「ウコンが町にいるようじゃ、顔を晒したまま出歩くってのもあまり良くないよな……」
 額に角のようなでっぱりがある白いお面を前にして難しい顔で呟く少年。宮廷ではなく聖廟の方に設けられた叔父の私室を訪ねたアンジュは、そんなハクの姿に「どうしたのじゃ?」と首を傾げた。
「ん? ああ、アンジュか。いやなに、この前町に出かけた時に顔見知りと遭遇してな。この面で――」ハクは手にしていた顔の上半分を隠せるお面をアンジュに見せる。「なんとかバレなかったんだが、さて次からはどうしたもんかと……」
 ハクの顔は宮中でも限られた者しか知らない。したがって市井に下りても素顔のまま町を歩けたのだろう。アンジュも似たような立場なのでよく解る。しかしどうやら彼は先日の外出の際、その限られた人物と遭遇してしまったようだ。ハクは隠している物が物なだけに、アンジュよりもよほど気を遣わねばならない。
 と言うことは。
「ハクはもう町に行けなくなってしまうのか……?」
 それはいささか可哀想な気がした。アンジュは眉尻を下げて告げる。
 しかしアンジュのその不安げな声をこの鈍感な叔父は勘違いして、「お前の欲しい本はまだこれからも出るんだろう? ちゃんと買ってきてやるから心配すんな」などと返してくる。
「ハク、そうでは――」
「しょうがない。またこの面に頼るとするか」
 アンジュが訂正する暇もなくハクはさっさと結論を出してしまった。どこかで見たことがあるような無いような白いお面を掲げて「自分くらいの齢のガキなら面をつけて町を歩いていても許容範囲内だろ」と呟いている。
 見た目と中身が釣り合わない叔父はそう言って一人で勝手に納得していた。ここから彼の勘違いを訂正するとなれば当然アンジュは自分自身の感情を詳しく語らねばならぬため、ぐっと口を噤む。それは少し恥ずかしい。
 したがってアンジュは別の話題を彼に振ることにした。
「ところでハク、そのお面は何を模しておるのじゃ?」
「ちゃんと知ってる奴の方がかえって判りにくいよな、これ……」
 苦笑しつつアンジュの前に件のお面を差し出すハク。やはり見覚えがあるような無いような、微妙な気がする。アンジュが首を捻ればハクは容易くその答えを口にした。
「右近衛大将オシュトルの仮面だ。適当にも程があるけどな」
「…………、あー」
 言われてようやく納得する。確かにそう見えなくもない。
「子供用の菓子やら玩具やらを売ってる屋台があってな。そこにこの面も売っていたんだが……」
「他の者の仮面もあったのか?」
「ああ。残念ながら全部これくらいの似せ方だった」
 殊更オシュトルの仮面の模倣が下手だったのでも、また逆にこのお面が最もマシな似せ方をしていたのでもないらしい。ならばどうしてハクはあえてオシュトルの仮面に似せたお面を選んだのか。ふと疑問に思ったアンジュはそこから推測される事実に関してごくごく軽い気持ちで叔父に問いかけた。
「ハクは『仮面の者』の中で誰が最も好ましいと思うのじゃ? やはりオシュトルなのか?」
「へ?」
 アンジュの問いかけにハクは一瞬きょとんと間の抜けた顔をする。それからじわじわと問われた意味を解するのにしたがって目を泳がせ、「あー」やら「うー」やら意味不明な唸り声を上げ始めた。しかしやがて観念したかのようにアンジュへと視線を向け直し、
「ほら、四つの仮面の中だとこれが一番顔を隠してくれるし……」
「そのような顔で言われても信じられぬぞ」
 どうやら叔父はまったく観念していなかったらしい。アンジュが半眼になってそう返せば、言葉に詰まった叔父がぐっと眉間に皺を寄せる。実のところ、その反応だけで十分だった。
「ふむふむ、そうか。オシュトルはハクのお気に入りなのじゃな」
「いやいやなんでそうなる」
「隠さずともよい。そう言えばオシュトルが右近衛大将の位を賜った頃からハクが聖廟を出てこそこそ動いておったようだしのう。今思うと貴族から要らぬやっかみを受けるオシュトルのために暗躍しておったのじゃな。ハク、お主もなかなかやるではないか」
「お願いもうやめてホント勘弁してください」
 意気揚々と喋るアンジュとは対照的に、ハクは両手で顔を覆って床にうずくまっていた。相当恥ずかしい思いをしているらしい。髪の隙間から見える小さな耳が真っ赤に染まっている。
 無論、ハクのことだからただの贔屓でオシュトルのために動いていた訳でもないのだろう。必要だから、それをした。アンジュの知っているハクはそういう男だ。おそらくオシュトルは帝に仕える臣下として非常に優れた人材であり、それ故にハクは彼が周りに潰されぬよう密かに守っていたのだろう。
 アンジュは、くふ、と小さな笑みを漏らす。
 見つけた。自分はやっと見つけたのだ。この年若い叔父を理解し、強く見えて本当は柔らかい彼の心をしっかり守ってくれるかもしれないヒトを。
 未だうずくまったままの叔父の前にしゃがみ込む。ぽん、と頭を撫でれば「確かにちょっと優遇しすぎていた気がする……」と、呻き声と独白の中間のような声。全部とは言わずとも、半分くらいは無意識に行動していたらしい。
 アンジュは更に笑みを深めた。ハクの特別≠ェハクを特別に思ってくれたなら、それはどれほど素敵なことだろうか。
(これで候補は決まりじゃ。あとはハクの隣に相応しいか否か余の目できちんと見定めてやらねばな)
 大切なハクのことなのだから、ハクを大切に思う自分の目で対象を見極めることもまた重要。しばらくオシュトルの観察に勤しむことを心に決め、アンジュはよしと気合を入れた。

