「彼奴には何も知らぬまま、限られた時間といえども穏やかに暮らしてほしかったのじゃが……」
 足元には柔らかな草が生え、可憐な花が天に向かって咲き誇る。木々が葉を茂らせ、青い空には白い雲が浮かんでいた。
 聖廟の中に作られた外と見紛うばかりの、しかし外とは異なり常冬の訪れなど微塵も感じさせぬ空間で、豪奢な車椅子に座った老人が溜息を落とす。この國において至高の御方とされ、現人神とも呼ばれる人物――帝は、自身のそばに跪いて控えている双子の少女らへと視線をやり、「潮時じゃな」と声をかけた。
「其方らの主人を迎えに行くがよい」
「御意」
「行ってまいります、聖上」

* * *

「は、ははっ……お前が『花白』?」
 オシュトルを見上げてそう尋ねるハクの顔には、どうか否定してくれという感情がありありと浮かんでいた。縋るようなその目を受け止めながらもオシュトルはゆっくりと首肯し、片膝を付いて青年と視線を合わせる。
「いかにも、某が『花白』だ。そしてどうやら其方が『玄冬』であるらしい」
「……っ」
 琥珀の双眸が揺らぎ、細い喉がひくりと震えた。
 己が『玄冬』だと突きつけられ、死を望まれ、それどころか共に過ごしてきたオシュトルが自分を殺す役目を負った存在だった。――その事実はハクにとってどれほどの絶望をもたらしただろう。
 オシュトルも否定できるものならしてやりたい。心臓を軋ませながら強く思う。しかし傷を負ったはずのハクからその痕跡が消えているのは紛れもない事実だ。もしハクが普通のヒトであるなら、オシュトルがたった今斬り殺した男のように、赤い血を流して地面に横たわっているはず。
「ハク殿」
 青年を怖がらせないようオシュトルはゆっくりと手を伸ばし、ハクの両頬を手のひらで包み込む。血の気が引いた肌は冷たく、ひどく哀れを誘った。
「ハク」
 もう一度名を呼ぶ。
 しかし声を掛けられても琥珀の双眸はオシュトルを捉えない。ハクの瞳は迷子のように不安定に揺れ、薄い唇が音もなく閉じては開いてを繰り返した。
 やがて彷徨っていた視線はオシュトルの背後で事切れている男へ向けられる。地面に流れ出した赤い血が視界に映った瞬間、恐れて逃げるように、けれどその一方で現実を直視して覚悟を決めたように、ハクの意識がようやくオシュトルを捉えた。
「おしゅとる」
「ハク殿、いかがした」
 限界まで張り詰めた一本の細い糸。ハクの声を聞いたオシュトルの脳裏にそんな光景が浮かぶ。今にも切れてしまいそうなその様子はやけにこちらの不安を煽った。
「じぶんが……」
 オシュトルが見つめる先、琥珀色の双眸にじわりと涙が滲む。眉尻を下げて今にも消えそうな弱々しく震える声で、ハクが問うた。
「自分が生きていたら……ヒトが、死ぬのか」
 たくさん。たくさん。
 全てを埋め尽くす白の中、凍えて、餓えて。雪の下で息絶えるのか。
「ハク、殿……」
「お前が斬ったあのヒトも」
 荒事など知らぬ細い指がゆっくりと持ち上げられ、事切れた男を示す。
「自分のせいなんだろう? 自分のために、お前が斬った」
 くしゃり、とハクの表情が歪む。
 違う、そうではない。と、オシュトルは大声で否定してやりたかった。あの男はオシュトルの都合で殺した者だ。ハクは悪くない。ハクのせいではない。――だと言うのに声が出ない。今にも折れてしまいそうなハクの姿に胸が詰まって、喉を締め付けられるような感覚に襲われ、オシュトルは歯を食い縛る。
 顔をしかめるオシュトルを見て、ハクが唇をゆるりと持ち上げた。
「つらい、なぁ」
 ぽつりと零す。そんな短く簡単な言葉では言い表せない感情が渦巻いているだろうに、ハクは涙で潤んだ瞳をオシュトルに向けて続けた。
