「厚生省公安局刑事課監視官オシュトル。の、自宅がここで、同居人が……こいつ、っと」
完全に窓が塞がれ、日の光の侵入を拒む部屋。パソコンのディスプレイから発せられる光のみがその暗い室内とパソコンの前に腰かけた人物を照らし出している。 ディスプレイに表示されているのは隠し撮りと判る二枚の写真。一枚は黒いスーツ姿で潜在犯を追いかけている最中と思しきオシュトルの姿を写したもの。そしてもう一枚はカメラに背を向けたオシュトルの正面に立ち、彼と仲良さげに会話している同世代の男性――ハクが写っているものだった。 これらの写真は小型のドローンによって撮影されたものだ。オシュトルの写真の方は街のどこかということしか判らないが、ハクがメインに写っている方はとあるショッピングモールで撮影されたものだというのが判る。ハクの背後に噴水が写り込み、またその他にオシュトルの同僚達が見切れる状態で写っていた。 もしヒトの手でこれらの写真を撮影したならば、それをなそうと街中に出た時点で色相が街頭のスキャナーに引っかかり、警備用ドローンと公安局の出動という事態になっていただろう。ゆえにパソコンを操作する男は自分自身や生き残った£間達ではなく、色相などという概念がない機械を使ってターゲットの盗撮を行ったのである。 オシュトルの顔写真を見据える男の視線は鋭い。恨みつらみの籠もる濁った視線だ。そのどろりとした双眸が次いでハクの方の写真を捉えると、男の顔に悪意まみれの笑みが浮かぶ。 ハクが写っている方はオシュトルの弱みを握るためドローンで彼を観察していた際に偶然遭遇した場面だった。一般客達にはなるべく気付かせないよう行われた逮捕劇。そこに姿を見せた一般人。ショッピングモールでの様子からハクがオシュトルの特別であることは明らかで、実際にちょっと探れば同居までしていることが判明した。 だから。 「いい気になるなよ、公安局の腐れ刑事が。俺達の組織を潰してくれた恨み、お前の大事なものを壊して晴らしてやる」 男が所属する――……否、かつて所属していた¢g織の名は『マキア』。打倒シビュラを掲げ、しかし公安局の刑事達に多くの仲間を殺され、捕えられ、壊滅してしまった集団である。その者達の生き残りが同じく難を逃れた僅かなメンバーと共に復讐のため動き出そうとしていた。 「っ……ここは」 瞼を上げる。薄暗い屋内の様子に今は夜なのかとハクは独りごちた。しかしすぐさまそこが見慣れぬ場所だと気付き、全身を緊張させる。おまけに身を起こそうとしても上手く起き上がれない。腕は躰の後ろに回され、両手首と両足首のところでそれぞれロープのような物で拘束されていた。 どうやら床に転がされているらしく、視界は横倒しになっている。片側の頬に薄く粗末な絨毯の毛の感触があった。 そこまで自覚してからハクは鈍痛の残る脳内で急速に思考を始める。見たところ、己が転がされているのは完全に窓が塞がれた部屋。唯一の光源は机の上で煌々と光っているパソコンのディスプレイのみで、暗くてよく見えないものの部屋中に何本ものケーブルが這っており、それらは所狭しと置かれた電子機器に繋がれているようだ。 つけっぱなしのパソコン画面に表示されているのは隠し撮りだと一目で判るオシュトルと自分の写真。おまけにオシュトルに関する調査結果と思しきデータを列挙した文書ファイルまでご丁寧に開いたままになっている。そしてオンライン上のサーバーにアクセスしていると思しきウインドウには、己にとって見覚えのあるアドレスが表示されていた。 それはかつてハクがハッキングを仕掛けた反社会組織のサーバーであることを示すアドレス。そう、『マキア』は未だハクの侵入を受けていたことに気付かず、そのサーバーを使い続けているらしい。 迂闊だなぁと内心で独りごちたが、ともあれそのおかげで自分が何故こんな所にいるのかは十分理解できた。 気を失う前の最後の記憶は、気分転換に外で昼食でも取ろうと思い出かけたものである。