 これにより、以後、右近衛大将オシュトルが天子アンジュのお気に入りではないかという噂が宮中でまことしやかに囁かれるようになる。

* * *

 その小さな背中を視界の端に捕えた瞬間、見つけた、と思った。似たような背格好の子供などいくらでもいると言うのに、あの子供こそ己がもう一度会いたいと願っていた人物だとウコンは一目で直感したのである。
 人ごみを器用に避けながらちらちらと見え隠れする背中を追えば、こちらから逃げている訳でもない子供になどすぐに追いつけた。偶然を装ってウコンは薄い肩を叩く。
「お、この前のボウズじゃねぇか」
「……ウコン」
 顔の上半分を隠す白いお面がウコンを振り仰いだ。名を口にしたということは、向こうもこちらのことは記憶に残っていたらしい。たったそれだけの事実が妙にくすぐったく、嬉しく思えてくる。自然と零れる笑みを向ければ、お面の奥で深みのある綺麗な琥珀色が大きく見開かれるのが判った。
「機嫌、が、いいな?」
「おうよ。ボウズに会えたからな!」
 本心からそう言えば、戸惑いの気配が伝わってくる。しかし嫌がっている訳でもないらしく、「そうか」と返す言葉はどこか――ウコンの自惚れではないのなら――弾んでいるように聞こえた。
 少年の耳と尻尾が髪と服で隠されていて見えないのが残念だと思う。目に見えていれば、もう少しこの少年の心の機微も悟ることができただろうに。
 あの日と同じく薄めの風呂敷包みを抱えた少年は、挨拶をしてすれ違うでもなくそのまま隣を歩き始めた偉丈夫に小首を傾げた。
「自分に何か用でもあったのか?」
「いんや。特にこれといった用はねぇんだが……」
 本当にただ会いたかっただけなのだ。会ってもっと話がしたかった。しかしそのまま伝えてしまうのは、まだ一度しか会ったことのないいとけない少年に対して成人した男がやってもよいことなのだろうか。一歩間違えれば変質者、という考えが脳裏をよぎってウコンの言葉尻を濁す。
「? そうか」
 頭上に疑問符を浮かべつつも少年がそれ以上深く追求してくることはない。年齢に見合わぬ引き際の良さに感心しつつも少々物足りなさを感じて、俺は一体何様のつもりかとウコンは自分を叱咤した。
 しかし叱咤した直後、少年の言葉の続きを聞いてあっさりと心臓が喜びに跳ねる。
「まぁ自分ごときにできることがあるなら喜んで助力しよう。いつでも出歩いている訳じゃないが、見かけたら声をかけてくれ」
「いいのか?」
「町のヒトのために何くれとなく世話をしてくれる風来坊の願いとあらば」
 そう言えばこの少年は以前付き合いのあった誰かの影響でついついヒト助けをしてしまう性質だったか、とウコンは先日の会話を思い出す。その誰かさんのおかげでこうして少年と新たな縁を繋ぐことができたのだと思えば感謝の気持ちが溢れ、けれども少年に大きな影響を与えているという事実に嫉妬心をも覚える。難儀なものだと自分自身のことでありながら苦笑せざるを得なかった。
「(どうにも自分はお前の願いを断れんのだよなぁ)」
「ん? 何か言ったかい?」
「いいや、何でもない」
 少年が頭(かぶり)を振る。
 ともあれこれで少年とウコンの関係は『赤の他人』から格上げになった。が、浮かれていられたのも束の間。ウコンは少年の名を呼ぼうとして、まだそれを知らなかったことに気付く。ぱかりと口を開けたまま固まってしまった偉丈夫に少年がはてと不思議そうにお面の奥で瞬き、
「…………ああ、名前か」
 この少年、妙に察しがいい。まるで長い付き合いのある友人のようだ。
 驚くウコンの思考を知ってか知らずか、少年はさらりと言った。
「じゃあ『シロ』とでも呼んでくれ。スマンが、個人的な事情で住んでいるところは明かせない。ただ悪事に手を染めていないことだけは誓おう」
「……本名じゃねぇのか?」
「教えられるような立場ではなくてな。知恵は貸せるが、そちらは勘弁してほしい」
 なんとも奇妙な言い分にウコンは眉根を寄せる。だがそれを受け入れられないならば、少年は折角ウコンが掴んだ手をするりと引き抜いてどこかへ去ってしまうのだろう。そんな予感がする。
「わかった」
 捕まえた手を離したくないウコンにとって返せる言葉などこれしかない。
 一方、条件を受け入れたウコンに少年がほっと息を吐いた。彼もまたウコンと離れ難いと思ってくれているのだろうか。そうなら嬉しい、とウコンの胸の奥に熱が灯る。
「よろしく頼むぜ、シロ」
「こちらこそ、だ」
 薄くはにかむように微笑む少年を見て、やっぱり今すぐ囲い込んでしまいたいと思ったのは、ウコンだけの秘密である。







2016.04.27 Privatterにて初出