剣扇演舞




 先の戦で右近衛大将が戦死し、彼の代わりに兵達を率いて戦い見事ヤマトに勝利をもたらした青年がいる。能力的に見ればその青年が新しい右近衛大将になることは半ば当然であったのだが、彼の出自が下級の貴族であったため人事の朝議は紛糾。しかし普段からあまり人事に関して口を出さなかった帝がこの時ばかりは違った。
 帝がおわす御簾の向こうで、大宮司ホノカとは別の影が熱くなる会議を横目にそっと帝に囁く。すると帝はゆっくりと頷き、口を開いたのだ。
「これまでの功績から、その人柄も能力も申し分ないことは明らか。よって右近衛府所属オシュトルを新たな右近衛大将に任命する。そして――」
 いと尊き御方の声に皆が一斉に静まり返るも、次の瞬間、下級貴族出身の男がこの國で八柱将に次ぐ地位につくことにザワリと朝堂の空気が揺れる。が、それはまだ序の口だった。帝の決定に誰も彼も口を挟むことは許されないのだが、それでも続く言葉に皆が目を剥く。
「右近衛大将への就任と共に、彼の者には仮面(アクルカ)を授ける」
 誰も何も発せなかった。ごく一部、オシュトルという青年の実力を見知っていた人物達はそれも予想できた範囲だとすまし顔をしていたが、そういう者達を除く多くの人々が信じられないと驚愕を露わにする。
 しかし決定は決定。帝の意志は絶対である。
 仮面の者(アクルトゥルカ)であり八柱将の一柱を担うヴライがざわめく辺りをひと睨みすれば、殺気に慣れていない殿上人達はひっと息を呑んで呼吸を止めた。
 お待ちくださいと諫言する者はおらず、朝議はこれにて終了。帝が御簾の奥に姿を消せば、しばらくして武官の人事に関わる兵部省の者達を中心に、帝の決定を実行に移すべく人々が速やかに行動を開始する。
 だが動きはしてもそれが全て納得した上で行われている訳ではない。高位の役人達――特に大貴族出身の者達などは下級貴族の若造の台頭に忌々しそうな舌打ちを零す。そんな中、ある一人がぼそりと呟いた。
「此度の決定……聖上お一人の考えではなく、帝弟殿下の入れ知恵か」
 御簾の向こうで帝のすぐ傍に立っていたもう一人の影。あれは昨今、永い眠りの封印から解かれた帝の実の弟君であるという。その素顔を拝謁できた者はまだほとんどおらず、存在を信じている者は朝廷の中でも半々だった。また現人神である帝が万に一つの間違いも犯すとは思えないが、それでも所謂ぽっと出≠フ人物が自分達の敬愛する唯一の傍に侍り、その耳に言葉を吹き込んでいるなど、とても気分の良いことではない。
 顔すら判らぬ、帝の実弟だとされる男。そんな男が帝に決定させた$l事。
「なんと忌々しい……」
 思わず零れてしまった本心を咎める者はいなかった。その呟きを聞いていた他の殿上人も同じ思いであるがゆえに。
 それどころか、何とかしてやろうという気運が彼等の中で高まっていく。やがて彼等は視線を交わし、示し合わせたように頷く。各々自身が所属する省や部へと戻っていくが、その胸には同じ思いを抱いていた。


「ま、こうなることは予想できていたが……」
 朝堂から戻ってすぐ件の殿上人達の言動を監視していた者が独り言つ。そこは屋外と見紛うばかりの様相を呈した室内だった。高い天井には青空が映し出され、部屋の床には土、そして木々や草花が植えられている。けれども蟲一匹飛んでいない完全に管理された空間であった。
 そんな場所に設置された一本足の朱塗りの丸机。卓上に頬杖をついて薄い板状の端末を眺めていた青年は、先程までそこに映っていた殿上人達の会話内容を頭の中で反芻し、ふっと口元に笑みを刻む。
「予想通り過ぎて逆に面白みに欠けるな。だが、それでいい。お前らにはしっかり役立ってもらうからな」
 同時に細められる双眸は深い琥珀色。榛を溶かし込んだような黒髪がさらりと揺れて、毛先が白を基調とした絹の衣の上を滑る。
 衣には光の加減で浮き出る國の御紋が織り込まれており、青年がどのような立場にある者なのかをはっきりと示していた。

