「ウコン? どうかしたのか?」
 訝るような少年の声で、己の意識が飛んでいたことに気付く。はっとしてウコンが声の方を見遣れば、白いお面で顔の上半分を隠した少年が「寝不足か? 昨日、遅くまで酒盛りとかしてたんじゃないだろうな?」と心配そうにこちらを見上げていた。こっそり「うらやましい」と続いたのには目を瞑ってやろうと思う。まだこの少年は酒が飲める年齢ではない。
 右近衛大将オシュトルが個人で雇っていた清掃集団の雇用主が國に代わってからしばらく。
 仕事を進めていく中で見つかった問題点を逐次処理しながら、新しい制度は順調に成果を出していた。また溝浚いだけではなく町の清掃そのものにまで対応していたため、水害防止だけでなく衛生環境も飛躍的に改善され始めている。
 先日などはオシュトルが帝から直々にお褒めの言葉を賜るという事態も発生し、これが自身だけの成果ではない――むしろ今隣にいるお面少年の手柄である――と考えるウコンにとっては、嬉しいを通り越して心苦しいほどだった。
 しかも朝廷でこの少年の手柄を説明するにはどうしてもウコンの存在を話さねばならず、ウコンとオシュトルの関係を公にしたくない己が本当の立役者について口にすることは難しい。
 結果、本来褒美を受け取るべき少年の手には何もなかった。ならばせめてオシュトル自身が彼に何かすべきだとも考えたのだが、アンジュ姫殿下発案の新制度施行時――帝弟について少々愚痴った時だ――に顔を合わせて以降、全く会えず仕舞い。本日ようやく、久しぶりに言葉を交わすことができたのである。(なお、この間帝弟の気分が沈んでいるように感じられた彼の姪が町での買い物を頼むのを控えていたことをオシュトルは知る由もない。)
 しかし町中でその姿を見つけて声をかけ、まずは串焼きでもどうかと一本奢ったまでは良かったのだが、共に屋台から少し離れたこの場所で肉にかぶりつく最中、ウコンの思考はとある理由によりここではない場所へと飛んでしまっていたのだった。
 そして冒頭へと戻る。
 お面で顔の上半分を隠した少年を見下ろし、串焼きを食べ終えたウコンはまたもや視線を茫洋とさせていた。
 少年の背恰好を確認して、ちょうどこれくらいの大きさだったか、と胸中で呟くと共に脳裏をよぎったのは、先日、八柱将『溟海のソヤンケクル』に会いに行こうとしたところで見かけた光景。ソヤンケクルに抱きかかえられていたのは、オシュトルの手でぽきりと容易く折ってしまえるほど細い手足をした少年だった。
 いつも眠たげな目――もっと取り繕わずに言ってしまえば死んだような目=\―をしている帝弟、ハク殿下。しかしあの時の彼は楽しげで、生き生きとしていて。声が聞こえたならば応えずにはいられない、そして姿を見かけたならば微笑まずにはいられないような、そんな輝きを宿していた。しかもオシュトル(ウコン)としては認めていないのだが、その姿がウコンが大切に想っている少年の面影に重なって胸の奥がざわつく。
 こうして眺めれば眺めるほど髪の色も肌の色も成長途中の細い手足も似ているように思えてきて、終いにはソヤンケクルが抱えていたのは帝弟ではなくこのシロと名乗る少年だったような気さえしてきた。少年がオシュトル(ウコン)ではない別の誰かの腕の中で楽しげに笑っている――。その光景を想像した途端、否応なく眉間に皺が寄った。
「おーい。おーい? ウコンー? また意識が飛んでるぞ」
 くい、と浅葱色の長羽織の裾を引っ張られたことで、再びウコンの意識が目の前の少年へと戻る。
 本当に大丈夫なのかと心配そうに見上げてくる琥珀色の双眸がとても綺麗で、そして美味しそうに見えて、ウコンは無意識に少年のお面へと手を伸ばしていた。
 しかし、
「だめだ」
「……っ、すまねぇ」
 硬質な声に手が止まる。自分よりずっと年若い少年から放たれた言葉は何故か帝から下される命令にも似た強制力があり、ウコンの背を冷たい汗が流れた。
「本当にどうしたんだ? 今日のお前、様子が変だぞ。そんなに疲れてるのか?」
 短い言葉に込められていた威圧感はあっという間に霧散する。少年が羽織越しにウコンの腕に触れながら首を傾げた。
「あー……そうさなぁ。疲れてるのかもしれねぇ」
 本来己が労わり感謝すべき相手を前に、その相手に労わられている状況は、ウコンに苦笑を浮かべさせる。
 この大切な少年と愚鈍な帝弟を重ねて見てしまうなど、本当に疲労が溜まっている証拠であるに違いない。問題を抱えて、それを解決するために奔走して、珍しい光景を目にして、至上の御方から言葉を賜って。その状況で平素通りにいられるはずがなかったのだ。
 自覚すると更にどっと疲れが押し寄せてくるような気がした。それは充足感を伴っていたが、やはりウコンもヒトである。平和な暮らしを謳歌する人々の笑顔や帝からのお言葉はこの上ない喜びであったが、欲を言えば、それとは別に癒しが欲しい。
 その時、ふとウコンの意識をかすめたのは、遅しい腕に抱かれた子供の躰。気付いた時には、隣にあったどこもかしこも細い躰をすっぽりと腕の中に収めてしまっていた。
「………………んん?」
「シロはホント細えなぁ。もっと食べなきゃいけねえぜ」
「いやいやいや。え、は? ちょっと、これ、ええ?」
 ひょいと抱きかかえられウコンの膝に乗せられた少年は頭上に大量の疑問符を浮かべて目を白黒させている。
 一方ウコンは少年の薄い腹の前で腕を交差させるようにして抱きかかえ、ほっそりとした首筋に額を軽く押し付ける体勢を取った。少し離れた所で未だ営業中の屋台から漂ってくる串焼きの香ばしい匂いにまじって少年のどこか甘い体臭が鼻腔を擽る。それだけで肩の力を抜いてほっと息を吐き出せるような、けれども同時に腹の奥の方で熱が燻ぶるような、奇妙な感覚を味わった。
 少年の躰を抱き締めたまま何も喋らないウコンに少年本人も諦めたらしく、もぞもぞと動いて座り心地の良いところを探すと、躰の力を抜いてゆっくりと体重を預けてくる。おまけに「まぁあれだな。人形とか子供とか抱っこしたら落ち着くことってあるしな」と彼なりにどうにか理由をつけてこの状況を許容し始めた。
「……シロ、そんなに無防備だと悪い奴に何されるか判ったモンじゃねえんだが」
「こんなこと許すのはお前だけだって」
 答えつつ、少年はウコンの手に己の手を重ねる。なだめるように二三度軽い力で叩いて、「な?」と念を押す様は、まるで幼子に言い聞かせる母親のようだった。
(こいつは俺よりずっと年下で、しかも男なんだがなぁ)
 自身が抱いた感想に苦笑が漏れる。だが胸中を満たすのは愛しさと喜びで、到底解放する気にはなれない。
 ここが人目につく屋台のすぐ傍ではなく、少し奥まったところで良かったとウコンは思った。そうでなければきっと少年はこの気恥ずかしい体勢を許してくれなかっただろうから。
「お疲れさん、ウコン」
 少年が躰を後ろに倒し、すり、と蓬髪に頬を寄せる。
 ウコンはたまらなく愛おしい気持ちになって、少年を抱き締める腕の力を強めながらそっと両目を閉じた。







2016.05.18 Privatterにて初出