掬い上げるように取った手は己より一回りも二回りも小さい。皮膚はやわくて肉刺(まめ)や胼胝(たこ)など一つもなく、真白いきめ細かな肌をした甲につるりと形の良い爪で構成されている。手首は握っただけで折れてしまいそうなほど細かった。しかしそれでも男として生まれたことを感じさせる骨や筋の形がきれいに浮き出ており、相手が女性ではなく、成長期にようよう足を掛けた少年であることを示している。
「ご尊顔を拝謁する栄を賜り恐悦至極に存じます、ハク殿下。某の名はオシュトル。此度、聖上より右近衛大将の任を賜った次第にござりまする」
 片膝を折り跪いた姿勢でオシュトルは少年の顔を見上げた。
 茫洋とした茶色の瞳がこちらを見つめ返している。現人神の血を引く御方と目を合わせるという、本来ならば畏れ多いはずの行為は、しかしオシュトルにとって何の感慨ももたらさない。ただ「ああ、やはりか」と僅かな落胆があるのみ。その落胆が少しで済んだのでさえ、以前から目の前の人物に期待も尊敬もしていなかったが故に、改めて大きく失望する必要がなかっただけのこと。
 この大國ヤマトを統べる現人神・帝。五年前、その実の弟として長き封印から目覚めたとされ新たに帝室へと加えられた少年・ハク。帝室にはすでに次のヤマトの統治者として帝の娘・アンジュ姫殿下がおり、あわや後継者争いが起こるかと当時は危ぶまれたものの、その心配もすぐになくなってしまった。何故ならこの帝弟殿下は未だ幼いアンジュと比べて何事にも劣り、現人神と血を同じくしているとは到底思えぬ愚鈍っぷりしか示さなかったのである。
 これでは次の帝になれるはずもなく、帝弟の存在は次第に居ない者として扱われるようになった。今では重要な式典や新しく要職についた宮中の者が帝室の方々に報告という名の顔合わせをする時くらいにしか表に出てこない。それ以外は聖廟の奥に籠り、日々無為に過ごしているという。
 この度、右近衛大将に任命されたオシュトルは、そういう訳で初めて噂の£髓殿下とまみえる結果と相成った。帝の忠臣としてこのように感じることさえ不敬なのだろうが、やはりどうしても失望が先に立つ。あの素晴らしい聖上の弟君でいらっしゃるはずなのに、と。加えて帝弟が帝室に加わった頃からアンジュ姫殿下が政に関わるようになり、独創的かつ画期的な案をいくつも出して民がより豊かな生活を送れるよう心を尽くしていた。この差はあまりにも大きい。
「今後よりいっそう身命を賭してこのヤマトのため、民のため、聖上のため、尽くす所存。帝弟殿下におかれましては――」
「右近衛大将殿」
 オシュトルの口上を遮るように初めて帝弟が口を開く。
「確かに形式というものは大事なんだろうが、自分に限っては無視してくれていい。こんなものはまさに無駄の極致だ。ここで時間を使うなら早くアンジュ様の元へ参られよ」
「殿下、」
「自分は誰かから敬意を受けるに値しない人間だ。この國を支える臣として貴殿が言葉を尽くすのは自分じゃないぞ」
 ふっと口元だけを歪ませて笑い、ハク帝弟殿下は踵を返す。オシュトルの手の中から白くてやわい少年の手がするりと引き抜かれ、僅かな熱だけをオシュトルの元に残して行った。
「…………っ」
 オシュトルの気持ちを見抜かれていたのだろうか。それとも彼本人がただ単純にこの行為を無駄だと思っていただけなのだろうか。
 帝弟が帝室に加わってから今までのことを思えば、当然後者だ。しかしどうにも恐ろしい間違いをしてしまったような気がして、オシュトルは呼吸さえ止め、去って行く頼りない背中を見つめ続けるしかなかった。

