「さて、どうしたものか……」
 政務机の上に書簡を広げてオシュトルは腕を組む。紙面に書かれているのは、以前ソヤンケクルにも相談したオムチャッコ川沿岸の新しい停泊地について。一応候補地は決まったのだが、そこを使うためには少しばかり問題があることが発覚し、オシュトルは頭を悩ませていた。
 実は候補地に浮浪者が住み付いているのだ。
 帝都は他の都や町に比べて随分と治安が良く、就業率も高い。職業安定所の制度も充実しており、検非違使などは巡回中に浮浪者を見かけるとそちらを勧めることも多々ある。しかしオムチャッコ川に面したその土地に建つ廃墟では複数の――正確な数は不明だが、少なくとも両手の指の数を超えるらしい――浮浪者達がたむろって、まともに働くこともなく物乞いをして生活していた。
 力任せにその問題を解決することはできる。検非違使を動員し、強制的に撤去させてしまえばいいのだ。しかし民と苦楽を共にし彼等に寄り添って生きることを信条とするオシュトルにとって、その手段はあまり取りたくないものだった。できることなら穏便に、帝都側と浮浪者側どちらにとっても益のある選択肢を選びたい。
 候補地に関する報告はすでに上奏済みのため、このまま時間だけが過ぎてしまえば強制撤去の流れとなる。しかも実行するのはオシュトルとその配下の検非違使達だ。そうなる前に何とか手を打たなければ……。しかし良い案が浮かばず、オシュトルは仮面の下で眉間に皺を寄せた。


 翌日、現地の視察を兼ねてオシュトルはウコンとなり、オムチャッコ川の新しい停泊地の候補であるその場所へと足を向けた。町の中を歩けば顔見知りの住民達が気軽に声をかけてくれる。軽い挨拶や世間話、それから気になる噂話や、最近の困り事まで。今一番の問題は停泊地の件だが、ウコンは彼等の話にきちんと耳を傾け、問題があればその解決のために思考を巡らせた。
 そんな中、雑踏の中にふと視線が吸い寄せられる。あ、と思った時にはすでに声を上げていた。
「シロ!」
 名前を呼ばれた黒髪の少年がぴくりと肩を揺らす。頭の後ろで蝶々結びにしている紐もそれに合わせてぴょこんと跳ねた。そうして振り返った少年の顔の上半分を隠しているのは右近衛大将オシュトルの仮面を模した白いお面。ウコンは少年に駆け寄りながら破顔する。
「オメェさんも町に来てたんだな。お遣いか何かか?」
「まぁそんなところだ。もう終わったけどな」
 それは重畳、とウコンは内心で呟く。相手はまだ幼い少年だというのに、どうしてか己の悩みを打ち明ければ解決に導いてくれるのではないかという期待があった。まだ顔を合わせたのはこれを含めてたった三回であるのだが、このお面の少年を前にすると妙な信頼感というか安心感が湧き上がってくるのだ。
「だったらちょっと付き合っちゃくれねえかぃ」
「自分に何か相談事か?」
「ああ。ちぃと聞いてほしいことがあってな」
「ほう」
「もちろんタダって訳じゃねぇ。そうさな、小腹でも空いてねえか? それなりに手持ちはあっから何でも奢らせてもらうぜ」
「自分をメシで釣るか……」お面の奥で深い琥珀色がきゅっと楽しげに細められる。「いいぞ。串焼きでも買って、その辺歩きながら聞かせてもらおうか」
「串焼きって……。なんでぇ、そんなモンでいいのかぃ?」
「ああ。最近あまりそういう物を口にしていなかったからな。これでも前≠ヘ結構頻繁に買い食いしてたんだがなぁ」
 少年は苦笑し、次いでウコンに呼びとめられて立ち止まっていた歩みを再開させる。そうなればウコンもついて行かざるを得ない。ちょうど進行方向からは屋台で売られているココロモの香ばしいタレの匂いが漂ってきていた。マランの肉を甘辛いタレにつけ込んで焼いたココロモは想像するだけで口の中に唾液が溢れてくる。
 しかし、
「シロにならもっといいもの食わせてやんのに」
 そう、ココロモの串焼きなど子供の駄賃でも買える安価な商品だった。確かに美味いことは美味いが、ウコンが抱えている問題を聞いてもらうにしてはいささか以上に釣り合わない。
「いいんだよ。自分が今食いたいのは串焼きなんだから」
 しかし少年はあっさりとそう告げて、ヒトの群の向こうに見えてきた屋台を指差す。
