廷臣の前では普段通りに振る舞いつつも、アンジュは鬱々とした日々を過ごしていた。それもこれも全ては先日の一件による。アンジュにとって大事な叔父であるハクを真に理解し寄り添ってくれる者を増やそうとして打った芝居は見事なまでに外れ、逆にハクをひどく傷つける羽目になってしまったのだ。
しかもハクは彼が好意的に見ていた人物――オシュトルに勘違いをされ、更には侮蔑の眼差しを向けられてつらくないはずがないのに、振舞いは恐ろしいほどに平素のままなのである。相変わらずこの身を慈しんでくれる叔父の姿にアンジュは打ちのめされた。アンジュの失敗はその企みごと無かったことにされ、謝罪する機会すら得られなかったのだから。 アンジュは何もしていない。ただ、オシュトルが帝弟の無能っぷりを再確認しただけ。――あの一件は、そういうことになってしまったのである。 「なぁアンジュ、そろそろお前の好きな作家が本を出す頃じゃないのか? 欲しいなら自分が買いに行ってやるが……」 聖廟の地下にある、外と見紛うばかりの空間にて。ハクが教師役を務める勉強の休憩時間中に、そのハク本人から何気ない仕草と声で尋ねられる。 これまでのアンジュであれば一も二もなく、特定の趣味を持った乙女が集まる小路での買い物を頼んだだろう。しかし今は到底そんな気分になれない。むしろあの草紙を広げている暇があるなら、少しでも早く彼が望む為政者になれるよう勉学に励むべきだと思っていた。こういう風にしか、アンジュはハクを傷つけたことへの償い方を考え付けなかったのだ。 先日の一件では結果的に恩を仇で返す形となったアンジュ。挽回しようにも未だ成果は出せていないに等しい。であるにもかかわらず、ハクはこうしてアンジュに優しくしてくれる。そうやって大切にされればされるほど胸が苦しくなった。 うつむき加減で唇を引き結ぶアンジュにハクは優しく「ん? どうした?」と声をかけるが、喉に異物が詰まったような感覚があり言葉が上手く出て来ない。 「勉強も最近は特に頑張ってるしな。自分としてはもうちょっと甘えてくれても構わんぞ」 アンジュはふるふると首を横に振った。 「どうし――」 「……らぬ」 「アンジュ?」 「要らぬのじゃ、ハク。余のためにこれ以上其方の手を煩わせるつもりはない。だから、草紙も、他の買い物も、もうよいと言うたのじゃ」 「…………そうか」 僅かに間を置いてハクが頷く。何故、と問われるようなことはなかった。代わりに大人とは違う少年の手がぽんと頭の上に置かれ、優しく撫でられる。 アンジュは泣きたくなった。きっとハクはアンジュが殊更勉学に励むようになった理由も、またこうしてちょっとした我侭すら言わなくなった理由も、どちらも正しく理解している。躰の若さ――幼さと表現した方が適切かもしれない――に似合わずどこか老齢な考え方をするハクにとって、真実小娘でしかないアンジュのことなど全てお見通しなのだろう。 そうと判っていてもなお、アンジュは己の意見を取り下げる気にならなかった。 拙くてもいい。馬鹿らしくてもいい。とにかくハクに報いたい。ハクの望んだヒトになりたい。……ハクの負担になりたくない。 「わかった。じゃあその分、アンジュとの勉強時間を増やしても構わないか?」 「うむ。よろしく頼む」 それでもまだハクの手を煩わせることには変わりないが。しかし自身の娯楽のためだけに我侭を言うよりは幾分マシだと己に言い聞かせ、アンジュはこくりと頷いた。 「ああ、いたいたウコン。探したぞ」 忙しいオシュトルとしての仕事の合間を縫ってウコンと成り町を歩いていれば、後ろから声をかけられる。その声の主を半ば無意識に探していたウコンは蓬髪に紛れて判りにくい耳を歓喜に震わせながら振り返った。 「シロ!」 「久しぶりだな」 最早見慣れた不格好なお面をつけた少年がそう言ってウコンの正面で立ち止まる。顔の上半分を隠す白いお面の奥から綺麗な琥珀色の双眸がウコンを見上げていた。 聡明で、愛嬌があり、頼り甲斐があるのに庇護欲を誘う。自由に動き喋り笑う様を眺めたいと思わせる一方で、この腕の中に閉じ込め誰にも見せたくないと暗い欲を抱かせる。不思議で、惹かれずにはいられない少年。 もしシロという偽名と顔を隠すお面――つまり少年が自らの素性を隠したいという意思表示――がなければ、ウコンは彼の素性を洗って本当に閉じ込めてしまっていたかもしれない。