街の北部にある住宅街で死後一週間程度と思われる二名の遺体が発見された。第一発見者はその家に住む十六歳の少年の担任である女性教師。彼女は少年本人から学校を休むと連絡をもらっていたもののそれが一週間も続いたため、保護者に確認をしようと自宅に連絡した。しかし誰も出ず、不審に思って生徒自宅を訪れたとのこと。
 家には鍵がなく――これはシビュラによるサイコパス診断が一般化したこの時代においてそれほど特別なことではない――、教師は声をかけながら中へ。そしてリビングに倒れていた一人目の遺体を発見し、当局に通報した。なお、死体を発見した影響でサイコパスを悪化させたその教師は現在、専門のクリニックで治療中である。
 通報を受け現場に駆け付けた刑事達は二階の寝室で二人目の遺体を発見。検死の結果、どちらの死因も胸を刃物で一突きしたことによる失血死。なお、寝室の遺体は就寝中に、リビングの遺体は泥酔していたところを殺害されたと推測される。
 二人はこの家に住む夫婦だった。
 また殺害に使われたとされる刃物(包丁)も同じ家の中で見つかっており、夫婦の息子――つまり一週間欠席届を出していた少年――の指紋がついていた。
 これにより公安局刑事課は重要参考人として少年の身柄確保を決定。しかし担任教師にかかってきた電話の番号へかけ直しても応答がなかったため、少年の捜索が開始された。
 担当するのは公安局刑事課二係。オシュトル達のチームである。


「概要は以上かな。詳細は皆の手元に送った通りだから各自で確認してね。今、総合分析室が街頭スキャンの結果と監視カメラの両方のログから少年の所在を調査中だから、あと半日もすれば結果が判るはずかな」
 二係のオフィスにて、クオンが執行官達に向けてそう説明する。
 隣で聴いていたオシュトルは補足として更に続けた。
「本件の重要参考人の自宅周辺で記録された色相だが、犯行が行われたとされる日時の前後数日分を調べたところ極度に悪化したものは見られなかった。したがって今回も色相の診断結果は当てにならぬかもしれぬ」
「自身の行いに罪の意識を感じていないパターン、ですか」
「であろうな」
 オウギのコメントにオシュトルが首肯する。アトゥイが「あやや」と苦笑を浮かべ、ノスリが「ヒトを殺めることを罪と思わぬとは、なんと嘆かわしいことだ」と憤慨してみせた。
「あー……でもこれはちょっと仕方ないかもしれないじゃない」
 ただ一人、資料を読み込んでいたヤクトワルトが苦虫を噛み潰したような表情で告げる。
 彼が見ていたのは今回の被害者である夫婦の色相のログと行方不明の少年について小中学校の教師達が残した所見の一部だった。夫婦の色相はあまりほめられたものではなく、悪化と僅かな回復を繰り返している。そして過去の教師が残した所見には、少年が家庭で児童虐待を受けている恐れがあるという趣旨の文章が記されていたのだ。ただし児童相談所の担当者が直接家庭を訪問し事情聴取を行っても虐待の証拠は見つからず、また親子どちらもサイコパスが規定値まで悪化していなかったため、本当に虐待があったかどうかは明らかになっていない。
 しかし潜在犯の判定を受け一度は社会から弾かれながらも執行官として舞い戻ってきた者達は揃ってその事実に不穏な気配を感じ取る。「確かなことは言えませんが」と前置きした後、オウギが言った。
「世間一般から見て犯罪であったとしても、少年自身からすれば両親に対し行ったことは正当な理由があってのことなのかもしれませんね」
「だが犯罪は犯罪だ。そしてどんな刑が下るのかはシビュラが決めること」
