「決めた。一刻も早くハクを支えられる者を彼奴の傍につけねばならん」
 琥珀色の双眸を輝かせ、この國で次の為政者となるべき少女は強い口調で言い放った。

* * *

 小さな丸い卓上には客が持ち込んだ手作りの菓子。ソヤンケクルの正面に座っているその客はこの部屋の主が手ずから淹れた茶を啜ってほっと息を吐き出した。
「なんでだろうなぁ。あんたの部屋にいるとすごく落ち着く……」
「ハク君にそう言ってもらえると嬉しいねぇ」
 行儀が悪いのは承知の上で卓上に頬杖をつきつつ、ソヤンケクルは微笑む。小さな来客――この大國ヤマトを統べる帝の実の弟であるハク帝弟殿下は、おそらく身内以外で唯一ソヤンケクルにだけその本性を露わにしていた。ゆえにソヤンケクルの前であれば己を偽らずに済む彼にとって、この場は確かに落ち着ける場所と言えるだろう。
 しかし、とソヤンケクルは考える。
(ここ最近、ハク君が訪ねて来る回数が妙に多い)
 彼とこうして言葉を交わすこと自体に何ら否やはない。むしろいくらでも顔を合わせ、言葉を交わし、頼りない躰を抱き締めてやりたいとさえ思う。
 ソヤンケクルは元々帝都に住んでいる訳ではなく、一年の多くを自國で過ごしている。現在はオムチャッコ川の新しい停泊地を中心とした諸事の関係で帝都に長期滞在しているに過ぎない。つまり帝都にいる間に思い切りハクと親しくしておきたいのが本心なのだ。
 ただしこの帝弟殿下は周囲を偽り暇人と思わせているが、その実、とても忙しい身である。そう易々と誰かを訪ね、茶の時間を設けるなどできはしない。しかし現状、ハクはなんとか時間を捻出してソヤンケクルの部屋を頻繁に訪ねるようになっていた。
 この理由を考えれば、流石にハクが来てくれて嬉しいなどと簡単に喜ぶことはできない。
 普段通りに見える少年は、しかし絶対に己を傷つけない他人≠フ傍にいなければ平静を装えないほど心を疲弊させているのだ。
 原因など考えずとも判る。ハクの心をここまで揺さぶることができるのはソヤンケクルが知っている中でただ一人。どうして己がハクにとってのその唯一になれないのだろうかと悔やまれるほど、少年が全てを傾けている相手だ。
 もっとも彼≠熾ハに悪いことをしている訳ではない。むしろ正しい行いをする人物だからこそ、ハクも心を傾けているのだろう。しかし立場が違う。持っている知識が違う。知っている事実が違う。ゆえにすれ違い、溢れんばかりに注がれる愛情を彼≠ヘ認識することができずに少年を傷つけてしまうのだ。
(真実を知れば惹かれずにはいられないだろうに……けれどそれはハク君自身が望んじゃいない。難儀なものだね)
 特に彼≠ヘ次のヤマトの皇――アンジュ姫殿下の御世にもこの國を支える主柱の一つとなるべき男だ。しかしもし帝弟の実力を知れば、いつも心のどこかでハクとアンジュを比較してしまうようになるだろう。それは忠臣にあるまじき行いである。おまけに彼≠ヘ大層真面目であるため、自身が無意識のうちに二人を比較していると気付けば大きな後悔に襲われてしまうのは必至。ゆえにソヤンケクルのような偶然でも起こらない限り、ハクは他人の前で虚構の仮面を剥がさない。
 たとえ自覚できないほどに心が疲弊していても。
(君を今すぐ私の國に連れ帰ってしまいたい……なんて、流石に言えないけどね)
 帝都よりもっと明るくて暖かなシャッホロ。太陽の光を反射してきらきら輝く海を一日中眺めていれば、こんな迷いも悲しみも自然と薄れていく。明るい風土のせいか、シャッホロに住む人々も明るく元気な者が多い。そういうヒト達に囲まれて屈託なく笑うハクを夢想し、ソヤンケクルはほんの少し眉尻を下げた。
「ねぇハク君、早くウチのアトゥイちゃんのお婿さんにならないかい?」
「は、え? いきなり何事!?」
 脈絡のない問いかけ――少なくともハクにとっては――に大きく見開かれる琥珀色。「冗談だよな……?」と恐る恐るなされる問いかけに、ソヤンケクルは「ん〜?」と笑顔で答えてみせた。途端、ハクが何とも言えない顔をする。その顔のまま「自分がアトゥイと結婚とか……有り得んだろ。いやでも本当に全部済ませた後で自分が帝都にいても邪魔になるだけだろうし、それならいっそ……」と、なかなかソヤンケクルにとっては良い感じのことを呟いてくれているのだが、おそらく本人は声に出している自覚がないのだろう。
(今はまだそれでもいいよ)
 本当は今すぐにでも掻っ攫ってやりたい気持ちはあるのだが、ひとまずそう結論付けてソヤンケクルはにこにこと笑みを浮かべ続けた。
 やがてその笑顔の圧力に屈したのか、ハクが「あ、そーいえば」と明後日の方向を眺めながら口にする。
「アンジュの勉強を見る約束をしてたんだった。という訳で、自分はそろそろ向かわねばならん」
 ハクのその物言いに最初は口から出まかせかと思われたのだが、時刻を確認した少年が「あ、マジでやばい」と呟いたことで約束が事実なのだと知る。どうやらソヤンケクルの部屋でまったりし過ぎて姪との約束をすっかり忘れ、けれども居心地が悪くなった影響でその約束を運よく思い出した、というところらしい。
 うっかりさんだと笑うこともできたのだが、この帝弟の優秀な頭が約束を忘れるほどの精神的負荷に晒されているのだと考えれば、やはり苦い思いしか浮かんでこない。
 だがそれを表に出す訳にもいかず、ソヤンケクルは軽い口調で尋ねる。
「こんな時間にかい?」
「ああ。何やら臨時で見てほしいものがあるとかでな。それじゃあ馳走になった」
「聖廟に行くなら近くまで送るよ」
「いや、今日は天守……アンジュの部屋だから」
 ここからならソヤンケクルに送ってもらうほどの距離じゃないという答えに「そうか」と頷く。
「じゃあまたおいで」
「すまん」
 湯呑に残っていた茶を飲み干してハクが腰を上げた。少し焦り気味のその動作に「急ぐと転んでしまうよ」と声をかけるが、「いくらあんた達と比べてどんくさい自分でも流石にそこまでじゃないぞ」という言葉をもらう。ソヤンケクルは苦笑して「気を付けて」と少年の背を見送った。