「ほら、頼む」
「……よっしゃ、わかった」
 ここは妥協する他ないだろう。ウコンは頷いて、少年の頭をくしゃりと撫でた。
「だが他にも欲しいものがあれば遠慮なく言ってくんな」
「ん」
 こくり、と手のひらの下で頭が揺れる。ウコンはそれに笑みを浮かべ、屋台へと駆け足で向かった。


「ははぁ〜なるほどね。新しい停泊地の候補として上がった場所に浮浪者が」
「おう。どうにもその場所に停泊地をこさえるのはもう決定事項らしくてな。そいつらが自主的に退かねえままだと、そう遠くないうちに検非違使がでしゃばってくるみてえなんだわ」
 あくまでちょっと情報通の風来坊が近隣の住民達から仕入れた話という形式で、ウコンはオムチャッコ川の新停泊地に関して少年に語って聞かせた。
 ココロモの屋台の隣に置かれた椅子に腰かけたまま、お面少年は腕を伸ばして串を専用の容器に返す。タレのついた人差し指をぺろりとひと舐めして赤い舌を口の中に仕舞った彼は、腕を組んで「そうさなぁ」と唸ってから考え込むように口を閉じた。
 ウコンは更に続ける。
「どうにかなんねえかってのが、ここんとこ俺の悩みでな。廃墟に住み着いてる奴等も好き好んで検非違使に追っかけ回されたいとは思ってねえはずだ。しかしあの場所から退いたって次にどこへ行きゃあいいのか……それが決まってねえから、動くに動けねえ。何しろ住む所を確保するには金子が要る。そして金子を稼ぐには仕事が要る。だが――」
「大して学のないそいつらにとって十分に稼げる職は今のところ存在しない、か」
「ああ。一人二人なら紹介できる。だが十を超えるとなると流石にな」
「大人数が必要で、しかも単発じゃなく継続的な仕事なんて都合のいいものってのは……そうだな、ちと難しい問題だ。それと仕事の件と同時に住む所も確保せにゃならん。しかもできれば格安で、だ。何せそいつらには手持ちがないんだからな」
「そうなんだよなぁ」
 ウコンはがしがしと頭を掻いた。
 少年が確認のため口にする言葉を聞き、改めて事の難しさを実感する。
「今日はちぃとその現場ってやつをこの目で見て来ようと思っていたところでな。どうでぃ、一緒に来てくれるか?」
「そうさな」
 タンッと軽い音を立てて少年が腰掛けていた椅子から降りる。屋台の親父に美味かったと一言告げてから、彼はウコンに向き直った。
「現状をこの目で確認すれば今とは別の考え方ができるようになるかもしれん。こうして串も奢ってもらった訳だし、いいぞ、付き合おう」
「それじゃあ行くかい」
「ああ」
 二人は揃ってオムチャッコ川の方向へ歩き始める。その背に屋台の親父の「まいどあり〜」という間延びした声がかかった。


「解決策を出すどころか余計に行き詰った感じだ」
 少年がお面の奥で琥珀色の双眸を険しくさせ、むぅと唸る。
 ココロモの串焼きの屋台を発ってからしばらく。オムチャッコ川沿岸にある件の廃墟に足を運んだ二人だったが、そこにはやはり十を超える浮浪者達が住み着いていた。軽く話を聞いた所、ウコンが予想していたままの現状――つまり、彼等も良い働き口があるなら働いて金を稼ぎ、長屋でも借りて住みたいと考えているらしい。
 だが同時に、ここで少年が「余計に行き詰った」と言ってしまった理由にも至る。
 廃墟に住み着いた浮浪者達には血の繋がりも何もないのだが、共に暮らしているうちに仲間意識が芽生え、今や一人二人だけが仕事を見つけて廃墟を出ていくのを良しとしていなかったのだ。そんな裏切りのような行為、己にはできない。と言って。これでは各々単発でも何でもとにかく仕事についてもらい、もっと良い条件の仕事が見つかり次第、順次彼等に紹介していくという次善策も無理だ。少年が串焼きの屋台で言った通り、あの人数を一気に雇える仕事を探さなければどうにもならない。
 そして忘れてはならないのは彼等の移住先の件である。あれだけ仲間意識が強いなら、仕事同様、新居も分散させるのは難しいだろう。それこそ彼等が言った通り、長屋を丸々一棟借り切ってしまわなければ移住などしてくれないと考えられる。
