低いモーター音が聞こえる。微かなそれに覚醒を促され、オシュトルは目を開いた。
 目覚めたばかりの者にとっては少々明るすぎる室内。低い天井に設置された照明は無機質な白い光を放ち、壁に貼られた灰色の衝撃吸収素材を照らしている。
「ここは……」
「人員輸送用ヘリの中だ。今はノナタワーへ向かっている」
「っ!?」
 応えがあったことに目を見開く。反射的に身を起こそうとしたが、全身に激痛が走りそれは叶わなかった。
「無理をするな。今のお主は重傷者じゃからの、治療が済むまで大入しくしておれ。それから二係の者達には儂から帰還命令を出した。怪我人は出ておらんそうだぞ」
「そのお声は……ミト局長なのですか」
「ああ。お前達を迎えにな」
 お前達、という複数形の表現にオシュトルは今度こそ無理を押して起き上がる。壁際に設置された椅子にはミトが腰を下ろしており、そしてオシュトルが寝かされていた寝台の隣には傷ついたハクの姿があった。
「ハク……ッ!」
「案ずるな。お前よりはマシじゃ」
 だから安静にしていろとミトに命じられ、オシュトルはもう一度横になるかどうか迷う。確かに安静にする必要はあるだろうが、公安局局長の前で寝転がるというのもいかがなものか。迷った末、寝台に腰かけるにとどまる。ミトもそれで妥協したようだった。
 ちらりと隣に視線をやる。ハクは未だ血だらけで汚れているものの、呼吸は安定しており、彼自身からの出血はなさそうだった。おそらくヘリに運び込む前か運び込んだすぐ後で簡易的な検査と治療を施しているのだろう。
 愛しい者の寝顔にほっと身体から力が抜ける。そうしていくらか落ち着きを取り戻せば、ふと疑問が浮かび上がってきた。
「局長」
「なんだ」
「一つお伺いしても構いませぬでしょうか」
「ああ」
「ありがとうございます」
 礼を告げた後、オシュトルはその疑問を口にする。
「何故、局長御自ら我々を迎えに……?」
 オシュトルら二係の行動を見逃していたことと何か関係があるのだろうか。
 問いかけへの答えとしてミトはオシュトルの物と思しきドミネーターを手に取って差し出してきた。受け取れば、「それで此奴の……ハクの犯罪係数を測ってみるといい」と告げられる。
 ドクリ、と心臓がひときわ強く脈打った。
 この目の前の老爺は公安局の局長であると同時にシビュラと深いつながりを持つ人物だ。一握り、否、一摘まみのヒトのみが知ることを許されたシビュラの真実に触れ、またオシュトルに秘密を教えるかどうかの決定権をもおそらく持っている。
「真実を知りたければ、さあ」
 その声に操られるようにオシュトルは腕を持ち上げた。よろよろと銃口が向いた先には眠ったままのハク。ドミネーターは瞬時に、そして正確に、対象者の犯罪係数を測定する。
《犯罪係数アンダー30。執行対象ではありません。トリガーをロックします》
 カチリ、と小さくトリガーにロックがかかる音が聞こえる。
 合成音声が告げた事実に違わず、オシュトルの網膜に表示されていたのはクリアホワイトの色相と12という非常に低い犯罪係数。
(相手が犯罪者だったとはいえ、何の訓練もしておらぬ一般人が複数のヒトを殺した後だと言うのにか)
 ドミネーターでの執行に慣れた刑事ですら、エリミネーター・モードで撃った場合には多かれ少なかれ――無論、許容範囲内だが――犯罪係数は上昇する。しかもハクは一般人だ。己の手が血で汚れたことを恐れるほど、人の死に慣れていない。
 だが現にセラピーを受けずともハクのサイコパスは驚くほどの美しさを保っていた。あんなにも酷い目に遭ったのに。あれは、普通のヒトであれば確実にサイコパスが悪化する状況だった。
(その『普通』が適用されないということは)
