「ウルゥル、サラァナ」
 聖廟からここまでずっと術で姿を消したまま付き従っていた『鎖の巫』達は、自分達の主に呼ばれて術を解除する。長い袖で少々判りにくいが未だ治療させてもらっていない彼の右手の腫れを心配げに一瞥した後、二人の少女は頭を垂れて口を開いた。
「ここに」
「お呼びでしょうか、主様」
 先程まで右近衛大将オシュトルと共にいた彼女等の主だが、今はまた独りきりになっていた。オシュトルはアンジュ姫殿下捜索隊の準備の指揮を執るため、ことのあらましをハク――オシュトルにはシロと名乗っているが――に説明した後、一旦そちらの作業に戻っている。捜索隊は右近衛府の兵士を主体としているが、他の隊からの人員も含まれているため、まとめるのに少々手間がかかるのだ。
 一方、ハクの方もオシュトルが采配師としてただの子供を連れていると侮られないよう、身にまとう衣装だけでもそれらしい物に変えてくると告げていた。今はその着替えを調達するため移動していたはずだったのだが……。
「お着物でしたら我々がご用意を――」
「ああ、そちらも頼みたいが、まずは兄貴のところに向かう。時間を節約したいんで、悪いが道を繋いでもらって良いか?」
「承知」
「ただちに」
 一礼し、早速二人は母である大宮司と連絡を取る。すぐさま帝との面会が可能であると返答があったのでそれを主に告げた後、空間を繋げるための術法を行使した。あっと言う間に周囲には靄が立ち込め、宮廷の一角から聖廟の地下へと繋がる道ができあがる。
「「どうぞ、主様」」
「すまんな」
 二人の少女の頭をくしゃりと撫でてハクが歩き出した。優しいその手つきにウルゥルとサラァナは一瞬頬を緩ませるが、状況が状況なだけにすぐさま表情を引き締める。
 帝との面会はアンジュ捜索のための隊に加わる――つまり高確率で戦闘場面に遭遇する――ことを事前に連絡しておくためだろう。その戦場で二人の主は帝弟としてではなく庶民の少年として立つ。庶民としてということであれば護衛のために割かれる兵は決して多くなく、また帝弟に付き従っている鎖の巫が彼の隣で堂々と守護することは許されない。いざという時には自分達が身を挺してでも主を護るつもりだが、やはり心配なことに変わりはなかった。


「自らアンジュの捜索に赴くか……しかも護衛すら満足につけず一般人として、など」
 決して肯定的ではない声音で老爺――大國ヤマトの建國者にして現統治者である帝が呟く。
「お前には私の研究を継いでもらわねばならん。アンジュの代わりは用意できるが、お前に代わりはいないのだぞ?」
「判ってるよ。兄貴の願いは十分理解しているし、自分がそれを継ぐという気持ちにも変わりはない」
 円卓を挟んだ対面の椅子に腰を下ろしたハクが頷いた。
「なれば……」
「だが兄貴がもし政に関われなくなったとして――考えたくはないが本人曰く寿命ももうすぐだと言うしな?――その時、自分が研究に専念するにはやっぱり地上を……ヤマトを上手く統治する者が必要だ。國が荒れているより安定している方が自分も落ち着いて研究できるだろうし。で、そのために育ててきたアンジュに何かあれば、また一から始めることになっちまうだろう? だったら多少の危険は覚悟の上で今はあの子を助けるべきだ」
 とてもではないがハクの物言いは彼を慕う人々に聞かせられるようなものではない。それはヒトを己と同じ生き物とは思わぬ言い方である。
 しかし双子の少女等が表情を変えることはなかった。亜人と呼ばれる獣の耳と尻尾を持つ『ヒト』を、創造主たる帝は過去のいざこざから決して良く思っていない。だがその実弟であるハクは事情が違う。彼は兄も、ウルゥルやサラァナも、そして亜人達も、皆大切に思っていた。だからこそ大切なものの一つであるアンジュを自身にできること全てを使って救うため、本心に反して帝が納得する言葉を選んでいるのだろう。
 本来ならば帝に嘘を吐いたハクは許される立場ではない。しかし二人の主は帝ではなくハクである。実情を知っていながら黙したままの少女等にハクは優しい一瞥を向ける。それが二人にとってはとても誇らしかった。
「どうだ?」
「ふむ。一理あるか」
 帝が首を縦に振った。ハクの口元に笑みが浮かぶ。
「じゃあ……」
「よかろう、許可する。ただし鎖の巫は常時傍に付けておくように。ウルゥル、サラァナ、何があっても必ず我が弟を護るのだぞ」
「承知」
「この命に代えても主様を御守りいたします」
 ウルゥルとサラァナは深々と頭を下げた。
 彼女等が頭を上げると同時にハクは椅子から立ち上がり、「それじゃあ行ってくる」と兄に告げる。その背に「気を付けて行ってくるがよい」と純粋に弟を心配する兄の声がかけられた。
 二人も主の後に続き、ある程度の所で空間を繋ぐ術を発動させる。
 靄に包まれた道を歩きながらハクがぽつりと独りごちた。
「すまんな、兄貴」
 それは届けるべき相手には決して届かぬ――届ける気のない――言葉。
「もうこの世界は人間のものじゃない。亜人の、ヒトの、ものだ。だから」
 ここではないどこか遠い場所を見つめて、ウルゥルとサラァナの大切な主は告げる。

