「身元不明の記憶喪失潜在犯、ぱたりと出なくなりましたね」
厚生省本部ノナタワー内、公安局刑事課二係のオフィスにてオウギがぽつりとそう呟いた。 彼が自席のディスプレイに展開しているのは、事件の被害者及び被害者と思われるヒトの人数を日別・種類別に整理した表とグラフである。その中でオウギが言った通り、記憶喪失かつ犯罪係数が非常に高いヒトの発見・保護件数は三という数字でストップしていた。全体の被害者件数に顕著な変化は見られないため、奇妙ではある。 「我々が捜査し始めたという情報が黒幕の耳に入ったのだろうか」 件の記憶喪失潜在犯発生について黒幕がいると仮定し、ノスリが首を傾げる。 「でも見回りとか聞き込みとか、他の仕事の合間にしていただけだし……おまけに、悔しいけど全く収穫なしだったから、相手が身を潜める理由としてはやっぱり弱いかな。むしろ――」 クオンのその言葉にオシュトルが続けた。 「すでに何らかの目的が達成されてしまった故、以降の記憶喪失者が現れなくなった……と考えるべきであろうか」 「うん。その可能性は高いと思う」 頷くと同時にクオンはその整った容貌をしかめる。 記憶喪失潜在犯という被害者(と仮定する)が発生しないということは、捜査の手掛かりを掴むチャンスが激減するということだ。被害者が減ること自体は喜ばしいが、肝心の犯人に逃げられてしまうのは非常によろしくない。またいつどこで新たな被害者が生み出されるのか分かったものではないのだから。 「まぁ本当に事件の黒幕が用を終えて身を隠したかどうか、三人目の記憶喪失潜在犯が出てからまだ十日しか経っていない現時点で判断するのは早計かもしれませんけどね」オウギがそう言って肩を竦めた。「無論、黒幕がいるのかどうかすら決めつけるのも……。ああ、そう言えば記憶喪失というだけなら四人目がいましたよね、オシュトルさん?」 「潜在犯ではないがな」 急に話を振って来たオウギにオシュトルは難なく返す。が、返答には少しばかり棘があったかもしれない。しかし仕方のないことだろうとオシュトルは胸中で弁明した。まだ出会って六日だが、友人と言える人物について揶揄されたのだから。 友人ことハクの件については、病院からの連絡で急に半休を取得した翌日、全員に詰め寄られて白状した。そもそも後ろ暗いことは何もないため、言い触らすことはしないが、訊かれたならば答えるのに忌避はない。したがって今月に入り四人目の記憶喪失者ではあるものの色相はクリアで潜在犯ではないハクについて、二係の面々も知るところとなっている。 ただし―― 「オウギ、いくら大将をからかいたいからって、ちょっと話の持って行き方が不躾じゃない?」 このチームでは一番の年長者であるヤクトワルトがたしなめる。オウギは「いやはや、失礼しました」と一礼。それからオシュトルに向き直り「オシュトルさんが珍しくご執心なさっている方なので、つい」と、普段細めている目をうっすらと開いてみせた。 「確かにオシュトルはんの新しいお友達……って言ったらええんかな。そのヒトのこと、気にならないワケちゃうしねぇ。映像データどころか写真データも音声データも見せてくれないし」 オウギにアトゥイが追従する。 そう、二係の者達はオシュトルの口からハクの存在について聞いていた。ただしハクの顔も声も未だオシュトルは皆に教えていなかったのである。 その理由はハクに「職場の仲間に其方について教えたい故、映像データを記録しても構わぬだろうか」と頼むなど、それこそオウギではないが不躾にもほどがあると思っているから……というのもあるが、何より、 (もったいない、と。思ってしまうのだ) オシュトルは胸中で独りごちる。 自分が見つけて自分が名付けた青年。それをそう易々と他人に見せびらかしてしまうのは、何だかとてももったいないことのように感じられた。まるでハクが宝石箱の中に閉じ込めた宝物であるかのように。 そんなオシュトルの心情を正確に読み取った訳ではないだろうが、オウギが含みのある笑みを浮かべる。 「いずれ紹介していただけると嬉しいですね。何せ我々の大事な上司のご友人なのですから」 「ふふ。