「…………は」
　雪交じりの風が吹き付け、男は反射的に身を縮めた。周囲には人っ子一人おらず、葉を落とした木々と真っ白な雪と積もったその雪の合間から覗く土があるだけ。どうしてこんな所にいるのか理解が追い付かない。そもそもここはどこだ。今はいつだ。そして自分は誰だ。
（いや、某は――）
　男は己の名を思い出そうとし、しかしそれを胸の内で言葉にするより早く、周囲の状況が記憶の端に残っていた『始まりの場所』であったことに気付く。ふと己の躰を見下ろせば、素肌に緑色の薄い布でできた病衣をまとっているのみ。この寒空の下、靴さえ履いていない。そしておもむろに己の顔へ手をやれば、もう着け過ぎて馴染んでしまったあの仮面の感触が全くなかった。たこも何もない指が直接、柔い肌に触れる。
「ぁ……」
　震える一音を絞り出した途端、目頭が熱を帯びる。まさか、と思った。しかし、もしかして、とも思った。もしこれが考え得る最高の奇跡であるならば、己はまたやり直すことができるのかもしれない。今度こそ��上手く�≠竄ﾁて大切なものを失わずに済むかもしれない。その可能性に、ほろり、と目尻から熱い雫が零れ落ちる。雫は頬を濡らし、指を濡らし、吹き付ける寒風によって凍り付くような冷たさへと変わった。
　しかし歓喜に浸り続けるわけにもいかない。遠い記憶が確かならば、この後――
「ッ」
　背後に感じる敵意。まだ少し距離はあるが、木々の向こうからガサガサと何者かが近付いて来ているのが判る。振り返り、じり、と素足を地面に擦り付ける。跳ね上がった警戒心は僅かな間とはいえ寒さを完全に忘れさせた。
　そして数瞬後、木々の合間から��それ�≠ﾍ顔を見せた。
「やはりボロギギリかッ！」
　その時、男が咄嗟に取った行動は、鉄扇ではなく腰に佩いている剣を抜こうとする動作。しかし武器一つ持たない状態は先程確かめた通りであり、男は舌打ちすると共に踵を返して駆け出した。特別な身体能力もなく、また武器もない状態でこの巨大な蟲に立ち向かうのは無謀すぎた。
　雪が降り積もった山道を男は必死に駆ける。しかし頭が覚えていたよりも手足の筋力は弱く、思うように進めない。息はすぐに切れ、ぜぇはぁと情けない呼吸を繰り返す羽目になった。ただ必死に、生存本能のみに従って――否、��助けたいヒトがいる�≠ﾆいう想いのみが男の躰を動かす。
　そうこうしているうちに男は突然、足を滑らせた。「あ」と声を出したのは失態を悔いるためではない。偶然にもかつて己が足を滑らせたのと同じ場所であると気付いたためだ。ただし今度は受け身を取り、無様な着地だけは免れる。
　一時的にボロギギリの脅威が去り、男は薄暗い洞窟の中で立ち上がった。完全な暗闇でないのはぼんやりと光る苔のようなものが壁に貼り付いているからだ。これも旧人類の時代からの物なのかもしれないと考えつつ、続いて訪れるはずの危機を思って気を引き締める。
　これまでの流れは記憶の通り。であるならば、もうすぐあの赤い物体――自身の同胞達が姿を現す。いやその前にボロギギリが再び現れ今度こそ殺されそうになるのだったか、と男は苦笑した。最早凶暴な蟲への恐れはなく、ただ姿と理性を失って変わり果てた人類を思うと苦い笑みを零すしかない。
　そうして事態は進行する。
　男の記憶している通り、蟲は再び姿を現し、しかし蟲は男の身を喰らう前にタタリと呼ばれる不死の存在に捕食され、そのタタリから男を逃がすため美しい黒髪の少女が現れた。男をタタリから救った少女は、男に服を与え、休息の場を与え、そして名を与える。
「あなたはハク。とても尊いお方からいただいた名前だから、大切にしてね」
「相わかった。たった今より某の名は――」
　ハクだ、と懐かしい名前を口にしようとして、男ははたと両目を瞬かせた。無意識の内に喉へと手をやり、自然と言葉を発したそこを撫でさする。
（��某�＝H　いや、違う。それは��オシュトル�≠ﾌ喋り方だ。自分は、��ハク�≠ﾍ、そんな喋り方などしなかった。だから）
「っ、……」
「ハク？」
　急に黙り込んだ男を少女――クオンは不思議そうな顔で窺った。「ハクという名前は気に入らない？」と不安そうな彼女に何とか首を横に振って否定を伝える。そんなことはない。この名は大切で、そして付けてもらった経緯を思えば何よりも愛しいものの一つ。しかし、
（��ハク�≠ﾍどんな男だった？　どんな喋り方をしていた？）
　その名に相応しい人物がどんな話し方で、どんな態度を取って、どんな表情で笑う男だったのか全く思い出せない。男は愕然とした。��ハク�≠ﾍ己自身であるはずなのに、己の姿を思い出せない。自然と口をついて出るのは、その動作を取るのは、全て��オシュトル�≠ﾌものだ。もう何一つ��ハク�≠ﾆしてのものは残っていない。ハクを殺してオシュトルを生かすと決めたあの時からずっと被り続けた偽りの仮面は最早べっとりと男の顔に貼り付いて、取り除けないものになってしまっていた。
「ねぇ、ハクってば。どこか躰の調子でも悪いのかな？」
　不安そうな表情で尋ねる少女のかんばせに男はゆるりと淡い笑みを浮かべる。それは仮面の上に仮面を貼り付ける行為。ただひたすら相手を悲しませないため、偽りの上に偽りを重ねて、男は『ハク』を形作る。
「いや、躰はどこも悪いところなんてないな。それと名前だが、悪くない。ありがたく頂戴する」
「え？　あ、うん。それは良かった……かな。でも何だか喋り方まで変わってない？」
「そうか？　あー、そうかもしれん。どうにも記憶が無い所為で喋り方もどんな風だったか忘れてしまってな。しかしたぶんこんな感じだったと思うから」
「そっか。じゃあ改めて、よろしくね、ハク」
「ああ。助けてくれてありがとう、クオン。どうかよろしく頼む」
　そう告げて『ハク』は穏やかに微笑んだ。