「姉上のおっしゃる通りです」オウギはノスリの言に頷く。「同情はしますが、看過はできません」
「ま、ノスリの言う通りか」
「そやねぇ。なにせウチらは猟犬やし」
 ヤクトワルトも頷き、またアトゥイは作戦行動中のコードネームを揶揄って薄く笑った。
「ああ、せやけどこの子ホンマに虐待されていたんなら、随分しっかりした精神の持ち主だったんやね」
 アトゥイが何気ない調子で告げる。四人の会話を聞いていたオシュトルは確かにそうだと首肯した。
「少年が虐待を受けていたならばその時点で色相が濁ってもおかしくはない。だが街頭スキャンでも校内の定期検査でも異常は見つけられなかった。おそらく一旦色相が濁ってもすぐに回復する性質なのであろう」
「うん。もしその予想通りなら、もっとちゃんとした場所で育っていればこんなことにはならなかったのかもしれないね」
 クオンが視線を落としながら呟く。
 彼女の言葉は全員共通の思いだった。現時点では本当に虐待があったのかどうか、またそもそも少年が両親を殺害した本人なのか、正式には確定していない。しかし執行官達の勘が当たり、これらの推測が事実であったなら……苦い思いを抱かずにはいられなかった。
 しかしながら先程オウギが言った通り、同情はしても犯罪を見過ごし、手を抜くことはない。また真に相手を思いやるなら犯罪者として野放しにするのではなく、適切な過程を経て更正への道を歩ませるべきだろう。
(更正の機会を与えるかどうかはシビュラが決めることであるのだが、な……)
 同情心を抱く一方、それでも刑事として働く中で理解せざるを得なかった無情な現実を頭の片隅で思い出しながらオシュトルは内心で独りごちた。

* * *

「僕は正しいことをした。だからサイコパスはクリアなままなんだ」
 少年は左手に持った携帯端末を一瞥する。そこには少年自身の現在の色相が表示されていた。
 カラリと晴れた夏の空の如きクリアブルー。美しいその色彩に少年はうっとりと目を細め、ガーゼで覆われた頬にその端末を軽く触れさせる。
 ガーゼの下にあるのは大きな青痣だった。あの夜、泥酔した父親に殴られてできたものである。
 父親は少年を殴った後に倒れた彼を数回蹴り付けてから、満足そうにまた酒をあおって眠ってしまった。普段は服の下など他人から見えないところを傷つける男だったのだが、あの夜はたまたまいつもより機嫌が悪かったらしい。酒の飲み方も酷いもので、容赦なく少年の顔を殴り飛ばしたのだ。
 父親の理不尽な行いにも、それを見て見ぬフリする母親の無関心にも、少年は慣れていたはずだった。おまけに二人の色相はシビュラから警告されるところまで悪化することもない。つまりは『間違ってはいない』とされるもの。だが何年かぶりに誰がどう見ても異常だと勘付く場所を傷付けられた瞬間、少年は思った。「あ、これはだめだ」と。
 はっきりと何が駄目なのか理解していた訳ではない。しかし直感的にそう感じた瞬間、少年の行動は決まったのである。
 そうして少年は人生で初めて親に反抗した。
 成長途中の己が父親の腕力に敵うことはないと理解している。ゆえに父親が泥酔して眠り込んだところを狙った。父親を殺害した後は二階の寝室で眠っていた母親も。
 ただし二人を殺害した後、少年は返り血で赤く染まった己の手を見て自身が犯した罪の大きさを改めて理解するに至った。シビュラが『罪』を規定するこの時代においても殺人が禁忌であることはヒトの本能に刻み付けられている。少年は半ば発狂し、家を飛び出した。しかししばらくして自身の色相が濁っていないことに気付いた瞬間、少年はこう考えたのである。
