オシュトル邸にハクが滞在し始めてからしばらく――。

「ここのところずっと西方で小競り合いが続いていただろう?」
「ああ。確か戦局がどちらに傾くこともなく、あまりにもヒトが死に過ぎてるってんで、そろそろライコウ様が介入される予定だって噂の……」
「それがな、先日急に停戦となったらしい。勿論ライコウ様が御出になることもなく」
「は? そりゃまたイキナリだな。ようやくどちらかの大将の首でも取られたか?」
「いいや。どうやら無血らしい。緩衝地帯を設けて双方ぱったりと戦闘停止だ」
「なんでまた」
「ホノカ様が御自ら動かれたと」
「大宮司様が?」
 宮廷を警備する衛兵の二人組がこそこそと話しながら見回りの仕事を行っていた。
 この大國ヤマトはいくつもの小國をヤマトが統べる形態をとっている。各國の皇が頭を垂れる対象はヤマトに君臨する帝であり、皆、帝の命に従わなくてはならない。しかしヤマト統治下の國とヤマト統治外の國、そしてヤマト統治下の國同士での争いは頻発とまではいかずとも各地で起こっていた。宮廷に勤める衛兵達が噂していたのは後者、ヤマト内での争いに関してである。
 そして話に出てきた大宮司ホノカとは、皇女であるアンジュ姫殿下を除き、帝の最も近くにいる女性だった。その存在が泥沼状態だった地方の争いに介入し、無血での停戦に到らせたと聞いて、片方の衛兵は目を丸くする。
「わざわざホノカ様がなさらずとも、八柱将のどなたかが動けばあの程度の争いなど早々に終わるはずじゃないのか?」
「おそらく無血というところが重要なのだろうな。八柱将のどなたが手を下されても、きっとそれなりの血が流れる。武のヴライ様でも、智のライコウ様でも、他の方々でも。ホノカ様だからこそ双方剣を納めた」
「確かにホノカ様が御出になられたなら、ヤマトの民は剣を納めずにいられないな。俺はてっきり、あそこは長らく放置されていたし、帝は静観なさるおつもりなんだとばかり思っていたんだが……」
「俺もだ。しかし方針を変えられたのだろう。どういう意図があるのか判らんが、帝のお考えは我々には計り知れぬものであるし」
「そうか……。だがそんな俺達にも判ることがあるぞ。あそこが無血で停戦ってことは、こうして寒くなっていくのも少しは遅くなるんじゃないかってことだ」
 片方の言い分にもう片方が是と頷く。日常生活でも残念ながらヒト殺しは発生するが、戦場でヒトが死ぬのはその比ではない。ヤマトの統治下で特に目立っていた争いが終結を迎えたことで、衛兵達は防寒のための襟巻を引き下げふっと口元をほころばせた。
 いくら『花白』が『玄冬』を討つことで世界が救われると知っていても、またその花白がすでに存在を確認されているとしても、まだ肝心の玄冬は見つかっていない。世界の死まで余裕があり、玄冬の出現には至っていないとも考えられるが、救世の手段が揃っていない今、少しでも常冬の到来が遅くなるのは喜ばしいことだった。
 そして、その考えは宮廷に出仕して彼らの話を偶然聞いてしまったオシュトルも同じである。
 花白としての役目を負っているオシュトルに玄冬の討伐を厭う気持ちはない。自分が(それ個人としては)何の悪さもしていない玄冬を討つことで世界に再び春が訪れるなら、迷わず刃を揮うと誓っている。しかし玄冬がこの世に現出するほど世界が血を流し過ぎた時点で冬の長さはかなりのものになり、寒さで作物が育たず、雪で移動もままならず、職にあぶれ、食う物に困る民は少なからずいるのだ。ならば冬など必要以上に長くならない方がいい。
(そもそも争いなど起こらぬ方がよいのであろうが……)
 オシュトルは廊下を歩きながら胸中で独り言つ。