「ああもう、さっさと出来る奴から仕事についてカネ稼いで新しい家に移り住みゃいいのに。あいつらだって別に働きたくない訳じゃないって感じだし。あと離れて暮らしてるからって仲間じゃなくなる訳でもないだろう。しかもこのままじゃどうせ検非違使に追い立てられてあそこに住めなくなるんだぞ」
 対応策に頭を悩ませるウコンの隣で少年が呆れ混じりに呟く。彼の言っていることは正しい。しかしその言葉はどこか正論過ぎて冷たさすら感じられた。
 だがその後すぐ、
「下手に検非違使と争って怪我でもしたらどうすんだ。互いを大切に思うならそっちの方が重要だろうに」
 ぼそりと付け足された言葉に少年の苛立ちの真意を知る。やはり己が見込んだ人物だとウコンはこっそり口の端を持ち上げた。
 ただしウコンが己の目の狂いのなさを改めて感じていても、それで何か妙案が浮かぶ訳ではない。オムチャッコ川から町の中心部へと引き返す足取りはどちらも決して軽いとは言えず、独り言を終えた少年とウコンは揃って「はあ」と溜息を吐き、肩を落とした。
 そんな折――
「ああ、いたいたウコンさん! 探したよ!」
「おっ? なんでぇ、長屋のばあちゃんじゃねえか。どうした?」
 現れた老婆――と言ってもまだまだ元気で、その辺の若い者には負けないと普段から豪語している――にウコンが顔を上げる。
 一方、用があるのは己ではなくウコンだと察した少年は立ち止まった偉丈夫から数歩離れて二人の会話が済むのを待つ体勢に入った。老婆が内緒話をするような性質ではないためきっと話は少年の耳に自然と入るだろうが、その視線は通りと家屋の間を流れる側溝へ向けられている。何か良くない思い出でもあるのか、彼は口をへの字に曲げて「うへぇ。これ掃除すんの大変なんだよな」とまた独り言を始めていた。
 なお、側溝やオムチャッコ川から分流している河川に溜まる汚泥は帝都の住民にとってそれなりに頭の痛い問題となっている。これが溜まり過ぎると水の流れが悪くなり、ちょっとした雨で側溝や河川から水が溢れて家屋が浸水被害に遭うこともあるのだ。しかし現在、汚泥の除去は周辺住民に一任されており、放置するのも除去するのも彼等の自由となっている。おまけに側溝程度ならそこに面した家の住民が片手間に済ませることも可能だが、河川くらいの大きさになると誰が管理すればいいのか全く決まらない。したがって下手をすれば川が氾濫するまで放置されるという有様だ。
(これもあんまり無視できない問題ではあるな……)
 現在抱えている問題が全く解決しないうちにまた新たな問題に行き当たって最早溜息すら出ない。そしてそんなウコンの心情など知るはずもなく、老婆は「ちょっと聞いてくれるかい」と新たな問題の気配を漂わせていた。
「どうしたぃ、ばあちゃん。近所で変な奴でもうろつき始めたのか?」
「いや、まだそこまではいってないんだけどねぇ」
 眉間に皺を寄せて困ったように老婆が続ける。
「ほら、うちの裏の通りにもう一軒長屋があるのは知ってるだろう?」
「ん? ああ、あのボロっちくて住人が一人しかいねえってところか」
「そうそう。でもこの前、その一人で住んでたじいさんが寿命でぽっくり逝っちまってね。今は無人なのさ。あんなボロっちい所、だぁれも住みたがりはしないだろうねぇ」
「ってぇことは……そうか、住む奴がいないとなると周りの治安が……」
「流石ウコンさん、話が早い。そうなんだよ。住人がいなくなったせいで、このままの状態が続けば良くない奴等があそこに集まり始めるんじゃないかって、気が気じゃなくてねぇ。ちょうどうちには嫁入り前の孫娘がいるし、どうにかならないかい」
「そうさなぁ」ウコンは髭の生えた顎をさすって頷いた。「わかった、そっちの方も何か考えとくぜ。なるべく早く手を打つようにすっから」
「頼んだよ、ウコンさん!」
「おう」
 ウコンがまだ具体策を出していなくともこれまでの功績から厚い信頼を向けてくれている老婆はぱっと笑顔になって自分の家へと帰って行く。その背を見送りつつ、あとで配下の男衆に巡回でもさせようかと考えていたウコンだったが――……
「なあ」
 こちらが老婆との会話を終えたことで少年が戻ってきた。浅葱色の羽織の裾をくいと引っ張る少年に「どうした?」と尋ねれば、彼は少々言い難そうにしながらも「まだ案に穴はあるんだが……」と告げる。まさか、とウコンは息を呑んだ。この短時間で少年はウコンが抱える問題に解決策を考え付いてくれたというのか。
