ヤマトは数多くの小國を属國とした巨大かつ強大な國である。しかし國境を接する全ての國がヤマトに頭を垂れている、もしくは友好的な関係にある訳ではない。ヤマトの北方にあるウズールッシャなどは痩せた土地しか持たぬためたびたびヤマトへと攻め入り、略奪行為を繰り返していた。
 その対処に当たっているのがウズールッシャのすぐ近くにある属國マルルハの兵士等である。彼の國に配備された彼等は決して負けてはならないヤマトの兵として常に緊張感に晒されていた。
 そんなマルルハの民と兵士等を鼓舞し士気を高めるため帝室の者が彼の地を訪問してみてはどうかという案がどこからともなく持ち上がった。偶然か、それとも必然か。作為的なものなのか。気付いた時には、その案は殿上人達の多くが口にするようになっており、誰が奏上した訳でもなく自然とアンジュの耳にも入っていた。
 帝室の者と言っても該当者は三人しかいない。帝と帝弟ハク、そして近年政治に関わる者として目覚ましい成果を出している天子アンジュである。そのうち帝自らマルルハなどという遠方に赴くはずがなく、また無能とされる帝弟が訪問しても兵等が喜ぶことはないだろう。であれば必然的にアンジュがその任を負うこととなる。
 これまでアンジュは帝都の外にすら出たことがない。それがいきなりヤマト統治下の最も端に位置するマルルハとなれば躊躇わないはずがなかった。しかし少しでも早くハクが望む為政者として成長したかった彼女は、そのために出来ることは全てやりたいとマルルハ行きを決意。殿上人達からの提案という形ではなくアンジュ自身の希望として『天子アンジュのマルルハ訪問』は決定したのだった。


 本物の自然光ではなく自然光に似せて調整された光が降り注ぐ場所。その一角に設けられた一本足の円卓の前に一人の人物が腰かけていた。
「グンドゥルアが各部族をまとめ上げてヤマトに侵攻してくるのはもう少し先になる……。だからまぁ今の時期ならアンジュがマルルハを訪問してもマズい事態には巻き込まれないはず。無論それも絶対とは言えんが、アンジュが折角希望したことなのに自分がケチをつけちまうのもなぁ。それならむしろ準備万端で送り出してやる方がいいのかもしれん」
 ぶつぶつと呟くハクの声はほとんど口の中で籠ってしまい、アンジュがきちんと聞き取ることはできない。しかし最後の方は何とか意味を解し、どうやら叔父は姪を心配しつつもその決意を尊重したいと考えてくれているようだと知って胸に熱いものが宿る。
「必ずや立派に務めを果たしてくるから、期待しておれよハク!」
「うおっ!? アンジュいたのか!」
「ふふふ」含み笑いを零しながらアンジュは朱と黒に塗られた円卓に手をついた。「真剣な表情で何事かを考えるハクの姿も良いものじゃな。これでハクが血の繋がった叔父上でなければ惚れてしまっていたやもしれん」
「うーん、自分はそんなに年下趣味じゃないんだがなぁ」
「? 何を言うておる。余と其方の齢は左程変わらんだろうに」
「ああー、まぁそうか」
 そう言ってハクは微笑む。伸びた手はアンジュの頭を優しく撫で、このひとに大切にされているのだということをアンジュにしっかりと伝えてきた。喜びで思わず耳が動いてしまう。
 くすり、とハクの吐息が聞こえた。
「マルルハはちと遠いかもしれんが頑張れよ。アンジュが来たとなれば皆きっと喜ぶ。ついでに次の御世もこのヒトがいれば安泰だとしっかり思わせてこい」
「うむ! 任せておけ!」
 ハクに期待されている。そのことが何よりも嬉しい。
 必ず期待に応えてみせる、とアンジュは更にやる気を高めた。
 それからひと月後。準備が整えられ、天子アンジュの出立と相成り――。