マンションの一階にいるピンク色のコンシェルジュに挨拶をしてから外に出て、少し歩いていたら後ろから車が近付いてきて突然その中に引き摺り込まれた。そしておそらく頭を殴られ、気絶したのだ。まだ消えない頭痛はその時のものだろう。 ズキリとひときわ強い痛みに襲われ、ハクは眉間に皺を寄せる。本当にひどい痛みだ。しかし頭の中は鈍るどころか不思議と鮮明になっていく気がして、ハクはそのまま思考を続ける。 反シビュラを掲げる組織の盛衰の歴史はそんなに長くない。 今からおよそ半世紀前、世界は大規模な経済危機に陥った。各國では貧富の差が拡大してデモや内紛が頻発し、國土は荒廃し、また一部ではその混乱に乗じて新しい國ができあがったりと、混迷を極めた。 その中でいち早く危機を脱して國を立て直したのがここ、大陸の北東部に位置していたヤマトである。國民一人一人の精神を詳細に分析し、最も適切な職業を判断し、そして包括的に生活を支援する夢のシステム『シビュラ』の登場により、ヤマトはどの國よりも先に平穏を取り戻した。と同時に経済危機による混乱で激減した人口つまり労働力を補うため、ドローンや義体などの機械技術が飛躍的な発展を遂げた。 シビュラあってこその平穏。シビュラがなくては保たれない安寧。しかしそれは同時に、シビュラシステムに人生の全てを管理されるということでもある。 落ち着きを取り戻した國の中で一部の者達がその状況に疑問を抱いた。それは思想家であり、学者であり、また単にシビュラに認められず社会から弾き出された者であったかもしれない。 兎にも角にもシビュラシステムを否定した者達は集まり、手を組み、各地で大小様々な組織を作り上げた。ただしシビュラにより統治される國において、それらは全て反社会的な犯罪集団である。ゆえに反シビュラを掲げる団体は生まれては潰され、また生まれるというのをこれまで幾度も繰り返してきた。 『マキア』もその一つ。シビュラの裁定により排除された彼らはこのまま僅かな生き残りも散り散りになり、完全に消滅するはずだった。ヤマトではよくあることの一つだ。 しかし『マキア』は断末魔の悲鳴を上げる代わりにどす黒い悪意を振りまいた。最早そこにシビュラのない自由な世界を求めるという思想はなく、ただ単に己が恨みを晴らすことだけしか考えていない。 そして、その悪意の結果が―― (これ、か) すなわち、思想も統率も失った犯罪組織の生き残りが公安局の刑事であるオシュトルに私怨を抱き、その恨みを晴らそうと同居人であるハクを拉致した、ということ。 記憶喪失と言いながらも何となく理解していたこと、そして新たに学んだこと。それらを統合し、分析し、自身が何故こんな目にあっているのか、冷静に、きわめて論理的に、筋道を立てて青年は考える。その目は普段同居人に向けられているものと違い、言い知れぬ冷たさを帯びていた。 ズキズキと殴られた頭が痛い。しかし思考は痛みに邪魔されるどころか、やはりますますクリアになっていく。 元より思考することは得意だった。一切の主観を省いて物事を分析することも。それが唯一の成功例≠ナある己の成功例たる所以なのだから。 (……? 成功例って何だ) ふと脳裏をよぎったその単語に内心で首を傾げる。が、疑問はすぐさま霧散して、ハクは自己と周囲の状況の分析と打開策の考案を再開した。今はそちらが最優先なのだから。 シビュラの目がある街中であっても全く車を降りず事に及んでいたとしたら、たとえその時に犯人の色相が盛大に濁っていたとしても街頭スキャンには引っかかっていないかもしれない。と言うことはつまり、事件の発覚が遅れるということであり。 (絶体絶命大ピンチというやつじゃないか) おまけにこの誘拐の目的はおそらく身代金などではなく、ハクという存在でオシュトルをどこかに誘き出して痛めつけるか、もしくはハクを殺してその死体をオシュトルに見せ、精神的苦痛を味わわせることにあるだろう。前者なら少なくともオシュトルにはハクの身に起こった異常が伝えられ、また多少こちらの生存確率も上がるかもしれないが、簡単に解放してもらえるなどという希望的観測を抱くのはあまりにも愚かだ。