そうだね。オウギみたいにからかうつもりはないけど、オシュトルがそうやって気を許す友人には興味あるかな」 クオンまでもが参戦してきてオシュトルはぐっと喉を詰まらせた。ヤクトワルトに視線を向けると「すまん。俺には何もできないじゃない」と苦笑を返され、ノスリからは「私も気になるぞ」とオウギを助長させるような台詞をもらう。まさに四面楚歌だ。 ……いや、一時的なものだが、オシュトルに助け船を出してくれる者がいた。先程苦笑したばかりのヤクトワルトだ。 「大将、そろそろ昼休憩の時間だけど、今日もハクの旦那のところへ行くのかい?」 「あ、ああ。そうであるな。では出かけてくる故、いつも通り何かあれば連絡を頼む」 コートを腕に引っかけてオシュトルは立ち上がる。 ハクが目覚めてから連日、オシュトルは昼休みの時間に病院を訪ねて彼を見舞っていた。見舞うと言っても食事ついでにだらだらと雑談をするだけだ。なお、病院に行くのが仕事帰りでないのは、定時で退勤できる方が少ないからである。 これまでまともに昼休みさえ取らなかったオシュトルを知っている二係の面々がその変化を厭うことはなく、代表してクオンが「いってらっしゃい」と声をかける。その声を背に受け、オシュトルは二係のオフィスを出て行った。 車を自動運転モードにして病院へ向かう道すがら、オシュトルは手元の端末で新しく二係に割り振られた事件の資料に目を通していた。 つい十数分前に送られてきたそれを確認した時、オシュトルはすぐにノナタワーへと引き返そうとしたのだが、そうする直前にクオンから「資料の確認は各自でやって、ミーティングは昼休みが終わってからかな」と連絡が入った。つまり「見舞いはちゃんとしてこい」とのことである。 同僚の気遣いに感謝しつつ、目的地に到着したオシュトルは車を降りる。端末を閉じる直前、そこに映し出されていたのは事件の犯人ではないかと考えられている人物のうちの一人の色相変化を示したデータ。対象者の色相は交互に悪化と回復を繰り返す奇妙な変化を見せていた。 「ハク殿」 「おう、オシュトル。毎日来てくれるけど、お前仕事は大丈夫なのか?」 ベッドの上、膝にラップトップ型の端末を乗せてそれを操作していたハクが顔を上げる。同型内で最新機種であるそれは「一日中寝ているのも良いが、少しくらいは世間のことを知っておきたい」と言ったハクに一昨日オシュトルが貸し与えた――という名目で実際には買い与えた――ものだった。監視官の給与はかなりの額になる。しかし仕事漬けで使う機会もなく貯金するばかりであったオシュトルにとってラップトップの購入代金など微々たるものだ。むしろ選ぶのが少し楽しかったくらいである。 与えられたばかりのそれをハクはすでに使いこなしているようだった。もしかしたら記憶を失う前は精密機器に詳しい職種か何かについていたのかもしれない。そう考えつつ、オシュトルはベッド脇に立つ。 「心配無用だ。むしろ同僚達からは『昼休みくらいちゃんと休憩しろ』と追い出されるほどでな」 「なんだそれうらやましい……いや、違うな。同僚に追い出されるって、お前普段どんだけ働いてんだよ」 うげ、と舌先を覗かせてうんざりと言わんばかりの表情を作るハク。記憶を失う前についていた職業も思い出せない彼は、相変わらずの労働嫌いだった。オシュトルは苦笑し、それから「昼食は?」と問う。 「まだだ。いつも通りテラスに行くか?」 「ああ。今日は天気も良いから暖かいであろうな」 頷けば、ハクがラップトップを脇に避けてベッドから降りる。病院側から貸し与えられた七分丈のズボンと前開き式の衣服は街中を歩くには不似合いだが、院内にいる限りは違和感などない。またそれでも気になるようなら携帯型のホログラム展開装置を使って病衣の上からホロを被せればいい。ハクは全く気にしていない様子だったが。 ハクと連れ立ってオシュトルは病室を出る。 この病院には広い中庭が設けられており、光がふんだんに降り注ぐそこに面した建物の一角には壁一面ガラス張りのテラスが存在していた。