* * *

 御前試合開催。その知らせが舞い込んだのはオシュトルが右近衛大将の地位を賜り、そして畏れ多くも帝より仮面を下賜されてまだ幾許も経っていないある日のことだった。加えて年中行事に組み込まれていない臨時のそれは――公言はされていないものの――右近衛大将となったオシュトルのお披露目を兼ねて行われるらしい。ヤマトの民に、そして何より聖上にオシュトルが十分右近衛大将を務め上げられると示すためのものだったのだ。
 試合開催の理由は宮中の者であれば誰もが判っている。オシュトルと昔から付き合いがあり彼の実力を知る武官達は、行う意味のない――むしろオシュトルの激務っぷりを考えるなら邪魔でしかない――それの発案者である一部の大貴族達に怒りを示した。しかし帝がおわす朝議で可決されたそれを今更引っくり返すことはできない。準備は粛々と進められた。
 しかし。


(ふむ。聖上の御前で実力を示すと言うよりは、聖上の御前で決して負ける訳にはいかぬヴライ殿と某をぶつけ、某に重傷を負わせるのが此度の目的……と言ったところか)
 御前試合当日。勝ち抜き戦方式で行われる試合で順調に勝利を収めながら、自身とは別のもう一つの集団で行われた試合結果を眺めてオシュトルは内心独り言つ。その集団には八柱将でも最強とされるヴライが入っており、彼と当たった者はことごとく重傷を負わされていた。
 ヴライは戦いに手を抜かず、容赦もしない。それが帝の前であればなおのこと。賜った仮面に恥じぬ戦いぶりを示すと言って、彼は己にとって羽虫のような相手ですら躊躇なく叩き潰す。そして必ず勝利を収めるのだ。足元に血の川を作って。
 間違いなくヴライは決勝にまで勝ち上がってくる。そしてオシュトルの方はと言えば、余所見をしていても勝てるような相手しか含まれていなかった。これが仕組まれたものと言わずして何と言う。
 きっと御前試合の開催を発案し、取り仕切る者達の中にオシュトルを快く思わない者がいて、本気のヴライとぶつけようと画策しているのだろう。必ずヴライがオシュトルを叩き潰すと信じて。もう一人の近衛大将であり大貴族でもある、武に秀でた左近衛大将ミカヅチが急な任務により御前試合不参加となっているのも怪しい。出立前、ミカヅチ自身も不思議そうに首を捻っていた。
 要は成り上がりであるオシュトルを気に喰わないと感じている貴族達の嫌がらせ。そう推測できるくらいには普段の職務にも貴族達から邪魔が入っており、オシュトルの悩みの種の一つとなっている。
 はあ、と溜息を一つ。
 元より本気で挑むのはヴライだけでなくこちらも同じ。聖上の前で無様な姿は晒せない。知恵を絞って汚い真似を企画した者達には悪いが、勝ちに行かせてもらうとオシュトルは仮面の奥で目を細めた。
「オシュトル殿、次の試合時間が迫っております。ご準備を」
「承知した」
 係の者に声をかけられ、控室となっている天幕を出る。同時に少し離れた隣の会場では今まさに準決勝が行われようとしていた。遠目にそれを眺めれば、ヴライの巨躯と、それに比較して非常に貧弱な青年の姿。まるで大人と子供だ。残念ながら、あの細身の青年もヴライの拳によって大きな怪我を負わされてしまうのだろう。下手をすれば死だ。
(惨いことをする)
 そうは思ってもオシュトルにできることはない。せめてヴライの対戦相手が大怪我を負うことなく試合を終えられればと願いつつ、己もまた準決勝の舞台に立った。


