「帝都の人口は増加傾向にある。しかし地方からの移住によるものが大きい……か」
 邸の執務室で書簡を広げ、オシュトルは誰に聞かせるでもなくぽつりと呟く。
 帝都では住民の数や地区別の生活水準、犯罪発生件数、空き家率などが定期的に調査されていた。オシュトルが手にしている書簡は最新の調査結果が記されたものである。朝廷はそれを基に街の整備計画から検非違使の配置まで様々なことを決定するのだ。
 オシュトルが呟いた通り、前回の調査と比較して帝都の人口は増加していた。出生率の上昇ではなく、地方からの移住者や出稼ぎの者が増えたためである。地方で農作物を育てて暮らしていた者達が年々長く厳しくなっていく冬により充分な暮らしを維持できなくなり、働き口を求めて帝都に流れ込んでいるのだ。
 単純かつ局所的に見るなら、帝都の人口が増えるのは都の発展に繋がって良いことである。しかし食料の生産者が減少するのは國全体として喜ばしくない。また帝都の人口が増えてその全員が何らかの職に就いていれば問題ないのだが、そう上手く物事は運ばず、移住者の何割かは定職に就けぬまま都の片隅で浮浪者や破落戸となる場合がある。そういった者達が集まる場所は必然的に治安が悪化し、國を守る者達にとっては酷い悩みの種となった。
 現状把握のためにも一度ウコンとなって集中的に街の見回りをした方がいいかもしれない。オシュトルは書簡を文机に広げたまま考える。ハクの協力のおかげでこちらの周囲をこそこそと嗅ぎ回っていた厄介者も大人しくなり、今はウコンとして随分と動き易くなっていた。
 また、荒事を起こすつもりはないので見回りついでにハクを連れ出してやろうと思いつく。ここ最近有名になってきた甘味処の名を出せば喜んでついて来てくれるだろう。
 明らかに私情が入っているが、基本的に公も私も國に捧げているオシュトルである。これくらいの楽しみは許してほしいと思いつつ、早速、自室として与えた部屋にいるだろうハクに声をかけるため書簡を置いて立ち上がった。


