊ではない。再び脚を打ち据えられ、オシュトルはその場に倒れ込んだ。 「し、――」 少年に向かって届くはずもない手を伸ばすオシュトル。視線の先で地面にじわりと赤い液体が広がっていくのが見えた。悲鳴を呑み込んだのはアンジュか、それともオシュトルか。 しかし次の瞬間、うつ伏せの状態のまま少年が呻き声を上げた。 そして、 「……っ。いや、いい。怪我の治療はあとだ。すまんな、お前達にも随分我慢をさせた」 アンジュでもオシュトルでもなく、もちろん己を傷つけた賊でもなく。別の誰かに向かって告げる。 少年がふらりと立ち上がった。足取りは頼りないものだが、まるで左右から誰かに支えられているかの如く、転倒することはない。殴られた時に傷ついたらしいこめかみの辺りを押さえる手によって、オシュトルの側からではその顔を確認することができなかった。 「ははっ……まったく、自分は馬鹿だな」 「ああ?」 アンジュを殴ろうとして邪魔されたからだろう。賊の頭領が眉を吊り上げる。しかし少年は構うことなく、自身に向けて独白を続けた。 「今必要なのは隠蔽か? 沈黙か? それとも弁解か? 釈明か? どれも違う。この場で最も取るべき行動は自身の保身なんかじゃない。自分にとって優先度が高いのはオシュトルが己に向ける態度であるはずがなく、國の安寧と大事な人々が健やかにあることだ。ああ、そうさ。確かに自分はオシュトルに嫌われたくない。でも自分にはたとえオシュトルに嫌われたとしても守りたいものがある。最初からそう決めていて、そのために今ここ≠ノいる」 少年がうつむき気味だった顔を上げた。傷から手が外され、その表情がこの場にいる全員の前に晒される。 彼の素顔を見て息を呑んだのはただ一人。 きっとアンジュは最初から少年が何者であるか知っていた。 賊達はそもそも『彼』の素顔を見たことがない。だから少年が誰なのか判らない。 ただ唯一、オシュトルだけが声を失い、目を大きく見開く。 こめかみから流れる赤い血で顔も服も穢しながら、それでも毅然と、凛として。太陽よりもなお気高い琥珀色の双眸で、少年は周囲を睥睨する。 そして瞬きの間に彼の両隣に現れたのは肌の色以外そっくりな双子の少女。薄絹に身を包んだ彼女等は、たった一人にのみ仕える巫――『鎖の巫』。 「まさか……」 オシュトルの声が震える。一瞬、深い琥珀色の双眸がオシュトルの方を向き、悲しげに歪んだ。しかし次の瞬間には賊共を見据えて冷たい光を宿し、厳然なる支配者の顔で少年は巫達に下命した。 「帝弟ハクの名において命じる。……――賊を殲滅せよ」 「「御心のままに」」 双子の娘達が唯一無二の主に一礼する。 そうして炎が、氷が、風が、土塊が、光が、闇が。巫達の手により賊へと一斉に襲い掛かった。 2016.06.11 Privatterにて初出 |