結局どちらであってもほぼ百パーセント殺害されることに変わりはないと思われる。 しかしながらハクはオシュトルを置いて死ぬつもりなどないし、またオシュトルを巻き込んで死ぬつもりもない。となれば逃げる方法を考えるのが当然の流れだ。 犯人が誰なのかは判った。目的にもある程度の予想はついている。次は場所。ここがどこなのか、という問題だ。 先述通り、半世紀前の経済危機と治安の悪化に伴いこの國も人口は激減している。その後シビュラの登場で少し回復したものの、破棄された都市や郊外の建造物はとても多い。ハク達が住む街の中にさえ廃棄区画があるほどだ。(自分達の街の中にある廃棄区画は都市の整備の際にその対象から外れた場所でもあるので、人口減少だけが発生の由来ではないかもしれないが。) いくら廃棄区画であっても敵(シビュラ)の監視の目がある街中で事を構えるというのはあまりにも大胆不敵すぎる。したがってここはおそらく自分達が住んでいる街の外なのだろう。元々シビュラの目がない街の外周エリアはこういう反シビュラ組織が数多く根城にしている。 ハクは素早くヤマトの周辺地図を脳内に描き出した。自分が連れ去られてからどのくらいの時間が経っているのか、腹具合を信じるならばそれほど長い時間でもないだろう。しかも移動は車だ。だとすれば一番近い廃棄都市まで行くにしても少々距離がありすぎる。可能性としては郊外にある建造物が妥当だろうか。 しかしそれでも候補はいくつかある。もっと絞り込むための情報があればいいのだが、拘束された状態ではそれも難しかった。 そして何よりの問題は―― (どうやってここから逃げ出すか、だよな) 繰り返すが、こんな所で死ぬつもりはない。この身はオシュトルにやったのだから、こんな所で損なわせるつもりなどハクには毛頭ないのである。しかしながらハクがこの状況でできることと言えば喋ることと考えることくらいしかない。そんな限られた、しかも弱い手札だけで、己を拉致した者達に対抗できるのだろうか。 せめて相手が話の通じる者であれば……と、無いにも等しい希望を抱くハクだったが、 「なんだ、目が覚めたのか」 ガチャリと部屋の扉が開き、人影が入ってくる。ハクはそれを無言のまま見上げた。 ディスプレイからの光に照らされるのは中肉中背のどこにでもいそうな中年の男。暗い色の髪の合間から青白い色の耳が覗いている。以前会ったクオンと似た形の耳だが毛並みはぼさぼさで、美しい彼女のそれとは似ても似つかず随分とみすぼらしく思えた。 ハクの傍らに男がしゃがみ込む。顎には無精ひげが生えており、目の下には不健康そうな隈がくっきりと浮かび上がっていた。 口先だけで相手から情報を引き出すにしろ逃げる手立てを生み出すにしろ、まずはこの男がどういう人物かを見極めなくてはならない。その足掛かりとしてハクは口を開く。 しかし、 「なぁ兄ちゃんよ」 「がっ!?」 言葉を発する前に髪を掴んで顔を上げさせられる。不自然に喉が反り、短い悲鳴と共に呼気が漏れた。 「俺ぁあんたに恨みはないが、あんたと仲のいい男にはすごくすごーくお世話になってねぇ。そいつにお礼したいんだが、協力してくれるよな?」 「きょ、りょ……く、だ?」 「そ。協力だ」 ニタリ、と男が嗤う。 「自分のせいで大事なオトモダチがこわーい目に遭ったら、あの公安局の狗はどう思うだろうな?」 「そん、な、こと――ッ」 予想はついていた。自分が何故こんなところに連れ去られたのか、先程考えたばかりだ。 しかし犯人の口からそれを直接聞いた瞬間、ハクの頭にカッと血が上る。認められない、許してなるものか、と怒りのまま身を起こそうとする。しかしハクのそんな抵抗など相手にとってはそよ風にも等しいものであり、髪を掴んで持ち上げられていた頭を今度は思い切り床に叩きつけられた。 「が、アッ!!」 ダンッ! と勢いよく側頭部を叩きつけられ視界が揺れる。薄っぺらい絨毯は衝撃など全く吸収してくれない。 