 弱者を虐げる者を処罰することは間違いではない。自身の行為は正しかった。ゆえにシビュラシステムは少年のサイコパスを正常であると今も判断し続けているのだ――。と。
 この瞬間から、少年の中で殺人は禁忌ではなくなった。無論、何の罪も犯していないヒトを殺めるのは大罪である。それは理解している。しかし他者を傷つけるような者に罰を与えることはシビュラが許した『正義』。その考えはヒトとしての本能やこれまでつちかってきた常識を大きく凌駕して少年の心に焼き付いた。これは少年がシビュラ世代――生まれた時からシビュラの存在が『普通』であった世代――だということも大きいだろう。
 そして、その結果がこれ≠ナある。
 頬に端末を当てる少年の足先は床をじわじわと広がり続ける赤黒い水たまりに浸っていた。右手には同じ色に濡れた大ぶりの狩猟用ナイフが握られている。
 両親を屠った時とは異なりより生き物の肉を裂き腱を絶つのに特化した形状のそれは、あの夜が明けた翌日、少年がごくごく普通に店で購入したものだ。シビュラシステムのサイコパス診断に引っかからなければこんなものすら容易く手に入れられる。たとえ購入目的がヒトを殺めることであっても。
 このナイフでヒトを殺したのはすでに三人目。いずれも少年が集められる範囲の情報を使い、かつ少年の主観的視点から『悪』と判断された者達だった。
 手段は恐ろしく単純で、最初にインターネット上の掲示板やコミュニティサイトを使って『少年が罪人だと思う人物』を探し、該当者の家を突き止めてそこへ直接赴き、施錠の習慣を失っている彼らに正面からそのナイフを突き立てる。ネット上の噂の真偽を確かめる真似はしなかった。少年にとって正しい自分≠ェ手に入れた情報は正しく、そこから自身が下す判断や起こす行動もまた正しいと考えていたからである。
 一人で行動する少年にその誤りを正してくれるヒトなどおらず、狂い切った独善的な考えから引き起こされる悲劇は続く。また偶然にも過去二件の対象者は独り暮らしであったため、未だ死体は発見されておらず、ニュースでも報道されていなかった。
 しかしながら今回は早々に発見されるだろうと少年は思う。少年が殺害したのは独り暮らしの人物ではなく、この一軒家に住む三人家族の一人、この家の娘だった。
 少年は自身と同い年の彼女が学校から帰って来るのを屋内で待ち伏せして彼女を殺害した。おそらくもうしばらくすれば仕事先から彼女の母親が帰宅し、娘の死体を発見することになるだろう。母親は娘の死をきっと悲しむ。しかし少女の死は当然の結果なのだ。
 この少女は同じ学校に通う別の少女をいじめてそのサイコパスをひどく濁らせたそうだ。濁らされた当の少女ととあるコミュニティサイトで知り合った少年は相談に乗るという体で彼女から詳しい話を聞き、今回の粛清≠決断した。
 同級生をいじめた少女の死はすぐに当局へと知らされ、捜査の手が入るだろう。だが恐れることはない。少年は正しいこと≠しているのだから。
 そう考える少年は当然の帰結としてアリバイ工作や証拠隠滅等も行うことなく、自身の成果――血まみれで絶命している少女――を見下ろした後、あっさりと背を向けた。ドアノブは素手のままで触れ、血に濡れた靴跡がぺたぺたと玄関を出ても続く。
 この僅か一時間後、帰宅した母親が無残な姿となった娘を発見し、当局へと情報が伝えられた。鑑識用ドローンが派遣されて犯人(重要参考人)が特定されたのはその日の夜。ちょうど公安局刑事課二係が追っている少年の移動ルートと現在の拠点とされているインターネットカフェが判明してすぐのことだった。