 歓声が聞こえたのは自身の対戦相手を気絶させてすぐ。オシュトルが決勝まで勝ち抜けるよう仕組まれているこちらの集団においては勝利など容易く掴めてしまう。相手に大きな怪我を負わせることなくあっと言う間に試合を終えたオシュトルは、隣の会場で試合を見守っていた観客達が騒然としている様に首を傾げた。
「一体何が――」
 そう呟いて舞台上に目を向ければ、立っていたのは左手で刀を握った細身の青年。彼の足元にヴライの巨躯が横たわっている。
「は……?」
 オシュトルは仮面の奥で大きく目を見開いた。今自分が見ている光景が信じられない。あれは、まさか、ヴライが負けたということなのだろうか。
(いや待て、あのヴライ殿だぞ)
 武人としてヴライの実力を知っているからこそ目の前の光景が信じられない。しかもオシュトルはヴライが勝つものと当然のように思っていたため、それ以外の参加者については全く情報を仕入れていなかった。
 あの細身の青年は一体どのような手段でヴライを倒したのだろうか。片手に下げているのはごく一般的な刀のようだが、あれに何か仕掛けがしてあるのか。
 考えを巡らせていたその最中、ふと視線の先にいた青年がオシュトルの方を振り向いた。遠目ながらも、目があった、と感じる。おまけにその青年はオシュトルに対し微笑んで見せた。それも他者を嘲るものではなく、敵意も悪意もない、ただ親しみを込めた笑みを。
「其方は」
 何者か、と問う前に青年は踵を返し、舞台を降りる。オシュトルもまた控室に戻るしかなく、決勝戦の準備が整うまで悶々とした時間を過ごす羽目になってしまった。

* * *

 彼等≠ヘこの御前試合によってオシュトルに再起不能な怪我を負わせる――あわよくば死亡させる――計画を立てていた。それはオシュトル当人が推測した通りである。しかしもう一つ、彼等には目的があった。
 帝弟殿下の排除。
 御前試合ともなれば帝だけでなく姫殿下と帝弟殿下も観戦するに違いないと踏んだのだ。そして事故を装い、のこのこと自分達の前に姿を現した帝弟を敬愛する帝より引き離す。それがもう一つの計画だったのである。また手を下すところまではいかずとも、せめて今後のためにその素顔だけでも確認しておく必要があると彼等は思っていた。
 そもそも彼等を含む殿上人のほとんどは帝弟の素顔を知らない。だが御前試合の観覧席に現れれば必然的に帝でも姫殿下でもない者として消去法で帝弟の顔が判る。
 そういった二つの目的を持ち、彼等は動いていた。
 しかしここで予想外の事態が発生する。一つは、肝心の帝弟が観覧席に現れなかったこと。これでは帝弟の顔が判らない。そしてもう一つ。勝ち抜き戦の組み合わせを操作してオシュトルとヴライが決勝でぶつかるよう仕組んだのだが、準決勝の時点でヴライが負けてしまったのだ。
 これまで皆の前に姿を見せなかった帝弟が観覧席に現れなかったのは、残念だがまだ一応納得もできる。しかしまさかヴライが負けるなど彼等はこれっぽっちも予測していなかった。これでは「聖上の前で負ける訳にはいかない」「完膚なきまでに相手を叩きのめし己の力を示さなければ」と思っているヴライをオシュトルにぶつけることができない。ヴライだからこそオシュトルに再起不能なまでの大怪我を負わせられると考えたのに、そうでない相手ならば企みは失敗に終わってしまうではないか。
 しかもヴライに勝利したのは優しそうな――と言えば聞こえはいいが、つまりは気の抜けた――顔立ちの青年。体格も決して良くはなく、やや細身で筋肉の気配などほとんどない。武器は通常の大きさの刀が一振り。その刀身にどうやらかなり強烈な薬物が仕込まれており、僅かに掠っただけでも昏倒してしまうというのはこれまでの試合で判明していたが、まさかたったそれだけでヴライまでもが倒れるとは本人含め誰一人として考えていなかっただろう。おまけに青年の対戦相手は躰が動かなくなってしまっているものの命に別条はないらしい。一体どんな薬物を仕込んでいたのか……というのは御前試合の裏で企む者達にとってはどうでもいいことであり、問題なのは、そんな武器ではますますオシュトルが死なない――もしくは死ぬほどの怪我を負わない――、ということである。
「ヴライに代わる豪傑ならまだしも……くそっ」
 オシュトルを嵌めようとしていた者達は高貴な身分に似合わぬ様子で毒づいて臍(ほぞ)を噛む。しかし最早どうにもならない。決勝は間もなく始まり、きっとどちらが勝利を収めようともオシュトルが重傷を負うことはもうないのだろうから。