中庭に出るのも良いが、どうにもか弱く見えるハクの躰を慮って、オシュトルが彼と共に足を運ぶのはもっぱら屋内テラスの方である。 ハクは病人でも怪我人でもないため、食事は自由とのこと。望めば病室まで配膳してくれるのだが、それを利用したことはない。ともあれ、おかげでこうして二人一緒に好きな場所で好きなように食事をすることができた。ただし一回でも食事を抜くと、看護師に情報が飛んで注意を受ける仕組みになっていたが。 施設の一階に作られたテラスに到着し、空いている席に着く。テーブルに設置されている端末で注文すれば、隣にある一般人も利用可のレストランから自走式配膳ロボットが出来立ての料理を持ってきてくれるというシステムだ。 サンドイッチ(ハーフサイズ)とコーヒーのセットを頼んだハクにオシュトルは「相変わらず少食だな」と眉根を寄せる。しかしハクには「一日中ベッドの上じゃ腹も空かんさ」と、さらりと返された。反してオシュトルが注文したのは天ぷら定食のごはん大盛、小椀の温蕎麦付。ハクがスーツに包まれたオシュトルの躰を上から下へ眺めて「前から思っていたが、どこにそれだけのものが入るんだ?」と首を傾げる。 「実は着痩せする性質でな」 「脱いだらすごいんですってやつか」 「少なくとも其方を横抱きにできるくらいの筋力はあるぞ」 「その顔でお姫様抱っこも可能とかどこの王子様だよまったく。乙女がほっとかんだろう。まぁ自分は男だが」 「褒め言葉として受け取っておこう。だが生憎こうして食事を共にするのはハク殿ばかりであるがな。女性との私的な付き合いなど、この仕事についてから……うむ、記憶にない」 少し思い返すために間を置いてみたものの、やはりハクに告げた通り個人的な異性との付き合いなど監視官になってから一度もなかった。我ながら色のない人生だなと頭の片隅で思ったが、社会のための重要な仕事についているという自覚もあり、それを悪いことだとは感じない。 「一応聞いておくけどさ、女性との私的な付き合いがないってことは、男は? オシュトルはそっち系?」 何気ない様子でハクが問いかける。ヤマトは同性婚も法律で認められて久しいため、遠い昔にあったような偏見もほぼなくなっているのだ。が、オシュトルは首を横に振った。 「記憶にある限りでは、恋愛対象は全て女性であったな」 「……今自分は己の記憶よりお前の女性遍歴の方が無性に気になるぞ」 「気にせずともよい」 きっぱりと言ってオシュトルは運ばれてきた茶を啜った。大して面白味のある話ではないし、それに何故かハクがオシュトル自身ではなくオシュトルと関わった女性の方に興味を持つのが少々腹立たしかったのだ。 「ふーん。ま、いいけどな」 そんなオシュトルの心情など知るはずもなく、ハクは話してもらえないと知ると実にあっさり諦めた。オシュトルはそんなハクの女性遍歴の方が気になったが、自分が口を噤んだ手前、問いかけることも難しい。そもそもハクには記憶が無いのだから、問われても答えられないだろう。 話題が一段落したところで、タイミングよく注文した物が全てテーブルに運ばれてきた。やはりハクの前に置かれたサンドイッチセットは量が少ない。オシュトルはせめて蕎麦だけでも食わないかと自身の前にあった椀をハクに差し出すが、首を横に振って拒否される。 「其方がここを退院して食事を十分にとれるのか心配だ」 今はまだ三食きちんととっているかどうか病院側が管理しているが、それさえ無くなったらハクは一日一食で過ごしそうな気がする。 「お前は自分のかーちゃんか」 「せめて父親と言ってはくれぬか」 「たぶんそんなに齢も変わらないはずなのに!」 「では兄と」 「……オシュトルおにーちゃん?」 「いや、いい。某が悪かった」 どうにも開いてはいけない扉を開きそうになり、オシュトルは片手を上げて押し留めた。向かいの席に座っているハクが背中を丸めて視線を下げ、上目使いに見つめてくるのもいけない。 オシュトルが白旗を上げると、勝者であるハクは即興の弟モードを解除し、ご機嫌でサンドイッチにかじりつく。とはいっても男らしい「ガブリ」というような効果音からは程遠く、綺麗な所作で口に運んでいた。