この手を取って、愛されるひと。




「はぁ……。一体どんな無理難題を押し付けられるのやら」
 右近衛大将オシュトルの邸の正門をくぐり抜け、異國の衣装に身を包んだ気だるげな青年――ハクが重い溜息を吐く。
 この邸の主人はハク達隠密衆に普段からなかなか厄介な仕事を持ってくる雇い主ではあるものの、今日は更に分が悪い。何せ本日彼から申し付けられる全てのことをハクは断ることができない立場にあったので。
「うぅ、気が重い。今度からちょっと酒を控えるべきか」
 仲間には呑兵衛で通っているこの男がまさかそんなことを言うなんて、と今の呟きを聞く者がいれば驚愕しただろう。しかしそれくらいハクは後悔していたのだ。
 門を通り抜け玄関へと向かえば、なんと家人ではなくオシュトル本人が迎えに来ていた。仮面越しにも判るその表情は満面の笑みで、殊更にハクの精神をごりごり削ってゆく。
(これは絶対にとんでもないことを命令されるに違いない)
 そう確信し、けれども足を止めることを許されないハクは、邸の主人の案内に従って渋々と彼の執務室へと通されたのだった。


 さて、事の発端は数日前に遡る。
 その日、ハク達が滞在している旅籠屋『白楼閣』では、オシュトルの仮の姿であるウコンを交えて酒宴が催されていた。何でもウコンが知人から珍しい酒を譲ってもらったとかで、隠密衆の男達はその酒を主役に一も二もなく宴会の開催を決定。呆れる女性陣を横目にドンチャン騒ぎが始まった。
 そうして宴が盛り上がってきたところで男達の誰かが言い出した。次に酒菜を持ってくる女子衆の目の色で賭け事をしよう、と。勝った者はどうする、と別の誰かが問う。するとまた別の誰かが、負けた者に一日中願い事を聞いてもらうことにしよう、と提案した。
「じゃあまずは俺とアンちゃんでどうでぃ」
「乗った! 自分は茶色だ」
 ウコンの提案にハクが肯定し、先に色を告げる。
 酒に酔っていてもハクの頭はそれなりに働いており、さっさと色を選んだのには理由があった。こんなもの、要は確率の問題なのだ。だから女子衆の中で最も多い瞳の色を先に言ってみせた。外野から「おや、流石ハクさん。小狡いですね」と聞こえてきたが、無視。傍らのウコンを見遣れば、偉丈夫は酒で頬を赤らめつつ苦笑いを浮かべていた。
「それじゃあ俺は……」
 宴会場の前の廊下を誰かが歩む足音。きっと女子衆が新しい酒菜を持ってきたのだろう。微かなそれを捉えたウコンがニヤリと口の端を持ち上げる。
「紫、だ」
 より詳細に言えば、あのトウカとか言う女子衆さんだな。とウコンが告げるのとほぼ同時に、ふすまが開いて宣言通りの女性が姿を現した。


「お前あれはズルいだろ」
「ほう。先に最も確率の高い色を選んだ其方がそれを申すと?」
「うぐっ」
 先に執務室に入り振り返った美丈夫の返答にハクは言葉を詰まらせる。
「ふっ、まぁそう構えずともよい。別に取って食おうとしている訳ではないのだ」
「それよりもっと面倒な仕事を押し付けられるんじゃないかと、こっちは賭けに負けた日から戦々恐々だぞ」
「ハク殿は某に取って食われる方がよい、と……?」
「こらこら、お前まであの双子みたいな際どい発言をするんじゃありません。尻がムズ痒くなるからやめてくれ」
「失礼した」
 くくく、と喉を震わせながらオシュトルは政務机の前に腰を下ろす。出入り口付近で立ち尽くすハクは「自分はどうすりゃいい?」と首を傾げた。
 机上に書簡を広げたオシュトルが口元だけでふっと微笑む。
「其方の好きにしてくれて構わぬ。ただ、この部屋にはいてくれまいか。それと某が呼んだ際は頼んだことをやってほしいのだが」
「具体的には?」
「そうだな……。茶を淹れたり、検算をしたり、もしかしたら政務のことで何か意見を求めるやもしれぬ」
「茶と検算は構わんが、意見の方はまともな答えを返せるかどうか判らんぞ」
「ふむ」
 謙遜か、と笑うオシュトルにハクは眉根を寄せる。だがどうやら思っていたよりずっと楽はできそうだった。
 早速この部屋の主人に暇潰しになるような書物を要求してハクは部屋の隅に腰を下ろす。「もっとこちらに来てもらっても構わぬのだが」という声には、流石に仕事をしているヒトのすぐ目の前でぐうたらするほど図太くはないと返しておいた。