 帝都に残ったハク達の元に、アンジュ姫殿下消息不明の知らせが届けられた。

* * *

「あー、あー、あーっ! クソっ!!」
 ガッと少年の拳が無機質な壁に叩きつけられる。自身の手でありながら思い切りぶつけられたそれは、元々他人より柔らかな皮膚だったことも相まってすぐに腫れ上がっていく。だが構わず二度三度と壁を殴りつけ、少年は呻いた。
「してやられた! マルルハの話はクソ貴族の陰謀か!」
 普段ののんびりとした彼らしくない荒々しい物言い同様、虚空を睨み付ける双眸も酷く険しい。だが仕方のないことだ、と事情を知る者であれば言っただろう。
 彼の姪であるアンジュがマルルハへと旅立った後、帝都に恐ろしい知らせが舞い込んできた。マルルハへの道中、アンジュ達一行が何者かに襲われ消息不明になったというのだ。
 現在捜索隊が組まれ、出発の準備が大急ぎで進められている。『無能な帝弟』がそれに噛めるはずもなく、また捜索隊を率いる人物が信頼の置ける男であったため、少年は聖廟の地下にある自室で独自にこの件を調べ直していた。結果、マルルハへの訪問自体が仕組まれていたものだと判明したのである。
 いつの間にか殿上人達の多くが自分自身の考えだと思い込んでいた帝室のマルルハ訪問。しかし皆がその考えに到るよう情報を流し、考えを操作した者がいる。その者はアンジュを邪魔者だと判じ、ついに亡き者にしようと今回の事件を引き起こしたのだ。
「有能な姫殿下ではなく愚鈍で無能な帝弟を次期帝の座に据えて、自分達がそれを後ろから操る――。どこにでも腐った考えを持つ蛆虫ってのは湧いてくるんだな」
 アンジュが次の帝となるに相応しい力を示し始めたが故の弊害、と一言にまとめてしまうこともできたが、そんなものでは到底足りない怒りが少年の中で湧き上がる。そして吐き捨てると同時に少年は素早く手を動かし、目の前に広がる画面を操作していった。『人間』としての技術力と能力、そして帝弟としての権力。その全てを使ってでも犯人に罪を償わせてやる。自身がアンジュ救出に赴けないのならせめて、と。
 だが少年の策が実行に移される前に新たな人影が部屋の中に現れた。
「主様、伝言」
「主様、ウコン様より伝言がございます」
「……ウコンから?」
 画面を睨み付けていた深い琥珀色が背後の少女等に向けられる。少年を主とする双子の巫、ウルゥルとサラァナの言葉に少年ははたと瞬いた。
「あいつはアンジュ捜索の準備を進めているはずなんだが――……」
 天子の危機に派遣されるのは、高い機動力を持つ騎兵を主体として構成された近衛兵のうち右近衛大将配下の者達。つまり右近衛大将オシュトルであるウコンは現在、少年の仮の姿『シロ』に構っていられる余裕などないはずなのだ。
 そんな恐ろしく多忙であるはずのオシュトルがわざわざ連絡を取ってきたとは、つまりそうしなければならない事態が発生したと言うこと。少年はすぐさま思考を切り替え、鎖の巫達に先を促す。
「ウコンは何て?」
「主様にご助力願いたいことがあるとのことです」
「詳細は不明。しかし至急」
 褐色の肌のサラァナと白い肌のウルゥルが交互に告げる。と同時に少年は彼女等が携えていた文を受け取った。内容を確認しても、双子が口にしたこと以外書かれていない。どうやら詳しい話はウコンと会ってからのようだ。
 少年は頷き、席を立った。黒幕にはしっかりと報いを受けさせるつもりだが、アンジュの救出には直接関係のない復讐よりも緊急事態であろうウコン(オシュトル)の方が優先度はずっと高い。
 少年は素早く市井の子供らしい服に着替え、出来損ないのお面を手に取って地上へと向かう。
 先程自ら何度も壁に打ち据えた拳がじわじわと熱っぽい鈍痛を訴えていた。しかし今は治療する間も惜しい。双子の少女等が心配そうにしていることには気付いていても、少年は構わず足早に歩き続けた。