これでは同僚の女性であるクオンの方がよっぽど豪快だと言えるだろう。オシュトルもまた幼少期から厳しく躾けられ、食事の作法もしっかり身についているため、釣り合いが取れていると言えば言えるのだが。 そうして食事をとりながらぽろぽろと雑談を交える。しかしながら一日中病院にいるハクと仕事で至る所を見て回るオシュトルでは話せる話題の量にも差が出てくる。したがって今日はあれがあった、これがあった、という話をするのはもっぱらオシュトルの役目だった。特に仕事の話はハクにとって非常に興味深いらしく、公安局の機密に触れない程度に話してやれば興味深そうに相槌を打ってくれるので、オシュトルとしてもついつい口が軽くなる。無論、大事なことなので繰り返すが、一般人に秘さなければいけない情報は絶対に口にしない。またハクもその辺は十分心得ているようだった。 「ここへ来る途中にも新しい事件の捜査が割り振られてな。おそらくこれからしばらくは遅くまで走り回る羽目になるであろう。……ハク殿の退院祝いと引っ越しに付き合えるかどうか」 「小さい子供じゃないんだから付き合ってくれなくていいって。しかしそんなに大変そうなのか? その新しい事件ってやつ」 コーヒーに砂糖とミルクを投入しながらハクが尋ねる。 オシュトルはしばし逡巡した後、箸を置いて、仕事用ではなく私用のタブレット型端末をポケットから取り出した。 「ハク殿はこの件をご存知か」 言って、とあるニュースサイトのウェブページを表示した端末をハクに渡す。受け取ったハクは記事に軽く目を通し、「ああ。テレビじゃそんなに報道されていなかったが、ネット上じゃちょっとした噂になっていたからな」と呟いた。 「うたわれ≠ナそこそこ有名なアバターの持ち主が連続して自殺してるってやつだろう? ま、噂じゃ殺されたなんて言われているが……。公安が調べてるってことは自殺じゃなくてマジで他殺か」 深い琥珀色の双眸が画面から外されオシュトルに向けられる。オシュトルは「おそらく」と頷いた。 うたわれ――正式名称は「うたわれるもの」と言い、フルダイブ式を採用した数あるMMORPG(マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム=大規模多人数同時参加型オンラインRPG)の中でも人気が高く、多くのユーザーが登録しているものの一つである。プレイヤー(登録者)は逢か未来の人類が滅亡した後の世界を舞台に、己が作成したキャラクターになりきって個人で冒険をしたり、國同士で戦争をしたり、はたまた町でのんびりすごしたりと、様々な方法で楽しんでいる。 そのゲームの中でも國のトップや要職についているキャラクターは名も知られ、他のプレイヤー達からは尊敬の念を集めているのだが、このところ一部の有名キャラクターがログインしなくなり、調べてみればプレイヤーが現実世界で死亡していた……ということが幾度か起こっていた。それらは全て自殺と判断されていたが、ネット上では有名キャラクターを羨んだ何者かが嫉妬でそのプレイヤーを殺害したのではないか、という噂が広がっている。また公安局刑事課の方でも再捜査の声が上がり、こうしてオシュトル達のいる二係にお鉢が回ってきたのだ。 「実は被疑者はすでに何人かに絞られていてな。殺害方法についても公安局総合分析室の方で検証が進められている」 「は? じゃあさっさと捕まえればいいじゃないか。ドミネーターを向ければ一発で判別できるだろう?」 簡単なことなのにどうしてそれをしない? と首を傾げるハク。彼の言うことはもっともである。 オシュトルは苦々しい顔で「それが……」と口を開いた。 「少々政治的な要因が絡んでいて、あまり大きな動きができぬのだ」 「つまり?」 「被疑者の一人が要人の関係者である故、もう少し強い証拠がなければ我々が乗り込んでドミネーターを突きつけるわけにはいかぬ、ということであるな。もし事件に無関係であったならそれなりに面倒なことになる」 またドミネーターの銃口を向けて犯罪係数を確認した結果が規定値以下――つまり無罪だったのが一般人であったとしても、公安局のその行為は市民の批判を招く。