「どうして自分が『玄冬』だったんだろうな。自分が玄冬なんかじゃなければ、オシュトル、お前にもこんな顔はさせずに済んだだろうに」
「っ! ハク、其方は……ッ!」
 こんな時にまで他人のことを、オシュトルのことを思ってくれるのか。
 花白は玄冬を殺さなければならない。それが存在理由だ。たとえ誰とどんな縁を結ぼうとも、その運命は変えられない。でなければ世界が滅んでしまうのだから。
 ハクは頭が良い。突きつけられた絶望を僅かな時間のうちに噛み砕き、やるべきことが何なのか理解してしまっている。どれほど理不尽なのか充分過ぎるほど解っているだろうに、それでも彼は自身と浅くない縁を結んでしまったオシュトルの胸中を案じ、「つらいな」と零したのだ。
(某は、)
 玄冬は生まれた時から死を望まれる。世界を殺すのはそこに生きるヒトだというのに、何の穢れも罪もない姿で生れ落ちた玄冬だけがヒトの犯した罪を背負わされ、首を落とされるまでの僅かな間ですら宿命に翻弄されて安寧は望めない。
 こんなに優しいひとなのに。こんなにも美しい魂の持ち主なのに。世界はこれを喰らわねば生きていけないという。
(某はそんな世界を護ってきたのか。それを誇りに思ってきたのか)
 世界のためならば何の罪もない玄冬であろうとも迷いなく討てると思っていた以前の自分があまりにも愚かに思えた。
「ごめんな、オシュトル」
 目の前でハクが瞼を下ろす。ほろりと零れた涙がオシュトルの手を濡らした。それと同時にハクの躰から力が抜ける。どうやら躰に異常はなくとも精神的な限界がきて気絶してしまったらしい。
 オシュトルは相変わらず軽い躰をそっと抱き締め、痛々しい泣き顔に頬を寄せた。しかし目を閉じる直前、背後に気配を感じて振り返る。
「貴公等は――」
 立っていたのは薄絹をまとった二人の少女。肌の色以外そっくりな容姿の美しい少女達がハクを見つめて口を開いた。
「主様、連れて行く」
「主様をお迎えに上がりました。右近衛大将オシュトル様も共にお越しください」
 鎖の巫、ウルゥルとサラァナ。花白と玄冬を見分けられる特別な少女達。単にハクが特殊な体質の持ち主であり玄冬とは違う存在なのだという万が一の可能性さえも潰えたが、殺されることが運命づけられた青年を主と呼ぶ彼女らの目にハクを貶めようとする色はない。そんな双子に「さあ」と促され、オシュトルはハクを横抱きにして立ち上がった。
 鎖の巫が術法を使って通路を開く。オシュトルが霧に包まれた道に足を踏み入れると、後ろに双子が続いた。ただし彼女らは一旦足を止め、両手を外に向けて伸ばす。
「巫よ、何をなさるおつもりか」
 オシュトルが尋ねれば、少女らは眉一つ動かすことなくこう言ってのけた。
「主様のこと、広まるのはいけない」
「主様の御心をお守りするためには、ここで見聞きしたことを他に広められてはいけません。しかしたとえ箝口令を敷いたとしてもヒトの口に戸は立てられませんから」
 そして少女らが翳した手のひらより光が放たれる。ドンッ! と大きな爆発音と共に辺り一帯が炎に包まれた。ハクをなじった男の躯だけではなく、それを近くで見ていたであろう他の者達全員の口を封じるために放たれた術は瞬く間にその地区一帯を呑み込んでしまう。
 オシュトルはそれを見て、
(ああ、確かにそうだ)
 否定するどころか、あっさりと彼女らの行いを肯定した。
 目撃者を生かしたままにしていては、また新しい誰かがハクを傷つけるだろう。醜い顔で、醜い声で、醜い言葉を吐き出して、美しいハクの魂を穢そうとするのだ。そんな醜いものは護るに値しない。
 術の終息を見届けることなく、オシュトルは踵を返す。霧の通路の先から優しい光が差しているのが見えた気がした。