 だがそれは無理な話だった。ヒトは争いを止められない。歴史がそれを証明している。どれだけ街を発展させても、どれだけ法を整備しても、ヒトとヒトとの間には差が生まれ、その差は容易く争いの火種となる。全てのヒトが均一化されることがないのと同じように平等などどこにもなく、いつも誰かが誰かを羨んで、妬んで、そして争い、血は流れ、この世界は死んでいく。
(ままならぬものだな)
 ふう、と小さく息を吐き出し、オシュトルは仮面の下で目を伏せた。


 ほぼ生活圏が邸の中だけであるハクがそこでの生活に慣れた頃、オシュトルはようやく己と邸で働く家人以外のヒトと彼を引き合わせた。
「妹のネコネだ。右近衛大将の妹であると知られれば何かとよからぬことを考える者もいるのでな、世間ではウコンの妹としている」
「ネコネと申しますです」
 邸の主人の執務室にて、オシュトルの机のそばに座った幼い少女がぺこりと頭を下げる。机を挟んでオシュトルの正面に腰を下ろしていたハクが琥珀色の双眸を細めて「自分はハクだ」と返した。
 ネコネには事前にオシュトルからハクについて教えていたため、少女は話に聞いていた人物と現在進行形で目にしている実物を比べて慎重に相手を探ろうとしているようだった。
 齢に似合わぬ聡明さを持つ少女はそれ故に同年代の友人を作ることも難しく、またオシュトルが――少なくとも表向きは――文武両道清廉潔白公明正大を絵に描いたような人物だったため、親子ほども齢の離れた兄に強い憧れを持つと共にいささか依存傾向にもある。そんな兄におかしな虫を寄せ付けてはたまらない、とネコネはハクを見定めるのに必死だ。あまりにも眼力が強すぎてハクが少々戸惑っている。
 オシュトルは妹の様子にも、ちらちらとこちらに視線を向けては助けを求めるハクの様子にも気付いた上でのんびりと茶を啜った。
 顔を合わせたばかりなのでこんな調子だが、すぐにネコネもハクに懐くはずだ。ハクにはヒトを惹きつける魅力がある。それは共に帝都までの旅をした男衆やここの家人の態度を見ていれば疑いようのない事実であり、オシュトル自身も己を振り返れば改めて実感できることだった。ましてやネコネはオシュトルの実妹である。
「あのな、オシュトル。お前の大事な妹を紹介してくれたのは、なんと言うかこちらを信頼してくれている証なのかと思えて嬉しいんだが、それでこれから何をすればいいんだ? 遊び相手……って訳でもないだろう。こんな聡明そうなお嬢さん相手に」
 妹とハクの関係について全く憂うところのないオシュトルに、そんな考えなど知る由もないハクがとうとう声に出して助けを求めた。
「ああ、それなのだが……ネコネ、」ハクではなく横にいるネコネに視線を移してオシュトルが告げる。「お前の頭の良さを見込んで頼みがある。ハク殿に文字を教えてほしいのだ」
「文字……なのですか?」
 ネコネがぱちくりと赤みの強い両目を瞬かせた。
「うむ。ハク殿はこうして普通に言葉を交わせているが、どうにも己の過去と共に文字まで忘れてしまっているらしくてな。手間をかけさせるが、一から教えてやってほしい」
 これが今回、オシュトルがハクとネコネを引き合わせた理由だ。
 本当なら文字もオシュトル自ら教えてやりたいのだが、元々忙しい右近衛大将としての仕事がこのところ更に量を増してきていた。帝の方針で、各地で起こる争いを最小限の犠牲で止めるよう八柱将をはじめとする将らが動き出しており、彼らと同じように近衛大将にも様々な任が与えられるようになったのだ。中心として動いているのはなんと大宮司だが、当然のことながら彼女一人では手が回らないが故の対策である。
 またそれとは別に、オシュトルとウコンの関係性を嗅ぎ回る輩も出始めて、その対処に追われていた。つまるところ余裕がない。ハクに文字を教えてやりたいが、その勉強時間を設けるくらいなら隣に座って酒を酌み交わし、ゆるりとした時間を過ごしたいのだ。