* * *

 シロと名乗るお面の少年と繋ぎを取るためウコンが訪れたのは、数年前――帝弟殿下が帝室に加わって少し経った頃――に帝都で店を開いた料亭『暁楼』(あかつきろう)。比較的新しい店でありながら老舗に劣らぬ風格を持ち、提供される料理も給仕も超一流であるそこは、開店当初から貴族や大商人によく利用されている。ここの顔馴染になるということが彼らの中で一種の箔付けとなっているのだ。そしてそれを示したい貴族に誘われてオシュトルも何度かここを利用したことがあった。
 暁楼の裏口にて見張りをしている者に少年から指定されていた合言葉を告げれば、すぐに中から艶やかな着物をまとった女が出てくる。その容姿は着物に負けず劣らず美しい。だが異性たるウコンに媚を売ることも逆に美しさを笠に着た高飛車な態度を取ることもなく、暁楼の主人代理であると名乗った彼女はウコンが携えていた文を預かり、すぐに目的の人物へ届けると約束してみせた。「この件、我らが主よりよくよく言い付けられておりますので」と。
 まだ若い店とはいえこのような格式高い料亭に繋ぎを頼めるほどあの少年は特別な場所にいるらしい。しかし格式高いからこそここの者は容易く少年の情報を吐いたりはしないだろう。
 ウコンも少年とこの料亭の関係について色々尋ねたいことはあったが、彼女等の口はおそらく非常に堅く、またウコン(オシュトル)自身そのようなことをしていられる余裕が無かったため、用件を果たせばすぐさま邸に引き返した。容姿をオシュトルのものに戻し、行方不明となったアンジュ姫殿下捜索隊の指揮を取らねばならない。
(できれば間に合って欲しいのだが……)
 現在早急に準備が進められており、整い次第すぐさま出発することになっている隊の長として、オシュトルが少年の返答を待っていられる猶予はあまりない。しかし叶うならば間に合い、また少年の協力を取り付けることができれば、とオシュトルは思う。
 それはあの少年に心惹かれる男としてではなく、彼の才能に一目置く将として。
(予感がするのだ)
 急ぎ足で帰路につきつつ、オシュトルは胸中で独りごつ。
(今回の件、某だけでは行き詰る。相談役……否、有能な采配師が必要であると)


 暁楼に文を預けてから一刻も経たぬうちに、返答は驚くべき形でなされた。
「本当はもうしばらくお前の正体に気付かないフリをしておいてやるべきだったんだろうが、どうにも緊急事態らしいからな。すまんが直接訪ねさせてもらった」
 そう言ってオシュトル≠フ前に現れたのは、顔の上半分を出来損ないの白いお面で隠した少年。
 部下達に指示を飛ばし、次に宮廷内の廊下を足早に進んでいたオシュトルの元へ何の前触れもなく彼は姿を見せたのである。これで驚かないはずがなく、オシュトルはその場に立ち止まり息を呑んだ。
「シ、ロ? オメェさんは一体……」
「近くに人がいないからって今の姿でそっちの口調はマズいだろ。で、自分に何の用だ? こんな時に繋ぎを取ってくるくらいなんだから、よっぽどのことなんだろう?」
 だったら助力は惜しまん。と告げる少年に、オシュトルは強張っていた肩から力を抜く。ウコンの正体がバレていたことも、またこのような場所(宮中)に姿を現せることも、何もかもが驚きだが、この少年ならばそれも有り得るのかもしれないと思わせるものがあった。理不尽なまでの説得力、とでも言うのか。少し聖上の御言葉に似ている。どんなに不思議であってもそれが事実であり正解なのだろうと思わせる力だ。
「感謝する」
 オシュトルは小さく頭を下げ、率直に希望を述べた。
「アンジュ姫殿下がマルルハへの道中、何者かに襲われ消息不明となっている。その捜索隊に其方も加わってほしいのだ」
「随分と買ってくれているようだが、自分はガキだ。助力になるどころか逆に足を引っ張ることになるかもしれんぞ?」
「それはない」オシュトルはきっぱりと言い切った。「其方以外に某の采配師を任せられる御仁など思い浮かばぬ」
「なるほど。そこまで言うなら任される。それに――」
 おそらく足手まといになるかもという発言は少年なりにオシュトルの意思を確認したかったためなのだろう。したがってオシュトルがはっきりと答えれば、少年の方も即座に了承する。
 そして、
「――自分もアンジュ姫殿下のことは気になっていてな。何かできないもんかと思っていたところだ。願ってもない機会をくれて感謝する」
 ここにはいない誰かに向けて隠しきれない怒りを僅かに滲ませながら少年は告げた。それは帝とその天子たる姫殿下を愛するヤマトの民として当然のことであり、しかし深い琥珀色の奥底で燃え盛る炎は一般の人々が抱くには強すぎるようでもあり……。
「オシュトル」
 無意識に少年の中にある感情を見定めようとしていたオシュトルは、その声で現実に引き戻される。一旦強烈な怒りを腹の底に沈めた少年が聡明な光を宿す双眸でこちらをじっと見上げていた。
「必ず姫殿下をお救いするぞ」
「無論だ」
 即答し、オシュトルは少年を伴って歩き始めた。