 午前中のみ宮廷に出仕していたオシュトルは己の邸で昼餉を終えて一息ついた後、ウコンと成ってハクと共に市井へ繰り出した。
 昼餉の後なので甘味処へ直行することはなく、しばらく散策と称して外からの流入者が多く住まう地区に足を向ける。途中、知人がやっている飴屋の屋台を見かけたため、そこでハクに飴細工を一本買い与えた。
「こんなのが飴で作れるのか? すごいな……」
「ほほほっ! そうじゃろう、そうじゃろう」
 串の先端で翼を広げた美しい鳥を眺めてハクが感嘆の吐息を零す。飾ることのない心からの賛辞を受け、飴屋の主人であるサコンが満足げな笑みを浮かべた。それどころかサコンは「食べるのが勿体無いな」と飴を口に入れようとしないハクに「じゃったらこいつをやろう。味は変わらんからの」と小さな球形の飴をいくつか懐紙に包んで差し出す。原料である砂糖は決して安価な物ではないのだが、主人は採算よりも気持ちを取ったらしい。
 喜んで飴を受け取るハク。それを眺めるウコンの視線は柔らかい。屋台のすぐそばに座れるところを見つけたハクが腰を下ろしてゆっくりと飴を堪能し始める。
「ウッちゃんが誰かを連れて歩いてんのは珍しいのう」
 ハクの意識が己から飴に移ったのを確認して、サコンがウコンに話しかけてきた。
「おいおい。その言い方じゃ俺がいつも寂しい奴みてえじゃねぇかよ」
「ふん。確かにお前さんは色んな奴と顔見知りじゃし、そやつらに慕われておるが、特定の誰かを傍らに置くことは今まで無かったじゃろうが」
「あ〜まぁ言われてみりゃそうか……」
 ウコンは宙を見上げてがりがりと頭を掻く。
 オシュトルの時は勿論だが、義侠の男ウコンである時も特定の誰かをこうして連れ回すことはしてこなかった。ウコンが率いる男衆や顔見知りの住民らと酒を酌み交わし大騒ぎすることはあれど、たった一人のために時間を確保し、己と二人で街を見て回るなど……。実妹のネコネですら滅多にない。
 己がどれだけハクに入れ込んでいるのか自覚させられ、ウコンは「ははは」と控えめに乾いた笑いを零す。サコンはそれをじとりと睨み付け、
「ったく、一体どうしちまったんだ?」
 ――右近衛大将ともあろう者が。
 自分達以外には聞こえない音量で、更には口の動きすら上手く誤魔化して囁いた。
 サコンという偽りの名で市井に紛れ込む同僚の言葉を受け、ウコンの口元が微かに持ち上がる。
「俺が見つけて、俺が拾って、俺が名付けた奴だからな。そりゃあ他の奴らに比べりゃ特別扱いもしたくなるってもんだろ」
「拾った? しかも名付けた? どういうこった」
「アンちゃん……ハクは記憶がねぇのさ。うちで世話してるが、今も記憶は戻っちゃいねぇ」
 蘇芳の双眸が美味そうに飴を舐めるハクを見た。
「なるほどな。しかしそれならちょいと世話をして後は自分で生活させればよかろう。こうして見る限りじゃ記憶が無くとも普通に暮らせるようじゃし」
 サコンもまたハクを見遣る。ハクはいつの間にか近くで遊んでいた子供達と仲良くなり、棒で地面に何かの図を描きながら言葉を交わしている。サコンがやった飴は小さな少年少女らに振る舞われ、ハクの口に入ったのは最初の一粒だけのようだった。
「ネコネにもそれらしいこたぁは言われたよ。だがなぁ」ウコンは子供の頭を撫でるハクと嬉しそうに撫でられる少女に目を細める。「初めて出会った時……雪の中で突っ立ってるアンちゃんを見つけた時にはもう、手放したくねぇって思っちまったのさ。いや、ひょっとしたら見つける前から、か」
 その姿を目にする前からウコンはハクの存在を感じ取り、彼を見つけるため全力で駆けた。だからきっとその瞬間からウコンはハクに惹かれていたのだ。
 どこか恍惚とした目で語るウコン。その横でサコン――ウコンの正体であるオシュトルと同じくこの帝都の双璧とされる左近衛大将ミカヅチは、ひくりとかすかに喉を震わせた。
「おい、ウコン」
 先刻と同じように唇を動かさず、声すら最小限に抑えて、飴屋の爺の仮面を剥いだ男が呼びかける。
「俺のじいさんが先代の『花白』だったってのは知ってるよな」
「……ああ」
 オシュトルもまたミカヅチに倣い声を潜めて答える。
 玄冬と花白の出現は五十〜六十年ごとに起こってきた。現在の花白はオシュトル。そして先代、五十数年前に花白として玄冬を討ったのは、左近衛大将ミカヅチの祖父である。世界を救った英雄の孫はそれに恥じぬ者として帝と國と民に尽くしてきた。
「立派な方だったと聞いている。しかし玄冬を討って数年後に病死されたとか……」
「ああ。玄冬を討った救世の兵(つわもの)だ何だともてはやされたが、本人は褒美も称賛も受け取らず、最後は静かに家で息を引き取った」
「惜しい方を亡くした。きっと誠実で大層優れたお方だったのだろう」
 世界を救っても一切驕ることなく最期を迎えた傑物。オシュトルは先代花白をそんな人物だと考えた。しかしミカヅチは笑っていいのか泣いていいのか判らないような何とも言えない表情を一瞬だけ浮かべる。先代花白はミカヅチが生まれる前に亡くなっているが、それでもやはり血縁だからこそ他人とは違った側面が見えていたのだろうか?
「で、それがどうかしたのか」
 ともあれ、ミカヅチの話題はあまりにも急なものだった。オシュトルが花白であるため突飛過ぎる話題という訳でもないが、この場で話すものでもない。言外に場を選んでくれと告げれば、ミカヅチは少し視線を彷徨わせた後、「いや……」と首を横に振った。
「すまん。忘れてくれ」
 たぶん……否、きっと俺の思い過ごしだ。と続ける男にオシュトルは首を傾げる。しかし子供達との遊びに一段落つけて飴も消費しきったハクが立ち上がるのが見え、ウコンの意識はそちらへと向けられた。
「アンちゃん、そろそろ行くかい?」
「ああ。じいさん、飴ありがとな」
「いいってことよ。それじゃあな、兄ちゃん、ウッちゃん」
 ひらり、と飴屋の主人に戻ったサコンが手を振る。ハクがそれに応え、ウコンが青年の隣に並んだ。向かうのは、地方からの流入者が多く集まる、少しばかり治安に不安がある地区だ。