*　*　*
　万事を引き受ける男衆の番を務めるウコンは、荷物の護衛の仕事の最中に寄ったクジュウリの集落で一組の男女と出会った。
　薬師として旅をしているというクオンは隠しきれない気品がある美しい少女。その少女が山中で拾ったという記憶喪失の男――ハクは、ウコンと同程度の身長でありながらもどこか頼りなさげな印象を抱かせる。実際、体力は子供以下らしい。しかし頭の回転が速く機転がきくハクは、ウコンが里の住民から依頼されたギギリ退治に参加した折、その知恵を使ってボロギギリと遭遇したウコンの隊を見事に窮地から救ってみせた。
　ギギリ退治を終えた日の夜、僅かだが死傷者を出した隊はその悲しみを忘れるため、また生き残ったことを喜び合うために宴会を催した。全員酔いが回って赤ら顔のまま楽しげに騒ぐ中、ハクが部屋を出ていくのに気付いてウコンは後を追う。ハクの様子はちょっと酔い覚ましに、という体だったが、ウコンの脳裏によみがえったのはハクの目の前でボロギギリに襲われた仲間の姿と、それを愕然と見つめていたハクの顔。
　縁側に出て夜風に当たっていた彼を見つけたウコンはしばらくその隣で同じように涼んだ後、亡くなった仲間達が眠る墓へとハクを案内した。月と星と光を発する小さな蟲、それから手元の行灯を頼りに辿り着いたその先には名前すら刻んでいない、けれども心を込めた墓が並んでいる。すでに供えられていた菓子や酒を見て自分が一番最後になっちまったと笑うウコンをハクは静かに眺め、そして彼自身もまた近くに咲いていた小さな花を摘んで墓前に供える。ウコンは「こんなものですまないが」と告げた彼の声を聞き、その心根にいくらか触れられたような気がした。
　ハクは『いいやつ』なのだ。体力はないが頭が良く、そして他人を思いやることを知っている。
　墓地からの帰り道、だからこそウコンはハクに問いかけた。
「なぁアンちゃんよ。俺ぁあんたの振舞いにどうも違和感を覚えるんだが、これは俺の勘違いかぃ？」
　ゆったりと歩いていたハクの足が止まる。
　ウコンは数歩先まで進んだ後、彼を振り返って更に続けた。
「俺はアンちゃんのことを信用している。むしろボロギギリと遭遇した時の行動や機転は尊敬に値するとも思ってらぁ。だからこそ素のあんたと話してみたいんだが」
　立場上様々なヒトを見てきたウコンはそれなりに『ヒトを見る目』というのも養われていた。ハクの優しさは本物だ。それをウコンは確信している。しかしハクには言い知れぬ違和感も存在していた。それはウコンの正体である男が常々宮中でも見かける類のもの。己を隠し、作り上げた仮面で微笑む者達と同じものだ。
「はは、そんな褒め過ぎだろう」
　ウコンの言葉に対し、ハクは困ったように笑う。軽く目を伏せ、指先でそっと顎に触れた。
「……いやしかし、なるほどね。『素』ときたか」
　再び視線が上がり、深い琥珀色の双眸がウコンの蘇芳の瞳を捉える。
　そして、

「なればこの話し方しかできぬのだが、よろしいか？」

「――ッ」
　男がそう言って雰囲気を改めた瞬間、ウコンは息を呑んだ。
　そこにいたのはヤマトの國で八柱将に次ぐ権力を持ち、帝都を守護する双璧の一人『右近衛大将オシュトル』。顔は違う。仮面も無ければ服も異なる。しかしぴんと伸ばした背筋、落ち着いた声音、その身にまとう雰囲気は紛うことなく民が慕うオシュトルのもの。
　ウコンの目の前にオシュトルがいた。本物のオシュトルがこの場に『ウコン』として存在しているにもかかわらず。
「あんた、は……」
　驚愕も露わなウコンにハクと名乗った男は眉尻を下げ、「驚かせてすまない」と申し訳なさそうに謝罪した。
「このような喋り方、驚かれたであろう。しかし安心めされよ。某は貴殿が思う男ではない」
　闇夜の中、行灯に照らされて琥珀の瞳が不思議な赤みを帯びる。
「某の名は『ハク』。己のことを何一つ思い出せずこの地に彷徨い出てきた、ただの『出来損ない』だ」

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2016.03.02　privatterにて初出

ツイッターのフォロワー様が呟かれていた「ハクとしての自分が思い出せなくてかつてのオシュトルのように別の新しい存在としてハクを演じ始めるハクトル」に爆萌えして厚かましくも書かせて頂きました。素敵なネタに対してお目汚しすみません…！