* * *

 アンジュにとって世界とは父親である帝と、父に仕える臣下と、父が治める民という三つの要素だけで構成されていた。しかし五年前、突如としてそこに四つ目が加わる。『叔父』という、帝以外に初めて自分と同じ血を持つ人物だった。
 ただし叔父と言っても老齢の帝とは異なり、アンジュよりほんの少し年上にしか見えない。それもそのはず。彼はヤマトが建國される以前に生まれていたものの、容易には外へ出て行けぬほどに躰が弱かった。それを改善するため若き帝が何らかの術を施し、術が躰に馴染むまで長らく封印されていたらしい。そうして帝弟が外に出られるようになったのがヤマト建國から数百年後になってしまったという訳である。
 初めて現れた父親以外の血縁者にアンジュが抱いたのは二つの感情。
 一方は、ただ純粋に嬉しいという気持ち。それまでアンジュに良くしてくれる者は多々いたが、やはり彼等とアンジュの間には見えない仕切りが存在していた。叔父という存在はその仕切りのこちら側に足を踏み込むことができる存在だ。
 しかしもう一方は、漠然とした不安。自分より現人神の血が濃い存在に己の立ち位置を奪われてしまうのではないか、第三者に比較されアンジュの方が劣っていると判断されてしまうのではないか、その結果アンジュの傍にあったものが叔父の元へ移ってしまうのではないか……。そういう不安だ。
 ヤマトが建國されてからずっと生き続けている帝が今すぐ崩御するなど考えられるはずもなく、また更にはその幼さ故に、アンジュが帝位の継承権に関して宮中の者達ほど具体的に心配するようなことはない。それにそもそも自身より帝に相応しい者であればそちらに継いでもらった方がヤマトのためになるとすら、うっすらとではあるが考えていた。アンジュはただ『ヤマトにおける唯一の£驤ハ継承者』という立場から外れることで周りが変わってしまうことを恐れたのだ。
 だがその不安はすぐに拭われることとなる。
 まず期待通りに、否、期待以上に新たな血縁者はアンジュに優しかった。アンジュもまた初めて会ったとは思えぬほど一目見て好感を抱き――それはまるで(想像上でしかないが)母と触れ合った時のように――、すぐ叔父と打ち解けることができた。見た目のこともあり「叔父上」とは呼ばず、アンジュは彼のことを「ハク」と呼ぶようにしている。それにアンジュが叔父を名で呼ぶと、彼は嬉しそうに笑い返してくれるのだ。
 ただ一つ不満があるとすれば、他人の目がある所でハクがアンジュを「アンジュ様」と呼ぶことだろうか。無論、二人きりや事情を知る者しかいない時などは単に「アンジュ」と親しみのこもった声で呼んでくれる。ハク曰くこれは必要な行為とのことで、アンジュも理由を聞いて納得してはいたが、やはりまるで臣下のように目を伏せ、頭を垂れて、「アンジュ様」と呼ばれるのは悲しいものだった。
 呼び方がそうであるように、ハクは自身よりもアンジュの方を上に置いている。血の濃さで言えばハクの方が次の帝となるべきなのだが、彼には帝位を継ぐ意思が欠片も無かったのだ。次の帝はアンジュ、というのが彼の中での絶対的な決定事項であり、自身の登場により宮中が騒がしくなることを見越してハクは最初から己を偽った。何もできない帝弟として。
 ああ、不満はもう一つあった。とアンジュは思い直す。宮中でハクは愚鈍であるとされているが、そんなことはない。むしろここ数年アンジュが積み重ねてきた功績は全てハクの助言により実行されたものだった。民の笑顔を見ればそれがどんなに素晴らしい行いだったのかすぐに判る。その全てを成したのがハクだというのに、功績はアンジュのものとなり、対照的にハクは聖廟に引き籠もって何をしているか判らない愚者の烙印を押されてしまった。
 それはハク自身が望んだことだ。彼は自身を帝位継承者足り得ぬと周囲に思わせるため、またアンジュが帝位を継いでも國は安泰だとヤマトの國中に認識させるため、このような芝居を今も打ち続けている。これが継承権争いや宮中の混乱を避けるためにとても有効的な策であることに違いはない。しかしアンジュは何も知らぬ者達がハクを愚かと密かに罵っていることが嫌で嫌で仕方なかった。
 こう思えるようになったのは、きっとハクの傍にいて視野が広がったこともあるのだろう。本当にハクはすごいヒトなのだ。

「と言う訳で、ハクが凄いことを知っても周囲に吹聴せず、周りを混乱させぬ、しかしハクを尊敬し支えになってくれるような者を探しておるのじゃが、其方らに心当たりはないか?」