「そんなことさせない〜ってか? ははっ、非力なくせに気概だけは一丁前だな。虫唾が走る」 「っ、ぐ……ぅ、あ」 ぎりぎりと頭を押さえ付けられながらハクはその侮蔑の声を聞いていた。 こちらの武器など話術と思考だけ。だと言うのにこの男には最初からハクと話す気が欠片もない。ただオシュトルへの憎しみを募らせ、そしてその憎しみを晴らすためハクを痛めつけて利用することしか考えていないのだ。 最悪だ、と顔をしかめる。それを男に見咎められて、再び頭を床に叩きつけられた。ゴッ、と鈍い音が脳全体に響いて揺れる。意識が一瞬飛びそうになるが、髪を掴まれた痛みでそれもままならない。「はっ」と嘲笑が降って来て、頬にびちゃりと液体の感触。唾を吐きかけられたのだと、痛む頭の片隅で妙に冷静な自分が思考していた。 「気に喰わねぇな、その目。自分は正しい正しい公安局の刑事様のオトモダチだから、お前とは違う正しいヒトなんです〜ってか? はーっ! ムカつくんだよそういうのがよぉ! どいつもこいつもシビュラシビュラシビュラ! あんな機械の何が正しいってんだ! 俺たちゃ機械の奴隷じゃねぇんだぞ!」 「ぃ……ぁ、っ」 ぐりぐりと床に押さえ付ける力はどんどん強くなっていく。今にも頭が割れてしまいそうだ。喉から漏れる悲鳴は急速に力を失くし、視界も暗く、ぼやけていた。 ハクの躰全体から力が抜けていることに気付いたのだろう。男は頭から手を離して一旦立ち上がる。やっと終わったのかと内心ひっそりと安堵するハク。だが安堵にはまだ早かった。 横倒しになったままのハクの腹に硬い靴の爪先が触れる。筋肉もほとんどついていない薄い腹に男はゆっくりと数度先端をうずめ、「なぁ兄ちゃん」と先程呼びかけた時よりも数段気味の悪い猫なで声でハクに問いかけた。 「どうせあんたも綺麗なサイコパスだって周りにちやほやされながらいい仕事に就いて順風満帆な暮らしを送ってきたんだろう? こんな廃墟でマズいメシを喰いながら同志達が死んだ知らせを聞いて歯を食いしばったことなんてないんだろう?」 おいおい論点がすり替わっているぞ。お前が憎んでいたのはこっちじゃなくオシュトルの方じゃないのか。なんて思ってはみたものの、この少々……否、かなりイカれた男に今更理路整然とした思考など期待できるはずもなく。完全なる八つ当たりと逆恨みで男はじわじわとハクを嬲り続ける。 「あんたは『お前なんか要りません』って社会から爪弾きにされたことなんてないんだろう? そういう奴が世間にいるんだって考えたこともないんじゃないか?」 ぐり、と強めにつま先が腹に潜り込む。反射的にハクは呻いた。ただし内臓を圧迫する痛みより脳裏に引っかかる言葉があり、意識がそちらに向けられる。 「要らな、い……?」 お前なんか要りません。その言葉が痛む頭を刺激する。 現実の光景がブレて、白い光で満ちた別の部屋――多種多様な計器が並ぶ研究室らしき場所――の光景が脳裏をチラついた。 必要とされないこと。生まれてきた意味を否定されること。耳の奥で甦るのは知っているような、知らないような、目の前の男とは別の誰かの声。『お前は使わん。使えんのだ』と、その声にはっきりと言われた。それはハクを絶望に叩き落とす言葉だ。使ってもらえないのなら、自分は一体何のために生まれてきたというのか。 「はっ、はは」 「なに笑ってやがる!」 「ガッ、ァ!!!」 空虚な笑いが勝手に喉から零れていた。それを己への嘲弄と勘違いした男がハクの腹を思い切り蹴り上げる。腹にめり込む硬い爪先の感触と背中が壁に叩きつけられる衝撃に横隔膜が痙攣を起こしてハクは酷く咳き込んだ。喉の奥で血の味がする。 「くそっ、この!」 「あっ、ぎ、ぃ、がっ!」 男の怒りは一度の蹴りだけで収まらない。背中に壁がついて逃げることもままならないハクの躰を男は何度も蹴り付ける。 「シビュラの! 奴隷! 風情が!」 「ッ、ぐ、げほっ」 空っぽの胃からツンと酸っぱい液体がせり上がってきてハクはそれを吐き出した。喉が焼けるように熱い。