『こちらハウンド3(スリー)、目標は所定ルートを南方向に逃走中。このまま仕掛けるか?』
「こちらシェパード1(ワン)。無理はせずそのまま追い立ててくれ。某で対処する」
 通信機から聞こえるノスリの声に答えると共にオシュトルは右手で握るドミネーターへと視線を落とす。漆黒の大型拳銃状装置の側面には淡く光る緑のラインが走っていた。黄昏時の路地裏でその光はやけに目につく。
 携帯型心理診断・鎮圧執行システム『ドミネーター』。常時サイコパス計測や職業適性判断など膨大なタスクを抱えるシビュラシステムに対し、銃口を向けた相手のサイコパス計測を何よりも優先して処理させることができる。またその計測結果によって適切なモード――対象者を捕獲するため麻痺させるパラライザー(麻痺銃)、その場で殺害するエリミネーター(殺人銃)、より大きな脅威を排除するためのデコンポーザー(分子分解銃)――へと形態を変化させる。この國で正義を執行するために作られ、監視官と執行官のみが携帯を許された特別な装置だ。
『シェパード1、貴方は監視官なのですから、こういう直接的な仕事は我々に回すべきでは?』
「ハウンド4、軽口を叩く余裕があるなら対象者をしっかりこちらまで誘導するように」
『承知いたしました』
 含み笑いと共に、ノスリと合同で対象者を追い立てている最中のオウギがそう答える。
 逃走中の犯人が向かう先で待ち構えているオシュトルは相変わらずヒトを食ったような態度の部下に小さく溜息を零した。しかし彼の言うことも理解できる。と言うより、そちらの方が一般的に正しい。
 オウギら執行官は有り体に言ってしまえば『汚れ役』なのだ。正常なサイコパスを持つ監視官が不必要に犯罪に触れてその精神を汚してしまわぬよう、犯人の思考トレースから実際の処理まで矢面に立って行うのが執行官の役割である。監視官はその名の通り、執行官達が業務から外れた行動を取らないよう監視するだけのもの。
 よって今回のように、逃げてくる犯人を待ち構え、その手で処理するといったことも執行官に任せてしまえばいい。パラライザーならまだしもエリミネーターの状態でトリガーを引いた場合には、対象者との距離が近ければその血肉を僅かなりとも浴びてしまうことになる。またそもそも人間が内側から破裂する光景を見て正常な精神を保てる者はあまり多くない。
 無論、自身の精神を守りたいからといって現場に全く出ず、執行官に丸投げするなど言語道断。そういう思考回路の輩は最初から監視官の職業適性など最低ランクである。
 しかしながら本日のオシュトルは少々前に出過ぎていた。早く犯人を確保するためという名目で執行官達を各所に配し、己もまた駒の一つとして単独で路地を移動する。そんな動きをしていたのだ。もう一人の監視官であるクオンには傍らにアトゥイをつけて一緒に行動させていたため、作戦開始前に仲間達からの物言いたげな視線が随分グサグサと突き刺さったが、それでもオシュトルは意思を曲げなかった。それは自身の実力を適切に判断できていたのも理由だが、何より――
(無理や無茶はせぬ。しかし早く終わらせてしまいたいのだ)
 ドミネーターの銃把を握り直しながら胸中で独りごちる。
(家でヒトが待っているというのはこんなにも心躍るものなのだな)
 仕事中ということで引き締めていたオシュトルの表情がほんの少し緩む。思い出されるのは先日より同居を始めたハクの顔。
 ハクは新居予定だったアパートがテロリストによって爆破されたため、別の家を見つけるまでオシュトルの元で世話になるということになっているが、そんなものはただの建前だ。オシュトルはハクをわざわざ遠くにやるつもりなどない。折角無駄に広い家を持っているのだから、このまま一緒に住んでしまえばいいのだ、と自然と思っていた。そしてハクはあの性格ゆえ住居探しの手間を省いて楽ができるならそちらを選ぶだろう。よって何も問題は無く、無期限の同居生活は続いている。
 あの声で、あの表情で、「おかえり」と告げられるその心地良さ。ただそれだけでオシュトルはシビュラの職業適性判断で厚生省公安局の監視官にA判定をもらった時など比べ物にならないほどの充足感を得ることができた。