 花が咲き誇り、木々が葉を茂らせ、穏やかな陽光が降り注ぐ。不自然なほど自然なその場所が霧の通路を抜けた先にあった。
 ウコンの着物のままではあるが、片手で髪を撫でつけて付け髭も外した姿となり、オシュトルは帝と対面する。鎖の巫が迎えに来た時点で予感はあったものの、やはりこの國の頂点に立つ御仁を前にすると、オシュトルも緊張せずにはいられない。
 いつもなら御簾越しに言葉を交わすしかない人物はそんなオシュトルに素顔のまま微苦笑を零し、少しひらけた場所に顔を向ける。そこには足の長い丸机と椅子、そして何故か一人分の寝台が設置されていた。
「まずは彼奴を寝かせてやらねばのう。オシュトルよ、運んでやってくれ」
「はっ」
 相手は帝だ。何を知り、何を用意していてもおかしくはない。
 帝が巫達に車椅子を押させて寝台へ近付く。オシュトルもそれに続き、帝が見守る前でハクを寝台に横たえた。涙の痕が頬に残っており、痛々しい。
 僅かに顔をしかめたオシュトルはそれを隠すように頭を垂れ、帝の前に跪いた。
「オシュトル、お主は此奴が大事か」
 帝が尋ねる。オシュトルが顔を伏せたまま肯定すれば、帝から僅かに笑う気配が漏れた。
「面を上げよ」
 そう命じられてオシュトルは顔を上げる。皺に埋もれながらも深い琥珀色の双眸が愛おしげに寝台の上のハクを見ていた。
「儂も此奴が大事じゃ。なにせ此奴は儂と血の繋がったたった一人の弟じゃからのう」
「っ!」
 なんとか声を発することだけは防ぐ。しかし突然の告白にオシュトルは息を呑んだ。
 現人神とも称される帝とハクが血縁者、しかも兄弟だったなど。にわかには信じられない。しかしそれが事実ならば、世界を脅かす玄冬がこうして丁重に保護されることにも納得がいく。
「とはいっても、あの躰はもう儂らの母親の腹から生まれてきたものではなくなってしもうたが……それでも魂は変わらぬ」
 帝が再びオシュトルを見る。その目はオシュトルの発言を許すものだった。
 至高の御方に許しを得たオシュトルは恐る恐る口を開く。
「聖上が仰るならば真実なのでしょう。しかし一体どういうことなのですか。聖上とハク殿は同じ腹からお生まれになった御兄弟であらせられるにもかかわらず、今のハク殿の躰は本来のものと異なる、と?」
「うむ」帝は頷く。「かつて儂の弟は死んだ。しかし儂はそれを受け入れられなんだ。儂は弟を取り戻すためにあらゆる手を尽くし、それまで信じてすらいなかった『神』にまで縋ったのじゃよ」
「『神』……大いなる父(オンヴィタイカヤン)のことでしょうか」
「いいや、儂ら(そんなもの)に死した者を蘇らせる力はない。残念じゃがのう」
 遠い過去を思い出すように長い年月を重ねた琥珀色の双眸が瞼の裏に隠される。
「今は遠き地に眠るウィツァルネミテア。儂らはアイスマンと呼んでいたがの。アレの実在はそれまでの儂の中にあった常識を完膚なきまでに砕いた。じゃがアレの力によって儂の弟はよみがえった……。大きな代償と共に」
「代償、とは」
「ウィツァルネミテアはどんな願いをも叶えることができる。しかしその願いには必ず代償が必要となる。しかも叶えられた願いは必ずしもその者に幸福を与えるとは限らんかった。思わぬ形で叶えられた願いも多々あるじゃろう。(……お前達『亜人種』がタタリと呼ぶ不死の存在のようにな。あれも未知の病によるものではなく、結局は強い躰が欲しい・死にたくないという人類の願いをウィツァルネミテアが歪んだ形で叶えただけじゃった)」
「聖上……?」
 帝が告げた言葉の後半は彼の口の中だけに留められ、オシュトルの耳に届くことはない。その秘された言葉の代わりに帝はハクについて語る。
「結局、ウィツァルネミテアは弟をよみがえらせるために世界そのものを作り変えたのじゃ。此奴がよみがえる対価に数多のヒトの血を求め、血で穢れ過ぎた世界を清めるために此奴の死を求めるという、な」
「――ッ」
 それはまさしくこの世界を支配する『花白』と『玄冬』の構造を示すものだった。作り変えられたという世界は少なくとも数百年間続いている。その間、ずっとハクは生まれ変わりを繰り返してきたというのか。ヒトが流した血によって肉を得て、その肉を失うことで世界を存続させるという残酷な運命を背負って。
「オシュトルよ、お主は此奴が……『ハク』が大事か」
 帝が再び最初と同じ問いを発した。オシュトルは真っ直ぐに帝を見据え、「是」と返す。翁の口元が満足げに弧を描いた。
「なれば一日でも長くハクを生き永らえさせるために死力を尽くせ。ハクが顕現した今、ヒトの血はなるべく流してはいかん。無論、必要な分は仕方がないがのう」
 ハクとよく似た色の瞳が車椅子の後ろにいる双子を一瞥する。それに目礼で返す少女達。
 オシュトルは今一度深く頭を下げ、一片の偽りも疑心もなく「御意」と答えた。しかしそれだけでは終わらず、オシュトルは顔を伏せたまま口を開く。
「恐れながら。聖上に一つお許しいただきたいことがございます」
「ほう……。何じゃ、申してみよ」
「はっ」
 オシュトルは顔を上げ、とある願いを口にした。
 その願いを聞いた帝は寝台で眠るハクを一瞥し、ゆっくりと息を吐き出す。やがてオシュトルに視線を戻すと、静かな声で「許す」と告げた。