* * *

 少年が自宅を飛び出した後の行動ルートを再確認したところ、そのルート上で少女が殺害される前に二人も殺されていたことが判明し、二係の面々は揃って渋面を浮かべる。その二例どちらにも少年が被害者宅を訪れた形跡が残っており、したがってその少年には現在五人ものヒトを殺害した嫌疑がかかることとなった。
 虐待をしていたと思しき両親の件だけならばまだ理解が示せた。しかし他の三人に関しては少年と何の関わりもなく、ただ悪戯に殺人を犯したようにしか見えない。
 件の少年を裁くための準備はすでに整っており、今夜日付が変わる頃に踏み込む手筈となっている。五人ものヒトを殺めたのだから、おそらく犯罪係数はエリミネーター・モードとなる300をオーバーしているはず。そうなれば少年は更生の余地もなく死を迎えることになるだろう。
(残念だが、致し方あるまい)
 オシュトルは胸中で独りごち、右手でドミネーターを握るように指を折り曲げた。オフィスで知らせを聞いた執行官達も肩を竦めたり頭を掻いたり、はたまた微笑んだり「我らは正義の使徒だからな」と自身を鼓舞する発言をしたりして各自踏ん切りをつける。
 クオンの方を一瞥すると彼女は気負った様子もなく「お仕事だからね」とオシュトルに返した。情が深く、今回も重要参考人――否、被疑者である少年に強く同情していたクオンだが、自身の使命を忘れるような弱い心はしていない。
 自分達の使命は犯罪者や潜在犯にドミネーターの銃口を向け、公正で公平な裁きを与えること。そうやってこの國の平和と平穏を守ってきたのだから。
 オシュトルは端末に表示された時刻を確認する。作戦開始予定時刻まであと三時間弱。長い夜になりそうな気がした。


 運搬用ドローンからドミネーターを抜き取る。銃把を握ると同時に指向性音声がオシュトルの耳に届いた。
《携帯型心理診断・鎮圧執行システム『ドミネーター』、起動しました。ユーザー認証、オシュトル監視官。公安局刑事課所属、使用許諾確認。適正ユーザーです。現在の執行モードはノンリーサル・パラライザー。落ち着いて照準を定め、対象を無力化してください》
 お決まりのアナウンスを聞きながら見上げた先には少年の潜伏先とされるインターネットカフェが入っているビル。一般市民にはすでに勧告がなされ、待避は完了している。残るは個室で何も知らずに過ごしている少年のみ。
 オシュトル達は二つのチームに別れ、ビルの正面入口と裏口の両方から静かに突入する。ドアのロック類は全て公安局で掌握済みであり、少年がいる個室の鍵までこちらで自由に開錠することが可能となっていた。よってチームを二つに分けたのは単なる保険だ。
 正面から突入したオシュトル、ヤクトワルト、ノスリのチームが先にインターネットカフェがあるフロアに到着した。
 店に足を踏み入れると、店内BGMと共にヒトの話し声やその他雑音に似せて合成された音が聞こえてくる。客達を退避させる代わりに今だけ流されているものだ。その音にまぎれるようにして、ノスリ、ヤクトワルト、オシュトルの順で奥へ進む。
 今では珍しくなった紙の漫画書籍が僅かに並ぶ棚のそばを通り抜け、簡易な個室がいくつも設けられているエリアへ。手元の端末で少年がいる部屋を確認し、その扉の前で一度足を止める。
 店の管理システムによると、少年は現在ヘッドセットとゴーグルが一体化した専用の装置を着けて贔屓にしているコミュニティサイトに顔を出しているとのこと。フルダイブ式とは違い躰の感覚は現実世界に残されているが、目と耳を電脳の海に集中させている少年が他人の侵入に気付く可能性は低いだろう。