『シェパード1、もう間も無くです』
「了解した」
 オウギの声に意識を現実へと戻す。路地の終わり、犯人が駆けてくる真正面で待ち構え、オシュトルは銃口を上げた。もう足音が聞こえてくる。執行官達に追い立てられ、息が荒くなっている犯人の気配。そして、十数メートル先にある曲がり角からついに必死の形相で走ってくる男が姿を現した。
 ドミネーターの銃口はきっちり対象者に向けられている。そして瞬時にサイコパスが計測された。
《犯罪係数320。執行モード、リーサル・エリミネーター。慎重に照準を定め、対象を排除してください》
 落ち着いた女性の合成音声でドミネーターが告げる。その声はドミネーターの使用者にしか聞こえない指向性音声。また声と共に、犯罪係数や色相等の詳細な計測結果がオシュトルの網膜に表示された。濁り切ったダークグリーンの色相は、オシュトルが先程まで思い浮かべていた美しい色相の持ち主とは比べるのもおこがましいほどだ。
 構えていたドミネーターは通常形態のパラライザーからエリミネーター・モードへと、より禍々しい形状に姿を変えた。公安局の刑事の姿を視認した犯人はすでにヤケになっており、口角泡を飛ばしながらオシュトルへと向かってくる。その手に握られているのは、何人のヒトを犠牲にしたのか判らぬほど血でべっとりと汚れたナイフ。しかしオシュトルは冷静に照準を定め、ロックが解除されたトリガーを躊躇いなく引いた。
 犯人との距離は残り十メートル。下半身は走る恰好のまま、集中電磁波を撃たれた対象者の上半身が冗談のように膨れ上がって破裂する。幸いにも飛び散った血がオシュトルまで到達することはない。男の握っていたナイフがカランと甲高い音を立てて壁にぶつかり、地面に落ちた。
 オシュトルは各所に散らばる仲間達へ向けて通信回線を開く。
「こちらシェパード1、対象者の処理を完了した。残りの作業はドローンに任せ、我々は帰還する」
 その報告に各人から「了解」やら「怪我はない?」等の声がかけられ、オシュトルは丁寧に答えつつ自身もまた現場まで乗り付けた車の元へ向かう。このまま本部へ帰還し、報告書を書き上げたとしても、帰宅は左程遅くならないだろう。
(今宵は軽い晩酌くらいならできるやもしれぬな)
 このご時世、酒を嗜むヒトというのはあまり多くない。シビュラが人々の生活に深く浸透すると共に、アルコールの影響でサイコパスが平時より悪化するのではと心配するヒトが増えたせいだろうか。しかしハクもオシュトルも酒の楽しさを知る少数派に含まれていた。
 楽しそうに酒杯を干すハクの姿を想像してオシュトルは口元を緩める。が、そのまま仲間達と合流する訳にもいかず、整った顔はすぐにキリリと引き締められたものに。
 そうして、血の匂いが籠る薄暗い路地から橙色の夕日が差し込む世界へと、オシュトルは足を踏み出した。

* * *

「おかえり、オシュトル」
「ただいま、ハク」
 ほぼ予定通りの時刻に帰宅したオシュトルを出迎えたのは、リビングでラップトップと向かい合っていたハク。オシュトルが口にする呼び名から『殿』が抜けたのは同居を始めてすぐのことだ。ハク曰く、同居人に敬称は必要ないとのこと。オシュトルもその提案を受け入れ、二人はまるで旧知の仲の如く気安く呼び合うようになっていた。
 夕飯はすでに済ませているらしく、オシュトルの帰宅を受けてハクがいそいそと用意し始めたのはささやかな酒宴用のつまみ。「準備にもう少しかかるから、お前は先に風呂入ってこいよ」と言われ、オシュトルは素直に従う。
 脱衣所でスーツを脱ぎながらオシュトルは顔が緩むのをとめられない。普段は髪の合間に隠している耳がぴくぴくと動き、ホロで不可視化している尻尾も楽しげに揺れていた。
 ハクの隣は居心地がいい。まるで陽だまりのようだと思う。
 どんなに凄惨な事件に立ち会ってもハクの元へ戻って来るだけで全て浄化されていくような、そんな気分だ。しかもただ穏やかな気分にさせてくれるだけでなく、ハクは記憶を失いつつも頭の回転が速いため、仕事で問題を抱えたオシュトルに思いがけない助言を与えてくれさえする。おまけに酒もイケる口ときた。一人で飲む酒もそれなりに美味いが、やはり気の合う友人と共に交わす盃には特別なものがある。