 反して、ハクには仕事もなく、またあまり不用意に邸の外へ出ないよう言い付けているので、彼は大層暇をしている。本人はのんびりごろごろできて快適だと言うが、どうせならその時間を有効活用してもらいたい。
 オシュトルの頼みを聞いてネコネは再度ハクを見遣る。同じくその台詞を聞いて呆けていたハクもまたネコネを見た。己よりずっと年下の少女に教えを乞うことになると聞いて不機嫌になるかと思いきや、ハクは表情を正し、オシュトルに向けていた躰をきちんと斜め向かいのネコネの方に向ける。
 そして、
「手間を取らせて悪いが、よろしく頼む」
 躊躇いもなく頭を下げた。
 邸内にいる時はそうでもないが、帝都に来るまでの旅路やここに住むようになってから時折ウコンに連れられて外に出た際、看板などの文字が読めず、彼なりに色々と思うところがあったのかもしれない。
「ハク殿、紹介した某が言うのもなんだが、構わぬのか?」
「ん? まぁそうだな。何せオシュトルが紹介してくれた師だろう? だったら彼女の実力は疑うべくもない」
 ヒトを見た目や年齢で安直に判断せず、お前を信じていると臆面もなく告げるハクに、オシュトルは腹の底から湧き上がってくるものを感じる。隣ではネコネもまたハクの言葉に驚きを隠せず、僅かに頬を紅潮させていた。
「そうか。そう言ってもらえると嬉しい。ネコネは年齢さえ足りれば哲学士になれるほどの実力を持つ。勉学を教える師として不足はないであろう。……こんな某を兄馬鹿と笑うか?」
「いいや、自慢の妹さんじゃないか」
 ふわりと笑うハク。オシュトルの胸が高鳴った。
 心臓を押さえそうになる手を、腿の上で拳を握ることでぐっと堪える。そしてハクに文字を教えるための時間が取れない現状をほんの少し恨めしく思った。


「兄さま、ハクさんは一体何者なのです」
「ん? どうしたネコネ、そのような顔をして……」
 己の執務室を訪ねた妹に席を勧めながら、オシュトルは筆を置いた。「オシュトル様」ではなく「兄さま」呼びなのは、近くに他人の気配がないからなのが半分、呼び方よりも気がかりなことがあるからなのが半分、といったところか。
「ハク殿が何かしたのか?」
「これをご覧くださいです」
 そう言って、やや興奮気味のネコネは手に持っていた紙の束をオシュトルに差し出す。受け取ったそれをオシュトルが検分したところ、流麗とは言い難いがとても読みやすい文字で書かれた文章だった。
 最初は何かの本の写しかと思ったのだが、読み進めていくうちに違うと気付く。この國の法について記された書物の内容を踏まえ、長所や短所を挙げて独自に考察し、改善策まで出している。しかもこの國の要であるオシュトルにとっても目からウロコが出るほど優れた点がいくつも見受けられた。
 紙面から顔を上げ、オシュトルはネコネに問う。
「これは一体誰が」
「ハクさんです」
 兄の問いは予想できていたと言わんばかりにさらりと答えるネコネ。一瞬聞き間違いかと思いつつも、オシュトルは次の疑問を口にする。
「……ネコネ。ハク殿がお前に教えを乞うてから幾日程だろうか」
「十日です」
「十日か」
 今度も即答だった。淀みなど全くない。ネコネも彼女の中で幾度となく自問自答した末の結果なのだろう。
 まだ十日。と口の中だけで呟いて、オシュトルはハクの手習いの成果を見遣った。これが、文字を知らなかった者の十日後の姿。
「私、兄さまがお仕事をされている間はずっとハクさんのそばについて、ハクさんがへとへとになるまでみっちりしごいたです。でも、まだ十日です」
「そう、か……」
「実はハクさんがあまりにも早く文字を覚えてしまったようなので、つい」
 ネコネが視線を逸らして頬を掻く。