 ぱたぱたと急いで出て行く少年を見送ったソヤンケクルは、当然のようにハクがあのあと双子の巫の名を呼んで天守に着くまで他人に姿を見られないようにするのだと考えていた。
 しかし本当に約束の時刻が迫っており天守まで走ることにしたハクは、あまり跳んだり走ったりすることが得意でない巫達に無理をさせる訳にはいかないと彼女等を呼ぶことなくそのまま向かってしまう。――同じ場所を目指し、部屋の主に指定された時刻よりも多少余裕をもって移動を開始した人物がいるなど、欠片も思うことなく。

* * *

 オシュトルは宮廷内に割り当てられている己の執務室を出て、アンジュ姫殿下の自室がある天守へと向かっていた。
 相変わらず國と民のために様々な施策を打ち出し、制度の改革にも着手している姫殿下より、内密に相談したいことがあるのだという。以前より彼女の手腕に感服していたオシュトルは無論アンジュの立場だけではない理由で二つ返事をし、今日この日を迎えた。
 次期統治者として申し分ない彼女に若輩者――年齢ではなく経験として――である己ができることなど多くはないと思うのだが、それでも國と民のために成されるであろう何かに助力することができるならば、と期待に胸が膨らむ。おまけに先日ウコンに扮している状態でシロと触れ合えた経験もオシュトルの気分を良くするのに一役も二役も買っており、あからさまではないにしても意気揚々と廊下を歩いていた。
 そんなオシュトルの耳に軽い――まるで子供のような――足音が届く。足音の主は随分急いでいるらしく、駆け足だ。文官が静々と歩くことが多い宮中では実に珍しい音に、おや、と足を止める。
 立ち止まったのはちょうど四つ角を通り過ぎた所であり、足音は振り向いたオシュトルから見て左手側の廊下から聞こえてくる。念のため誰なのか確認しようと一歩踏み出した、その時。
「……ぶっ!」
「っ、!」
 ぼすん、とオシュトルの腹に顔をぶつける小さな影。足音の主に相応しい体躯と、駆け足でぶつかって来た割には軽すぎる衝撃にオシュトルは仮面の奥で目を見開く。
 廊下を走ってきた主はまさか四つ角を曲がった先に誰かがいるとは思っていなかったようで、思い切りオシュトルとぶつかってしまったのだった。反動でよろめく小さな躰を反射的に抱きとめたオシュトルは覚えのある感覚と鼻腔をくすぐる微かな香りにドクリと胸を高鳴らせ、
「シ、ろ――」
「ッああ、右近衛大将か。すまん。急いでいて前をよく見ていなかった」
「……ッ」
 ぴくりと躰を僅かに緊張させてから謝罪と共にオシュトルを見上げたのは、あの出来損ないの白いお面ではない。御紋があしらわれた上衣を羽織り、茶色いくすんだ瞳をのろのろと瞬かせ、少年――帝弟ハクは己とオシュトルの間に手を入れて大人の躰を押しやった。オシュトルもそれに逆らわず抱きとめていた腕を解いて距離を取る。
 離れてしまってから僅かな後悔が胸に宿った。しかしその感情そのものが大事な少年に対する冒涜のように思えて、オシュトルは表情を硬くする。
「殿下、御身に怪我でもあれば聖上が悲しまれます。どうかお気を付け下さい」
「そうだな。兄貴は$S配する、な」
 言外にお前は心配してくれないのだと言われているような気がして、図星を突かれたオシュトルは仮面の奥で更に目つきを鋭くさせる。本来の彼ならばここまで心が波立つことはないはずなのだが、先述通りこの愚鈍な帝弟と大事な少年とを重ねた事実に腹が立ち、いつもの冷静さは鳴りを潜めてしまっていた。
 僅かに漏れ出した怒気に少年の細い躰がふるりと震える。本来ならば不敬であるはずのそれを、しかし帝弟は指摘しない。茶色の双眸は下を向き、視線を合わせないままオシュトルの躰を迂回して走り去って行った。
 自身の進行方向でもあるそちらに視線を向けて、オシュトルは去って行く姿を眺める。やがて小さな背中が角を曲がり見えなくなると、『清廉潔白』な彼らしくない様子で舌打ちを零した。
「某は何をやっている……!」
 流石に今のは酷過ぎる。あれは帝弟であるのだぞ、と戻って来た理性がオシュトルの行動を責めた。
 はあ、と大きな溜息を吐き、諸々に対する苛立ちを静めていく。どうにも己はあの帝弟に対し、心をざわめかせずにはいられないらしい。いてもいなくても同じような存在なら、無視してしまえばいいというのに、だ。
 さっきの今で帝弟の後を追うように廊下を歩むのも躊躇われ、オシュトルはしばらくその場に留まることにした。幸いにもアンジュに指定された刻限までまだ少し余裕がある。この時間を使ってきちんと心を落ち着かせた方が良いだろう。
(そうだ。某は右近衛大将。たかが一人の子供に心乱されている暇はない)


 それから少しして。
 アンジュ姫殿下の自室の扉の前まで辿り着いたオシュトルは引き戸の向こうにいる人物へ声をかける前に、中から誰かの話し声が聞こえてくることに気付いた。
(姫殿下がもう一人呼んでおられたか、もしくはご予定の無かった会談か)
 さて己は声をかけても良いのだろうかと逡巡する。もし大事な来客であるならば、己はアンジュ姫殿下付きの女官にでも言付けて、また改めて出直してきた方が良いのかもしれない。
 そうオシュトルが考え始めた頃、ふと部屋の中の会話の内容が聞き取れてしまい、
「――ッ」
 カッと頭に血が上るような感覚に襲われ、オシュトルは姫殿下の私室へと繋がる戸に手を掛けた。