挿話




「美味い料理と美味い酒、それから心地良い給仕があれば、ヒトの口は容易く軽くなる」
 その軽くなった口から必要な情報を集めるのがこの料亭の主目的だ、と未だ幼さが目立つ少年は言った。
 彼が「判るだろ?」と頭を傾ければ、さらりと揺れる髪の合間から毛のない小さな耳が覗く。女は少年が放つ雰囲気に圧倒されながらもその言葉にしっかりと頷いた。
 女はある商家の娘だった。それなりに堅実でそれなりに繁盛していたが、しかしある時一人の悪質な貴族に目を付けられてしまう。そこからはあれよあれよと言う間に転落人生を歩まされ、女も借金のカタに身売りか、というところまで。しかしその直前、この少年が現れて女を引っ張り上げたのだ。
 少年は女に美しい着物を与え、彼が任せたい役目のために必要だという教養を徹底的に叩き込み、そうして最後に大きな店を用意した。店の名は『暁楼』。貴族や大商人といった金持ち達を客層に据えた高級料亭である。
 全てを整えられた女に少年が言い放ったのは、彼が彼女に任せたいと思っている役目の根本的な部分。
 頷いた女はそれからゆっくりと頭を下げる。少年と向かい合うようにして正座していた彼女は平伏して座礼する形となり、改めて自身の主人にこう答えた。

「全ては御心のままに」

* * *

 今になって思えば、初めて出会った瞬間から少年は彼女の主だった。自身をどん底から救い上げてくれたからだけではない。彼女の家を没落させた貴族に報復してくれたからだけでもない。ただその存在そのものに彼女は頭を垂れたくなる。
 彼に言葉をかけられると嬉しかった。よくできたと褒められれば胸が歓喜でいっぱいになった。ありがとうなどと言われてしまえば逆に恐縮してしまうくらいだった。それを伝えれば、少年は「それは種族的な問題だな」と困ったように笑うだけだったけれど。
 どれほど顔を合わせ言葉を交わしても少年がどこの誰なのか明かされることはなかったものの、女にはある予感があった。そしてその予感は数年経った今も消えていない。むしろ確信に近付きつつある。だがそれで特に行動を起こすことはなかった。ただ自分は彼が望むままに役目をまっとうし、少しでも彼の役に立てればいいと願うのみ。
「巫様方、こちらの文になります。どうぞあの御方にお渡しください」
「受け取った」
「しかと受け取りました。速やかに主様へお届けいたしましょう。今後とも主様のため、貴女の働きに期待します」
「承知いたしました」
 肌の色以外そっくりな双子の少女が頷き、女から文を受け取る。女は深々と頭を下げた。
 そうして予め決められていた特別な方法でこちらから連絡を取り呼び立てた少女等は、そのまま現れた時と同じく靄に紛れるようにしてすっと姿を消してしまう。
 自分以外誰もいなくなった部屋で女はかつて己が口にしたのと同じ言葉を繰り返した。
「全ては御心のままに」
 二つの美しい琥珀色を携えた、己が唯一の主の望むがまま。
 耳となり、目となり。時には伝言役となり。この身に流れる血の一滴まであの少年に捧げると誓っている。







2016.06.04 Privatterにて初出

暁楼の主人代理モブ女さんの源氏名は『レイメイ(黎明)』で(ハク殿が名付けた)、瞳の色は赤系です。選んだ理由はそれだけじゃありませんが、オシュ&ネコ兄妹っぽい要素にとても弱いハク殿。