ハクがげほげほと嘔吐し始めたことで男は蹴るのを止め、肩を怒らせながら「今すぐぐちゃぐちゃに痛めつけてやりたいところだが」と舌打ちを零す。 「あんたをいたぶって殺すのはあの公安の狗の目の前でと決まってるからな。このくそが、あんたは何もできないオシュトルの目の前で俺達に嬲り殺されるんだ。精々いい声で鳴いてくれよ。あの忌々しい野郎の色相を濁らせるようにな」 「っ、げほ、ごっ、ッ……は、あ」 言ってることが矛盾してるな、と頭の中でまだ冷静さを保っている自分がせせら笑う。シビュラが嫌いな癖に、シビュラによって判定されるサイコパスを復讐のために悪化させたがるなんて、と。 しかしこれは困ったことになった。男の話から察するに、やはり自分はオシュトルに対する人質で、男――と言うか犯人は複数なのだろう――はこの身を使ってオシュトルの自由を奪うつもりだ。ハクとしてはこちらよりオシュトル自身の方を大切にしてほしいのだが、そうもいくまい。きっとハクの解放と引き換えにオシュトルは拘束される。ただしそれでハクが自由になるはずもなく、何もできなくなったオシュトルの前できっとハクは再度嬲られる。それをオシュトルに見せ、サイコパスを悪化させるために。そしてハクは殺され、オシュトルもまた殺されるか、もしくは悪化したサイコパスにより潜在犯認定されて隔離施設行き。マキアの残党達は復讐を果たすという訳だ。 ここまで判っているのにハクはそれをオシュトルに伝えることができない。きっと拘束されたオシュトルの前に引き出された時、ハクは口がきけない状態になっているか、もしくは気絶でもさせられているだろうから。 「……ッ」 何もできない己が悔しくて唇を噛み締める。男が嘲りの笑みを浮かべた。多少は気が晴れたらしく、ハクに背を向けて部屋から出ていく。 パタンと閉じるドア。その音が妙に遠く聞こえる。視界も狭まってきていた。 噛み締めていた唇を離してハクは「くそっ」と吐き捨てる。そしてそのまま気を失った。 ――青年は夢を見る。 「これで三例目……やっぱり上手くいかないな」 ぼやきながら手元のコンソールを操る。多種多様な計器の向こう、ガラス越しに見えるのは、硬い寝台の上に寝かされている若い男の姿。男の頭部にはMMORPGなどで良く使われている目元まで覆い隠すタイプのヘルメット型の装置――ではなく、それに似た別の物が取り付けられており、そこから測定された脳波の波形がこちらの手元の画面に表示されていた。 また男に取り付けられているのはその装置だけでなく、躰の至る所からコードが伸びていた。皮膚に電極を貼り付けたり、はたまた薬品を注入するための細い管が腕の中に潜り込んでいたり、それはいっそおぞましいと言ってしまえるほどの光景である。 ただ一つ救いがあるならば、寝かされている男の口元に苦痛が浮かんでいないことだろうか。むしろうっすらと微笑んでいるようにすら見える。事実、彼は穏やかな夢を見ているはずだった。頭につけた装置がそうなるよう電気信号を操っているのだから。 悪いものなど何もない幸せな光景を見ているであろう男。しかし装置を通して測定されたサイコパスに、画面を見ていた青年は眉根を寄せる。そう、これで三例目だ。どんなに心穏やかな状況に置いても、対象者の犯罪係数が規定値を越えてしまっているのは。 「220……即殺処分って訳じゃないが、これはもうダメか」 ガラスの向こうで眠る若い男はこの研究所(ラボ)で特別に調整されたヒトだった。 受精卵の時から管理され、最適と思われる環境下で育成、そして時期が来れば良質であるはずの脳を取り出してこの國を支えるシステムに組み込むために生み出されたヒト。 しかし生み出した側の思惑に反し、彼もまた失敗作となってしまった。必要なのは美しい色相と低い犯罪係数を持ったヒト。否、ただそれだけではない。どんな環境にあっても、どんな境遇に晒されても、美しいサイコパスを保つことのできる特別な存在である。 本来ならばそれはとても低い確率で自然発生するものだった。