* * *

 ウコンとハクを見送った後、ミカヅチは屋台を引いて人気のない路地に移ると、サコンに化ける際に被っている禿頭のカツラを取り去って重い溜息を吐いた。
 ミカヅチの祖父は先代の花白である。彼は玄冬討伐から数年後――ミカヅチらが生まれるずっと前――に死亡した。対外的にはオシュトルが認識している通りの病死とされているが、実際には違う。祖父の本当の死因は自殺だ。
 玄冬討伐後の祖父はとても寡黙になってしまった、と父はかつてミカヅチに語ったことがある。それまで世界を救った英雄だと誇りに思っていた祖父の家族しか知らぬ側面に触れたミカヅチは、純粋な気持ちで更なる説明を求めた。そして父から教えられたのである。祖父の死因は病気ではなく自殺なのだと。
 祖父は自ら命を絶つ少し前、当時まだ幼かったミカヅチの父にだけ花白と玄冬について語ったことが幾度かあったらしい。それは世間に流布されている話と重なることもあれば、全く知らされていないことも含まれていた。
 中でも衝撃的だったのは、祖父の心の中で起こったこと。曰く、

 花白は玄冬に惹かれる。そして出会ってしまうと手元に置きたくなる。

 それは己が討つべき対象を見つけやすくし、また逃がさないための本能ではないか、と祖父は考察した。現に、祖父は鎖の巫からこれが玄冬であると知らされぬままその青年と引き合わされた際、緩やかな思慕の念と唐突な所有欲に駆られたという。公にはされていなかったがその時の玄冬の身柄は帝の預かりになっていたため、ミカヅチの祖父は頻繁に玄冬の元へ通った。そして玄冬の姿が見えなければ必死になって聖廟や宮廷内を探すほどだった。
 それでも、祖父は「己は彼≠ニ言葉を交わし、その心根に触れ、ヒトとして惹かれたのだ」と死の直前に語った。
 ――アイツは優しい。だから俺に殺されることを望んだ。「自分のことより、仲良くなったお前とそんなお前がいる世界の方が大事だよ」なんて言ってアイツは最期まで笑っていた。自分だって死を恐れない訳じゃないのに。それなのに。俺はあんなにも優しいひとを殺してしまった。
 胸を掻き毟るような声で祖父が語ったのが、彼の死の前日。翌朝、布団の上で事切れている祖父を見て、父は幼心に花白と玄冬の悲しい運命を悟ったと言う。
 そして父はミカヅチにこう続けた。
「お前が花白じゃなくて本当によかった」
 と。
 エンナカムイから帝都に上京してきた若者が次代の花白であると鎖の巫に告げられたすぐ後のことである。
「お前も俺のじいさんと同じになっちまうのかね……」
 ほんの少ししか言葉を交わしていないミカヅチですら何となく惹かれてしまった不思議なひと。ハクと名付けられた彼がもしオシュトルと対になる悲しい運命の持ち主なのだとしたら――。
 なんて残酷な世界なのか、とミカヅチは血が出るほど強く拳を握り締めた。