「穴があってもいい。とにかく教えてくれ」
 その穴はウコン(オシュトル)の力があれば塞げるものかもしれない。
 民に笑顔をもたらすことがオシュトルにとって至上だ。藁にも縋る思いで……と言ってしまうのはいささか大袈裟かもしれないが、ウコンは少年としっかり視線を合わせて先を促した。
「うっ、そんな心して聞くようなもんじゃない」
 偉丈夫の様子に少年はそう謙遜を重ねながらも、自身が思いついた案について語り始める。
「まぁその、なんだ。オムチャッコ川の傍にある廃墟に住んでる奴等には、さっきウコンがばあさんと話していた長屋に住んでもらうんだ。住人がいれば犯罪者に住み付かれることもなくなるだろう。あそこの浮浪者達は別に悪さをしようって奴等でもなかったし、周りの住人達は最初ちょっと驚くかもしれんが、当人達と話してみれば判ってくれると思う。そんで長屋の賃貸料に関してだが、ボロくて住みたがる奴がいないって話だったな。それなら格安で借りられるよう交渉すればいい。築年数が長いせいで賃貸料が下がるのはもちろんだが、他に借りたがっている奴がいないってのもミソだな。何せ建物ってやつは住んでいるヒトがいないと途端にガタがくる。放って置けば、あっと言う間に『ただのボロい長屋』じゃなく『廃屋』の完成だ。下手すりゃ倒壊の危険性だってあるだろう。そんなものは長屋の持ち主も望んじゃいないはず。それならたとえ安い賃貸料でも他人に貸して住んでもらった方がずっといいと思うのは自然の流れだろう? ま、ここら辺はこっちから細かく説明して納得してもらう必要があるだろうが」
「なるほどな」ウコンは腕を組んで頷いた。「しかし住処は確保したとして、カネは……働き口はどうする」
「その問題は、こいつで何とかしたい」
 そう言って少年が指差したのは、先程彼が眺めていた側溝だった。話が見えず首を捻るウコンに、少年は呆れもせず丁寧に説明を続ける。
「溝(ドブ)浚いや町の清掃を専門で行う集団を新しく作るんだ。しかも周りの住民に依頼されて不定期に清掃するんじゃなく、月に何回って決めて定期的に行う。給金は日払いじゃなく月給制が良いかな。まぁその辺は追々交渉ってことになるだろうが……。ともあれ、その清掃集団として浮浪者達を一気に雇い入れる。これで仲間意識の強い彼等を一人も零すことなく仕事につかせられるし、ついでにこの町のゴミ処理に関しても一応の解決は見られるだろう」
「すげぇじゃねえかシロ!」
 ウコンは心から感心した。偶然目にした現状をこうも即座に分析し、組み立て、解決に導いてしまうなど。やはりこの少年、ただ者ではない。
 己が抱えていた三つの問題を一瞬にして全てまとめて解決してしまった幼い少年に、ウコンは興奮で袴の中に隠した尻尾がぶわりと膨らむのを感じる。その興奮が顔にも表れていたのか、少年が慌てて「いや、待て待て! 待て、だウコン! 最初に『穴』があると言っただろう!」と声を荒らげる。
「この案の問題は、清掃集団に払う給金をどこの誰が出すかって話だ。根本的な問題だぞ、これは。該当する地区の住民達に事情を説明して少しずつカネを出してもらうべきなんだろうが、そうなると今すぐこの形態を整えるってのは難しくなる。溝浚いの重要性は皆が判っていることだろうが、それでカネを出すかどうかはまた別問題だ。必ず一人二人は渋る奴が出てくる。そして全員から賛成を得られなければ、この案は進められない。まぁこの帝都全体に関わることなんだから御上がカネを出すのが最もいい解決策のような気もするんだが、朝廷でこの案を可決させるにしてもある程度時間がかかるだろうし……」
 ぶつぶつ呟く少年の肩をウコンはガシリと両手で掴む。
「ウコン?」
「それなら俺にアテがある。禄が多すぎてちぃと使い切れてねえ御仁を知ってるんで、そのヒトに話を持ちかけてみらぁな」
「は?」
 真っ直ぐに見つめたお面の奥で琥珀色の目が丸く見開かれる。ウコンはニヤリと口の端を持ち上げて笑った。