 それでも念には念を入れて、公安局のシステムから個室の扉のロックを解除し、気配を殺してノスリとオシュトルが侵入する。ヤクトワルトには万が一に備え、扉の外で待機を命じた。
 少年は一人用のリクライニングソファに躰を預けて電脳世界に没頭している。誰かの話を聞いているらしく、時折相槌を打っていた。
 二人はそれぞれ少年の左右に位置取り、ノスリが銃口を下げたままドミネーターを握り直して、オシュトルが人相確認のためヘッドセットとゴーグルに手を掛ける。
 そして、
「公安局だ! 両手を頭の後ろで組み、その場で直立しろ」
 ヘッドセットとゴーグルを剥ぐと共に鋭い口調で告げた。
 いきなり現実世界に引き戻された少年は驚いた様子で声がした方――オシュトルを見上げる。黒いスーツに身を包んだオシュトルとその反対側でドミネーターを握っているノスリの存在に気付いた少年はぽかんと口を開けて首を傾げた。
「なんで?」
「お前には両親を含む五人を殺害した容疑がかかっている」
 答えると共にオシュトルは手元の端末で少年の顔写真データを呼び出し、未だソファに座ったままの少年と照合する。自分の目でもシステムのチェック機能でも写真と本人の顔は一致していた。次いで名前の確認のため口を開くオシュトルだったが、それより先に少年がソファから身を起こした。抵抗の気配を察してノスリがドミネーターの銃口を向ける。
 これで少年の犯罪係数は瞬時に計測され、パラライザー・モードもしくはエリミネーター・モードでトリガーが引かれるはずだった。しかし実際にトリガーが引かれることはなく、代わりにノスリが驚愕に息を呑む。
「ハウンド3、一体どうし――」
「ふざけるな! 僕は悪いことなんてしていない。だからお前らに捕まる理由もない!」
「うわっ!?」
 少年がノスリを突き飛ばして逃走した。オシュトルはドミネーターを構えながら「ハウンド1ッ!」と叫ぶ。異常を察したヤクトワルトが瞬時にドミネーターを構え、出てくる少年を待ち構えた。タイミングを同じくしてオシュトルもまた少年に銃口を向けている。そして網膜に表示され、指向性音声によって伝えられたのは――
《犯罪係数アンダー60、執行対象ではありません。トリガーをロックします》
 色相はクリアブルー。そして計測された犯罪係数は48。紛うこと無き正常値だ。
 この少年が目的の人物であることは間違いないはずなのに、ドミネーターが示すその計測結果がオシュトルの動きを止める。ヤクトワルトの方も同じ結果だったらしく、「はぁ? ちょっと待って欲しいじゃない!?」と声を荒らげた。
 まさか全く違う人物をターゲットだと勘違いしていたのだろうか。そんな思いが脳裏をよぎってしまえばトリガーにかけた指が無意識に強張る。そもそもドミネーターの使用者がトリガーを引く・引かないにかかわらず、システムの方ですでにロックがかかっている。どちらにせよ少年に対してドミネーターは使えなかった。
 もしこの場にいるのがシビュラシステム導入前の時代の刑事であったなら、逃げる少年を素早く捕えることができただろう。しかし良くも悪くもオシュトルらはシビュラが社会に浸透した世界で育ってきた者達だった。シビュラの判定は絶対。それが身に沁みついているヒトにとって、シビュラが『善』と判断した相手を咄嗟に捕まえることは難しい。それがたとえ体術に秀で、普段であれば十二分に対象者を無傷で拘束できるほどの者であっても。
(故障? いや、三台も同時に壊れるはずがない。ならば何故……!)