* * *

 決勝戦の相手は自分とさほど身長の変わらぬ細身の青年。得物は一振りの刀だけで、飾りなのか腰に紙の扇を差している。
 オシュトルはじっと相手を見据えた。肩に届く黒髪は後ろでひとまとめにされ、服装は白を基調としたゆったりめの上下に差し色として所々に朱が入っている。オシュトルに対しのんびりと穏やかな笑みを浮かべているものの、これまでこの対戦相手は刀身に塗布した異常に強力な薬物で相手の動きを奪い、あっという間に勝敗を決めてきたらしい。
 一撃でも掠ればそこで終了。ヴライすら剣先が少し掠っただけで昏倒せしめた恐るべき薬物だ。そんなものがこの國に存在していたのか、そしてそれは御禁制のものではないのか……という驚愕と疑いが湧き上がってきたが、試合を観戦している聖上が何も言わないということは問題ないのだろう。
 また刀を携える青年には相手を必要以上に傷つけないという意志のようなものが感じられた。薬物などという小細工を好まず、力と力のぶつけ合いを好むヴライなどは非常に悔しい思いをしただろうが、オシュトルからすればむしろその戦いは好ましいとさえ感じられる。おまけに、躰の動きを奪う薬物は特に治療をせずとも数刻から半日程度で完全に抜けてしまうらしい。この青年本人が対戦相手のいずれかにそう語ったとのことで、事実、初めの方に青年と当たった者はもうすでに動けるようになってきていた。
(ヴライ殿が相手であっても全力で挑む予定ではあったが……これは中々、気持ち良く戦えそうであるな)
 気持ちの良い相手と気持ちの良い試合を。青年の実力は未知数だが、オシュトルの武人としての部分が自然と湧き立ってくる。
 相手の得物は刀で、オシュトルも同じく刀。また体格から、ヴライのような完全なる力押しではなく相手によって策を弄する系統の者と見た。つまりオシュトルと重なるところが多いのだ。
 しかし惜しむらくは、この青年の相手が仮面を賜った後のオシュトル≠ナあるということ。元よりオシュトルはそれなりの実力者だが、仮面を装着した後は別格だ。仮面の者の真の実力は、仮面により力を引き出し、己の姿を変じさせたものであろうが、そうでなくともただ装着しているだけで身体能力の向上が確認されている。今のオシュトルが本気になれば、ヒトの躰のまま大岩を砕くこともそれ以上のことも容易い。
 ヴライが敗れたのはおそらく見た目が弱そうな相手に油断したのと、彼の大振りな動作が隙を作る羽目になってしまったため――つまり相性の問題だ。一方オシュトルは決勝まで上がってきた青年に油断などしておらず、また動作もそれほど大きなものではない。したがって突かせるような隙がない。
 この事実から導かれる結果は言うまでもなく、今のオシュトルには勝たなければという重責も特にかからず、ただただ楽しみだという気持ちだけが存在していた。
「よろしくお頼み申す」
「こちらこそ、楽しくやろう」
 青年が笑みを深め、鞘から刀を抜く。濡れたように光る刀身が現れ、その美しさにオシュトルはほうと息を吐いた。
「さぞ素晴らしい刀工による作なのであろうな」
「んー……いや、これは……」
 ガリガリと頭を掻いて青年が眉尻を下げた。
「自作って言っても良いのか……。一応素材の選択と設計は自分でやったな。(実際に作ったのは地下のプラントだけど)」
 ぼそりと最後に何事かを付け足されたようなのだが、ほとんど聞こえず何を言っていたのか判らない。ともあれ少々わけありなのは理解できた。対戦前にあまり深く追求するのも無粋かと思い、オシュトルはそれ以上の質問を取りやめる。ちょうど時間も差し迫って来ていた。
 審判の者が両者を交互に眺め、よしと頷く。オシュトルは居合の要領で脚を開き腰を沈め、柄に手をかけたままじっと相手を見据える。一方、青年は抜身の刀を中段に構えていた。柄を握る両手は右手が上、左手が下。右利きと同じ持ち方だが、剣は基本的に利き手にかかわらずこの握り方となる。が、準決勝で一瞬見えた彼は左手で刀を握っていたため、彼の本来の利き手は左なのだろうと推測された。
 審判役が手を上げる。これが振り下ろされた瞬間、試合開始だ。
 じり、と地面をつま先で掻き、オシュトルは更に腰を落とす。そして審判の手が降り下ろされた瞬間、爆発的な膂力を発揮し、地面を蹴って真っ直ぐに対戦相手へと突っ込んだ。
 後方では地面が大きく抉れ、砕けた石や砂が舞う。残像を残すほどの速さで飛び出したオシュトルはそれと同時に抜刀し、下段から上段へと、彼としては比較的大振りな動作で斬り上げる。
 それを見て反応したというよりは初めから予測していたのか、青年が僅かに躰を斜めにしてオシュトルの刀に自身の刀身を添わせ、最低限の力で受け流す。しかしその動作のおかげで青年の切っ先が持ち上げられた。これでは胴の部分がガラ空きだ。オシュトルは返す刀でその隙を突く。
 だが。
(なっ――!?)
 身体能力ならばオシュトルに圧倒的な優位性がある。受け流された刀を素早く引き戻し二撃目を繰り出すなど容易なはずだった。しかしそれが実行に移されるよりも早くオシュトルの眼前に迫る影。正体を探る間も無く目元を掠ったそれが、オシュトルの顔の上半分を覆う仮面を天高く弾き飛ばした。
 仮面によって強化されていた身体能力は通常のヒトのものへと戻り、なんとか放った二撃目も青年の刀に再度流される。仮面が地面に当たって高い音を立てた。
 一瞬の攻防ののち二人は距離を取り、いつの間にか右手で紙の扇を握っている青年にオシュトルは苦い笑みを零す。
「成程。某の仮面を弾き飛ばしたのはその扇であったか」
「右近衛大将殿の戦い方は一応研究させてもらっていたんでな。まずはその仮面をどうにかせにゃならんと思って」青年が片手だけで扇を開き、再びパチンと閉じる。「いっちょやらせてもらった」
「腑に落ちぬな。勝負を決するためならばその刀に塗布している薬と同じものを小刀か何かに仕込み、それで某を傷つければ良かろう」
 紙の扇だったから仮面を弾き飛ばすだけで終わった。しかしあの瞬間、小刀や暗器でオシュトルに傷の一つでもつけていれば、それだけでこの勝負は決していたはずだ。非効率な戦い方にオシュトルは眉根を寄せる。だがその答えはすぐにもたらされた。
「それじゃああんたの実力も、自分がどれだけ戦えるのかも、周りに全く示せないじゃないか。自分はこれまで対戦相手をちょっと傷つけるだけで終わらせてきたし、あんたはこの御前試合を企画したであろう馬鹿共の企みのせいでまともに腕前を披露できてすらいない。だからこの決勝で、自分達は正面からぶつかる必要がある。こんな――」なんとその瞬間、青年が刀を投げ捨てた。「ただ相手に勝つためだけの道具なんぞ要らん。さあ、目に物を見せてやろうぜ。あんたを侮っている奴等に、どれほど馬鹿なことをしているのか判らせてやるのさ」
 自分が言いたいことを言い切った青年は右手に持った紙の扇一本で地面を蹴った。と同時に扇の先端を口元に添え、小さく早口で呟く。
「対象の表面に防御フィールド展開。硬度14」
 その瞬間、紙の扇を薄い半透明の膜が覆ったように見えた。しかし瞬き一つの間の出来事であり、次に瞼を上げた時には全く変わらない様相を呈している。
 こんな木と紙で作られた扇で刀と戦えるはずがない。理性がそう判断するものの、オシュトルの武人としての本能は否やを唱えた。
 紙の扇を同じ長さの刀と仮定し、全力で討ち合いにいく。青年が深い琥珀色の双眸を細めて笑った。

