出会いから半年後。
 帝都を訪れたところで、そう容易くハクと再会できるはずもなかったとソヤンケクルが悟ったのは、滞在三日目のことだった。
 以前のように隠しこまれた書簡を探し出してはこっそり右近衛府に届けているのかと思いきや、決裁の順路と書簡のやり取りの方法が見直され、そういう腐った輩の愚行が起こりにくくなっていたのである。なお、この改革案はアンジュ姫殿下の名で出されたらしい。その後ろに誰がいるのかは、ソヤンケクルにとって明らかであったけれども。
 宮廷内をうろつく理由がなくなった今、ハクは聖廟に籠って自分の仕事に専念しているのだろうか。そうなると聖廟に足を踏み入れる権利を持たないソヤンケクルはあの少年に会うことができない。会って特に何かをするということはないのだが、会えないと判ると無性に会いたくなるのはヒトの性(さが)というものだろう。
 うーん、と眉間に皺を刻み、念のため初めて出会った備品庫を見回ってから宮廷内の自室へ戻って来たソヤンケクルは、だからこそ己の執務室の前で待っていた人物を見つけて目を丸くする。
「よっ」
 扉の前で片手を上げて挨拶したそのヒトは――
「ハク君……!?」
「ひさしぶりだな、ソヤンケクル」
 聖廟の奥に引き籠もっているはずのハクがそこにいた。いるはずのない人物の登場に慌てて周囲を確認すれば、「ここまで双子に送ってもらったから誰にも会ってないぞ」と告げられる。次いで「入ってもいいか?」と訊かれたので、思わず「どうぞ」と扉を開けてしまった。
「いやいやいや、違うから。なんでハク君がこんなところに?」
「来ちゃマズかったか……?」
 扉を閉めてすぐはっとするソヤンケクル。この子は帝弟だ。部屋の外で待たせるのも、そもそも八柱将ごときの部屋に招くのも不敬すぎやしないだろうか。否、完全に不敬である。
 と思って少年を見下ろしたものの、上目使いで恐る恐るそう尋ねられると心臓のある辺りがきゅんと疼いて「大丈夫だよ」と答えざるを得ない。おまけにソヤンケクルの返答を聞いてハクがほっと胸を撫で下ろすような仕草をするのだから、もう本当にたまったものではなかった。
「よかった……。双子からあんたが自分を探してくれているらしいって聞いて会いに来てみたんだが、間が悪かったらどうしようかと」
「ははっ、気を遣わせてすまなかったね」
 ぐっと息を詰まらせそうになったが何とか耐え、平静を装ってそう答える。自身の本来の能力を知られた後だからなのか、ハクの態度は実に気安い。そして無防備だ。そんな彼にふにゃりと柔らかく微笑まれてしまえば、ソヤンケクルの庇護欲は容易く天元突破しかけた。
 だがしかしこの子は帝弟、この子は帝弟……と己を静め、ソヤンケクルは茶でも飲むかと壁際の棚に収められていた茶器を取り出す。ハクからも異論はなく、執務机とは別に設けた休憩用の長脚机の元へと一足先に向かった。そして小さな手が懐から取り出し、机の上に置いたのは――
「ハク君、それは?」
 茶器をハクが取り出した何かの隣に置いて尋ねる。
「これは『ルル』という。茶菓子にどうかと思ってな。アンジュにねだられて作ったやつの余りなんだが、よければ食べてみてくれ」
 畏れ多くもソヤンケクルは帝弟殿下にわざわざここまで足を運ばせたばかりか手土産まで持参させてしまったらしい。臣下として立つ瀬がないと内心で項垂れた。しかし同時に、これまで決して身内以外に本当の姿を見せて来なかったであろう少年がこうも己に心を砕いてくれる様を目の当たりにしてしまうと、ついつい口元がだらしなく緩む。
「そうか。じゃあ有り難く頂戴しよう」
 シャッホロに残してきた愛娘にしか向けたことのないような甘い声でソヤンケクルはそう答えた。
 直後。
「ソヤンケクル様、よろしいでしょうか」
 扉の外から部下の声。「どうした」と問い返せば客が来ているという。
「誰が来た?」
「右近衛大将オシュトル様です」
「オシュトル君が……?」
 はたと目を軽く見開く。きっと真面目な彼のことだから仕事の話だろうと思いつつ、振り返ってハクに視線を向けた。オシュトルはハクにとって特別なヒトである。会えるとなればそれなりに嬉しそうにしているかと思いきや、
「ああ、そうか。彼は知らないんだったね」
「……」
 少年の頭がこくりと縦に動く。つまりハクの想いは一方通行なのだ。
 ソヤンケクルは眉尻を下げながら薄く微笑んでハクの頭を優しく撫でた。そして扉の外で控える部下に「通してくれ」と返す。途端、ハクから驚く気配が伝わってくるが、あえて無視した。部屋の隅に隠してもオシュトルならば気配で気付くだろうし、こそこそとハクを先に部屋から出してもきっと途中で見つかる。どちらにせよ、余計に状況がややこしくなるだけだろう。ならば最初から堂々とすべきだ。
 オシュトルはすぐ近くまで来ていたらしく、ややもせず扉が開かれ白い外套(アペリュ)と青い着物姿の青年が姿を見せる。
「お忙しいところ申し訳ない。オムチャッコ川の新たな停泊予定地に関してソヤンケクル殿に助言をいただければと思い参った次第」