 オシュトルが顔を上げる。ハクからミトへと視線を移せば、最高機密を知る上司はハクを一瞥し、慈しむように微笑を浮かべた。


 オシュトルらが運び込まれたのはノナタワー内にある治療施設だった。ただし地上階にある職員なら誰でも利用可能な医務室ではなく、公にはされていない地下部分に設けられた部屋で、病院と言うよりは研究所に近い雰囲気が漂っている。
 治療が済んでもハクはまだ目覚めない。オシュトルにはよく判らない機器が設置された部屋の中央に寝かされており、天井に埋め込まれている照明の光を受けて肌がいつもより白く見えた。
「この者が何であるかについては、すでにお主の中でも答えが出ているかとは思うが」
 治療を済ませたオシュトルをこの部屋まで連れてきたミトがベッドのそばに置かれていたパイプ椅子に腰かけて口火を切る。手振りでオシュトルにも座るよう促し、部下の着席を確認してから更に続けた。
「オシュトルよ、お主がハクと名付けた此奴は免罪体質者の一人だ。証拠は先程ヘリの中で見せたな?」
「はい」
 およそ二百万人に一人の割合で生まれるとされる、罪を犯してもシビュラに裁かれないヒト。他とは違うものの考え方ができるが故にシビュラシステムの更なる発展のため――完成形へ近付けるため――今も発見され次第、身柄を確保、そしてその脳をシステムに組み込むことになっている。
 半世紀前の経済危機で人口が激減し、まだ回復しきれていない今日、二百万人に一人という数字は非常に低いものだ。しかしオシュトルが僅かな期間で出会った免罪体質者はこれで二人目ということになった。そこが少し引っ掛かり僅かに眉根を寄せれば、ミトはオシュトルが疑問を声に出すまでもなく「ああ、普通ならば有り得んな」と告げる。
「免罪体質者の出現率は非常に低い。このままではシビュラの発展も遅々として進まぬ。ならば、と生み出されたのがハクじゃよ」
「っ、それは……どういう……」
「作ったのだ。ヒトの手で、免罪体質者を」
「!」
 オシュトルは息を呑んだ。
 それは禁忌に触れることではないのか。具体的な手法は判らずとも、ヒトが特定の性質を持ったヒトを作るということをこの時代の倫理観は未だ許していない。しかも生み出す理由は何かの治療や誰かを助けるためではなく、脳を取り出してシビュラシステムに組み込むためなどというおぞましいものだ。
「まさかハク以外にも複数の免罪体質者がここで生まれているのですか」
「いいや、ハクは唯一の成功例だ。それ以外の個体はまともな命の形にすらなれんか、もしくは順調に成長したとしても犯罪係数は低くなるどころか異常に高くなり到底使えるものではない。これまでに成人まで育った個体は確か三体だったかな。その三体も全て記憶を消して破棄したが……ああ、確かそちらはお主らも少し関わっていたのだったな」
「某達が、ですか」
「ほれ、記憶喪失の潜在犯が連続して見つかったことがあったじゃろう。あれだ。本来ならば肉体ごと破棄するはずだったのだがの、情を感じたハクがたとえ潜在犯としてであっても彼らが生きていけるよう手心を加えたのだ」
「なっ、ハクもその研究に関わっていたとおっしゃるか!」
「そうだとも。初めて成功した人工的な免罪体質者の経過観察も含めてな」
 今にも椅子から立ち上がりそうなオシュトルとは対照的にミトは落ち着いた様子で答えた。
「順調に成長する此奴に知識を与えてみれば驚くほど吸収し始めた。つい興が乗って進めているうちに儂の代わりを務められるほどには、な……。此奴にそのような自覚はなかったようだが。それで唯一の成功例である此奴の調整データを参考にし、儂の指示で免罪体質者の管理を任せておったのだ」
「はっ……なんだ、それは」