* * *

 寝台に横たわっていた青年の瞼がかすかに震える。帝との対話を終え、そのまま聖廟の地下であるここでハクの目覚めを待つことを許されたオシュトルは、ようやく訪れたその時に心の臓を震わせた。
「……、ん」
「ハク殿」
「おしゅ……とる……?」
 薄い瞼が持ち上がり、寝台の縁に腰掛けていたオシュトルを琥珀色の双眸が見つける。未だ目覚めたばかりで夢現の状態なのか、ハクの顔はふにゃりと柔らかくとろけた。しかしオシュトルが手を伸ばし、緩んだ頬に指先を触れさせた直後、
「――ッ、あ!」
 急に血相を変えたハクがオシュトルの手を弾き、起き上がる。それどころか血の気の引いた顔でハクはウコンの恰好のままだったオシュトルから剣を引き抜くと、素早く自らの首筋に宛がった。呆気に取られていたオシュトルは反応が遅れる。
「自分は死ななきゃならん」
 絶望に満ちた声だった。
 剣など握ったことのない細い手にぐっと力が籠もる。
「死んでくれと、頼むから死んでくれと言われてしまった」
「ま、待て。ハクど」
 オシュトルの制止は間に合わない。
 刃が引かれる。白い首筋に赤い線が走り、そこから命の源が噴き出した。
「ハク!!!!!!」
 力を失い、倒れる痩身がやけにゆっくりと見える。オシュトルが自らの血で赤く染まったハクを抱きとめた。凶器となった剣は寝台の脇に落ち、血まみれの刀身を柔らかな草花の上に放り出す。……しかし、その直後。赤は瞬く間に光の粒子となり、空気中に溶けて消えた。
 オシュトルの腕の中でハクが血の気の引いた顔を両手で覆う。その肌には一滴の血も、一筋の傷も残ってはいなかった。『玄冬』を殺せるのは『花白』だけ。それは玄冬であるハク自身も例外ではない。
「死ななきゃ……ならんのだろう……? 自分が生きていては皆が死ぬ。自分は、そういう存在なのだろう?」
 聞く者の胸を抉るような嘆きだった。
 オシュトルは痛いほどハクを抱き締め、その肩口に顔をうずめる。
「どうか。どうかそのようなことを申してくれるな、ハク殿。何もこの世の全てがあの男のように思っている訳ではないのだ」
「だが!」
 縋るように強くハクはオシュトルを抱き締め返した。
「自分が生きていては……オシュトル、お前もいずれ死ぬんだぞ」
「ハク殿……」
「自分は嫌だ。お前の死なんぞ見たくない。これは――」そう言ってハクは腕の力を弱めるとオシュトルに向き合い、自身の胸に手を当てた。「お前が拾ってくれた命だ。だったらお前のために使ってくれ。自分はこの命より、お前自身とお前が生きているこの世界の方が大切だ」
「其方は、どうして」
 そんなにも美しいのか。
 眩しいものを見るように、オシュトルは双眸を細める。仮面に遮られることのないその表情を見てハクが微笑んだ。
「お前が大切だからな。だから自分はオシュトルの為なら死んでやれる。お前が花白であっても、そうじゃなくても、この選択は変わらない」
「なれば……なれば某のために生きてくれ。そう遠くない未来に必ず某が其方の命を貰い受ける。だからどうかその日まで共に在ってほしい」
 それは精一杯のオシュトルからの懇願だった。
 本当に心から國や民のことを思うなら、今すぐここでハクの首を落とすべきである。しかし今のオシュトルにそれをすることはできない。
 文武両道、清廉潔白、公明正大。民からそんな言葉で語られるオシュトルが絞り出すような声で乞うた願いにハクは眉尻を下げた。彼はオシュトルがどれほどハクという存在に傾倒してしまったのか知らない。民を愛し、民に慕われる男が、民のためにならないことなどしないと考えているのだろう。オシュトルがハクをなじった男を斬ったことさえ、オシュトルの都合ではなくハクのためだと思い、自身を責めるような人物なのだから。