* * *

 帝都、特に大内裏から離れた一般の者達が住まう地域において、『ウコン』はかなりの知名度を誇る。その一本筋の通った振る舞いから義侠の男として老若男女に慕われ、更にかつてウコンに少々お灸を据えられた者などからは大層敬われたり逆に禍日神の如く恐れられたり。そんなわけで、多少治安の悪い場所へ足を運んでも、大抵の者はウコンを襲おうとはしない。またもし襲われたとしても、それは『ウコン』を良く知らぬ少数の者達であり、ウコンならばハク一人を護って戦うなど造作もないことだった。
 ただ一つ誤算だったのは、今回足を踏み入れた地区では地方からの移住者――つまりウコンの顔を知らない者――の割合が想定よりも高く、流入者の数に比例して犯罪者やその予備軍に身を落とした者が多かったこと。
 ウコンは己の設定に合わせてそれなりの着物をまとっているが、ハクはオシュトルから与えられた質の良い衣や小物を身に着けていた。しかもハクにはウコンのような体格の良さもなく、まさに「襲ってください」と言っているような風体である。当然、件の地区に足を踏み入れた途端、ハクを狙う視線は増加した。強者の雰囲気を漂わせるウコンが隣にいるからこそ、ギリギリ襲い掛かって来ないが、少しでも離れればどうなることやら。
(……ちぃとマズかったかもしれねぇ)
 考えていた以上に場の空気が悪い。久々にハクを連れて出かけられると浮かれていた気持ちが一気に警戒へと切り替わる。
 これは早々に引き返した方が良さそうだ。街の見回りと現状把握はハクを置いて改めて一人で行うこととし、ウコンは隣を歩く青年の手を引いた。
「アンちゃん、ちょいと待ってくんな」
「は? っうお!?」
 いささか強く引っ張り過ぎたのか、そのまま前へ進もうとしていたハクがずるりと足を滑らせる。後ろへ倒れ込もうとするハクの痩身をウコンは咄嗟に両手で抱き留めるように支えた。
(相変わらず細ぇな)
 出会ってからこちら、いろいろ手を尽くしてみたものの、ハクが口にする食事の量はウコンやその周囲の者達と比べてずっと少ない。当初より多少肌の色艶は改善されたように思うが、こうして抱き留めた感覚からするとまだまだだろう。男であるハクに女のような柔らかさを求める気などさらさら無いが、今のままでは抱き潰してしまいそうで心配になる。
「すまねぇ。いきなり引っ張って悪かったな、アンちゃん」
「ホントだって。しかし一体どうした?」
 何か理由があるのだろう? と腕の中から琥珀色が見上げてくる。ハクはついでにペチペチとウコンの腕を叩き、自分で立つから手を放せと乞うた。
 だが素直に放してやるには勿体無く思えてウコンはその体勢のまま「いや、なに」と口を開く。そして、ここは少し良くない空気が漂っているから引き返そうと続けようとした直後、
「今だ!」
 路地の陰から声。それに合わせて数人の男達がウコンらに飛びかかってきた。いくら強そうに見えても両手が塞がっているならば恐るるに足らず、とでも思ったのか。ウコンの実力を見誤った者達が暴挙に出たのだ。
 ウコンは素早くハクを放して背に庇い、腰に佩いていた剣を鞘ごと振るう。持ち主の腕力と併せ強力な打撃武器と化した剣が一人目の腹にぶち当たり相手を吹き飛ばした。返す刀で――と言っても鞘つきだが――二人目を薙ぎ倒し、間髪入れずに三人目の鳩尾へその切っ先をめり込ませる。地面に倒れた三人目は胃の中の物を吐き出して四肢を痙攣させた。
 流れるように三人を行動不能にしたウコンが残り二人の男達を見据える。
 擦り切れた着物はこの寒さを凌ぐのにあまり適したものではない。どちらも頬はこけ、目元は暗く、薄黄色に濁った眼球がぎょろりと動く様がやけに目についた。髪も、蓬髪ながら清潔さを保つウコンのそれとは異なり、まともに櫛も入れていないことがありありと見て取れる。
 地方から帝都にやって来たものの、職にあぶれて行き場を失った者達だ。
 ウコンは胸中で舌打ちをし、彼らにはっきりと見えるよう抜刀する。陽光を受け、白刃がきらりと輝いた。無論、彼らを無闇に斬り殺す気はない。脅しの意を込めて抜身の剣を構えたウコンは低く唸るような声で「去れ」と告げた。
「でなければ斬る」
「っ!」
「ひ、ひい!」
 ウコンとの力量差を自覚した彼らは一目散にその場から逃げ出す。先に倒された三人の仲間には目もくれない。元々急造の集まりで仲間意識などほとんど無かったのか、己の命が一番だと言わんばかりにウコンの視界から消え去った。