 こんな友人、一生のうちで一体何人出会えることか。偶然とはいえ繋いだ縁(えにし)をオシュトルは心から喜んでいたし、またずっと大切にしたいと思っている。これから先、何があってもオシュトルがハクの手を離すことはないだろう。
 己の幸運に鼻歌まで歌いそうになりながらオシュトルは風呂で今日一日の汚れと疲れを洗い流すと、酒の準備を整えているであろうハクの元へ幼い子供のようにわくわくしながら向かった。


 リビングに戻ると照明が最低限まで落とされ、ハクがベランダの窓を開けて月見酒の準備を整えていた。開け放たれた掃き出し窓の左寄りに座り込んでいたハクの隣へオシュトルもまた腰かける。
「待たせた」
「いんや。ほら」
 差し出された猪口を受け取れば、次いでそこに透明な酒が注がれた。くいとあおれば、舌に触れる甘みと鼻に抜ける果実のような香り、そして喉を落ちていく熱。オシュトルは「美味いな」と呟き、今度は己が徳利を持ち上げて「返杯だ」とハクの猪口に酒を注いだ。
「うん、うまい」
 酒を干すとほうと息を吐き出し、月を見上げるハク。まだまだ酔いは回らないが、気持ち良さそうに目を細める横顔は、それを見つめるオシュトルの腹にじわりと熱をもたらす。その意味を未だ悟ることなく、オシュトルは機嫌良さそうなハクから更に返杯を受けた。
 しばらくそうやって酒を酌み交わし、時折酒菜(さかな)を摘まんでいたのだが、そろそろ頃合いかとオシュトルは少し前から考えていた案を口に出す。
「ハク」
「ん?」
「明日は非番なのだが、少し街でも回ってみぬか。其方も欲しい物があるだろうし、周囲を見て回っているうちに記憶を取り戻すきっかけが見つかるやもしれぬ」
「そうだなぁ」
 若干出不精の気があるらしく在宅ワークとやらを見つけて来て日中もこの家にいるハクは少し考える素振りを見せた。が、その視線がちらりとオシュトルの顔……ではなく、その横、濡れた髪の合間からほんの少し覗いている耳に向かう。次いで下がり、ホロで隠されていない尻尾へ。ハク自身には存在しないそれを一瞥した後、深い琥珀色の双眸が月明かりの下で笑みの形に細められた。
「ハク……?」
「ふふっ、いや何でもない。明日だな? よし、行こう。ただし諸々の代金はお前持ちだぞ」
「無論。最初からそのつもりだ」
 断られるかと心配したのも杞憂となり、オシュトルは機嫌よく酒杯をあおった。その隣でハクも口元に弧を刻む。何かしただろうかと思って「いかがした?」と問いかければ、ハクはその表情のまま「明日、楽しみだな」と返した。
「? ああ、そうであるな」
「さーて、どこ行くかなぁ。買い物ならショッピングモールか?」
「そこは確か先日改装したばかりであったはず」
「ほほう。だったらセールやら面白い催し物やらをやっているかもしれん」
 酒を共に明日の予定をああだこうだと話し合う。まだ実際に出かけてもいないのに、オシュトルはこんな時間すら楽しくて仕方なかった。

* * *

 翌日。
 予定通りショッピングモールに赴き、ハクの要望でコンピュータ関係の商品をいくつか――オシュトルには何に使うのか判らない部品などもあったが、ハク曰くそれらがあれば彼の仕事に役立つらしい――と、二人で暮らすための雑貨やら何やらを購入して、それらを全て自宅に配送してもらえるよう手配した後。休憩を兼ねて二人はモール内のフードコートにいた。
 猥雑さを感じさせないためにテーブル同士の距離は広く取られており、更には広場の中央にホログラムではなく本物の水を使った噴水が設置されている。その周りに友人や恋人同士と思われる人々がちらほら見られた。小さな子供の姿もある。おそらく噴水に近いテーブル席には保護者がいるのだろう。
(平和だ)
 透明のプラスチックカップに入ったアイスコーヒーをストローで吸い上げつつ、その光景にオシュトルは目を細める。これが自分の守っている街なのだと思うと、危険と隣り合わせの仕事に更なる誇りを感じることができた。