 ハクはしばし黙考した後、小さく息を吐き出して「そうか」と呟いた。
「ははっ。まぁどうせお前が『花白』なら、自分を殺せるのはお前だけ。つまりお前がその気にならなきゃ自分はどう足掻いても死ねないということなんだがな。この國と帝と民を大切に思うお前なら、その約束、必ず果たしてくれると信じているぞ」
 ハクから向けられたのは愚かしいほど無防備で純粋な信頼だった。オシュトルはそれに「ああ」と頷く。決して本心を口に出すことはない。己が存在するだけで無辜の民が死ぬと知ってしまった青年には、もうこれ以上要らぬ心労をかける訳にはいかなかったからだ。ゆえにオシュトルは心の中でのみハクに真実を告げる。
(すまぬな、ハク殿。この約束は其方が思っているものとは少し違うのだ。某はもう其方以上に大切なものなど存在せぬのだから)
 これよりオシュトルは帝に命じられた通り帝都の外に出て各地の戦乱を収めるために奔走することとなる。ハクを少しでも長く生かすため、世界を冬という名の死に晒しながらもヒトが流す血の量を抑えようと働くのだ。そして――


 右近衛大将オシュトルまでもが帝都の外へ赴き、各地の戦を鎮圧するため尽力するようになってしばらく。彼は時折帝都に戻っては聖廟の地下で暮らすハクに会い、ひと時の安寧を得ていた。
 しかしそれでも完全にヒトがヒトを殺さなくなったわけではなく、流れる血は確実に世界を侵し、常冬の気配は強まっていく。
 やがて右近衛大将が幾度目かの帝都帰還を果たした際、
「……雪か」
 大内裏門を通り過ぎたオシュトルの頭上には厚い灰色の雲。それを背に真っ白な雪がちらちらと舞っていた。帝都に訪れた雪の季節。たった一つの手立てを打たなければ、この雪が止むことはもうないだろう。
「終いだな」
 小さく呟き、オシュトルはウォプタル(ウマ)を聖廟へ向ける。手綱を握る手には力が籠もり過ぎ、指先が雪のように白くなっていた。
 聖廟に辿り着いたオシュトルを待っていたのは、帝都に雪が降ったことを知らされたハク。オシュトルはハクに駆け寄り、その痩身を強く抱き締める。
 帝や、帝都に戻って来ていたホノカ、それに双子の巫にはすでに別れを告げたらしい。帝の計らいで、聖廟の地下に作られた外と見紛うばかりの、しかし本物の外とは異なり常春の気配を漂わせる空間に、今はオシュトルとハクの二人だけ。
「ハク殿」
「もうここが限界だ。これ以上は世界が本当に死んじまう」
 オシュトルを抱き締め返したハクが囁くように告げる。それはオシュトルの胸にひどい痛みをもたらした。
 またいずれハクの魂はヒトが流した血によって肉を得てこの世界に生れ落ちる。しかしそれが判っていても、自らの手でこの何の穢れも罪もない青年の首を落とさねばならない事実が、まだ幾許かの正常さを残すオシュトルの心を苦しめた。かつて帝と交わしたとある約束事がなければ、オシュトルは我を見失い、ハクを引き摺ってでもここから逃げ出していただろう。世界など知らぬ、其方だけがいればいいと言って。
 しかしたった一つの『希望』が生まれてしまったが故に、そうなることはなく。
 名残惜しいが、こうしている間にも各地で寒さと飢えに苦しみながらヒトが死んでいる。急激な人口減少は、この狂った世界を繰り返してきた帝も、その世界を知ったオシュトルも、双方共に望むことではない。
 抱き締めていたハクの躰を離し、オシュトルは腰に佩いていた剣を抜く。ハクがその場に膝をつき、傷一つない真っ白なうなじを晒した。
「じゃあな、オシュトル。達者で暮らせよ」
 床を向いたまま紡がれた言葉にオシュトルは口の端を持ち上げる。そして両手で剣を掲げ、