* * *

 ハクが頑なに己の実力を他者に悟られないようにしていることをアンジュは重々承知している。それがこの國の安寧とアンジュのためであることも。しかし、だからと言って誰一人ハクの真実を知らず、彼を軽んじるなど、やはり納得がいかないのだ。
 せめて一人でもいい。ハクに寄り添い、彼の心の支えとなってくれるヒトがほしい。彼の兄でも姪でも従者でもできないことをしてくれるヒトをアンジュは求めた。
 そうして候補として挙がったのが、右近衛大将オシュトルである。ハクが身内を除けば最も心を砕いている彼ならばハクに寄り添うに相応しいと、アンジュはしばらくオシュトルを観察し、そう結論付けた。
 ただしアンジュがハクについて直接説明したとしてもオシュトルが信じてくれる確率は半分以下だろう。ハクが被った愚者の仮面はそう容易いものではない。ゆえに少々搦め手で攻める必要がある。
 ここ最近、ハクに元気がないことも手伝って、アンジュはついにその作戦を実行に移すことにした。
 直接説明しても信じてもらえないならば、相手に「己は隠されていた真実を知ってしまったのだ」と思わせればいい。その方法として最も単純かつ有効なのは、会話を盗み聞きさせること。時間差でハクとオシュトルをアンジュの元に呼び出し、アンジュと先に到着したハクの会話をオシュトルに聞かせるのだ。
 清廉潔白と名高い彼に盗み聞きなどという所業を行わせるのは少々心苦しいものがあったが、今はハクの方が優先である。
 アンジュは心の中でオシュトルに謝罪し、そうして約束していた時刻ぴったりに部屋を訪ねてきた叔父を出迎えた。