 最初はちょっとした意地悪のつもりで出した難しめの課題。それをさらりとこなされて、逆に面白くなってしまい、どんどん難易度を上げていくうちにとんでもないところまで来てしまったのだそうだ。年齢のせいで殿試に受かった今も哲学徒だが実際には哲学士の実力があるネコネも、この分野はそろそろ自分だけでハクに教えられることが無くなってきたと、悔しそうに告げる。
 妹がどれほどの才女か知っているオシュトルは彼女にそこまで言わせるハクの聡明さに舌を巻いた。
 記憶を失くして今はあの様子だが、もしかしたらハクはとても高貴な身の上だったのかもしれない。生まれた時から恵まれた環境で知識を吸収し、考え方を磨き、ネコネが感心するほどの学を修め。そうして、一度それを失ってしまったものの、再び学び直すことで急速に取り戻している。と、したら。
(だとしても、ハク殿を『そこ』に帰す気は毛頭無い)
 清廉潔白が聞いて呆れる、と自身の感情の動きにオシュトルは内心苦笑した。
 一方、兄の自分本位な思考になど気付くことなく、ネコネがおずおずと口を開く。
「あの……兄さま。これは単なる可能性の話なのですが」
「どうした」
 言ってみなさい、と促すオシュトル。
 ネコネはこくりと唾を飲み込んで兄に告げた。
「これなら殿試に挑んでも決して無駄ではないかもなのです」
「殿試か」
 オシュトルは仮面の奥ですっと目を細める。
「もちろん今のままじゃまだ駄目ですけど。もっともっと勉強すれば、ハクさんも学士になって、今のように兄さまに頼り切ってダラダラ日々を過ごすようなことは無くなるはずなのです」
 いくらオシュトル本人が許しているとはいえ、ハクがいつまでも無職のままこの邸でダラダラ過ごしている状態は良くないとネコネは言う。そしてハクは、力仕事はてんで駄目だが、頭が非常に良いことが判明している。ならばいっそ國の試験を受けさせ、そちらの方面で職を見つけてはどうか、と。自分で金を稼げるようになれば、こうして兄に頼らずとも、自分で食い扶持を稼ぎ、家を借りて自活できるようになるはずだ。
 オシュトルは黙ってそれを聞いていた。そして話し終えた彼女へ確かにそうだと首肯する。ネコネの表情がぱっと華やいだ。
 彼女の提案は至極真っ当な考え方である。
 働けるのに働きもせず、誰かにぶら下がって怠惰に過ごすのは良くない。伸ばせる才能があるなら伸ばした方がいい。才能を活かせる場があるなら、そこで能力を発揮して、より良い生活を送るべきだ。
 ――確かに、その通り。
(しかしそれではハク殿が某の手元から去ってしまうことになる)
 それは、駄目だ。何を置いても許可できない。
 オシュトルは己とネコネの中にある差をはっきりと感じ取っていた。何だかんだ言いつつ彼女もそれなりにハクを好意的な目で見ているようだが、その強さはオシュトルと比べてあまりにも弱い。否、オシュトルからハクに向かう感情が強すぎるのだ。この差はハクとどの程度付き合ってきたかに由来しているのだろうか。それとも他に何か原因があるのか。
 性別、年齢、経験、それから――。

(『花白』か、否か)

 己と妹の違いを挙げ連ねてオシュトルは深く思考に沈んでいく。
 しかし沈み切る前にネコネの声がオシュトルの意識を引っ張り上げた。
「兄さま? あの、いかがでしょうか……」
 ハクに本格的な殿試のための勉学を積ませるか否か。そう尋ねる妹にオシュトルは数秒の間を置き、ぽつりと言った。
「あのハク殿が素直に学士を目指すと思うか」
「………………いえ」
 思い切り視線を逸らしたネコネが渋面を浮かべてぼそりと答える。この十日の付き合いでハクがどれだけ楽をしたがる性格なのか彼女も十二分に理解しているのだろう。
 オシュトルはゆるりと口元に弧を描き、改めて妹に教師役の労をねぎらうと、殿試の件は自分に預けるよう告げる。折を見てハクに提案しておこう、とも。ネコネはそれで一応の納得を見せ、部屋を辞した。
