「ハク君なら私がいなくても部屋に入ってくれていていいんだよ。特に誰かの許可なんて要らないから。だからね、お願いだから――」
 所用を終えて宮廷内に用意されている己の執務室に戻って来たソヤンケクルは、いつかの日と同じく扉の前に座り込んでいた少年を見下ろし、頭痛を堪えるように額を押さえた。
「――帝弟殿下ともあろう方がそうやってじっと待ってるのはやめようか」
 実はこうして会いに来てくれることがかなり嬉しく思えてしまうものの、ここで甘い顔をしていてはいつか彼にとって良くないことが起こると、ソヤンケクルは心を鬼にする。
「自分にはウルゥルとサラァナがいるんだが」
「それでも万が一ってこともあるだろう。さあ、入って。これからはいつでも自由に出入りしてくれていいからね」
「ほほう、臣下の私室に許可も取らず入室か……。知らない者が見れば、権力を笠に着るダメ皇族そのものだな」
 念押しで告げるソヤンケクルとは対照的に、ニヤリと偽悪的な笑みを浮かべてハクは部屋に足を踏み入れる。ふざけているのは元気な証拠、と言いたいところだが、ソヤンケクルは少年の視界の外でそっと眉間に皺を寄せた。
 世間では究極の暇人のように思われている帝弟だが、本当の彼はそれなりに忙しい。事情を知る周りの者達にのんびりするのが好きだと常日頃から表明しているハクは、しかしこの國の至らぬ部分を補うため日夜奔走している。常時帝都に滞在している訳ではないソヤンケクルとてそれくらい察することはできていた。
 そんな彼が用事もないのにふらりとこの部屋を訪れた。しかも以前とは異なり、今回はソヤンケクルがハクに会うため宮廷内を探し回っていた訳でもない。
「……、」
 一拍置き、茶の用意をしながらソヤンケクルは口を開く。
「オムチャッコ川の新しい停泊地の件からアンジュ姫殿下の名で作られた新制度施行まで、君が色々と動いていたんだろう? やっぱりハク君はすごいね」
「自分じゃなくてもそのうち誰かが思い付いていたとは思うが」
「謙遜かい? まぁそれが事実だとしても、思い付かなきゃいけない時期というものがある。だから今回の件は君がいなくちゃどうにもならなかった事態だよ」
「自分がいなくちゃ、かぁ……」
 ソヤンケクルは茶の準備をしていたため、そう呟いた時のハクの顔を見ることはない。しかしその声音だけで、少年が自分を訪ねてきた原因がどこにあるのか理解できた気がした。
(君の精神をここまで揺さぶるとすれば……まぁ一人しかいないか)
 脳裏にとある男の姿がよぎる。おそらく『彼』がやらかして≠オまったのだろう。
 帝室の一員として何の働きもしていない帝弟に対し民がどう思っているのか。また昨今のアンジュ姫殿下の目覚ましい成長の陰で、帝弟が何と言って嘲られているのか。それをソヤンケクルが知らぬはずもなく、ハクの大事な大事な『彼』が少年の耳に届く位置で誰もが思っていることをぽろりと零してしまったのだと想像するのはさほど難しくなかった。
 時期的に、帝都の清掃活動を担う集団を國が雇うという新制度施行を受けてアンジュ姫殿下の輝きがより一層増した直後に事は起こったと考えられる。要は、ハクは彼自身が発案し推し進めた政策により、己を貶められる結果となったのだ。
 自身が望んでやっていることだという自覚はあるため、ハクが不満や悲しみをあからさまに表に出すことはない。それどころか、きちんと己の感情に気付いてさえいないのかもしれなかった。自分が深く傷ついたことも自覚できず、ただちょっと悲しいなぁと思っている程度。けれども傷ついたまま奥底に押し込められた心は正直で、己を貶めないであろう人物の元へ自然と足が向いていた……。今日の訪問はそういう事情があるのだろう。
「はい、どうぞ」
「すまんな」
 いつもより甘めに淹れた温かな茶を卓の上に置く。ハクは両手で湯呑を持ち上げ、ふわりと立ち昇る甘い湯気に頬を緩めた。
 甘味や温かいものは心を落ち着け、和ませる働きがあるという。この時間が少しでもハクの慰めになればと思いながら、ソヤンケクルも向かいの席に腰かけて茶を啜った。
 ハクが自らの意思でソヤンケクルを選び、ここを訪ねてくれたという事実に、彼を愛しく思う大人として最大限に応えたい。もっと簡単に言えば、甘えてほしい。愚痴を零したいなら喜んで聞くし、ひと肌が恋しいと言うのなら抱き締めよう。しかしこの聡明な少年がそう容易く甘えてくれるはずもなく、さてどうしてくれようかとソヤンケクルは頭を悩ませる。
 ただしハクを真綿で包むように慈しみたいと思う傍らで、もう一つ、似て非なる感情が胸中で頭をもたげていた。
 甘ったるい茶を舌の上で転がしながら同じものを美味しそうに飲む少年をそっと盗み見てソヤンケクルは胸中で呟く。
(たとえ君が好きなヒトの言葉だったとしても、それが君を傷つけるのなら、私は君の耳をこの両手で塞いでしまいたいよ)
 しかしながらその言葉は傷ついた少年にとっていささか刺激が強すぎるので、大人はそっと笑みを浮かべ、口を噤むのだった。