しかしシステムの更なる能力向上のためには、その自然発生するものを確保するだけでは足りない。ならば、と人工的に生み出す計画が進められてきたのだが、これまで幾度もの試行錯誤を繰り返し、数多の失敗作の上に出来上がったのは、たった一つの成功例だけ。おまけにその成功例を生み出したのと同じ状況で他の個体を調整しても、全く上手くいかない。ほとんどはきちんとした命の形を取る前に消滅。ようやく成長した数少ない個体も望んだ結果にはならなかったのである。 青年はコンソールの上に溜息を一つ落とし、これまでの二例と同じ手順を進めた。 記憶の消去。頭部につけた装置から適切な電気信号を送り、また同時にその躰に必要な薬物を注入する。そうやって頭の中を空っぽにするのだ。ただ壊すのではなく不都合な記憶のみを消して、その人物がヒトとして生きていけるように。 本来ならば肉体ごと破棄してしまえばいいのだろう。ここの責任者であるあの人≠熏ナ初はそう指示を出した。しかし青年は己の弟妹(きょうだい)とも言える彼らをモルモットのように殺すことがどうしてもできなかった。それゆえの記憶消去とこの施設からの放逐である。記憶を消された『失敗作』はそのままの状態で街に放たれ、そしてきっと犯罪係数の高さゆえに更生施設や隔離施設へと送られるだろう。決して幸福な道が歩める訳ではない。だがそれでも生きていくことはできる。 「甘い、な……」 あの人≠ノも言われた言葉を繰り返した。 唯一の成功例、それが己である。成功例であるがゆえに、青年はデータを取るためという名目でシステムに取り込まれることなく今日まで『個』として存続していた。初めて人工的に生み出された成功例なので、今後異常が起こらないか観察する必要があるのだ。ただし観察にも時間がかかるため、成功例が生み出されたのと同じ環境を用意して新たにいくつものサンプルが育てられ、そして僅かではあるが三例が適切な年齢にまで成長することができた。……異常が起こらないか経過を見るまでもなく、彼らは全員失敗作だと判断されてしまったけれど。 記憶消去の手順はすでに命令一つで自動的に行われるよう設定してあるので、青年にはその指示を送った後にすることがない。ただじっと深い琥珀色の双眸でモニターに映し出される波形や数値を眺めるだけだ。 座っていた椅子の背もたれに体重を預けると、ギシ、と小さな悲鳴が聞こえた。体調に異常はないはずなのにひどく躰が重い。 成功例と認められ、また己が生み出される時に選ばれた精子と卵子の提供者の立場もおそらく若干関与した形で、単純に経過観察されるだけでなくこうして研究自体に携わっている自分。本来の目的はこの脳がシステムに取り込まれ、その性能の向上に少しでも役立つことだ。そうずっと学習してきた。だからこれは己に課された義務とは異なり、己を生み出し慈しんでくれたあの人≠ヨのせめてもの恩返しである。研究の手伝いをすることで、本来の役目を果たす前に少しでも別のことで役立てれば、と。あの人≠フレベルには到底敵わないが、幸いにもそちら方面の才能には恵まれて、権限を与えられ研究の一部を任せてもらっている。今行っていることもその中の一つ。誇るべきものだ。しかし、胸が痛い。 「色相も犯罪係数もこんなに綺麗なのにな」 己のサイコパスを測定して青年は軽く自嘲した。 痛い。けれど頭のどこかに冷めた自分がいる。何事に対しても主観を切り離し、客観的かつ冷静に物事を判断できる『自分』だ。それこそ求められた資質ではあるのだけれど、やはりこういう場面では何とも言えない気分になった。善良な心の持ち主であるからこその反応だと言われればそれまでなのだが。 なお、青年のような人工的な成功例ではなく、自然発生した『それら』の中には、冷静に物事を判断するがゆえに罪を犯す者達もいる。普通に暮らしていれば見つからない彼らが犯罪を起こすことで当局に捕捉され、身柄を確保され、そしてシステムの中に組み込まれるのだ。 システムに組み込まれるとそれまでヒトの肉体に存在していた彼らの自我は失われ、『個』としての思考が行われなくなる。