再雷・裏
自身の頭の中に『これから起こる出来事の記憶』があると気付いた時、オシュトルはその記憶の通り動くのも吝(やぶさ)かではないと思った。 新たな記憶は自身の死によって終わるものだ。苛烈な戦いの後、親友と妹の顔を絶望に染め上げながらこの命を終わらせる未来。 本来ならば避けたいと思うものなのだろう。しかしそうはならない。今のオシュトルは、己の死により、この心の奥底にまで根付いてしまった親友が己という存在に強く縛られることを理解していた。 ふわふわと風に吹かれる木の葉のような男が、ただ一人、オシュトルという名と存在に縛られて生きていかざるを得なくなるのだ。人知れず、口の端が持ち上がる。市井の者が口を揃えてオシュトルを称える時に言う『清廉潔白』など程遠い、それは自己愛と独占欲にまみれた笑みだった。 (ハク……) 帝、國、そして民のためにこの血の一滴すら捧げ尽くすつもりでいたオシュトルは、しかしヴライが親友と妹を狙ったあの瞬間、二人のためにその命を投げ打った。アンジュ姫殿下を含むこれからのヤマトのことを思えば、奇抜な発想の持ち主ではあるが一般人でしかないハクと哲学士の能力はあれどまだ単なる哲学徒のネコネより『右近衛大将オシュトル』の方がずっと必要であると解っていたにもかかわらず。 それはつまり、最後の最後にオシュトルの本心が現れたということ。どれほど己が身を帝と國と民に捧げると誓っていても、やはり根本のところでオシュトルにはそれらよりも大事なものがあったのだ。もしくは、大事なものができてしまった、と言うべきか。 その行動ゆえにオシュトルは己の本心に気付くに至った。自分が何に喜び、何を欲するのか。そして気付いたからにはもう己を騙すことなどできない。 (この命一つで其方の全てが手に入る……そのなんと得難く、心躍ることか) 口元に刷かれた笑みは、その証。 己の邸の執務室にて、机に向かい走らせていた筆を止める。新たな記憶が書き足された瞬間もその筆致は乱れることなく、流麗な文字を書き連ねていた。 筆を置いたオシュトルは墨の乾き具合を確かめてから書簡を脇に退ける。これで期限が迫っているものは全て処理し終えた。腰を上げて向かった先はウコンに扮するための衣装が収められた櫃で、浅葱色の羽織を取り出しながらオシュトルは仮面の奥でまなじりを下げる。 「ハク殿……ハク。此度も逃(のが)しはせぬ故、覚悟めされよ」 市井での評判やこれまで自分自身で考えていたのとは異なり、一度手に入れたものを手放してやれるほどオシュトルは出来たヒトではなかったのだから。 驚いたことに、この先の記憶を持っていたのは己だけではなかったらしい。酒宴の席にてハクの腰を抱き寄せたまま盃を傾ける同僚兼好敵手の姿にウコンは内心で舌打ちをした。 この男のこんな行動は知らない。ハクに興味があるとのことで紹介するため設けた宴席だが、ここまで馴れ馴れしく接するような男ではなかったはずだ。ミカヅチという者は。 それは、つまり――。 (ほう……てめぇも記憶持ちってことかィ) ウコンは胸中で独りごちる。 しかもどうやらミカヅチはハクに特別な感情を抱いている様子。オシュトルが死ぬ前からのものなのか、それとも死んだ後に何事かがあり芽生えたものなのか知らないが、どちらにせよ面白くなかった。……否、逆に面白いと言うべきなのかもしれない。 きっとミカヅチの行動により半ば強制的にオシュトルが知っている未来とは異なる流れが生まれるだろう。そして新たに発生する出来事への対処の如何によってはオシュトルにとって望ましい結末も望ましくない結末も、どちらも訪れる可能性がある。 (だが上手くすればこの命を使わずともハクを手に入れられるやもしれぬ) ごくごく僅かにウコンの口角が上がった。 死してハクの全てを縛ってしまえるのはある種究極の幸福だが、まだ見ぬ未来をハクと共に歩むというのも抗い難い魅力がある。 「さぁて、どう動くとするかね」 「ん? ウコン、何か言ったか?」 「いんや。なんでもねぇよ」 サコンに腰を抱かれたままこちらを振り向くハクにウコンはニカリと笑いかける。そして改めてその薄い肩を抱き寄せた。 鼻先が触れ合うほどの距離まで近付いてもハクに嫌がる素振りはなく、むしろウコンの前の卓にある酒菜に目を留めて「お、それも美味そう。ウコン、くれ」と胸にもたれ掛ってくる始末。サコンの手が腰に回っていなければ、その痩身はすっぽりとウコンの腕の中に納まっていただろう。 「これかィ? ほれアンちゃん、口開けな」 ウコン様自ら食べさせてやっからよ、と冗談めかした声で言えば、すっかり酔いが回って上機嫌なハクは素直に口を開ける。真っ赤な口内に覗く白い歯と赤い舌の対比に眩暈すら覚えながら、ウコンは箸でつまんだ酒菜を一口分、たっぷりタレを絡めてからひょいとハクの口内に放り込んだ。口を閉じたハクが己の唇についたタレを舐め取る様がやけに色っぽくて、得も言われぬ熱が下腹部に溜まる。 酒菜を咀嚼して「やっぱ美味いなぁ」と幸せそうに琥珀の目を細める様子は幼子のような可愛らしさすらあるのに、なんてたまらない男なのだろう、とウコンは胸中で呟いた。 ちらりと視線を上げれば、ハクの向こうで好々爺であるはずのサコンが双眸に剣呑な光を宿らせている。ミカヅチはオシュトルにとって実に好ましい相手だ。しかしやはりそれでも譲れるものと譲れないものがある。そしてハクに関しては当然後者。 ウコンはミカヅチから視線を逸らさぬまま、肩を抱いたハクの髪に唇を寄せる。触れるか触れないかのところで豪気なウコンらしからぬ笑みを口元に刻むと、好敵手に音もなく宣戦布告した。 2016.02.16 pixivにて初出 |