「そろそろお暇する」
 結局、当たり障りのない会話だけで某大将に対する愚痴などは一切聞けず仕舞いだったのだが、ソヤンケクルの部屋でしばらく過ごした後のハクにはいくらか元気が戻っているように見えた。
 そうあってほしいと願う大人が作り出した都合の良い幻想かもしれない。けれどハクが己を選んでくれたという事実に意味を見出したい大人としては、己の存在によってこの少年が少しでも安らげたのなら……と思わずにはいられなかった。
「送って行こう」
 空になった湯呑を置いてソヤンケクルは床に片膝を付く。軽く両手を広げれば、そこへ当然のように少年の痩身がぽすりと収まる。軽い躰は大して踏ん張る必要もなく簡単に抱き上げることができた。そうしてソヤンケクルの片腕に尻を乗せる恰好のハクと視線が合えば、
「……しまった。あんたに抱き上げて運んでもらうのが癖になってるぞ、これ」
「あー、ついやってしまったね」
 ハクが呻き、ソヤンケクルが自由な方の手で頬を掻く。
 双方、特に意識しないまま一連の動作を行ってしまっていたのだ。抱き上げた者と抱き上げられた者はどちらともなく苦笑いを零し、「まぁいっか」とそのまま部屋の外に出る。
「はっはっはっ! それにしてもハク君のお肌はすべすべだなぁ」
「ちょ、おい、やめっ! ひげがチクチク通り越してじょりじょりする……ッ!」
 ふざけてちょうどいい位置にある頬に頬ずりすれば、苦情と共にやわい細腕で突っぱねられる。しかしハクの非力さでは到底ソヤンケクルを退けられるはずもなく、大人はわざとらしい笑い声を上げてますます頬を擦り付けた。
「ん〜。まるでアトゥイちゃんのような滑らかさ」
「は? ああ、あんたんとこの娘か」
「そう! 可愛い可愛いうちのお姫様だよ」
 一旦頬を離してソヤンケクルはデレデレと親馬鹿を晒す。自國に残してきたアトゥイはソヤンケクルの愛娘で、今のハクと同じ年頃――相手は現人神の血族であるため実年齢はさておき、少なくとも容姿だけなら同じくらいに見える――だった。彼女が将来どこかの誰かの嫁になることを考えると今から腸が煮えくり返る思いだが、ふと深い琥珀色の双眸と視線が絡んでソヤンケクルは思い付いたことを口から零す。
「ハク君ならアトゥイちゃんのお婿さんにしてあげてもいいかなぁ。朝廷(ここ)でやること全部やった後でその気があればうちに降嫁してくれてもいいんだからね。むしろ君の立場上、降嫁という手はなかなか良いんじゃないかい」
「はぁぁぁあ? 冗談でもあんたの口からそんな言葉が聞けるなんて、夢にも思わなかったんだが………」
 驚きのあまり声を裏返しながらハクが答える。
 ソヤンケクルは片目を瞑って微笑んでみせた。
「君は特別だよ。未来の舅が言うんだから安心しなさい」
 それはこの場限りの冗談半分の戯言ではあったが、半分は本気だった。現人神の血を引く者を家に迎えるなど、そう易々と行えるものではない。それは重々承知している。しかし万に一つの可能性があるのなら、その時は自分こそがこの子の手を取りたいと思うのだ。
 ハクは小さく溜息を一つ。「はいはいそうだな。その時が来ればな」と投げやりに返答して、この話題を終わらせる。次いで鎖の巫の名を呼び、いつものように自分達の姿を隠させた。