「研究は継げないし、アンジュの代わりも要らない。無茶をしてでもあの子は必ず助ける」

* * *

 捜索隊の準備が整い、オシュトルは采配師として招き入れた少年と共に隊を率いて帝都を発った。
 姫殿下一行が襲われたのはマルルハと帝都の中間よりも少しだけ帝都寄りの地点。近くには援軍を頼めるような都も砦もなく、危機を伝える役目を負った兵は帝都までの決して短くはない距離を必死に駆けた。その道を今はオシュトル達が進軍している。
 ウォプタル(ウマ)に跨る騎兵を主として構成された隊は通常の軍よりずっと移動速度が速い。もう間もなく目的の場所だ。しかしそれ以上に気が急く。一刻も早くアンジュ姫殿下の元に辿り着き、自分達の日輪花(ティマノンナ)をお救いしなければ、と。
 だがそう思う一方で、すでに手遅れなのではと考える己もいた。アンジュが帝都を発ってからすでに三日。襲われてから二日である。その間、姫殿下一行を襲った賊が彼女を五体満足で生かしている保証などどこにもない。誰も最悪の事態を口にしないのは、それを信じたくないからと、不敬だという非難の声を己に向けられたくないためでしかなかった。
「……、」
 オシュトルは仮面の奥で眉間に皺を寄せる。
 アンジュはその微笑みで民を元気にし、その施策で民の生活を豊かにする、まさにヤマトの宝だ。そんな彼女が失われたならば、ヤマトにとってどれほどの損失となるだろうか。彼女を慕い、また彼女に愛される民の一人として、オシュトルの胸には焦りとも絶望ともつかぬ思いがとぐろを巻く。
 だがオシュトルの中に生まれた黒いものを散らすように、並走していた少年がウマを寄せてきた。
「オシュトル様」
「シロ殿……」
 周囲への体裁を取り繕うためそれぞれ『様』と『殿』を使いながら呼び合う。
 少年は年齢の割にウマの扱いが驚くほど上手かった。おかげで当初は自身のウマに相乗りさせようとしていたオシュトルが拍子抜けしてしまったほどである。なお、いつどこで練習したのか尋ねたところ明確な答えは返ってこなかったが、「ずっと昔に必要だったから乗れるようになったまでだ」とのことだった。
 現在、安っぽい出来損ないのお面の代わりを果たしているのは顔の上半分を隠すよう前面に濃紺の紗が垂れている帽子である。更にオシュトルの采配師役であるためその色に合わせたのか、帽子も衣服の上下も外套も白を基調とし、青が差し色で入っていた。決して安物ではないそれに、やはりこの少年は只者ではないのだとオシュトルに再認識させる。
 ともあれ、ウマを寄せてきたということは何かあるのだろう。オシュトルは「如何(いかが)した」と少年に先を促す。少年は隣のオシュトルを見上げ、ふっと短く息を吐いた。そして更に距離を詰め、声を潜めて告げる。
「あまり心配するな。少し考えていたんだが、おそらくあんたが到着するまで姫殿下は御無事だ」
「何故(なにゆえ)そう思われる」
 少年の考えにオシュトルは怪訝な表情を浮かべる。アンジュが無事なのは幸いだが、何故オシュトルが到着するまでは無事だと言い切れるのだろうか。
 相手に合わせて小声で問いかければ、少年が紗の向こうから周囲を見回した。
「ここまで駆けてきて判った通り、帝都からマルルハまでは整備された街道が続く。特にこの辺りは深い森に面している訳でもなく、見通しはかなり良い。つまり救助を求めるために伝令兵が複数放たれたとしても、本来ならそいつらが逃げ切れるような場所じゃないってことだ。敵は曲がりなりにも天子の護衛を担っている隊を負かすほどの奴らだぞ? 伝令兵を一人残らず捕まえることだって難しくはないだろう。だというのに、伝令兵は帝都に戻って来られた。……その意味が解るか」