 また向かいの席には同じくオシュトルが守っている世界の一部を構成するもの――ハクが、生クリームやシロップやらが追加された甘いフレーバーコーヒーをスプーンストローでつついている。オシュトルの視線が向けられていることに気付くと、ハクは小首を傾げて「どうかしたか?」と声をかけてきた。
「いや、平和だなと思ってな」
 思ったままを口にすれば、ハクも周囲を見回して「そうだなぁ」と賛同する。親と思しき大人に向かって手を振る幼子に目を留めたハクの顔が優しげな笑みを浮かべた。その横顔にオシュトルの胸が疼く。
 しかしゆったりと周辺に目をやっていたハクがふいに眉根を寄せた。
「ハク……?」
「オシュトル、非番の時に悪いが仕事かもしれん」
「なに?」
 反射的にオシュトルはハクの視線を辿った。
 噴水のそばに二人の男女の姿がある。仲睦まじい雰囲気には何も問題は感じられない。
「あの二人が一体……」
「問題はそいつらを見ている別の奴だ」
 言って、ハクが小さな動作で二人から数メートル離れた所を指差す。フードコートと他のエリアを仕切るために点在している植込みのそばに別の人影があった。一見すると休憩しているようにも思われたが、その男の視線は頻繁に恋仲と思しき二人へと向けられている。
 オシュトルは手元の端末からこの辺りに設置されている街頭スキャンの装置の設置場所を確認した。結果、フードコート周辺はほぼ全て装置でカバーされており、ここにいる全員が必ず色相チェックを受けていることが判る。この状態で異常が検知されていないということは、潜在犯捕縛の任を負うオシュトルの出番もないと考えられるのだが――。
「まだシビュラから注意されるほどじゃない。でもじわじわ悪化してるって感じだ」
 あまり見過ぎても相手に気付かれるため視線を外したハクがコーヒーの上の生クリームの山を崩しながら告げる。
「何故そのように思う?」
「ん? まぁ単純な話だ」
 生クリームをひと掬いして口に入れた後、ハクは何気ない様子で続けた。
「噴水の近くにいる二人は恋人と見て間違いないだろう。そして植込みの陰にいる男はさっきからずっと二人を見ている。それがまぁ見守るような優しい目つきなら問題は……一応無いとしてだな。残念ながらあの様子じゃ、男の方は二人の関係を良く思っていない。ああ、ほら」ハクが再び男を一瞥して告げる。「今、爪を噛んだだろ。自分の置かれた現状が不快だと思っている証拠だ。よっぽど二人の交際に異論があるんだろうな。偶然出くわしたのか、それとも最初からストーキングしていたのかはさておき、このまま恋人達のイチャつきっぷりを見せられ続けたら確実にあの男の色相は濁るぞ」
 そして濁った後の行動は保証できない。そう締めくくったハクにオシュトルは「すごいな」と純粋な称賛を送る。シビュラがまだ検知できない段階から危険な状態を察するなど、このご時世にできるヒトは少ない。
 しかしオシュトルの反応にハクは苦笑を浮かべる。
「なんつーか、シビュラのサイコパス診断が当たり前になった故の弊害だなぁ。確かに危ないヤツの考えを想像するなんて、色相が濁りそうな行為のランキング上位なんだろうが……。で、どうする? 非番の刑事殿」
「捕縛には対象者が何らかの行動を実際に起こすのを確認するか、ドミネーターで犯罪係数を測る必要がある。このまましばらく我らで様子を見守るにせよ、本部には連絡しておこう」
 サイコパスの詳細診断を受けるための施設に対象者を誘導するなどできるはずもなく、男の正確な犯罪係数を計測するにはドミネーターを用いるのが一番手っ取り早い。しかし多忙なシビュラに対するサイコパスの割り込み診断権や対象者への麻痺・殺傷効果を持つドミネーターは普段から厳重な管理がなされている。事件現場へ赴く際もギリギリまで監視官や執行官の手には渡らずに専用の運搬ドローンで運ばれるほどだ。したがって非番のオシュトルが持ち歩いているはずもない。