 相手が公安局局長であることなど最早オシュトルの頭から抜け落ちていた。ハクが人工的に作られた免罪体質者で、しかもシビュラに組み込むことを前提で免罪体質者を作る研究に携わっており、そして失敗した個体の記憶を消して廃棄――オシュトル達が追っていた『記憶喪失潜在犯』の発生元だった、など。
(あんなおぞましいものに、ハクが……)
 オシュトルは未だ眠ったままのハクを眺める。その姿にノナタワーの最深部で目撃したいくつものユニット化された脳の映像が重なって見えた。
 失敗作であれば記憶を消されて潜在犯として隔離施設へ。成功すればあの気味の悪い集合体の一部として組み込まれる。ハクはそれに深く関与し、そしてミトの言ったことを信じるならハク自身がいずれは後者としての道を歩むことになるのだろう。そう、ハクが唯一の成功例であるならば、遠くない未来、オシュトルの手からハクは零れ落ちてしまうのだ。
「……ッ!」
 その考えに思い至った瞬間、オシュトルは椅子から立ち上がり、ミトに掴みかかっていた。
「ハクをあんなものに組み込むというのか!!」
 椅子は倒れ、老爺の躰は宙にぶら下げられる。負傷者とは思えない力強さでオシュトルはミトをなじった。
「ふざけるな! 誰にもそのようなことはさせぬ! あれは、ハクは、某の――」
「落ち着け、オシュトル。誰もハクの躰から脳を取り出すなど言っておらんではないか」
「…………は」
 宙にぶら下げられても平然としていたミトが己の襟元を掴み上げるオシュトルの手を枯れ木のような腕で捻った。途端、激痛を感じてオシュトルは手を離す。そう言えばミトの躰は通常の肉体ではなく義体だったのだ。見た目とパワーが比例している訳がない。
 ただし思い出したその事実より、更には手の痛みより、オシュトルはミトが放った一言に意識を集中させていた。
「ハクを、取り込まないと……?」
「そう言っておる」
「なにゆえ」
 乱れた襟元を正しながらミトがハクに視線を向ける。深い琥珀色の瞳は研究対象に向けるものではなく、もっと温度を持ったそれだ。
「此奴が自身で経過観察し、自分という成功例を模して調整し、成人にまで成長させた彼奴等に情を持ったように」
 ミトはゆっくりとハクに近付き、かさつく指先で白い頬に触れる。優しい手つきは紛れもなく相手を慈しむためのものだった。
「儂は『弟』に情を持ってしまったのだよ」
 いや、儂のは更に重いな。とミトは苦く笑う。
「どういうことなのですか」
「お主がハクと呼ぶこの子はな、儂の両親のDNAを使用して生み出された。つまり、儂の実の弟なのだ」
 ハクと全く同じ色をした瞳がオシュトルを捉えた。
「生まれた時からそう教えて来たのがあだになったのか、此奴は己がシビュラのユニットの一つになるのだと当然のように思っておってな。しかし儂はいつしか此奴に肉親としての愛情を抱いてしまっていた。両親のDNAを使おうと決めたのはただの思いつき……気まぐれで、こんなことになるなど予想だにしていなかったのだが。いや、過去の儂がどう思っていたかなど関係ないか。儂は此奴を、実の弟を愛した。ただシビュラを発展させるためのパーツではなく、『個』として。シビュラに取り込めば儂が愛した『個』は消える。しかし此奴は己の脳を取り出し、ユニット化する気でおった。だから儂は……俺は、言ったのだ。『お前は使わん』と。使える、わけが、ないだろう。たった一人の愛しい弟だぞ?」
 琥珀の双眸を歪ませ、今にも泣きそうな表情でハクの実兄は告げた。
「だが俺の気持ちでは今更この子の意志を曲げられない。そういう風に俺が育ててしまった。だから言葉で突き放し、寄る辺を失ったこの子が自らに記憶消去の処置をして研究所を出ていくよう仕向けたのだ」
「貴方は、一体……」