* * *

 茶を淹れたり、オシュトルが処理している政務のちょっとした計算結果を確認したり、はたまた本当に意見を求められて「これお前の仕事だろうが」と言いつつも一応きちんと考えて意見を述べてみたり。ハクはオシュトルからの細々した頼みごとをこなしては、それ以外の多くの時間をのんびりと過ごしていた。
 帝都に来て以来……否、クオンに拾われて「ハク」という名前を与えられて以来、こんなのんびりとした時間は初めてじゃないかとちょっと感動してしまう。そして直後にこれまでの忙しさを思い起こしてハクはガックリと肩を落とした。どうしてこんなにも毎日忙しく暮らしているのだろうか、自分は。もっと楽に生きていきたい。
「ここへ来るまで随分と身構えていたんだが、なんだかお前に悪いくらいゆっくり過ごさせてもらったなぁ。本当にこんなのが賭けの賞品で良かったのか?」
 陽も沈み、夕餉の時刻となった。ハクは膳を前に、向かい合うようにして腰を下ろすオシュトルを見据えてそう問いかける。
 一応ハクは一日中オシュトルの願いを叶えたと言えばそうなるが、あまりにも簡単すぎて正直なところ拍子抜けしてしまった。たとえ酒の席でのことであっても、またどれほど気が重かろうとも、ハクはこの男の願いを叶えてやるつもりでいたのだから。
 しかしそんなハクとは異なり、オシュトルは「これでも十分すぎるのだが」と謙虚な返答をしてみせる。ハクは夕食と共に出された酒を朱塗りの盃で味わいながら「十分、ねぇ……」と、いかにも納得していませんという表情を浮かべた。
「ハク殿は自身の価値をあまり理解しておられぬと見える」
「自己評価はそれなりに正しくできていると思ってるんだが」
「なればそのような顔はできぬよ」
 苦笑と言うよりはもう少し楽しげにオシュトルが笑う。ハクと同じ朱塗りの盃を傾けてゆっくりと酒を味わった後、美丈夫は訝しげな表情を浮かべる青年に告げた。
「其方はいつも誰かが傍にいて、皆に囲まれている。だが今日だけは某が其方を独り占めすることができた。それが何よりの喜びなのだ」
「は?」
 ハクは思わず目が点になる。
 この美丈夫は、ハクが何をしたか、ではなく、ハクが傍にいたという事実自体に価値を見出している、と言ったのだ。男が好みそうな肢体や美しい顔を持っている訳でもない、こんなどこの誰とも知れぬただの男を前にして。
「お前、仕事のし過ぎでとうとう頭がおかしくなったんじゃないか」
「某は正常であるよ。ただ其方が自身の価値を判っていないだけのこと」
 また一口酒を呷り、オシュトルは更に続ける。
「ハク殿、其方は陽だまりのような男だ。皆が其方を慕う。それは現状を見れば十分に明らかであろう。こう言ってはなんだが、クオン殿一人では今の隠密衆はできあがらなかったはず。其方がいればこそ、なのだ。……ハク殿という陽だまりの元に集い、その穏やかな空気に身を任せるのは実に心地よかろう。某もウコンとなり其方の傍で皆と騒ぎ、語らうのは実に楽しい。だが――」
 コトリ、と小さな音を立てて盃が膳の上に置かれた。その音ではっとしたハクは仮面越しでも判るオシュトルの蘇芳の瞳の力強さに息を呑んだ。
「オシュト、」
 仮面の奥で夜と朝の境界にも似た色がすっと細くなる。