 ――ギンッ!!

 とても扇とぶつけたとは思えない硬質な音が場内に響き渡る。それから二撃、三撃と討ち合わせるが、やはり手応えは鋼かそれ以上に硬質なそれだ。おまけにオシュトルの攻撃は全て上手く受け流され、青年に掠り傷一つ負わせられない。
(これは反射……ではないな。某の僅かな視線の向き、躰の動きを見て次の攻撃を完璧に予想しているのか。しかもこちらのひっかけさえ見事に見抜いてくるとは)
 驚くべき思考速度、そして胆力だ。
 討ち合う手応えから、仮面が無くともオシュトルの方が体力的に勝っているとは思われる。しかしそれを補って余りあるほどの知能の持ち主なのだ、この対戦相手は。
 オシュトルの一挙手一投足から決して視線を逸らさず、躰の動きを読み取り、思考を推測し、次に来る一手に柔軟かつ素早く対処する。それはまるでオシュトルの動きをこの相手に操られているようでもあり、得も言われぬ恐ろしさを感じさせた。が、同時にこれほどまでの相手と戦えることを歓喜する己もいる。
 青年は時折扇を開いて視界を瞬間的に奪ったりもしながらオシュトルの攻撃を受け流す。その動きはまるで舞っているようでもあり、観客達に感嘆の吐息を零させた。しかし二人の素早さや剣戟の度に聞こえてくる甲高い音は、一つ間違えば確実に致命傷を与えるものであることを皆に忘れさせない。
 加えて青年の余裕の表情が、決して防戦一方に徹せざるを得ない訳ではないことを示している。これは機を狙っているのだ。もしオシュトルに僅かでも隙ができたならば、その瞬間、青年は針穴に糸を通すかの如き精密さで攻勢に転じるだろう。
「っ、其方ほどの使い手がこれまで無名であったなど、にわかには信じられんな」
「そうか? まぁ自分は二度目≠セし、おかげで他人様よりちょっとばかり経験が多い≠ゥもしれんが……。強く思ってもらえるのはたぶんそのせいだろう。本来の実力ならあんたの方がずっと強いさ」
 もう何度目になるかも判らない討ち合いを更に一つ。甲高い金属同士が触れ合うような悲鳴を上げて刀と扇が互いに弾かれた。だが次の瞬間、徒手だった青年の左手がオシュトルの顔面を狙って突き出される。五指のうち親指が己の左目を狙っているように見えたオシュトルは反射的に顔を逸らした。
「――っ」
「だがまぁそろそろこっちも体力の限界でね」
 終わりにしようか、と唇の動きだけが見えた。その視界がぐるりと回転し、オシュトルは己の足が払われたのだと気付く。
(しまっ、左手はこのための――)
 判ったところでもう遅い。しかしここで諦めるなら右近衛大将になどなっていない。
 オシュトルは仰向けに倒れる最中、振り切った刀を引き戻して相手の首筋へと向ける。だが同時に青年は刀よりも素早く扇の先端をオシュトルの喉元へ突きつけた。その体勢のままオシュトルの背中が地面に着地し、青年の足がオシュトルの右肩を踏みつける。これでは刀が振るえない。
(ならばっ!)
 オシュトルは左手を真上に突き出す。まるで獣のように、その爪で相手の喉元を掻き切らんと。
 一瞬の攻防を経て、二人の動きがぴたりと止まる。青年は扇の先端をオシュトルの喉に触れさせ、あと少し力を入れれば喉を潰せる恰好にある。またオシュトルの方は自身の爪で青年の喉を掻き切ろうとしていた。左手の爪が白い喉の皮膚にうっすらと喰い込んでいる。
「し、試合終了ー! 両者引き分けとする!!」
 これ以上動けば両者相打ち。そう判断した審判が急いで叫んだ。
 青年は肩から力を抜き、オシュトルに覆い被さるようにしていた身を起こす。そうして己の対戦相手に手を差し伸べ、立ち上がるのを促した。
「すまぬ」
「いや、良い試合だった。これで少しはあんたを侮っている奴も減るだろうさ」