「なんじゃハク。そんなにしんどそうにして」
「いや……ちょっと、な……。少し、走ったり、した、もんだから……」
 ゼェゼェと息が荒いハクを見遣ってアンジュは小首を傾げる。元々毛の生えた耳や尻尾がある自分達と比べて極端に体力がないハクは好んで運動をするような性質ではない。そんな彼が走ってきたというのは何とも不思議な感じがした。
 だがまぁそういうこともあるのだろう、と。今日はもっと重要な案件を抱えているアンジュはその疑問を脇に置く。
 息が整わないハクを卓につかせ、冷ました茶を淹れて手渡した。
「ああ……ありがとうな、アンジュ」
 礼を告げてそれを飲み干したハクはようやく人心地ついたようで、ふう、と吐息を零し、椅子の背もたれに体重を預ける。
「ホントこの躰は……前にもまして体力がない」
「うん? 前も何も、ハクは最初からその躰じゃろう?」
「あー……そうだな。すまん、変なことを言った」
 へらりと笑い、ハクは僅かに姿勢を正す。そうして自身の前の席を手でアンジュに示し、「勉強のことで質問があるんだよな?」と、彼をこの部屋に呼び出すため使われた建前をそうとは知らず口にした。
 アンジュは勧められるまま――と言ってもこの部屋の主はアンジュの方なのだが――ハクの正面に座る。卓上に広げられる教本など当然あるはずもなく、先程とは逆で今度はハクが首を傾げた。
「アンジュ?」
「勉学の前に少し話したいことがあるのじゃ」
「話したいこと? まぁ構わんが……」
 卓上に両手を乗せて緩く指を絡ませるハク。話を聞く体勢をとった彼にアンジュは「うむ」と頷き、作戦を開始する。
「これまで余はたくさんのことを其方に習ってきた。しかし余一人で政治に口出しできるほどの知恵も知識もまだない」
「そうか? そろそろお前も自分で考えてなかなか良い案を出せるようになってきてると思うんだが」
「そ、そうかのう?」
 思いがけない褒め言葉にぽっとアンジュの頬が染まる。それなりに努力してきた自負はあるので、教師役であるハクに素直に褒められると、喜びとちょっとした恥ずかしさが少女の小さな胸を駆け巡った。
 しかし今はそういう話をしたいのではない。アンジュは「コホン」と咳払いをして先を続けた。
「とにかく、じゃ。現実として、余の名前で出してきた政策は全てハクが考えたものであろう? どれもこれも素晴らしいものばかりで、民の生活は格段に良くなっている。しかし称賛を受けるのは全て余じゃ」
「それが納得いかないって? こりゃまた今更な話題だなぁ」
 ハクはまるで奔放な孫を見守る老爺のように、慈愛と苦笑が入り混じった表情を浮かべる。
「これまでアンジュの名で出された政策は全てこの帝弟ハクが考えたものだ、なんて言っても誰も信じたりはせんさ。嘘を吐くお前には少しつらいかもしれないが、それもすぐどうでも良くなる。何せ昔はどうであれ今のアンジュにはお前一人でこれくらいの案を出せる実力が――」
 その言葉が終わる前に「失礼いたす!」と大きな声。同時に廊下と繋がる引き戸がバタンッと開かれて、戸の向こうに立っていた人物が姿を現した。
 白と青が目にも鮮やかな、清廉潔白な彼そのものを象徴するかのような着物。それに身を包み、顔の上半分を隠す白い仮面をつけた美丈夫がアンジュに向けて立ったまま略式の礼を取る。
「姫殿下、下命に従い、このオシュトル只今参上いたしました」
「おお、オシュトル!」
 やっと来たか、とアンジュは喜色を浮かべて腰を浮かせる。これならきっと自分とハクの会話の内容を戸の向こうで耳にしていたに違いない。普段とは異なり所作が少し乱暴だったのはハクの真実を知って動揺しているからだろう。
 と推測するアンジュだったが、天子への礼の後、帝弟へと視線を向けたオシュトルの様子にはたと動きを止める。嫌な汗が背中を伝い、急激に指先から熱が引いていった。