 一人残されたオシュトルは、そんじょそこらの学士などでは足元にも及ばない考えを書き記した紙を手に、ふっと吐息を漏らして微笑する。
「帰る所があっても帰さぬ。学士になって働かずとも、某がずっと養えばよいだけだ」
 傍らにあった灯り用のロウソクに紙の束を翳し、火を燃え移らせた。内容はすでに頭の中にある。つまりこれは証拠隠滅だ。ハクがここまで実力を持った人物なのだと、不用意に周囲に知らせぬための。万が一にもハクが誰かに盗られてしまわないための予防策。
 こんな気持ちはおかしいのかもしれない。ネコネの考え方こそ真っ当で正しいものなのかもしれない。
 けれどハクを求める感情はあまりにも強く。
 紙の束が燃え切った後、オシュトルは煤で黒く汚れた指先を擦り合わせ、うっそりと微笑んだ。
「どうかずっと某のそばにいてくれ、ハク殿」

* * *

「オシュトルぅありがとなー。お前がネコネに言ってくれたおかげで、ようやくあの勉強地獄から抜け出せた……」
 御猪口を片手に、ハクが涙ながらに感謝する。その傍らには御徳利が二本と酒菜が少々。
 晩酌の準備万端で濡れ縁に座る彼の隣にオシュトルも腰かけ、小さく苦笑を浮かべた。
「元はと言えば某がネコネに頼んだことだったのだが」
「自分が文字を読めるようにってことだろ? それに関してはお前にもネコネにも感謝している。だがな……途中から絶対自分には不要なことまで学ばされていた気がするぞ」
「まぁ……そうであるな」
 とてもじゃないがあれは一般知識・教養に収まるものではなかった。ハクも薄々どころかほぼ確信と言ってもいい程度に理解していただろう。しかしネコネの勢いに押されて流されてしまったのだ。流されただけであそこまで出来てしまうのは、それはそれで恐ろしいものがあるのだが。
「はぁ〜〜。これでようやく自由の身だ。ま、折角文字も覚えたんだし、明日は久々に町へ出てみようかね。構わんだろう?」
 熱燗でちびちびと唇を湿らせながらハクは呟く。次いで琥珀の双眸が隣に座るオシュトルを捉え、「そう言えば」と口を開いた。
「最近、ウコンは出てこねぇんだな。忙しいのか?」
「いかにも。帝が各地での争いを鎮圧するよう勅命を出されたのだ。それ故に八柱将を含む多くの将が各地に赴いている。今はその彼らの仕事が某に回ってきている状態だが、いずれ某自身も地方に赴くやもしれぬ」
 その時はハクも一緒に連れて行きたい。とはまだ言い出せず、オシュトルは「それと」と、ハクがオシュトル出陣時にどうするか口にする前に、もう一つの多忙の理由を告げた。
「ウコンと某の関係を探ろうとしている者がいる。その対処に少々……な。おかげでウコンとして市中を回る時間を確保するのは勿論のこと、ウコンに成ること自体が難しくなっているのだ」
「それはまた面倒な……」
 民から慕われる清廉潔白な右近衛大将と、必要ならば黒いことにも手を染める義侠の男。どちらも必要な力だが、それらが同一人物だと公にされて良いことは一つもない。十中八九オシュトルの失脚を狙う輩によるものだろうが、頭の痛い問題だ。
「お前にそっくりな影武者でもいれば、そいつと一緒に姿を見せて、ウコンとオシュトルは別人ですよーなんてアピールできるんだろうが」
「ハク殿、『あぴーる』とは」
「あ? ああ、えっとだな……主張、とか? 示す、とか。そういう感じだ」
「ふむ。確かに某が二人いればこの問題は容易いな」
 しかしながらオシュトルもしくはウコンに化けられる知り合いに心当たりがない。また、ただ単に姿を似せるだけなら比較的容易いが、その者が信頼の置ける人物でなければどちらの姿であっても任せられないだろう。
 と、そこまで考えて、オシュトルは隣に座るハクの姿を改めて眺めた。雪山で拾ってからこちら、ハクにはずっとオシュトルの着物を着せている。新しく仕立ててもよいのだが、そんな金があるなら酒か甘味に使ってくれとハク本人に言われたのだ。