 そう、ウコンには清掃集団に給金を支払ってくれるアテがある。そいつは常日頃から民を助け苦楽を共にしたいと考えている奴で、今は非常に多くの禄を受け取れる偉い立場についていた。
 これがちょっとばかり黒い物事に使うための資金であれば調達は難しかっただろうが、清掃集団の件は正々堂々と胸を張って金を使える事業だ。自身の私財を投じるのに何ら問題は無い。
「よっしゃ、これで問題は全部解決だ! やっぱりシロに相談して良かったぜ」
「うおっ、わ、ちょ、やめ……!」
 ウコンが少年の頭をぐりぐりと撫で回せば、手のひらの下で悲鳴が上がる。その悲鳴に混じって少年の口から「まさかカネの出所って」と呟きが漏れたのだが、ガハハと上機嫌で笑うウコンの耳にそれが届くことはなかった。
 この後、少年が提案した通り、町の清掃を担う集団が新たに結成されることとなる。結果、オムチャッコ川の沿岸に建つ廃墟からは浮浪者が去り、新しい停泊地の建設は順調に進められた。また側溝や河川が常に清潔に保たれるようになったため、ちょっとした雨で河川の氾濫や家屋への浸水が起こらなくなり、水害が発生した際に必要となる復興関連の費用と人々の苦労はぐっと抑えられるようになった。加えて住人がいなくなった長屋にはその清掃集団の皆が住み始め、周囲の治安の悪化も防止できている。
 そうして町の住民達はウコンの他にもう一人の人物に対し多大なる感謝の念を抱くようになった。この流れを上手く動かしてくれる資金の出所であるその人物の名を、オシュトルと言う。
 住民達がより良い暮らしを送れるように私財を投げ打つその清廉潔白公明正大な姿に、元々彼を好いていた人々は更に好感を抱き、オシュトルは当人が別段望んではいなかったところで更に名声を上げることとなったのだった。

 ただし、話はここで終わらない。

 オシュトルの私財を元に結成された清掃集団が活動を始め、その噂が帝都の住民のみならず朝廷にまで届くようになってしばらく。アンジュ姫殿下の名で、ある一つの制度が施行されたのだ。
 それは町の清掃を担う者達を國が雇うというもの。最初はオシュトル贔屓と一部界隈で揶揄されている姫殿下が彼の右近衛大将に媚びを売るために打ち出した滅茶苦茶な法案なのではと訝る者もいたのだが、実際のところそれはきちんと考え尽くされたものであった。
 まず帝都の清掃にかかる費用を帝都の民が納めた税金で支払うことに何らおかしなところはない。税を民のために使っているのだから、矛盾などあるはずがなかった。
 また実際に必要となる金額について。もし清掃をせずゴミや汚泥を放置して水害が起こった場合、その復興にかかる費用や國から被災者に支払われる見舞金はなかなかの額となる。過去の事例から算出されたこの金額と定期的な清掃を行う者達に支払われる賃金を比較したところ、後者の方が圧倒的に安上がりだったのだ。
 アンジュ姫殿下が示した正当な言い分と金額を算出するのに使われた膨大な数字の羅列に反論できる者など朝廷の中にはおらず、結果、帝都の清掃は國がヒトを雇いれて実行される運びとなった。その最初の人員はやり方を確立していた件の元浮浪者達であり、ただの物乞いから(下っ端とはいえ)國の役人となった彼らは、ウコンとオシュトルという二人の男に多大なる感謝の念を一生にわたり抱くようになった。
 そんな決して小さくはない変化の中、アンジュ姫殿下の名は出ても当然のことながら彼女の叔父である帝弟の名が出ることはなく。また、いっそ奇妙なほどに『シロ』という少年の名が人々の話題に上ることもなかった。
 表立って動いたのはウコンとオシュトルだが、あのお面の少年の存在は二人の男の名が目立つのに反比例して薄くなり、おまけにオシュトル(ウコン)本人にそんな異常を気付かせることすらなかったのである。

* * *

「確か『シロ』じゃったか……。何故そちらの名まで隠すのじゃ?」
「目立つのは遠慮したいからな」
 アンジュに市井で起こっている問題を教え、そのために膨大な量の資料集めと計算をこなし殿上人達を納得させるための資料を用意してみせた叔父が、事が一段落した後で放たれた姪の質問に対してそう答える。