 オシュトルが端末で本部に報告すると、クオン達が近くで見回りをしていることが判った。どうやら未だ新しい被害者が出ていない記憶喪失潜在犯の件について調べていたようだ。その彼女らが知らせを受け、ドミネーターと共にこちらへ向かってくれるらしい。
「ドミネーターの到着が先か、男がやらかすのが先か……微妙だなぁ」
 再々度ハクが植込みの方を一瞥して呟く。オシュトルも同意見であり、いざとなれば自分が飛び出すしかないと考えていた。するとその考えもお見通しなのか、ハクからは「自分はここにいるし、危なくなったら安全な場所に引っ込んでるから、お前も無茶して怪我なんかするなよ」との言葉をもらってしまう。
「承知した。折角ハクと出かけたというのに怪我などしてはたまらぬからな」
「おう。せいぜい気を付けてくれ」
 そう言ってハクがまた生クリームを掬う。少し大きな塊を口に運べば、唇の端に白いクリームが付着した。オシュトルが指摘すると、ハクは親指でクリームを拭い、そのまま指の腹をぺろりと舐める。
「……」
「ん? お前も食うか?」
「いや、某はこちらで十分」
 無意識のうちに一連の動作をじっと見つめてしまっていたオシュトルは首を横に振ってからミルクも砂糖も入れていないアイスコーヒーを口に含んだ。舌に触れる苦さがオシュトルを何とか現状に引き戻す。
 刑事ともあろう者が怪しい人物から意識を逸らしてしまうとは情けないと自責の念に駆られるも、一方でどうして今こんな所で潜在犯予備軍に出くわしてしまったのかと現実を恨まずにはいられない。オシュトルは小さく頭を振って邪念とも言えるそれを振り払う。残念だが、今は仕事優先だ。
「オシュトル、そろそろヤバい」
 ハクの指摘通り、最早件の男は恋人達から一瞬たりとも視線を逸らさず、彼らを睨み付けるようにして見ていた。おまけに鞄まで漁っている。取り出したのは小さな折り畳み式のナイフだ。
 オシュトルが席を立つ。「気を付けてな」というハクの声を背に受けながら、手元の端末で今一度クオン達の現在地を確認する。
 男はオシュトルの接近に気付いていない。周囲もまだ異常を察してはいないようだった。
 植込みの陰から男がふらりと歩き出す。指が白くなるほどナイフを強く握り締め、その視線は恋人達に固定されていた。ちょうどフードコートの端に一般人を装って駆け付けたクオン、ノスリ、オウギの姿が見える。彼女らはオシュトルとその数メートル先にいる男の姿を視認して目つきを鋭くさせた。
「失礼」
 足早に近付いたオシュトルが走り出そうとしていた男の肩をぽんと叩く。男はびくりと肩を跳ねさせ、呆気なくナイフを取り落とした。それが床に落ちて音を立てる前に空中でキャッチして、「少しよろしいか?」と公安局刑事課であることを示す証明書を見せた。「こ、公安……!?」と顔色を青くする男。その間にクオン達が合流する。
 オウギが一般人からの視線を遮るよう位置取りし、その陰でノスリがドミネーターを対象者に向けた。
《犯罪係数オーバー120。執行モード、ノンリーサル・パラライザー。落ち着いて照準を定め、対象を制圧してください》
 ドミネーターが発するその声を聞き取れたのは使用者であるノスリだけだが、彼女が「しばらく眠ってろ」と告げれば、診断結果が何であったかなど明らかである。
 男が「ひっ」と短い悲鳴を上げた直後、ノスリが引き金を引いた。発砲音も何もない。ただ男が気を失って倒れ込む。その襟首を掴んだのはクオン。直後に、あらかじめ彼女が設定しておいたホロが展開され、倒れ込んだ男の姿は一抱えもあるクマのぬいぐるみへと変わった。
「午後三時十二分、対象者確保。あとは私達がやっておくから、オシュトルは休日をもう少し楽しんでくればいいかな」
「かたじけない」
 目礼するオシュトルにクオンが微笑みかける。が、その視線が同僚を通り過ぎて別のものへと向けられた。何を見ているのかとオシュトルが振り返れば、
「終わったか? お疲れさん」
 テーブル席にいたはずのハクがひらりと手を挙げて隣に並ぶ。反射的にか、それとも念のためなのか、オウギがドミネーターの銃口をハクに向けた。オシュトルが弁明する間もなく即座にサイコパスが計測され、彼の耳に声が届く。