右近衛大将オシュトルとは、やろうと思えばそれができてしまう地位なのである。 ともあれ現実として、たった二つの抑止力がウコンの中で湧き上がる思いを薄皮一枚下に押し留め、気の良い大人を演じさせていた。目の前の大人がこんなことを考えているなど思いもよらないであろう少年は「見つかってよかった。自分が言えることじゃないだろうが、あんたもかなり神出鬼没と言うかいつどこに現れるか判らんからな」と笑っている。 「なんでぃシロ。オメェさん、何か困ったことでもあったのかぃ?」 この少年が助けを求めるなら助力を惜しむつもりはない。むしろ頼ってもらえるならとても嬉しい。 少年は知恵が回るから必要とされるのは体力的なものだろうか。そう考えるウコンを、けれども次に少年の口から放たれた言葉が打ち砕く。 「いいや、そうじゃない。自分はとあるヒトの遣いでよく町に来ていたんだが、それが必要なくなってしまってな。だからこれからはあまり町(こっち)に来られなくなりそうなんだ。今日はそれを伝えようと思って」 「……は」 一瞬、頭が理解を拒絶した。 まだこの少年がどこの誰かも知らないのに、少年が町に現れなくなれば必然的にウコンが彼と出会う機会も激減する。否、きっと完全になくなってしまうだろう。 急速に自分の中での存在感を大きくしておきながらお前はそんなにもあっさりと消えてしまうのか、とウコンは理不尽な怒りさえ抱いた。同時に大きな男の手が少年の腕を掴もうと伸ばされる。そうして掴んだものをどうするのか考えもせずに。 しかしウコンの手が細い腕を掴む前に、少年は「だから」と先を続けた。 「あんたが自分に伝えたいことや頼みたいことができた時、きちんと連絡を取れるようその方法を伝えておく」 凶悪なまでに力が籠っていた手からふっと強張りが解けていく。ウコンは「連絡?」と少年の言葉を繰り返した。 それはつまりこれまで偶然でしか顔を合わせることができなかった相手と次からは好きな時に会えるということなのか。無論こちらにも向こうにも都合があるので本当に『いつでも』という訳にはいかないだろうが、少年の提案はウコンの胸を躍らせるのに絶大な効果があった。 遠のくどころか更に近付いた距離。それを意識した途端、ウコンの表情がはっきりと笑みの形に崩れる。 「そりゃあいい。オメェさんとの縁は俺にとっちゃ失くしたくないものだからな」 「多少頭が回るガキだからか?」 「違えよ、判って言ってんだろ」 ウコンは悪戯っぽく笑う。それはこれから口にする言葉に少しの羞恥があったからかもしれない。だが嘘偽りのない本心として、ウコンは心の内を明かした。 「俺はお前に惹かれてんのさ。シロ、お前の傍は心地がいい。まるで陽だまりみてぇだ」 「……ッ、そうか。陽だまり、か」 少年がはっと息を呑む。昔誰かに同じことを言われたかのように。けれどその変化は一瞬だけで、おまけにそもそもお面のせいできちんと確認することもできない。ウコンがその驚愕の意味を尋ねる前に少年は「買いかぶり過ぎだ」と苦笑し、本題に入ってしまう。 「それで、連絡の取り方だが――」 己にとって非常に重要なそれを聞き逃す訳にもいかず、ウコンは全ての疑問を封じて少年の声に耳を傾けた。 「じゃあそういうことだから、よろしく頼む」 「ああ」 ウコンは頷く。 少年に繋ぎを取る方法は理解した。ただしそれは少年の正体を知る手掛かりにはならない。半ば予想できていたことだが、やはりウコンの中には物足りなさが残った。しかし今は少年との繋がりが途切れなかったことを喜ぶべきなのだろう。自分はこの少年に『必要な時は力を貸しても良い相手』として選ばれたのだから。 「なぁシロ、まだ時間があるならこれからちょっとメシでもどうでぃ」 「もちろん。……と言いたいところだが、すまん。今日はウコンを見つけてこの話をするための時間しか確保していないんだ。だからメシはまたの機会に」 「そりゃ残念だが……わかった」 「誘ってくれて嬉しかったぞ」 お面の奥で深い琥珀色の目が細められる。そのまま少年は踵を返し、ウコンに背を向けた。 その時、向かい風が吹いて少年の少し長めの髪を靡かせる。ふわりと舞い上がった髪の向こうに見えた耳は小さく毛のないつるりとしたもので―― 「シロ≠ネらお前に優しくしてもらえるのにな」 その独白の意味をウコンが問う前に、少年は雑踏の向こうへと姿を消してしまった。 2016.06.01 Privatterにて初出 |