 死闘を繰り広げた直後だというのにのんびりと笑ってみせる青年。その笑みにつられるように起き上がったオシュトルもまた頬を緩める。
 見事な戦いに観客の誰もが息を呑んでいた。その数瞬後、どっと爆発するように会場が歓声で包まれる。帝室用に設けられた壇上の観覧席では帝とアンジュ姫殿下でさえも手を叩いていた。
「さて」
 そんな周囲を見渡して青年が呟く。
「それじゃあ次は自分の番だな」
 言うや否や、青年はオシュトルに背を向ける。彼が足を向けたのは帝とアンジュ姫殿下そして空席が一つ設置された特設の観覧席。幾段もの階段の先で尊き御方達がいち早くその動きに気付いた。帝室二人の顔に警戒の色はない。だがはっとした衛兵等がその行く手を阻むように前へ出る。オシュトルもまた右の近衛の長を任される者として駆け出そうとしたが――
「主様、やっと」
「お疲れ様でございました。どうぞこちらをお召しください」
 帝を守るべく動き出した者達の誰よりも早く双子の少女――『鎖の巫』が青年の両側に侍り、ゆったりと歩く彼の肩に一枚の白い衣をかけた。光沢のある絹で作られた長羽織の背には國紋が金糸ではっきりと織り込まれており、目にした者から一切の言葉と動きを奪う。そして誰にも邪魔されることなく青年は階段を上り切り、帝の隣に用意された席へと腰掛けた。
 そこは御前試合の観覧にも顔を出さなかった帝弟殿下のための席。豪奢な車椅子に腰掛けていた帝が青年を見遣って、薄絹の奥で笑みを浮かべる。
「ハクよ、楽しんできたようじゃの」
「ああ。我侭言ってすまなかった」
「なに、可愛い弟の可愛い我侭くらい叶えられんでどうする」
「叔父上、大変素晴らしかったぞ!」
「アンジュも観ていてくれてありがとうな」
 帝に引き続きアンジュ姫殿下までもが慕わしげに青年を見遣る。これは確定だった。
 少し前に永き眠りの封印を解かれ帝室に加わった帝弟。これまでほとんど他人の前に姿を見せなかった彼の名は、ハクという。
「……ハク帝弟殿下」
 誰のものとも知れぬ呟きが漏れた。驚愕と畏怖が込められたそれに青年――ハク帝弟殿下が酷薄な笑みを刻む。
 ヴライやオシュトルといった仮面の者すら退けるほどの実力。どちらの仮面の者もハクが帝室の者だとは知らなかったため、手を抜いていたというのは有り得ない。そしてその戦いに発揮された知性と胆力はきっと他の場でも遺憾無く発揮されることだろう。
(『自分の番』とはこのことか)
 オシュトルも帝弟殿下が一部の殿上人達に侮られているのは知っていた。しかもこの國の民ならば誰もが慕わしく思っている帝の隣に立ち、その決定に大きく関わってくるとなれば、向けられる嫌悪はオシュトルの比ではない。だがそれは皆がハクを知らないからだ。知らないものを大切な御方の傍に置いておくには不安で、だからこそ負の感情を抱いてしまう。しかしハクがどんな人物であるか――帝の隣に立つに十分な実力を備えているか――が判れば、その不安も取り除かれ、嫌悪も薄らいでいくだろう。そして一度受け入れる体勢を作ってしまえば、あとは自然と彼の行動をまともに評価し始めるようになる。
(某を侮る殿上人達の鼻を明かすことに手を貸すと共に、ご自身の力をも示してみせる……。なんとも強欲な、いや、効率的な考えをなさる御仁か)
 胸中で呟くオシュトルの口角はゆるりと持ち上がっていた。
 いと尊き御方に刃を向けたという事実に関しては、会場の控室で躰を休めている『青年と対戦した者達』と同じく震え上がるほどだったが、ようやくそのお姿を目にすることができた帝弟殿下の類稀なる知恵者っぷりに心が躍る。
 帝やアンジュと話していたハクがふと気付いたように己に向けられている視線の一つ――オシュトルへと頭を巡らせた。知性を感じさせる深い琥珀色の双眸がいたずらっぽく細められる。
 そして、