「まさか」
 絶句するオシュトルに少年がこくりと頷く。
「単なる偶然か、類稀なる幸運だった可能性もない訳ではない。しかし普通に考えれば、こうして自分達を帝都の外におびき出すことも敵の目的の一つだったんじゃないか」
「ッ、」
「帝都の外で姫殿下に何かあれば、まず最も機動力の高い近衛大将の隊が動く。しかも先に姫殿下を捕らえて人質にしておけば、駆け付けた近衛大将は敵を前にして手出しができない。そうすれば後は向こうの思うがまま。なぶり殺しにしておしまいだ」
「では某かミカヅチ殿のどちらかを排するために……」
「いや。目的は左近衛大将ではなく、オシュトル、あんた一人だろう」
 少年がばっさりと言い切った。何故と視線で問えば、彼は器用に肩を竦める。
「オシュトルが有能かつ姫殿下のお気に入りだから、だな」
 本人も強くは否定しない事実と、宮廷内でまことしやかに囁かれている噂。その二つを挙げた少年が少し低くなった声で続けた。
「実はあんたに声をかけられる前、こっちで少し調べたんだ。……宮中に姫殿下のマルルハ行きを画策した黒幕がいる。そいつは次のヤマトを統治するに相応しい姫殿下ではなく無能で愚鈍な帝弟を帝位継承者に祭り上げ、帝弟を傀儡にして自らがヤマトの実権を握ろうと考えた。そんなヤツにとって姫殿下のお気に入りかつ清廉潔白公明正大と名高いオシュトルのような人物は邪魔以外の何ものでもない。だから姫殿下と一緒にオシュトルまで消そうと計画したんだろう」
 少年の薄い唇からチッと忌々しそうな舌打ちが漏れる。
「迂闊だった。そんなの少し考えれば帝都にいた時点で判っただろうに……。どうやら自分は随分と冷静さを欠いていたらしい」
 後半はほぼ独白となり、しかしまだ最後の結論を言っていなかったと思い出して少年は声音を元に戻した。
「つまりそういう訳で、オシュトルが殺されるまでなら姫殿下は御無事だ。だがオシュトルが死ねばすぐに姫殿下も殺される。どちらにせよあんたは死んじゃいけないから、その辺よろしくな」
「相判った」
 そういうことであればとオシュトルも頷く。
「それにしてもなんと非道な……自らの欲のために姫殿下を亡き者にしようなど」
 部下達の混乱を招かないためにも怒気は最低限にまで抑え込んだが、それでも僅かに滲んでしまう。オシュトルの隣を並走する少年がふるりと身を震わせ、「判らなくはないが、今は堪えろ」と囁いた。
「……む、すまぬ」
「いや、國と民を思うあんたらしいっちゃあらしいよ。悪くない」
 そう微笑む彼のおかげでオシュトルもようよう感情の昂りが治まってくる。その変化にほっとしたのか、少年がぽつりと独りごちた。
「表立って國に尽くせば後継者争いを引き起こし、逆に無能であってもこうして騒動の種になる。……これがベストだと思ってたのになぁ」
「シロ?」
 声が聞こえ難かったのと自分の知らない言葉が混ざっていたのとで、オシュトルには少年が何を言ったのか理解することができない。首を傾げてどうかしたのかと尋ねれば、少年は紗の向こうでにこりと微笑み、「なんでもない」と頭(かぶり)を振る。
 本当になんでもないこと――気にする必要のない些細なこと――なのか、それともオシュトルには教えられないことなのか。あまり近くを走り過ぎていても危険だからと離れていく少年にオシュトルが問える機会はなかった。







2016.06.10 Privatterにて初出