 戸惑いながらもオシュトルは少年を捕まえようと駆け出す。しかし先程の一瞬の停止はあまりにも致命的なミスだった。
 三人を振り切るようにして少年は店を飛び出て行く。その先にはクオン達のチームがいたのだが、オシュトルが自分達の身に起こった異常事態を伝えるより先に少年と鉢合わせたため、全く同じパターンで取り逃してしまった。
 外には警備用ドローンを待機させているのだが、そちらはサイコパスが正常値のヒトに反応するようにはできていない。したがってクオンらを突破した後の少年を止める者はなく。
「……っ」
 少年を追ってビルの外まで飛び出したオシュトルは雑踏の中にその姿を見失い、ぐっと眉根を寄せる。睨み付けたドミネーターは沈黙を保ったまま。
 こうして、容易に済むはずだった作戦は大失敗に終わった。


「刑事課二係監視官オシュトル、入ります」
 被疑者を取り逃がしてから数時間後、オシュトルは厚生省公安局の局長室に呼び出されていた。
 足を踏み入れた広いフロアの奥の壁には壁紙の代わりに有機ELのシートが使われており、今は水の中を思わせる映像が流れている。その正面、重厚な執務机のところに一人の人影があった。ゆったりと椅子に腰を下ろした状態でオシュトルを出迎えたその人物こそ、公安局のトップ――。
「ミト局長、お呼びでしょうか」
 厚生省公安局局長ミト。
 灰色がかった白髪の好々爺といった体だが、見た目とイコールの性格ならばこの部屋の主にはなっていないだろう。深い琥珀色の双眸を笑みの形に細めてミトはオシュトルを執務机の前に設置された応接セットに座るよう促す。
「忙しいところ呼び出してすまないな。まぁ座りなさい」
「はっ、失礼いたします」
 オシュトルがソファに腰かけるのを確認してからミトは「さて」と口を開く。
「何故お主が呼ばれたのか心当たりはあるか?」
「本日未明に行いました作戦の件かと」
 呼び出しを受けた瞬間から、用件は少年を取り逃がしたことに対する叱責だろうと予想がついていた。当然のことだ。落ち着いて考えれば、本人の言動等からもやはりあの少年こそが犯人だと判る。ドミネーターのトリガーがロックされたとはいえ、それ以外でも対象の身柄を確保することは難しくないはずなのに、しかし二係全員で挑み少年にまんまと逃げられた事実は失態以外に他ならない。
 そしてオシュトルは監視官。執行官達を監視し、彼らに適切な指示を出さなければならない立場である。また監視官が二人いるとはいえ実質的に二係のトップはオシュトルだ。自分一人だけが呼び出されたことに関しても疑問はなかった。
 オシュトルの返答にミトは「うむ」と首肯する。
「五人ものヒトを殺害したとされる少年、だったな。被疑者を取り逃がしたことは実に残念でならん。報告書を読むに、例の少年は自身の行いを正当なものだと考えているようだが……。このままではまたいつ新たな殺人が起こるやもしれぬ。早急に解決すべきだな」
「はい。すでに逃走した少年の再捜索も始まっております。被疑者は自身の行いが正当だと考えているが故に身を隠すつもりもないらしく、分析室にて現在、街の監視カメラの映像確認が行われております。再発見も時間の問題かと。しかし……」
「ドミネーターの件じゃな?」
 オシュトルは苦い思いで「仰る通りです」と頷いた。
 少年を取り逃がした後、二係のドミネーターは全て回収され、故障していないかの確認が行われた。しかし結果は『異常なし』。それならば、少年の犯罪係数が規定値をオーバーしていなかったのは一体何故なのか。罪を犯した者のサイコパスが正常であるなどあってはならないことだ。シビュラシステムが統治するこの國においてそのような異常は許されない。
 そして異常事態の原因が解明されない限り、このまま再度少年と対峙したとしてもドミネーターを使うことはできず、また別の手段で身柄を拘束してもサイコパスが正常と判断されればすぐに釈放しなければならないだろう。
(あの殺人犯を再び街に戻すだと?)