《犯罪係数アンダー20。執行対象ではありません。トリガーをロックします》
 カチリ、と小さな音。ドミネーターのトリガーがロックされたその音にオシュトルはほっと胸を撫で下ろした。オウギに視線をやれば、飄々とした態度で「オシュトルさんのお知り合いのようですが、一応」と答える。
「あ、すまん。もう少し間を空けてから来るべきだったか」
 ハクもまたドミネーターを向けられたことに怒るのではなく、自身の軽率な行動を反省しつつ頬を掻く。いつも瞑っているような目をしているオウギがその青い瞳を覗かせて「おや、随分と素晴らしい御仁のようだ」と呟いた。
「僕の失礼な行為に腹を立てないどころか、犯罪係数は11、色相はクリアホワイト。シビュラ的には最高レベルの人材ですね」
「こんな捕り物を目撃してもそこまでサイコパスが澄んでいるとは。うむ、素晴らしい」
 弟の周りへの報告を兼ねた称賛を聞き、ノスリが感心したように頷く。また彼女ほどあからさまではなかったが、クオンも驚いていた。オシュトルは尚更だ。何せ対象者の思考や行動を予想して――つまりサイコパスが悪化する可能性のある行為を行って――オシュトルに教えてくれたのは他ならぬハク自身であったのだから。
「ハク、其方の精神がこれほどまでに強靭だったとは。改めて感心する」
「そうか? 強靭と言うかただ単に鈍いだけだったりしてな」
 へらりと表情を崩すハク。褒められることに慣れていないのか、さっさと流そうとするハクだったが、当人の反応とは真逆にオシュトルの言を聞いて思い切り食いつく者達がいた。
「ハク? 今、ハクと言ったのか? と言うことはつまり、お前が例の……」
「なるほど、貴方が噂のハクさんでしたか」
「ここは『オシュトルがいつも世話になっています』って同僚として言った方がいいのかな?」
 ノスリ、オウギ、クオンの順で三者三様に告げる。
「『例の』やら『噂の』やら……一体自分はどういう認識のされ方をしているんだ? それと自分はオシュトルの世話をしていると言うより、世話をされている側だな」
 ハクは『成人男性を軽々と小脇に抱えている美少女(クオン)』というある種異様な光景が若干気になるようでちらちらと気絶している男に視線をやりつつ、そう答える。
「以前もご助力いただいたと伺っていますよ?」
 オウギがオシュトルを一瞥しながら言った。
「以前……?」
「はい。某MMORPGのアバター所有者が死亡した件です」
「ああ、あれか。助力になるのかね、あんなのが」
 まだ病院で世話になっていた頃のことを思い出しつつ独りごちるハク。オシュトルら刑事課の面々としては非常に有益な情報だったのだが、提供してくれた本人には全く自覚がないようだ。
 そんなハクの様子にオシュトルを含め四人が目元を和らげたり唇を綻ばせたりする。
「オシュトルの同居人は何とも凄いヒトみたいだね」クオンが好意的な笑みを浮かべながら言った。「知識は豊富。殺人犯の思考をトレースしても、未遂とはいえ犯行現場を目撃しても、全く悪化しないサイコパス。自己評価はいささか低いようだけど、そんな所もまた好ましいかな」
「褒めても何も出んぞ」
 気恥ずかしそうにハクが視線を逸らす。その視線が向いた先にはオシュトル。助けを求めるような目にオシュトルはただ苦笑を返すしかない。何せハクに対する称賛は相応のものだからだ。そんな男の友としてそばにいられることがオシュトルはとても誇らしい。
 しかしながら次の瞬間、オシュトルに向けられていた視線は呆気なく外されることとなる。
「ここまでサイコパスが澄んでいると、殺人を犯しても犯罪係数はそのままだったり……なんて考えてしまいますね」
「それは確実に褒めてないな!?」
 ギャンと噛みつくようにハクの顔がオウギに向いた。
「と言うかそんなことになったら駄目だろ!」
「そうだぞ、オウギ。罪を犯しても犯罪係数が変わらない〜なんてことになったら、シビュラの機能が疑われてしまうではないか」
 弟のお茶目を咎めるのとはまた少しずれた視点でノスリが言う。ただ彼女の言うことはもっともでもあった。