 神域とされる聖廟の奥深く、まるで外のように木々が植えられ天井には空が映し出されている場所にて。アンジュはハクつきの巫女である『鎖の巫』の二人に相談を持ちかけた。
 元々アンジュは聖廟の地下にこのような空間が広がっていることなど知らなかったのだが、ハクが帝室に加わってしばらく後、彼本人に手を引かれ、ここの存在を教えられた。帝もハクが望むならばと許可を出し、以降、自由に出入り可能となっている。なお、ハクからは「そのうちもっと深い所にある部屋も見せてやるからな」とこっそり約束をしてもらっていた。この約束は帝にも内緒だとハクが言ったので、アンジュは思い出すたびに少しどきどきしてしまう。
 ともあれ、現在進行形でその深い場所にあるという部屋に一人籠って何らかの作業をしているハクを待っていた二人の巫達は、次の帝とされる少女から相談を受けて即答する。
「そんな者は不要」
「主様の理解者はこれ以上必要ありません。それが主様の御望みになられたことです。それでももし主様に向けられる好意が足らないとおっしゃるのでしたら、私達がより一層主様を尊び、愛して差し上げればよろしいかと」
「んん〜」
 やはり相談相手を間違えた、とアンジュは即座に反省する。隙あらばハクを入れて三人だけの世界を作りかねないこの巫達に訊いても全く参考にならない。また彼女達ほどではないにしろ、大宮司ホノカや帝も似たような答えを出すことだろう。帝はハクが手元にあればそれで十分と思っている節があり、またホノカは帝の決定に逆らわない。
 やはり自分で考えるしかないのか。そのためにはヒトを見る目を養わなければな……と、アンジュは胸中で独りごちた。
 叔父想いの姪は今後しばらくこの問題で悩み続けることとなる。


「皆には秘密」
「姫殿下にはあのように申し上げましたが、主様の素晴らしさをご存知の方が私達の他にも宮中にいらっしゃるのですよね」
 アンジュが去った後。
 主が閉じこもっている部屋へと繋がる扉に向かって双子の巫はそっと囁く。
 ウルゥルが告げた通り、それはアンジュも、そして帝やホノカさえ知らされていない事実だった。
「誠に遺憾」
「偶然結ばれたその縁(えにし)。主様の下僕としては誠に口惜しい事実ではありますが、主様がよいとおっしゃるのでしたら、私達が出る幕はございません」
「でもこちらの方が有利」
「あの方≠ヘ私達と違って常に主様の御傍にいられる訳ではありませんから。主様の御傍でお慰めするのは私達の役目」
 柔らかな手のひらをそっと扉に押し当てて少女達は微かな笑みを口元に刻んだ。

* * *

 シャッホロ皇ソヤンケクルは自らが治める國からヤマトの帝都へと上京して来ていた。前回の滞在からおよそ半年ぶりであり、その時は新しい右近衛大将の就任に合わせての上京だった。
「オシュトル君は問題なく仕事をこなせているのかねぇ」
 巨大な正門を潜り抜けながらウマ(ウォプタル)の上でソヤンケクルは独りごつ。
 馬上から見渡す景色は、相変わらず帝都が繁栄し、人々が平和を謳歌していることを示していた。ということは帝都の治安維持を担う検非違使がきちんと仕事をしているということでもあり、それを統括する左右の近衛大将が滞りなく政務を進めている証。
 と、言いたいところだが、大貴族出身である左の近衛大将とは異なり、右の近衛大将は田舎の下級貴族出身であるため宮廷の古狸どもには受けがよろしくない。おそらく様々な無理難題をふっかけられ、本来の職務の傍らでそれへの処理にも手を焼かされているのだろう。
 それでもこの仕事ぶり。新しい右近衛大将は非常に優れた人材であると改めて感心する。
(あとは君の助けもあるんだろうな)
 まだ遠くに見える聖廟、そしてその足元に存在する左右対称の建物――宮廷を眺めやり、ソヤンケクルは双眸を細めた。
 脳裏をよぎるのは深い琥珀色の瞳でこちらを見上げる少年の姿。愚かだウスノロだと言われながら、その実、誰よりも聡明で他者を慈しむ心を持ち合わせた稀有なヒト。その存在を想えば、ソヤンケクルの口元には自然と笑みが浮かぶ。
「半年ぶりの再会か。会うのが楽しみだよ」
 そこから先は声に出さずに。
(ねぇ、ハク殿下)







2016.04.08 Privatterにて初出

ハクさんは聖廟の地下でアマテラスをはじめとする人類の遺産関連の管理を担っているという裏設定。