 ――ありがとな、オシュトル。

「……ッ!」
 読唇したオシュトルはぶわりと全身が熱くなるのを感じた。動悸が激しく、何故自分がこのようになっているのか判らない。ただ名前を呼ばれただけなのに、髪の合間で耳が跳ね上がり、袴の中ではっきりと尻尾が膨れるのを自覚した。
(あそこに、あの方の隣に、立ちたい)
 腹の底から浮かび上がってきた願望は強烈な好意を伴ってオシュトルの脳を焼く。己が立っている場所とハクが立つ場所との距離が酷くもどかしい。
「ハク、殿下」
 ぽつりと零れた呟きには、溢れんばかりの思慕が込められていた。






(まともに評価するようになる、どころの話ではなく)
(そのひとは、知ってしまえば好きになるしかないひとだった)







2016.05.04 pixivにて初出
タイトルの読み方はケンセンエンブ。造語です。
ツイッターのフォロワー様に頂戴したリクエスト「帝弟殿下でオシュ様と手合わせ」より。レベルカンスト後2周目に入ったら何故か目覚めるタイミングが前回より早まっていて、早々に兄と接触して帝室入りしたチートハク殿です。一応、仮面を賜った順番はヴライ、ミカヅチ、オシュトル、ムネチカの順番だと仮定しております。ので、まだムネチカさん不在。
補足。作中でハクさんが呟いている呪文(笑)の中に出てくる硬度はモース硬度の修正版(10段階ではなく15段階になっている)を使用。ちなみにナイフの刃の硬さは5.5だそうです。なんちゃって数値なのであまり気にしないで頂けると幸いです〜。モース硬度だけだと色々不都合もありますし。とりあえず15段階中14のレベル、ということで。これとは別に、作中に出てくる府省の名前も適当です。ご注意ください。