 オシュトルとハクの背丈はほぼ同じ。体格は違うものの、ハクが中に着る物を工夫すれば難なくオシュトルの着物を着ることができる。またウコンの時はさておき、オシュトルの衣装はそれなりに着痩せして見える。髪の色もよく似通っており、色味が全く異なる瞳は仮面をつけてしまえば遠目には見分けが付けられない。
 おもむろにハクが髪紐を解いて結い直した。オシュトルのように丁寧に整え、「どうだ?」と尋ねる。オシュトルは無言で頷き、己の顔の上半分を覆う仮面を外した。ハクがそれを受け取り、自身の顔に装着する。
「…………」
「…………」
 しばし無言で見つめ合い、仮面をしていないオシュトルが荒っぽく髪を乱した。蓬髪、とまではいかないが、オシュトルらしからぬ様子である。
「……ウコン」
「なんでぃオシュトルの旦那」
 仮面をつけたハクがオシュトルを呼び、オシュトルがウコンとして答えた。互いに、出し方さえ気を付ければ声まで似ているのだと知る。
「なぁオシュトル。これっていけるか?」
「うむ。もしかすると……」
 ひょっとして、と二人が思ったその時、廊下側から家人が声をかけてきた。次の御徳利を持ってきたとの知らせにハクが立ち上がる。徳利と追加の酒菜が乗った盆を受け取るため家人と対面したハクだったが、
「どうぞ、オシュトル様」
「……うむ。すまない」
「他に必要なものはございますか」
「いや、今はよい」
「かしこまりました。失礼いたします」
 家人が下がる。短いやり取りを彼らに背を向けたまま聞いていたオシュトルは、盆を持って戻って来たハクと顔を見合わせた。
 ハクが仮面を外して確信の表情を晒す。ちなみに、酒を持ってきたあの家人はオシュトルに昔から仕えている者の一人だった。
 これは、おそらく。
「いけるな」
「協力、頼めるか。ハク殿」
「おう。まかせろ」


 しばらく後、右近衛大将オシュトルの市中巡回中にウコンの姿も確認されるということが何度か起こった。どちらもその振る舞いに違和感はなく、『本物』としか思えないものだ。
 オシュトルとウコンが同一人物ではないかと探っていた者は鳴りを潜め、オシュトルの周りはようやく静けさを取り戻した。
「流石だな、ハク殿」
「まさかネコネに叩き込まれた知識が役立つとは思っていなかった……」
 オシュトル邸に戻ったハクが心底安堵したように息を吐く。右近衛大将としての衣装を脱いで普段着に着替えるハクを横目に、ウコンはオシュトルの衣装をまとい始める。
 事が起こったのは『オシュトル』が本日の巡回に出発する少し前。ハクはとある官吏からオシュトルとしての発言を求められたのだ。いきなりのことに内心では目を自黒させていたが、咄嗟に答えを返すことができたのは僥倖だったとハクは続ける。
 官吏からの質問はなんてことのない確認だった。しかしながら、この國の法にきちんと理解がなければ即答できないもの。タイミングといい、改めて考えるとあの官吏こそウコンとオシュトルを疑っている誰かの手の者だったのだろう。幸いにもハクがその官吏の顔と名前を憶えていたため、ウコンから戻ったオシュトルは「ほう」と仮面の下でほくそ笑んだ。
「おーおー、悪い顔だ。清廉潔白はどこにいった?」
 その顔を見てハクが揶揄する。オシュトルはふっと吐息を零し、ハクに蘇芳の双眸を向けた。
「なに。悪党退治もウコンばかりの仕事ではあらぬ故」
「ははっ確かにな。じゃあ、あとは天下の右近衛大将様の出番ってことで。自分はここでゆっくりさせてもらうさ」
 着替え終わったハクがごろりと寝転がった。その安心しきった仕草を見下ろし、オシュトルは仮面の奥で目を細める。
 その密やかな笑みは、いずれの理由によるものか――。







2015.12.23 pixivにて初出