「…………ああ、やはりここから始まるのか」
 目覚めれば、一面の銀世界。緑色の薄い布一枚では当然のように凍えて全身が震え、足は刺すように痛む。だが寒さで青くなった唇は笑みの形を取っていた。以前こうあればと望んだ時点より少しばかり遅いが、今でもまだ何とか間に合うだろう、と。
 ついと深い琥珀色の双眸が向けられたのは葉を落とした木々の向こう。そのずっと奥の方から狂暴な気配が近付いて来ている。あちらもまたすでに男の存在を感じ取っており、なおかつ獲物と定めているに違いなかった。
 迷わず真っ直ぐ近付いてくる気配に男の笑みはますます深まる。
 寒さで強張っていた躰から意識して力を抜き、そちらを向いた。迎え入れるかの如く、両腕を少し開き気味にして。
 吹きすさぶ寒風の中、男はゆるりと目を閉じた。ほぼ時を同じくして、木々を押し退け巨大な蟲が姿を現す。ぼうっと突っ立っている獲物を見つけて蟲が歓喜の雄叫びをあげても男はそこから動かない。未だ目を閉じたまま、ただ笑みを刻んでいた唇から小さな呟きを紡ぎだした。
「某がここで死ねばこの世界に『ハク』は生まれない。物語は始まる前に終わる。『自分』が関わった悲劇は存在しなくなる」
 巨大な蟲――ボロギギリが男の腹に喰らいつく。
「っ、ぅ」
 漏れたのは僅かな呻き声。真っ白な雪の上に赤が散り、緑色の衣はどす黒く染まった。
 男は――『ハク』と名付けられるはずだった男は、強烈な痛みと衝撃に脂汗を垂らしながら唇を吊り上げて壮絶に笑う。大切なものを失わずに済む歓喜と、大切なものに出逢うことすらできなかった悲しみと、それらを内包してくしゃりと柔和な顔を歪めてみせた。

「これで、終いだ」

* * *

「ハ、ク………?」

 雪が降り積もる山道の途中、通常よりも少し大きな体躯を持ったギギリの群れが何かに集(たか)ってうごめいていた。嫌な予感がしてそれらを全て追い払えば、現れたのはヒトらしき何か。らしき≠ニしか表現できなかったのは、その大部分がすでに喰われ、血に染まった元は緑色であっただろう布と、手足の一部、それから半分ほど喰われた頭部しか残っていなかったからだ。
 あるひとを探して諸々の予定を繰り上げ、ようやく捻出できた時間を使って一人ここまでやって来た蓬髪髭面の男――ウコンは、ごろりと転がる頭部を両手で持ち上げると、片方だけ残った琥珀色の瞳を見つめて先程の言葉を吐き出した。
 血と雪と泥にまみれた髪と肌にはウコンの記憶にある美しさや柔らかさなど見る影もなく、ただただ絶望を叩きつけてくる。こんなはずではなかった。こんなことは二回分の記憶のどちらにもなかったこと≠セ。
「なんで……」
 最早それしか言えない。
 己の大切な親友がハクとして生活を始め、そしてオシュトルに成り代わって戦乱の世を戦い抜くという一度目の記憶。
 その親友がハクとしての振る舞い方を忘れてしまったままもう一度、記憶を持たずに生きていたウコンの親友となってくれた二度目の記憶。
 そのどちらでもこの陽だまりのような男はクジュウリの集落でウコンと出会い、帝都でオシュトルの隠密となり、共に酒を酌み交わし、笑い、生きた。
 なのに。
「今度こそアンちゃんと生きられるって……生きようと、思ってたんだぜ……?」
 どさりとその場に膝を付き、ウコンは親友(とも)となってくれるはずだった男の骸を胸に抱き込む。
 二度目の人生では己の一度目の人生で犯した失敗に気付くことなく、大切なこの陽だまりを目の前で失う羽目になった。だからどちらの記憶も持って生まれた今生では絶対にこの陽だまりを失わないと誓ったのに。
「っ、ヴライの首を取れば、某も死なず、其方を失わずに済んだはずではなかったのか。ヴライだけではない。其方と離れずに済むのであれば、某は誰を手にかけたとしても――」
 胸に抱いた血まみれの頭部にぽつりと温かな水滴が落ちる。落涙しながら唇を噛み締めれば、犬歯がぶつりと皮膚を喰い破り、赤い血が顎を伝った。
「ハク、ハク………」
 何度名前を呼ぼうとも親友が目覚めることはない。奥の茂みが揺れて不穏な気配が近寄ってきてもウコンは顔を上げなかった。当然、懐に忍ばせた仮面を手に取るはずもなく、代わりに抱き締めていた親友の頭部を両手で持ち直し、ギギリに噛み付かれ毒で変色してしまった額と頬に唇を落とす。
 最後に事切れて濁った琥珀色の瞳に舌と唇で触れ、ウコンは――オシュトルは、うっそりと微笑んだ。その背に巨大な蟲の影が差す。
「我が最愛なる友よ、今度こそ共に生きよう」
 ――何を(犠牲に)しても。
 言葉は最後まで言い切られることなく、蟲の持つ鋭い刃がオシュトルの首を刎ね飛ばした。