「オシュ、――」
「納得いかない……これまでアンジュの名で……政策は全てこの帝弟ハクが考えた……嘘を吐く……。途切れ途切れではございますが、そのような帝弟殿下のお声が部屋の外にいても聞こえて参りました」
 恐ろしいほど鋭く硬い声だった。
 隠すことなく込められた侮蔑と敵意にアンジュは息を呑む。それが向けられている訳でもない己でさえ血の気が引くような思いをしているというのに、この心臓を貫くような敵意を直接向けられたハクはどれほどなのかと彼女は頭(こうべ)を巡らせ、
「……ッ、ハク」
 愕然とする。
 ハクはどこを見ているかも判らない茫洋とした帝弟≠ニしての仮面を瞬時に被り、その上で露悪的に笑ってみせていた。瞬間、アンジュは己の作戦が失敗したどころかとんでもない結果を招いてしまったのだと悟る。
 オシュトルの耳に彼が口にした台詞だけしか聞こえていなかったのだとしたら、ハクがアンジュに「手柄を寄越せ。そのために周囲に嘘を吐け」と迫っているようにも解釈することが可能だ。否、確実にオシュトルはそう考えてしまっている。だからこそ普段礼儀正しい彼が声を荒らげ、入室の許可を得る間もなく戸を開いたのだろう。
 最悪も最悪。これ以上の失態はない。
 アンジュは慌てて、敵意に委縮した躰を奮い立たせて口を開いた。
「ち、ちがう……ちがうのじゃ、オシュトル。ハクは――」
「アンジュ様」
「……ッ」
 しかし弁明の機会はハク本人によって失われる。
 錆びた歯車のようにぎこちない動きでそちらを見遣れば、優しい琥珀色とかち合う。アンジュは悔しさと申し訳なさで唇を噛み締めた。彼は、このアンジュと左程年齢の変わらぬ少年は、すでに全てを理解している。この短い時間でアンジュがやろうとしたことも、それが失敗したことも、全て判った上で、それでもなおアンジュに微笑みかけてくれるのだ。
 おまけに――
「先程の『お願い』はなかったことにしてください。出過ぎた真似を申しました」
 オシュトルの勘違いを助長させる台詞をぺらぺらと口にする。視界の端でオシュトルが「やはり」と更に濃い怒気をまとうのが見えた。ハクはこのままオシュトルを騙し、本来の自分を隠し通すつもりなのだ。
 アンジュは何と声をかけていいのか判らないままふるふると首を横に振る。オシュトルからは見えないだろうが、優しい笑みが浮かべられたハクの表情に胸が張り裂けそうだった。今すぐその足に縋り付き、申し訳なかったと声を張り上げて謝罪したい。でも優しい笑顔を浮かべるハクは決してそれを許してなどくれない。
「では御前失礼いたします、アンジュ様」
 身内を除けば誰よりも心を砕き、傾け、大切にしてきたはずのオシュトルに厳しい視線を向けられて。それでも欠片たりとも動揺など見せず。ハクはアンジュに一礼し、扉の傍に立つ右近衛大将の横を通り過ぎる。
 帝弟がまとう御紋があしらわれた上衣がふわりとはためくその姿すら快く思えないのか、仮面の奥から向けられる視線は痛みすら感じられそうだ。
 その視線を背中に受けたままハクが足を止める。
「右近衛大将殿、其方は本当にアンジュ姫殿下を敬愛しているのだな」
「無論。姫殿下のように素晴らしい御方を大切に思わぬ者などおりませぬ」
「そうか」
 それを聞けてほっとしたよ、という言葉は少年の口の中だけに留められ、オシュトルに届くことはない。ほっそりとした頼りない足が再び動き始めれば、間も無く、アンジュの視界からその姿が完全に消えてしまう。
 遠のく足取りはいつも通りの彼のもので、
「……、オシュトル」
 アンジュはぎゅっと拳を握り、努めて冷静な声でオシュトルの名を呼んだ。ハクが望んだ通りに真実を呑み込み、当たり障りのない言葉でこの場を誤魔化すために。