無罪の人間を疑い、対象者を拘束もしくは殺害できる道具を向けたのか、と。現場で働くオシュトル達にとってはそんなことより犯人の早期逮捕の方が重要だろうと思えても、上までそうとは限らない。 「面倒だな」 「同意する」 本当に面倒なのだ。しかし上の意向に従わざるを得ないのが公務員の定め。 そしてオシュトル達は被疑者(=容疑者)を絞るために奔走し、より重要で決め手となる証拠を集めねばならないのである。 「ま、要は被疑者をたった一人に絞れりゃいいってことか」 ぽつりとハクが言った。その通りである。絶対に、疑いようもなく、犯人であると確信できる証拠があればいい。簡単な話だ。しかしそれを手に入れる手段が簡単ではない。 オシュトルはハクと会う前に読んだ資料のことを思い出す。 資料には被疑者として挙がっている者達のここ最近の色相のログも記載されていた。被疑者とされるだけあってクリアカラーを維持し続けている者はなく、ほぼずっと濁った黄緑色やオレンジなど、シビュラからセラピーの受診を推奨される対象者が多かった。しかしそれだけなのだ。殺人を犯しているならば明らかに――それこそダークレッドやパープル、ブラックなど――色相が濁るはず。だというのに被疑者達はセラピー程度で回復の見込みがあるレベルの濁りしかなく、対象者によってはセラピーを受けずとも一時的にクリアカラーにまで回復する者すらいるのである。 この事実が逆に、公安局が犯人を一人に絞る妨げとなっていた。どの被疑者も色相を見る限りでは殺人を犯しているとは考えられない。せめて一人だけ明らかに色相が悪化している者がいれば、その人物の周辺を集中的に調べ上げて確固たる証拠を掴めるかもしれないし、そもそも色相の極度な悪化それ自体が強力な証拠になり得る。しかし被疑者が複数いる以上、証拠を固めるためその全員に労力を注がなければならなかった。 「……その様子だと、決定打どころか犯人と決め付けていいかどうか迷わせる要因があるってところか」 オシュトルが思考の海にしばし沈んでいた間、黙ってそれを見守っていたハクがぼそりと告げる。 「ハク殿?」 その声でようやく現実世界に戻って来たオシュトルは、相手を放って考え事をしていた己を恥じると共に、ハクの的を射た言葉に驚く。「そんなに顔に出ていただろうか」と尋ねれば、ハクは苦笑して「ちょっとな」と答えた。 「だが半分くらいはお前の立場や事件の概要を考慮して思考をトレースしたからだな。安心しろ、言うほど顔には出ていなかった」 ハクは事もなげに言ってみせるが、推測がドンピシャであるためオシュトルからすれば恐ろしさすら感じる。噂という形だったとしてもインターネットに接続できる機器を与えてからこの短期間で膨大な量の情報を収集していた手腕といい、人並み外れた才能の片鱗が見え隠れしていた。 「其方のその才……ひょっとしてシビュラからはすでにそれなりの職の紹介があったのではないか」 「いやいやいや! 今はその話題じゃなかっただろ!」 自分の労働の話になった途端、ハクは「やめて聞きたくない!」とばかりに両耳を押さえる。こんな時でも自身が働くという想像はしたくないようだ。 「気にしなきゃならんのは自分の仕事のことよりお前の仕事のことだ! ほらほら、話を戻すぞ」 黒から淡い茶色に変化したコーヒーを一口啜ってハクが先を続けた。 「そちらさん的に口外しちゃマズいことなら答えてくれなくていいが、とりあえず自分の考えを話させてもらうとだな……犯人の特定を妨げている要因ってのは色相の結果じゃないか?」 「っ!」 「オシュトル、流石に今のは顔に出過ぎだ」 息を呑むオシュトルに対し、ハクが呆れ交じりに注意する。 「いや、しかし! 何故そんな……」 「ん? 簡単な話だ。公安局なら当然、被疑者のサイコパスの情報は早々に入手するはず。対象者が重度の引きこもりだってんなら街頭スキャンにも引っかからず色相のログも残らないだろうが、働いている奴とか、そうでなくても買い物やら遊びやらで外出する機会がある奴なら、会社の健康診断や街頭スキャンでばっちりログが残されるからな。