* * *

「……これは、また」
 唇を割って零れ出たのは呆れの声。蟲に襲われて――『蟲に襲わせて』の方が正しい表現だろうか――死んだと思ったら、再び最初から。身を刺すような冷たさと目の前に広がる白銀の世界に、男は皮肉げな表情で口の端を持ち上げた。
「三度目があったのだから四度目が無いとも言い切れんが、それにしても」
 こうくるか、と若干腹立たしげに続く。
 折角蟲に生きたまま喰われる苦しみを堪えてまで未来を変えてやろうと思ったのに、結果は無駄も無駄。自分が苦しい思いをしただけでしかなかったなんて。
 しかし馬鹿らしくとも男がその場から動くことはなかった。たとえ己の体感的には一瞬だったとしても、あの世界≠ナは自分という存在が引き起こす悲劇を回避できたはずなのだ。それならばもう一度同じことをするしかない。
「こんな繰り返しが何度続くのか……終わりがあるのかさえ判らんが、こっちの気が狂うまでやるしかないだろ」
 少なくとも親友が死んでしまうよりずっとマシだ。
 白い世界で生まれ直した男はその決意と共に蟲の到来を待つ。男がここで死ねばクジュウリの山に潜むボロギギリは二体とも無事ということになってしまうが、きっとあの親友(とも)が上手くやってくれるだろう。人払いをして仮面の力を使えばきっと一発だ。
 仮面には強大な力を振るう異形の姿へと変じる以外にも、身に着けるだけでかなりの身体能力強化作用がある。義侠の男の姿であってもあの親友が仮面を手放しているはずがないので、この地域に暮らす人々への安全面という直近の問題にも心配は不要だった。
「というわけで、あとは頼んだぞウコン」
 近付いてくるボロギギリの気配を感じつつハクは衝撃に備えて目を閉じた。
 しかし――

「そりゃねぇぜ、アンちゃん!」

「え……?」
 思わず目を開ければ、視界の端でバサリとひるがえる浅葱色。
 数瞬遅れて木々の合間から現れたボロギギリは人外の膂力で振るわれた白刃により一瞬で首を落とされる。頭部を失った巨蟲は方向性を見失い、男のすぐ脇へと倒れ伏した。おまけに痙攣する蟲の脚や鋭い爪が男を傷つけようとしても、それらは再度振るわれた白刃によって全て斬り払われてしまう。
「おまえ、は」
 ありがとうも助かったも、邪魔をするなとも言えなかった。
 有り得ないはずの光景が目の前に広がっている。
「どうしてここに」
「そんなの死にたがりのアンちゃんを死なせねぇために決まってるだろうが」
 いささか憮然とした表情で、しかし喜びを隠しきれないとでも言うように。顔の上半分を覆っていた仮面を外して懐に収めながら、突如現れた水浅葱の長羽織の人物――ウコンは告げる。そうして蟲の体液を払って剣を鞘に収めた彼は自由になった両手で男を――ハクを、強く強く抱き締めた。
「っ、うこ」
「もう離してやらねぇ」
 お前にも記憶があるのかとか、どういうつもりだとか、お前を死なせないためには自分が死ななきゃならんのだから邪魔をするなとか、言いたいことは山ほどあった。けれど抱き締める腕が微かに震えているのを感じ取って、ハクは口を噤む。言葉の代わりに立派な体躯の相手を抱き締め返せば、ようやく安堵したかのようにウコンの躰から無駄な力が抜けた。
「親友(とも)を失うのがつらいのは自分だけだなんて思ってくれるなよ。俺だってアンちゃんを失うのは死ぬ程つれぇんだ」
「ウコン……」
「だから、な」
 抱き締めていた腕をほんの少し緩めてウコンが顔を上げる。ハクと視線を合わせた蘇芳色の双眸が邪気のない幼子のようににこりと細められた。
「アンちゃんと俺が共に生きるためなら、何だってしてやるよ」
「ウコン……?」
 小さな引っ掛かりを感じてハクは親友の名を呼ぶ。
 しかしウコンがそれに応えることはなく、
「そう、何だってな」
 繰り返される囁きからはとろりと甘い黄昏の匂いがした。






貴方は我が唯一にして最愛の







2016.08.31 pixivにて初出