「こちらこそご足労いただいてすまない。助言できることがあればさせてもらおう。ただ……」
 ソヤンケクルは自身の躰で陰になっていた少年を前に出す。背中を押されて足をもつれさせた少年は声もなく悲鳴を上げるが、ソヤンケクル自身に支えられて事なきを得た。しかしそれに安堵するより早く「殿下……?」とオシュトルの戸惑う声が降ってきて、細く頼りない躰を固くする。
「何故ハク殿下がソヤンケクル殿のところに」
 普段聖廟に籠り切りの帝弟が宮廷内の、しかも八柱将の執務室にいるのは実に奇妙なことだろう。ゆえにオシュトルが驚くのも仕方ない。だがそう呟いた右近衛大将の声と仮面越しの表情にソヤンケクルは眉根を寄せる。予想していた通りであるものの、青年からはハクに対する敬意や好意が微塵も感じられなかった。彼はただ敬愛する帝に連なる『帝弟殿下』に対して適切な態度を取っているにすぎないのだ。
「殿下とお茶をしていてね。ほら、シャッホロは帝都と全く異なる気候だろう? ここじゃ珍しい物も多いから、少しお話をお聞かせしようと」
「そうであられたか」
 オシュトルが発したのは何とも言えない温度の声。無能な引き籠もり≠ェ興味本位で八柱将に執務の時間を割かせ、話をせびっていると思ったのだろう。ハクの真意を悟らせないためについた嘘だが、遣る瀬無い気持ちになる。
 ソヤンケクルは謝罪の意味も込めて強張った背中をそっと撫でた。しかしこの少年が被ってきた仮面の出来栄えも伊達ではないことがすぐに証明される。
「右近衛大将殿、自分はもう戻るからどうぞ溟海殿と仕事の話をしてくれ。溟海殿、邪魔をしたな」
 瞬き一つで深い琥珀色の双眸から知性の光を消し去り、茫洋とした茶色い瞳でこちらを一瞥するハク。その変わり様に大人が息を呑んだ隙を突き、薄い背はソヤンケクルの元から去る。
 手のひらから離れていくぬくもり。形だけの礼を取るオシュトル。そして、やり取りを見ていた己の部下がそっと扉を開くのを見て、
「――、」
「っ!? ソヤ……溟海殿!」
「聖廟の近くまでお送りしますよ、殿下」
 ソヤンケクルはまだまだ頼りない躰を抱き上げていた。ハクが細い手足をバタつかせて盛大に慌てている。こちらに向けた視線にはあの光がきちんと戻っていて、不敬と知りながらもソヤンケクルは笑ってしまった。
「殿下はあまりお躰が丈夫ではないのですから、ここは私にお任せください。オシュトル君、そういう訳だから少しここで待っていてもらっても構わないかな」
「あ、ああ。無論」
 突然の行動に唖然としていたオシュトルが仮面の内側で目を瞠りつつも頷く。それを受け、ソヤンケクルは言質は取ったとばかりに意気揚々と執務室を出た。大人の片腕に小さな尻を乗せ上衣にしがみ付いたままの帝弟殿下は未だにあわあわと羞恥で目元を赤く染めている。こんな愛らしい顔をオシュトルはまだ知らないのだろう。
 ソヤンケクルは少年の見えないところで苦く笑った。
 廊下を進む二人の後ろで部下が扉を閉める音がする。当然のことながら「某もお供いたそう」などと言ってオシュトルがついてくる気配はない。あの右近衛大将はハクにとってとても大切なヒトだが、オシュトルにとって帝弟殿下は気遣うに値しない存在なのだという証明のような気がした。
 ハクの顔に差していた赤みも急速に引いていく。いつかの日と同じく少年がその薄い唇から「ウルゥル、サラァナ」と言葉を紡げば、二人の周囲を靄が覆った。宮中の者にこの姿を見られてソヤンケクルにあらぬ噂が立つのを防いでくれようとしているのだ。
「ありがとう、ハク君」
 ソヤンケクルの首筋に両腕を回して顔を埋めたハクがその体勢のまま首を横に振る。やわい髪の毛の感触が少々くすぐったかったが、呑気に笑えるはずもなく。ソヤンケクルは薄い背中をゆっくりと撫で、囁くように告げた。
「つらいね」
 腕の中でぴくりと小さな震えが起こる。だがそれは本当に微かなもので、すぐに「自分が選んだことだからな」と少々くぐもった声が返された。泣いてはいないようだが、しかし泣けば悲しいということでもない。
「ごめんね」
「あんたは悪くないさ」
 むしろ上手く対処してくれて助かった、と少年が告げる。しかしソヤンケクルはもう一度謝罪の言葉を繰り返す。
「うん、ごめんね」

(君は悲しんでいるのに、こうしていられることが嬉しいと思えてしまって)







2016.04.14 Privatterにて初出

普通に考えれば國と民と帝のために命かけてる男にとって國の中枢にいながら全く仕事しない人物(しかもそれより幼い女の子がめっちゃ仕事してる(ということになっている))なんて好ましく思えるはずがないよね。という訳で、酷いのはこの設定(ハク殿が表向き頑張らない)と書いている人間です。少なくともオシュ様ではない。何故ここでこういうことを書いているのかと申しますと、それはもうこれからどんどんアレな展開になっていくからです。その辺あらかじめご了承いただければ幸いです。ホントすみません。でもちゃんとハッピーエンドですので!