いくつもの脳が連結して構成されたシステムの中の一つのユニットとして活動を始めるのである。ヒトによってはそれを恐怖する者もいるだろう。事実、システムに取り込まれると聞かされて拒絶反応を示した個体もいる。だが実際に取り込まれてしまえばもうそんな恐怖も不安も拒絶も無い。母の胎内で羊水に浸っているかの如き安心感の元、この國のためにその能力を提供するようになるのだ。 青年はそう教えられ、また実情を己の目で見てきたからこそ、十分に理解している。拒絶するはずがない。三つ目の失敗作の処理の進行具合を確認しつつ、「そろそろ自分の出番じゃないか?」と独りごちた。 己が生まれる前から繰り返されてきた試行錯誤。生まれる前に散っていった命も多いと聞く。そんな中、あの人≠フ気まぐれと思いつきで試作された組み合わせによって成功してしまった『自分』という存在。ただし同じ方法で違う遺伝子を持つ個体が生み出されたが、全て失敗に終わっている。ならば成功例を生み出すのに必要な組み合わせ方は一つだけ。また時間の経過と共に後から遅れて異常が出ないかどうかの経過観察ももう十分ではないかと思われた。何せこの躰はすでに二十年以上生きている。むしろ早く脳を取り出してシステムに組み込まなければ、ユニットとしての質が落ちてしまうだろう。 さぁ、出番だ。本番だ。己が生まれた意味を示す時である。 「これで自分もようやくシビュラの一員になるって訳だ」 人工的に生み出された『いついかなる時でもクリアなサイコパスを持つ存在』――免罪体質者の青年が出した声は、どこか誇らしげですらあった。 けれど。 「お前は使わん。使えんのだ」 あの人≠ヘ言った。 単なる思い付きと気まぐれで自身と同じ父と母のDNAを使い生み出した青年に対し、聞き間違えようもなくきっぱりと。 その瞬間、青年の中のアイデンティティは音を立てて瓦解した。この國を治めるシステム『シビュラ』に組み込まれることこそが生み出された存在意義だったというのに。 下されたのは『不要』という判定。何がいけなかったのかと詰め寄る気力すらない。ただ唖然として、愕然として、あの人≠フ――……己の創造主であり、また血縁上は兄でもある存在の決定に「わかった」と頷くことしかできなかった。 (いらないんだ) 己は必要とされない。 兄が去った後、青年は項垂れた。必要ないというのであれば、己は成功例ではなくこのラボから放逐された弟妹達と同じ。そう、同じなのだから――。 (要らないものはここを去る。死んだら……処理する側(自分)はもういないし、死体の片付けが面倒だな。じゃああの子達と同じやり方で。どうせ戸籍もないんだ) 青年はふらふらと無人のラボの中を進み、いつも使っていたコンソールの元に辿り着くといくつかの指示を出す。ヒトを運搬するためのドローンにも別途命令を出し、全ての準備を整えてからガラスの向こうにある硬い寝台へ。 このラボでの行動は全て兄に筒抜けのはずだったが、邪魔をしてくる気配はない。やはり自分が取ったこの行動は正しかったらしい。要らないものの最後としては上出来だろう。 ふっと口元に笑みを刻み、青年は頭に装置をかぶって寝転がった。 「愛してるぜ、兄貴」 なんて言ってみる。答えが返ってくるはずなどないのに。 けれどどうしてだろうか。意識が無くなる寸前、兄の声で「俺もだ」と聞こえたような気がした。 2016.03.28 pixivにて初出 wikipedia等を見て頂くとよく判るかと思われますが、過去の出来事〜舞台になっている国の成り立ちの辺りがパロ元の設定とは少々異なります。この話に関してのみの設定となりますので、ご了承くださいませー! ハイパーでオーツな食糧事情等のアレコレソレもこの連載に関わってこないのでザックリ省略させて頂いております。と言うか、合成加工された食品の全自動調理なんて味気ないご飯より、オシュハクには手作りの美味しい酒菜を食べて欲しい…です…。美味しいお酒を飲みながら…。 |