 ヒトが罪を犯す前に見つけ出すのがシビュラの機能の一つであり、またここまで深く人々の生活に浸透した――人々がシビュラを受け入れた――大きな理由でもある。だというのに、もし罪を犯しても犯罪係数が悪化しないとなったならば、その事実はシビュラシステムの信頼性を揺るがすものとなるだろう。そしてシビュラという絶対的な存在を失えば、人々の混乱は必至。つまり絶対にあってはならないことなのである。
 ノスリの援護射撃にはならない援護射撃にハクは「んぐ」と喉を詰まらせ、その詰まったものを取り除くように大きく息を吐いた。反応すればするだけオウギに遊ばれてしまうのだと早々に気付いたらしい。
 名を告げる前に性格を理解されたオウギは含み笑いと共に「面白いヒトですねぇ」と呟く。
「本当に稀有な方だ。僕らが執行官……潜在犯だと予想はついているはずなのに、こんなにも普通に接してくれますし」
 場合によっては執行官と共に仕事をする監視官の中にさえ、サイコパスが悪化するのを恐れて潜在犯である彼らとの交流を忌避する者がいる。しかし一般人でしかないはずのハクは躊躇なくオウギらと言葉を交わしていた。そのことが、有り体に言ってしまえば、オウギは嬉しかったのだろう。
 オシュトルはそっと口元に笑みを刻み、そうして雑談を打ち切るように「さて」と声を出した。
「クオン殿、オウギ、ノスリ。すまぬが残りの処理も頼む」
「うん、そうだね。邪魔しちゃって悪かったかな」
「まさか。クオンさん……だっけ? 三人がすぐに駆け付けてくれて助かった」
 ハクの呼び方にクオンが「クオンでいいかな」と返す。
「それじゃあハク、オシュトル、残りの休日も楽しんで」
 ぬいぐるみのホロを被せた犯人を小脇に抱えたままクオンが踵を返す。ノスリとオウギの姉弟もそれに続き、オシュトルはハクと共に彼らの背を見送った。
「んじゃまぁ」
 三人の姿が見えなくなってからハクが軽く伸びをする。
「ちょっとしたイレギュラーはあったが、あいつらのお言葉に甘えて休日の続きといきますか」
「ああ。では、次はどこへ行こうか」
「そうだなぁ……」
 チラリ、と深い琥珀色がオシュトルを見た。もしかしてこの捕り物で気が削がれてしまったのだろうかと思うオシュトルだったが、

「お前(ダチ)といられるなら、どこだって悪くはないんだけどな」

 そう言ってハクがあまりにも綺麗に笑うから、オシュトルは人生で初めて『嬉しすぎて胸が痛くなる』という奇妙な体験をする羽目になってしまった。

* * *

 雨が降っていた。
 夜半から降り始めた雨は徐々に雨足を増しており、日の出前の最も暗い空を背景にザアザアと街全体を濡らしている。
 突然、灯りの消えた一軒の住宅から線の細いまだ少年と言える人影が飛び出してきた。
 ハの字に下がった眉と涙に滲んだ双眸。寒さだけではない理由により歯はガチガチと鳴り、頬には殴られた跡がくっきりとついている。
 少年は飛び出してきたばかりの自宅を振り返り、そして暗闇の中で己の手を見下ろした。光源の乏しいこの場所では判りにくいが、手のひらだけでなく日に焼けた手の甲と腕にも赤く粘性のある液体が少量付着している。それを雨水で洗い流すようにこすり合わせ、少年は駆け出した。
 街の住民の色相をチェックする街頭スキャンの装置のすぐそばを走り抜ける少年。己が犯した罪に押し潰されそうになりながら、少年は狂ったように「隔離施設は嫌だ隔離施設は嫌だ」と呟く。
 だが震える少年ははたと気付いた。厚生省公安局の本部ノナタワーから遠ざかるように走っている中でもう何度かスキャンされているはずなのに、警備用ドローンも公安局の人員も少年の身柄を拘束しようとやって来ないのである。
 自身の心理状態ならば色相は濁り、犯罪係数は確実に悪化しているはず。しかしそうと診断されない状況。
 少年は近くにあった街頭スキャンの装置を見上げ、
「わるいことをしたのに、サイコパスが悪化していない……?」
 不思議そうに呟いた。
 やがてその口元がにやりと弧を描く。三日月形に開いた口から「あはっ」と高い笑い声が零れ落ちた。







2016.03.10 pixivにて初出