 そんなことが許されるはずはない。無辜の民が危機にさらされると知っていて殺人犯を野放しにするなど、刑事の責務以前に良心が許さなかった。
 苦悩するオシュトル。一方ミトはそんな部下をしばらく黙って眺めていたが、やがておもむろに口を開いた。
「オシュトルよ、お主だけには知っておいてもらわねばならないことがある」
 その声にいつの間にか下がり気味になっていたオシュトルの視線が上がる。再び視界に捉えたミトからはそれまで浮かんでいた柔らかな笑みが消え、冷徹な色を宿した深い琥珀色の双眸がじっとこちらを見つめている。オシュトルは直感的に『観察されている』と思った。ミトはただ単にオシュトルに何かを教えるだけではない。その何かを教えることにより、オシュトルがどう反応するのか見定めようとしているのだ。
 知らず知らずのうちに緊張で喉が鳴った。
「これは厚生省の中でもごく一部の者にしか知らされておらぬのだが――」
 机の上で指を組み、ミトが告げる。
「今のシビュラシステムでは罪を犯しても裁けぬ者が存在する。どのような危険思考を持ち、また行動を起こしても犯罪係数が規定値を越えぬ者達のことだ。我々はそれを『免罪体質者』と呼んでいる」
「免罪体質者……」
「そうだ。この國における免罪体質者の発生率はおよそ二百万人に一人。無論その中には社会を乱すことなく一般人の中に紛れて平和に暮らし、自身も他人も免罪体質者だと気付かぬまま生涯を終える者もおる。しかし、罪を犯しながらドミネーターで裁かれず、シビュラの信頼性を揺るがしかねない存在はこの社会を守る上で決して許してはならぬものだ。……それは解るな?」
「はい」
 オシュトルは頷いた。
 その肯定は己の地位を守るため、本心に逆らって行ったもの……ではない。
 絶対的な存在として教え込まれてきたシビュラシステムに致命的な欠陥――免罪体質者などという例外を作ってしまったこと――があったという事実は、正直なところ失望を覚えるし、またそのような欠陥に気付きながらもシビュラの運用を見直そうとしてこなかった上層部に不信感と怒りが湧く。
 だがこの時代、この社会に、シビュラシステムは深く浸透しすぎていた。最早シビュラが無ければ人々はまともな社会生活を送ることなどできないだろう。職業適性診断、目的を達成するための手段の提供、そしてサイコパス計測によってなされる自己確立と自己承認。人々の生活はすべからくシビュラによって支えられていた。
 こんな状態でシビュラへの信頼が揺らいだとしたら――。
(この國は一瞬で崩壊する)
 ヤマトは何十年もかけてそういう國になってしまっていた。
 ゆえにオシュトルは思う。これは倫理的に正しい・正しくないの話ではない。現在進行形でオシュトルの中にはシビュラと上層部に対する怒りや失望、不信感がある。しかし現実的な問題として、今この状態でシビュラを失うわけにはいかないのだ。何よりもこの國の人々を守るために。
 そしてそのためにはシビュラシステムが生み出してしまった例外『免罪体質者』について絶対に公にしてはいけないのである。
 オシュトルの顔つきを見てミトが深く頷く。
「今度こそ少年の身柄を確保せよ。ただし『生きたまま』だ」
「? ……生きたまま、というのは」
 件の少年は正常にサイコパスが計測できていれば確実にドミネーターの執行対象になっている人物である。オシュトルの疑問にミトは「そうだ」と返した。
「今のこの國にシビュラが裁けぬ者を裁くための法律はない。よって殺せばお主がその罪科を背負うこととなるだろう。それは儂も本意ではない。ゆえに必ず生きたまま確保せよ。なお、その後の捜査と処遇に関しては厚生大臣直下の特別班の管轄で行われるので、そのつもりでおるように」
「承知いたしました。ご配慮痛み入ります」
「なに。お主は監視官の中でも有望株だからな。目をかけるのは当然だ」
 白髪の公安局局長は部下の反応に再度頷くと、机の上で指を組み替え、鋭い視線でオシュトルを射抜いた。
「では、公安局刑事課二係オシュトル監視官に改めて命じる。件の免罪体質者の身柄を生きたまま確保せよ。ただし免罪体質者について、二係の面々を含む他の者には一切口外してはならん」
「はっ」
 ソファから立ち上がり、オシュトルはミトに対し一礼する。
「拝命いたしました」
「期待しておるぞ」
 ミトの口の端が僅かに持ち上がった。オシュトルは顔を上げ、局長室を後にする。
 そうして再び静寂を取り戻したその部屋で――。

「ははっ、お主の働き次第ではフェイズをもう一段上げても良いかもしれんな。……あれ≠熕「話になっていることだし」

 露悪的に、しかし後半はどこか寂しげに、厚生省公安局局長席に座る男は小さな声で独りごちた。







2016.03.18 pixivにて初出