「大丈夫だ、ハク殿。またすぐに会える」

「……え?」
 ハクが振り返る暇もなく、白刃がその首を胴体から切り離した。
 落ちた首を目で追い、オシュトルはそれに手を伸ばす。
(世界にはこの美しい魂のための犠牲となってもらおうぞ)


 それは、ハクが玄冬であると知った直後の話。
 オシュトルは『花白』と『玄冬』を軸にしたこの世界の構造について帝から説明された後、至高の存在にたった一つの許可を求めたのだ。

「ハク殿が死した後、大規模な戦を起こす許可をいただきたく存じます。次の『玄冬』の顕現がこれまでより早くなるように」

 ヒトの寿命は二百年程度とされている。しかしほとんどは病気や怪我等が原因で五十年程度しか生きられない。そして玄冬の出現はおよそ五十〜六十年ごと。つまり普通にしていては、オシュトルが再びハクと出会える可能性はとても低かった。
 それを回避するには、ハクがもっと早く生まれ変われるよう世界に働きかけるしかない。具体的には『ヒトの死』。積極的に、ヒトにヒトを殺させる。
 数百年を生きる帝は継続的かつ安定的にハクの転生を繰り返させるため、ヒトが急激に減少しないようある程度の期間を置いて既定の量の『ヒトの死』を生み出していた。それは各地での争いを完全なる終戦ではなく停戦に持ち込んでいた事実や、定期的に他國との戦を繰り返してきたこの世界の歴史自体を振り返れば容易に推測できる。だがオシュトルはその定期的な繰り返しを一度だけ捻じ曲げてくれるよう帝に願ったのだ。
 そして、帝はそれを許可した。ただしオシュトルには聞こえぬよう「清廉潔白と謳われたお主をそこまで『ハク』に執着させ狂わせたのは、儂の決定によるものも大きかったじゃろうからのう」と付け足して。


「ハク殿……」
 自ら斬り落とした頭部を両手で持ち上げ、オシュトルは白い額に唇を寄せる。切り口から滴る赤い血が白と青の衣をしとどに濡らし、見る間に赤く、黒く、染め上げた。
 オシュトルは琥珀色に鈍く光る虚ろな瞳を見つめる。そして、まるで睦言でも紡ぐかの如く――否、オシュトルにとってそれはまさしく睦言だった――とろけるような微笑を浮かべ、恍惚のままに告げる。
「殺して殺して殺して、この世を死で満たして、某は待つとしよう。其方が生まれてくるのをずっと待っている。……どうか早く生まれてきておくれ」

「我が愛しの『玄冬』」

 其方の『花白』はここにいる。
 だから、さあ早く。世界の限界よ、来たれ。




 外の世界では雪が止み、暖かな陽光と共に待望の春が訪れようとしていた。
 もう一度世界を白く染め上げ、『彼』を迎えるために。






葬送







2015.12.31 pixivにて初出