 そんな彼らに何とも言えないものを感じつつウコンは剣を納めて背後を振り返る。
「アンちゃん、大丈夫だった――」
 かい、と続ける前に言葉が止まり、蘇芳の双眸が剣呑に細められた。
「……すまん、ウコン」
 自分はどうも荒事が苦手でな、と呟くハクは見知らぬ男に背後から捕えられ、その首筋に刃が押し当てられていた。小刀や懐剣ではなく、小動物などを捌く際に使われる小型の肉切り包丁が鈍い光を弾く。
 仲間がもう一人いたのか、と唾棄しかけたが、ハクの後ろに回っている男は先の五人といささか風体が異なっている。もっと気弱そうな、それこそ地方で家族と共にのんびりと野菜やアマムでも育てていそうな男だ。やはり生活が苦しいのか貧相なナリではあったものの、悪徳にまみれて荒んだ気配は薄い。
「こっ、こいつの命が惜しけりゃ有り金ぜんぶ置いて行きな!」
 白髪交じりの黒髪から覗く耳は情けなく垂れ下がり、脅し文句すら震えている。どうやら先程の破落戸共の騒動に居合わせて突発的にハクを人質に取ったらしい。上手くやったように見えるが、ウコンの実力を正しく測れていないのは明らかである。しかもこれまで誰かに刃を突きつけたことすら無かったのか、ハクは身じろぎすらしないのに首筋に当てられた刃がぶるぶると不安定に震えていた。
 哀れな男だ。同情すべきところはたくさんある。しかしハクを人質に取ったことといい、その躰に触れていることといい、そして今にも傷つけんとしていることといい、男の行為の全てがウコンの逆鱗に触れていた。
「おい……アンタ」
 じわり、と内から滲み出すようにウコンが殺気をまとわせる。
「今すぐその薄汚ぇ手をアンちゃんから離しな。でなきゃ容赦はしねぇぜ」
「ヒッ!」
 男の耳も尻尾もこれ以上なく垂れ下がり、眦には涙が滲む。腰が引け、完全にウコンに怯えていた。あまりにも大きな恐怖に駆られ、手を退かすという行動すら起こせないほど。
 男は何とかウコンに言われた通りにしようとするものの、刃を握る手が震えてハクの首に小さく傷を付けた。赤い雫が白い肌を伝う。
「ッ、テメェ!」
 ハクが傷つけられたことで、反射的にウコンの殺気が爆発した。
 気迫にあてられた男が腰を抜かして膝をつく。が、その最中に握っていた刃が、ずぶり、と。
「……ぇ」
 ハクの首筋を、
「あ……れ?」
 深く、
「ち、ちが、そんなつもりじゃ」
 切り裂いて。
「――ッ! ハクッ!!」
 ウコンが駆け寄る。
 地面に落ちた刃は真っ赤な血にまみれ、その向こうでは尻もちをついた男が真っ青な顔で震えている。ウコンが抱き留めた躰は首筋から赤い血を大量に流し、唖然とした表情で偉丈夫を見上げた。
 死、という言葉が思い浮かんでウコンはぞっとする。首元に巻いていた藍色の布を解いてハク首筋に宛がい止血しようとしても、ここまで深く首を傷つけられて生きていられる者はまずいない。
「アンちゃん、ハク! 頼むッ死ぬな!」
 こんなところで失ってしまうのか。荒れ狂う感情が涙となってウコンの視界を滲ませ、やがて頬を伝う。その雫が傷を圧迫している布に落ち、そこだけ色を濃くして――
「…………ハ、ク?」
 ウコンは異変に気付いた。
 ハクの血を吸っているはずの布が全く色を変えていない。血液で赤黒く染まっていなければならない布は綺麗な藍色のままだった。
 はっとしてハクの向こうで尻もちをついている男を見遣る。その男もまた異変に気付き、ハクを見た後は自身が持っていた包丁に視線を向けた。確かにハクの血がべっとりと付いていたはずの包丁は、けれども今は鋼色を鈍く輝かせるだけ。かすかな光の粒子と共に血色は消えて無くなった。
「……」
 無言でウコンが布を退ける。傷口に触れていた面すら血に染まっておらず、深く切り裂かれたはずの傷口はそんなものなど知らぬとばかりに塞がっていた。痕跡すら判らない。
「おい、ウコン……?」
 ウコンの表情を見てハクも顔色を変える。肉刺の一つもない指が自身の首筋に触れた。
「きずが、ない」
 ぽつりと呟くハク。青年はゆっくりと身を起こし、青褪めた顔でウコンを見遣る。
「ウコン、自分は首を斬られたはずじゃ」
 普通、首を深く傷つけられればヒトは死ぬ。しかしこの世には、たった一人を除いて何者にも殺すことのできないひとがいる。傷つかず、殺されず、ただ一人だけから傷を受け、殺されるモノ。
 傷つけることができるのは、殺すことができるのは、『花白』と呼ばれる存在。
 そして花白のみ害することができるのは、