 現金な話かもしれないが、ハクがシビュラに取り込まれないと聞いてオシュトルは幾分落ち着きを取り戻した。そしてここまでハクの詳細を語れるミトが一体何者なのか薄々勘付いてしまう。
 ミトというのはこの義体についた名前であり、おそらく義体に内蔵されそれを操作している脳が元々存在していた肉体の名は別にある。
 ごくりと唾を飲み込んでオシュトルは尋ねた。
「シビュラシステム開発者の名は保安の観点から公開されておりませぬ。しかし便宜上頭文字だけは発表され、そこから世間一般でその人物を呼ぶ際には『研究者M』という呼称が使われた。……局長こそが『研究者M』でいらっしゃるのか」
「……」
 返答は言葉ではなく微笑。しかし言葉を得たようなものだ。
「上は……厚生省の上層部はそのことをご存じなのでしょうか」
「知るも何も、元より厚生省上部の多くはシビュラが操っている人形じゃよ。だからこそ儂がこの立場でシビュラとヒトの観察ができておるのだ。躰も義体に変え、寿命を延ばして、な」
 ミトの言ったことは、つまり彼が厚生省の実質トップ――否、シビュラなしでは存続できないこの國のトップであるというのと同義である。
 その男がハクの頬を愛おしげに撫でてオシュトルに尋ねる。
「のう、オシュトルよ。儂はお主とこの子の出会いを幸運だったと思っておる。お主と出会ったおかげでこの子は笑うようになった。だからこそ問おう。お主はこの子を幸せにできるか?」
「それは……」
 逡巡し、オシュトルは正直に答えた。
「判りませぬ」
「ほう?」
「今回のこともあります故」
 ハクが誘拐され傷つけられたのはオシュトルのそばにいたからだ。ゆえに、ハクがオシュトルと共にいることでこれからもずっと幸せでいられるかどうかの保証はできない。
「しかし」
 オシュトルははっきりと己の意志を告げる。
「手放す気はございませぬ。そしてハクと共に在る以上、ハクを幸せにするため全力を尽くす所存。ハクの幸せが、あの微笑みが、某の至上の喜びであるが故に」
「……そうか」
 ミトがハクから手を離す。そうしてオシュトルの正面に立ち、ふっと口元を緩ませた。
「なればお主に任せよう。どうかこの子を幸せにしてやってくれ」
「必ずや」
「うむ」
 深く頷き、ミトは歩む。すれ違いざま、オシュトルの肩をポンと叩いた。
 しかし部屋を出ていく直前にミトは一旦立ち止まって「そう言えばな」と口を開いた。
「今回の件についてだが、弟の記憶は消してある。どうやら頭に受けた物理的な衝撃のせいで少々昔のことが思い出されていたようでな。それにヒトを殺したことで精神も不安定になっておった。これからの穏やかで幸せな暮らしを送る上で、そのような記憶は不要じゃろう」
 何年も生きてきたヒトの記憶をすっかり消してしまえるのだから、ほんの一時(いっとき)の情報を脳から取り除くことなど容易いのだろう。
 異論の一つもなくオシュトルは頭を下げる。
「はい。ありがとうございます」
 ミトはそれに片手を上げて応え、今度こそ本当に部屋を去っていった。
 局長の気配が完全に遠ざかってから頭を上げる。そうしてオシュトルはベッドの上のハクに近付き、穏やかな寝顔を見やってうっそりと微笑んだ。
 そう、ハクが苦しむような記憶は要らない。己が汚れたと、だからオシュトルに捨てられるのではないかと、躰を震わせて怯える必要はない。全て忘れてこれからも穏やかに微笑んでくれればいい。それにもし事件のことだけでなくオシュトルと出会う前の記憶まで戻ってしまえば、ハクは自らシビュラに取り込まれる道を選びかねない。
 そんな未来は不要だ。
「ハク……其方は穢れを知らぬ白のまま、某の隣で笑っていてくれ」







2016.04.04 pixivにて初出