「ハク殿、某もな。時にはこうして其方を己だけのものにしたいと、そう思ってしまうのだ」

「………………お前、は。なんて言うか、馬鹿だろ」
 みっともなく声が震えた。なんでこうなっているのか自分でもよく判らない。
 確かにハクはオシュトルを気に入っている。掲げた理想に惚れ込んだのか、それとも美しすぎる精神や生き様に憧れを抱いてしまったのか。自分自身でもまだ判断がつかないのだが、とにかく願うことがあるなら叶えてやりたいし、助けになりたいと思う。同じ方角を向いて、彼が望む世界を隣で眺めさせてほしいと思う。そのためにちょっとした苦労を背負うことになっても構わないと考えるくらいには、オシュトルはハクの中で特別な位置にいた。
 混乱しつつ、自身の変化を悟られないようハクは顔を背ける。しかしオシュトルからは髪の合間に覗く小ぶりな耳も首筋もうっすらと赤く色づいているのがはっきりと見えてしまっていた。
 そうとは気付かず、ハクは続ける。
「今日みたいな願いなら、別に賭けで勝たなくたってお前が望めばいつでも叶えてやるよ」
 少々早口になってしまったそれは紛れもないハクの本音だ。
「そうか」
 嬉しそうにオシュトルが微笑む。実際には見えていなくとも容易に想像できて、ハクは舞い上がる自身を抑え込むように、もしくは負けた悔しさを堪える時のように、眉根をぎゅっと寄せた。
 そんなハクの傍らで気配が動く。互いの間にある膳を迂回してオシュトルがハクの隣に膝をついた。
「ハク殿……、ハク」
 声と共に手が伸ばされ、ハクの肩に熱が触れる。抵抗はしなかった。いや、できなかったと言うべきか。触れられたところから更に体温が上がっていく。
(こっ、これは……何て言うか、その。男女のアレ的なものではないハズ、だ)
 念じるように胸中で呟いても鼓動が静まる様子はない。むしろより激しくなったような気がしてハクはひくりと喉を震わせる。
 そんなハクを更に追い詰めるかの如く、半身に分厚い胸板が触れて耳元に吐息が零された。
「最後にもう一つ、某の願いを叶えてくれまいか」
 先程確かに十分だと言ったその口でオシュトルは乞い願う。
「は、はは。控えめな奴だと思っていたんだが、お前も案外強欲だな」
「そうであるな」あっさりと認めつつもオシュトルは「だが」と先を続けた。
「もしこの願いが其方と同じものであるならば……と、某も必死なのだ」
「……ッ!」
 翻弄しているのはオシュトルの方だと言うのに、どこか気弱そうに出された声をハクは卑怯だとなじりたくなる。
「ハク」
 オシュトルの両腕がハクの躰に回り、更に密着する。最早、陸に上がった魚のように呼吸さえままならない。ハクはひゅっと息を呑んで男の懇願の声をただ聞いていた。
「其方にとって某が特別な位置にいるのなら、どうか、応えてほしい」
 縋るような声だった。
 武と智の両方に優れ、性格は清廉潔白で公明正大。そしてその裏では豪放磊落な義侠の男として振る舞うオシュトル。そんな彼が出したとは思えぬほど情けなくて、弱々しくて、恰好悪いくらいに必死な声だ。こちらが呆れ果てたとしても文句は言えまい。しかしハクはその声に躰の中心から指の先まで痺れと熱が伝播するのを感じていた。
 ごくりと唾を飲み込む。速まる鼓動はきっとオシュトルにも伝わっているはずで、己の方が情けなくて涙が出そうだった。
「自分、は」
 躰に回された腕にそっと指先で触れる。
 好きか嫌いか。その二択であれば、迷いなく前者。しかし愛しているか否かと問われれば、即答できない。
 ただ、それでも。
「自分はお前との賭けで負けた。だから今日一日、自分はお前の願いを全て叶える」
 ――そして、まだ「今日」は終わっていない。
「それは、重畳」
 耳元でふっと満足そうな吐息が零れ、逞しい腕に触れていた指先が武人の手に絡め取られる。捕まった、と思った。もう逃げられはしない。
(……だが)
 オシュトルに全てをゆだねてハクは目を閉じる。
 悪くない気分だった。







2016.05.13 pixivにて初出