 まさかそのやりとりを第三者に見られていたなど考えもせずに。

* * *

 多忙なソヤンケクルの予定を確認し、彼の時間が空いていそうな時を狙って彼の執務室を訪ねようとしたオシュトルは、その部屋の方角から聞こえてくる声にはっと息を呑んだ。
「シロ……?」
 町で出会った不思議な少年とよく似た声に自然と足が速まる。本来ならば先触れを出すか、そうでなくても訪問相手の従者に声を掛けるべきなのだが、己の中で少々変わった位置にいる少年がここにいるのかもしれないと思った時点で他は全て頭の隅に追いやられてしまっていた。
 しかし距離を詰めて会話の内容が徐々に判るようになってくると、少年の話し相手がソヤンケクルであると気付く。親しげな二人の声にオシュトルは何故か気配を殺してしまい、物陰に身を潜めた。
「ハク君ならアトゥイのお婿さんにしてあげてもいいかなぁ。朝廷(ここ)でやること全部やった後でその気があればうちに降嫁してくれてもいいんだからね。むしろ君の立場上、降嫁という手はなかなか良いんじゃないかい」
「はぁぁぁあ? 冗談でもあんたの口からそんな言葉が聞けるなんて、夢にも思わなかったんだが……」
(……!?)
 オシュトルは息を呑む。ソヤンケクルと会話しているのはシロではなく帝弟であるらしい。しかしその話し方はオシュトルが知るものよりもずっと快活で、お面の少年にそっくりだった。おそらく元々の声質が似ているのだろうが、何とも言えない気持ちになる。
 しかしまさかあの帝弟がこんな話し方をするなんて……とオシュトルは驚いた。脳裏にちらつく少年の姿は今だけ無理矢理払いのける。あの愚鈍な帝弟と聡明な彼を己の中で重ねたくなかったのかもしれない。
「君は特別だよ。未来の舅が言うんだから安心しなさい」
「はいはいそうだな。その時が来ればな」
 オシュトルの存在に気付かず、その傍を通り過ぎる二人。ソヤンケクルの立派な体躯に抱き上げられた帝弟は呆れたような表情をしながらも、紛れもなく笑っていた。成長途中の躰から伸びる手足はひょろりと細く、妙にオシュトルの目に付く。
 たった一人に向けられるのは、決して仕事中には聞かれないソヤンケクルの甘ったるい声。それに答える帝弟の声は実に素っ気なく、けれども突き放すような冷たさは欠片も含まれていないものだった。
 やがて帝弟が「ウルゥル、サラァナ」と鎖の巫の名を呼べば、二人の気配が一瞬にして消え去る。巫の術法によるものだろう。
 オシュトルは十分な時間その場で身を潜めた後、そろりと物陰から抜け出した。
「………………帰るか」
 ぽつりと呟き、踵を返す。どうせ今ソヤンケクルの執務室を訪ねても部屋の主はいないのだから。オムチャッコ川の停泊地の建設に関する情報連携を、と思ったのだが、それはまた後日になりそうだ。
 武人として十分に鍛えられた躰は足音をほとんど立てることもなく、平素と変わらず静かに廊下を進む。しかしいつもは澄ました仮面の下の素顔が、今この時ばかりは自嘲を浮かべて歪んでいた。
「ふっ、そうだな。彼の者が斯様な場所にいるはずもない」
 間違えたことを恥じるように小さな呟きが落とされる。
 そして、
「シロに会いてェなぁ……」
 清廉潔白と名高い男は己の表情を隠すように仮面の下の顔を手で覆った。







2016.05.10 Privatterにて初出