「く、玄冬……ッ!」

 尻もちをついていた男が立ち上がり、吃音になりながら真っ赤な顔でその名を呼んだ。顔のドス黒い赤みは怒りや憎しみによるもの。先程までの怯えはどこかに追いやって口角泡を飛ばし、血走った目でハクを睨み付けている。
「いや待てッ! 自分は」
 状況を呑み込めずにハクは困惑の表情を浮かべ、地面に尻を付けたまま、じり、と一歩後ずさる。
「落ち着け。自分は、玄冬じゃない。ハクだ」
 しかしその分を詰めるように男は一歩前に出て、ハクの物言いに「ふざけるな!」と怒鳴った。
「首を斬られても死なない! 傷も残らない! そんなものがまともなヒトであるもんか! お前は玄冬だ! お前の……! お前のせいで!! うちの村は何も育たない土地になっちまった! 俺の親も、かあちゃんも、息子も、近所の気の良い娘さんもガキも、躰の弱い奴から飢えと寒さで死んじまったよ!!」
 男が落としていた包丁を拾い上げた。その切っ先をハクに向け、一歩また一歩と近付いてくる。
 その男が着ているものは帝都よりずっと寒い地方に存在する集落でのみ作られる染料で染められたものだった。この地より早く、長く厳しい冬に晒された結果、男の家族や友人知人は次々に倒れ、常世(コトゥアハムル)へと旅立ってしまったのだろう。
 全ての原因は玄冬がいるから。玄冬が生きているせいで冬は終わらず、ヒトが死ぬ。
「なあ」
 男はハクの目の前に仁王立ち、ぐしゃぐしゃに汚れた顔で青年を見下ろす。
「兄ちゃんよ、俺だってアンタ個人が悪い訳じゃないってことくらい判ってんだ」
 片手に握っていた包丁が再びぼとりと落とされた。しかしそれは男からハクを害する気が無くなったからではない。ただ単に持っていても無駄だから捨てただけだ。
「ヒトがヒトを殺すから冬が来て、アンタが生まれる。知ってるよ。俺らは皆、文字より先にアンタの話を教えられるんだからな」
 でも、と。どろりと濁った両目でハクを見下ろし、男は言う。
「なんでアンタは生きてんだ? アンタが死ねば、またちゃんと春が来る。俺達は飢えて凍えて死なずに済む。なあ、なんでアンタ、生きてんだよ。頼むよ、頼むから――」

「さっさと死んでくれ」

「……っ、ぁ」
 ハクが男を見上げて瞠目したまま息を止める。
 男はその場に膝をついた。覗き込むようにハクへと顔を近付け、濁り切った目を見開いて狂ったように呪詛を吐く。
「なあ、死ねよ。頼むから死んでくれ。俺達が生きるために死んでくれ」
「っ、じ、ぶん、は」
「死ね。早く死ねよ。死んでくれ。アンタが死ねばこの世界は助かるんだ。今すぐ花白様に殺されてくれ。この世界を救ってくれ。もう、俺の大切なヒト達みてぇに飢えと寒さで苦しみながら死んでいく奴らを増やさないでくれ。お願いだ」
 男の手がハクに伸びる。自分では殺せないと判っていても、その手はハクの首を絞めようと白い肌に触れた。
 しかし直後、それまで黙していたウコンが男の襟首を掴んでハクから引き剥がす。
「……ちょいと兄さん、アンタ何者だ。玄冬を護ってるなんておかしいだろ。それとも玄冬と知らずにそばにいたのかい」
 ハクしか目に入っていなかった男がウコンの姿を視認した。ハクもまたウコンを見ている。
 血の気が引いた顔でウコンを見上げる青年は、ウコンから『花白』と『玄冬』について最低限のことは聞かされていた。けれど、ウコンが『何』であるかはまだ知らない。
 ウコンはハクを一瞥した後、男へ視線を戻す。
「俺は――」
 ハクが玄冬だった。ウコンが、オシュトルが、殺さなければいけない存在だった。
 こんなに優しいのに。こんなにも愛おしいのに。彼が死ななければ世界は救われない。このままではそう遠くない未来に、永遠の冬の中で玄冬を除く全ての生き物が死に絶えるだろう。
「某は」
 オシュトルは腰に佩いた剣の柄を握る。
 己がこの剣を振るえば、ハクは呆気なく死んでしまう。そして世界は救われる。この世の誰もがそれを望んでいる。無論、目の前の男も。
 つまり。

(ここでこの男を見逃せば、ハク殿が『玄冬』であると他の者達に知られてしまう)

 そしてハクが玄冬と知った者達は、この男のようにハクの死を願い、彼に向けて醜悪な呪詛を吐き出し、柔くて優しい心をズタズタに引き裂くのだろう。
(それは、だめだ)
 ゆえにオシュトルは鞘から剣を抜き放ち、

「……某が『花白』だ」

 薄く微笑むように唇を歪ませて、ハクではなく男の首を刎ね飛ばした。







2015.12.27 pixivにて初出