* * *

 天守にあるアンジュの私室を出て、走るでもなく、また殊更歩みが遅くなるでもなく、少年は普段通りに足を動かす。
 しかし階段を下り、廊下を進み、決して知らないはずがない道順を辿っていたはずの少年はふと困ったように足を止めた。
(あ……? ここ、どこだ)
 見渡せども薄暗く汚れた廊下に見覚えはない。どうやらヒトが使わなくなった場所に出てきてしまったらしいと気付く。
 少年の外界を認識する能力が極端に低下していた。と言うより、思考は全て外ではなく内側に向けられていた。
 足を止めた途端、脳裏をよぎるのは白い仮面の奥にある冷たい蘇芳色。そこに込められた侮蔑の感情。敵意。少年が知っているはずの瞳に宿された、あの頃≠ネらば決して向けられることのなかった色。
 膝から力が抜けて、少年は暗い廊下の隅でくずおれる。服が汚れるのも構わず床に座り込んだ彼はそのまま上半身を倒すようにしてうずくまり、冷たくなった両手で口をしっかりと塞いだ。
 ぐっと喉をせり上がってくる圧迫感。床を見つめる視界はじわりと滲み、瞬けばぽとりと床に水滴が落ちて。

「――――――――ッ」

 声もなく、少年は嘆きに喉を震わせた。














ここから下はIF編です

ソヤンケクル様に癒しを求めるハク殿の話。この後、おそらくハクさんの身柄は双子に回収されて聖廟の地下へ直行になるかと思うのですが、あえてソヤンケクル様をぶっこむIF編です。本編とは(たぶん)関係ありません。






「もうやだ自分ソヤンケクルと結婚してシャッホロに住むうううううう」
「ううん? 私が君と結婚するのもやぶさかではないしむしろドンと来いだけど、世間様の目がちょっとばかり怖い大人としては私じゃなくてアトゥイちゃんとの結婚をお勧めしたいかな???」
 執務室に突入すると同時に部屋の主の腹へ(痛くない)突進をかまして喚き始めた少年をひょいと抱き上げ、ソヤンケクルは眉尻を下げた。ちょっと自分が何を言っているのかソヤンケクル自身も判っていない。
「うっ……グスッ……ふぁ、っ、へっぷし」
「ああ、羽根が。ごめんよハク君」
 抱き上げられた少年――ハク帝弟殿下の顔の位置にちょうどソヤンケクルの衣装の羽飾りが来てしまったらしく、小さなくしゃみが聞こえた。ぽんぽんと背中を軽く叩けば、ぐずぐずと鼻を啜る音がする。きっと少年の名誉のためにもこれはくしゃみだけが原因なのだと思った方が良いだろう。
 あえて顔を見ないようにしつつソヤンケクルは抱き上げた少年が落ち着くのをじっと待った。不用意にその口から言葉を引き出すことはしない。一体何があったのか、詳細は判らずとも原因が何なのかくらいは理解しているのだから。ただ黙って痩躯を抱き締め、熱と鼓動を伝えてここが安心できる場所であるのだとゆっくりその身に染み込ませていく。
 諸々が治まったところでようやく顔が見える位置に抱き直し、チリ紙を渡して鼻をかませた。目が赤いのには気付かぬフリをして、ただ一言。
「私はハク君が大好きだよ」
 なるべく優しく見えるよう微笑んでソヤンケクルは告げる。
 きょとんと見開かれた双眸は今にも蜜のようにとろりと溶けてしまいそうな色をしていた。
「えっと……ありが、とう?」
「うん」
 よく判っていない少年にソヤンケクルは笑みを深める。今の言葉に込められた思いなど判らなくてもいい。ただこの腕の中にいることが幸せだと感じてくれさえすれば。
 友愛や親愛の中に紛れ込ませた感情を笑顔で誤魔化し、ソヤンケクルは冗談めかして告げる。
「嗚呼、早く君を國へ連れて帰りたいなぁ」







2016.05.24 Privatterにて初出