 ついでに言うと、彼は情報を操作して――ハク曰く、ちょっと金を出してヒトを雇って積極的に噂話を流してもらうだけ、とのことだ――朝廷・市井両方から己の存在を希薄にすると共に、ウコンとやらの風来坊の名が朝廷内で出ないようにも手を尽くしていた。後者に関してアンジュはその理由を詳しく聞かされていなかったが、おそらくそれも必要なことだったのだろう。
 ハクは更に続ける。
「風来坊に助言する面つきのガキなんて、それだけで悪目立ちして仕方ない。どこから自分のことがバレるか判らないからな、その辺はきっちり隠しておかんと駄目だろう」
「それはそうじゃが……」
 これではますますハク(シロ)を慕う者が現れなくなってしまう。アンジュはそれが不満で仕方なかった。
 ただし今更彼にその不満をぶつけてもさらりと躱されてしまうだけだ。アンジュは仕方なく喉まで上がってきていた不満を呑み込み、代わりに別の言葉を口にした。
「だがハクはそう言いつつも民のために手を貸すことをやめたりせんのじゃろう?」
「そうだなぁ」
 ここは宮廷の最上階にあるアンジュの私室。窓からは帝都を一望することができる。ハクはその風景に目を細めながら、ふにゃりと眉尻を下げた。
「面倒でしかないって判ってるのに、やっちまうんだろうな」
 遠く、遠く、帝都の町並みではない何かを見るようにして、少年帝弟は呟く。
 そのまなざしに悲しみは窺えず、どこか呆れるような、慈しむような、そんな色が含まれているようにアンジュには思えた。ゆえに彼女はそれ以上の質問をやめてしまう。やめてしまったからこそ、知ることはない。
 最終的にアンジュの名で帝都の清掃を國の正式な仕事とし、その集団には國から禄を払うことが決まった後、町で出会ったウコン(オシュトル)がハクに何と言ったのかを――。


 ウコンはお面の少年が出した案を改めて称賛すると共に、帝都の清掃を國の事業としたアンジュの決断にいたく感心していた。しかも偶々市井の状況を知ったが故の短絡的な行動ではなく、國の財政に関してもきちんと考え、國とヒトの両方に益のあることだと結論を出した上での提案だったため、そんな彼女が今後治めていくことになるであろう國の臣下――つまりオシュトル――として誇らしくてたまらない様子でもあった。
 そんなウコンがぽろりと零したのである。
「帝弟殿下にアンジュ姫殿下の半分……いや、十分の一でも民を想う気持ちがあってくれりゃあなぁ」
 清廉潔白で公明正大と謳われる男が、おそらくはそれだからこそ漏らしてしまった本音。何よりも帝を敬愛し、國のために働き、民を慈しむ心が、信頼できる相手を前にしてついつい緩んだ結果が、お面で顔を隠した少年の眼前に晒された。
「正直なところ、帝弟殿下がおられても何の意味もねェんだよな。むしろ――……っと、いけねぇ。これ以上は流石に不敬が過ぎるか」
 口元を押さえてはっとするウコンに少年は苦笑を浮かべてみせた。「ああ、そうだぞウコン。気を付けろよ」と、偉丈夫の言葉を否定も肯定もせず。否、これでは偉丈夫にとって半ば肯定されたようなものかもしれない。
「まぁウコンがそんな言い方するってのはよっぽどのことなんだろうが」
 付け足された少年の言葉に今度はウコンが苦く笑う。その口から少年の言葉を訂正する指摘は零されなかった。
 そう、ウコンの目から見て――そして大多数のヒトの目から見て――、帝弟は豪華な暮らしを享受するだけで民に何も還元しないただの穀潰しである。帝が國を創り民を導き、アンジュが民のために手を尽くす中、なんでお前のような者が存在しているのか、と皆が口にせずとも思っていた。
 現実をよくよく理解していた少年は、だからこそ、ただ、笑う。
 そうして年齢にそぐわぬ落ち着いた様子で口元にほんのりと弧を描き、
「民を愛する風来坊の評価はなかなかに厳しいなぁ」
 と、おどけたように呟いた。







2016.05.09 Privatterにて初出

補足という名の言い訳。
ハクが検非違使の出動による浮浪者の負傷を心配してみせたのは、オシュトルの思考をトレースして己に重ねた結果実際に心配したからなのが半分(※ハクトル時代の名残)、元々浮浪者(=赤の他人)などどうでも良いけれど彼らが傷つけばオシュトル(=身内)が悲しむだろうという本来のハクが抱いた心配が半分です。