で、犯行が行われたと思しき日時とその前後の色相のログをチェックして極度に悪化している者がいればそいつが犯人だとすぐに断定できる。逆に考えれば、色相から犯人を絞ることができないのは被疑者達の中に極端な色相の悪化が見られない、もしくは二人以上のヒトが悪化しているから。違うか?」 「……」 違わない。ハクの推測の通りだった。 しかし説明された内容だけでは、何故犯人断定の妨げになっているものが色相のログであると絞り込むことができたのか、それ以外の要因である可能性も十分に考えられるのではないか、という疑問が湧いてくる。 オシュトルが黙しているとハクは「そろそろ刑事として一般人に答えちゃいけない内容みたいだから、自分は勝手に続けるぞ。そのまま聞いていてくれ」と口元にゆるりと弧を刻む。 「そもそもなんで色相に注目したかと言うとだな、そいつが一番判りやすい指標であると同時に、紛らわしいものでもあるからだ」 「紛らわしい……?」 「ああ」こくりとハクは頷く。「なぁオシュトル、お前、色相と犯罪係数は連動しているなんて思っちゃいないか?」 「は?」 思わずオシュトルはぽかんと口を開ける。ハクが何を言っているのか解らなかった。彼の言い方では色相の悪化と犯罪係数の上昇は連動していないということになる。 「あー……やっぱりオシュトルは真面目だなぁ。残念ながら色相と犯罪係数の変化は連動するようなものじゃないぞ」 厚生省公安局刑事課という一般よりもシビュラシステムに近い位置にいるオシュトルに向かって記憶喪失中の一般人であるハクははっきりとそう言い切った。そしてまるで生徒に講義を行う講師のようにハクは『解説』を続ける。 「そもそも色相ってのは『気分』みたいなもんなんだ。だから濁り具合は犯罪係数の高さとイコールじゃないんだよ。犯罪係数が確実に上昇する行為をした後でも、それが本人にとって爽快な行いだったなら色相はクリアに近付く。基本的には色相と犯罪係数が連動しているから普段は色相のみの簡易スキャンしか行われないんだけどな。でもヒトなんて生き物がそう単純な訳はないし、稀に例外……というかまともじゃない<сcは出てくる。他人を傷つけたり死なせたりして『あーすっきりした』って思う奴が」 「そんな、輩が」 「いないとは言い切れないんじゃないか? 公安で使われてるドミネーターは一応犯罪係数の計測と同時に色相も出してくれるらしいけど、流石に監視官や執行官に追い立てられてオマケに大型拳銃状の鎮圧執行武器を突き付けられても平気なままの奴はほとんどいないだろう。だったら仕事で犯罪者と相対しているお前が気付かないのも無理はない」 一旦台詞を切り、ハクはオシュトルの目をじっと見つめる。深い知性と鋭い洞察力、そして執行官達が犯罪者の思考をトレースする時のような底知れない何かが深い琥珀色の双眸に潜んでいた。 ハクが再び口を開く。 「さぁここで公安のエリート刑事様に質問だ。被疑者の中に、犯行が行われたと思しき時刻の後のスキャンで色相が回復している奴は何人いる? もしそれが一人なら、犯人はそいつだ。自信持ってドミネーターを向けてみな。殺人を何度も犯すような奴が色相の正常化と同時に犯罪係数まで規定値以下に下がるはずがない。下手したら常時300オーバー、即執行対象だろう。……もちろんドミネーターを向ける前に、そいつ一人に絞って証拠集めをした方が周りからごちゃごちゃ言われずに済むんだろうけどな」 そう言い切ったハクはにこりと微笑んで甘いコーヒーを啜る。オシュトルは絶句し、しかしその後すぐ今のハクの推論を端末に書き留めた。資料の確認は彼と別れてからきちんと行う予定だが、すでに頭の中には一人の被疑者の名前が浮かび上がっている。 なお、ただ単にインターネットを使って調べただけで一般人がドミネーターの機能――犯罪係数の計測と同時に色相もチェックされる等――の詳細を知ることができるなど普通は有り得ないのだが、ハクの並外れた推理力に驚愕していたオシュトルはそこまで気付くことができなかった。 2016.02.27 pixivにて初出 |