ハクと名付けた青年にはヒトに好かれる才能でもあるのか、目的地たる集落に先行して到着していた男達と顔を合わせると瞬く間に意気投合してしまった。
雪山で遭難しかかっていたところを助け、なおかつ記憶喪失であることをウコンが説明した時には男衆も憐れに思う気持ちと不審がる気配が半々といった具合だったが、夕食時になり酒が入ると、もうそんなことは関係ないとばかりにドンチャン騒ぎ。記憶がない? それがどうした、酒が飲めれば充分だ! と、現在進行形で楽しくやっている。 ウコンは仲間達に囲まれながら盃を傾けて楽しげにしているハクを見やり、ふっと吐息だけで笑った。それはウコンらしからぬ微笑だったが、ウコンの事情を知らぬ者は全員ハクの周りで騒いでいるため気付かない。そしてウコンの事情を知っている側の一人が、その傍らでそっと口を開いた。 「ハク殿……と仰いましたか。これからいかがされるおつもりで?」 半ば予想はついているだろうに、配下であるその者は意地悪く問いかける。ウコンはハクに視線を向けたまま「そうさなぁ」と口の端を持ち上げた。 「手放すつもりはねぇ」 「ではこのまま帝都へ?」 「ああ」くい、と盃を呷って一息つく。「邸に連れて帰る」 「よろしいのですか? ……オシュトル様」 極限まで声を潜めて口にされた呼びかけにウコンはひっそりと笑う。己が言った『邸』とは無論オシュトル邸のこと。つまり配下の者はこう言いたいのだ。貴方様の仮の姿である『ウコン』と本来の姿である『オシュトル』が同一人物であるという秘密をあの正体不明の青年に教えてしまって良いのか、と。 心配するのはもっともである。 無官から実力だけで近衛大将にまで成り上がったオシュトルは人々の尊敬を集めると同時に、その地位を妬み失脚を狙う輩も多い。そんな輩は卑しい獣の如き嗅覚でほんの小さな失策も嗅ぎ当て、オシュトルを今の地位から引き摺り下ろそうとする。『ウコン』などは彼らが飛び付きそうな秘密の最たる例であり、厳重に秘匿されなければならないため、真実を知る者は本当に一握りしかいない。だと言うのに、そんな『ウコン』と『オシュトル』の秘密を出会ったばかりの者に明かしてしまおうとしているのだ。 しかしウコンは心配する配下の者を一瞥し、再度視線をハクに戻してからゆるりと笑む。 「オメェはアンちゃんを心底疑わしいと思えるか?」 「それは……」 普通なら疑ってかかるべきだ。どこの誰とも知れぬのに信用などできるはずもない。しかしウコンの視線につられてハクを見遣った配下は、男衆の中でわいわいと盃を傾ける青年の姿にそっとかぶりを振って目を伏せた。 「どうしてもあの方に負の感情を抱くことができませぬ」 「だろうなぁ、俺もだ。アンちゃんを疑うなんざできねぇ。だったらその勘を信じてみてぇと思う」 無意識に。無条件に。ハクを手元に置きたい。彼が慕わしい。それこそ、ハクに裏切られるならばそれでもいいと考えてしまえるくらいに。 己らしくないことだと改めて思ったが、これが事実だ。いくら理屈や常識を並べ立てても、ウコンは、オシュトルは、出会ったばかりのあの青年をもう手放せなくなってしまっている。 とっくに決定済みだったウコンの意志に配下の者はそれ以上進言することを避け、「御意に」と告げると後ろへ下がった。同じくウコンの秘密を知る仲間達にこの決定を伝えに行くのだろう。 離れていく気配を背中で感じ取りつつ手酌で酒を注ぐウコン。だが少しして、その手元に影が落ちる。 「よぅウコン、飲んでるか?」 「あったりめぇよ。それよりアンちゃんはいいのか? あいつらほっぽって」 先程まで男衆に囲まれていたはずのハクが盃と陶器の酒瓶を持って立っていた。ウコンが隣を勧めれば素直にそこへ腰を下ろす。 「いーのいーの。そろそろ遭難中の自分を拾ってくれた恩人様に酌の一つでもせにゃならんと思っていたからな」 「へぇ。そりゃ嬉しいねぇ」 ウコンの傍らから配下の者が離れたのを見計らってわざわざ来てくれたらしい。本心からそれを歓迎しつつ、自分の盃を干す。空になったそこにハクが酒を注ぎ、そちらも一息に干したウコンは「ほら、返杯だ」とハクを促した。 「お。すまんな」 ウコンの酒を受けるハクは本当に嬉しそうである。この地域の酒は充分彼のお気に召したらしい。 盃の縁に口をつける青年を眺めてウコンは蘇芳の双眸を細めた。無防備に己の隣で酒を飲むこの姿が実にいい。酒や酒菜(さかな)が無くともこれだけで満たされる気がする。 配下の者にも言った通り、ウコンは「どうしてこうも己はハクに対して好意的なのか」という答えの見つからない問いを考えるのは止めて自身の勘に従おうと決めた。もしかしたら、これが運命というやつなのかもしれない。柄にもなくそう思いながらウコンは干されたハクの盃にまた酒を注ぐ。そしてこくりと酒を飲むのに合わせ小さく動く青年の白い喉仏をそっと眺めた。 ウコンを無条件の幸福で包みながらこうして夜は更けていく。 翌日は特に何も起こることなく過ぎていった。 ここで落ち合う予定の一団が到着するまで少し間があったため、手の空いている者は村の住民から軽い仕事を引き受け、それ以外は各自得物の手入れや傭兵団に興味を持って近付いてきた子供達の相手をする。もう何年か前までは近くの山にギギリという害虫が出たためその討伐が必要になることもあったのだが、ここ数年は随分と気温が下がってきており、暖かい土地を好むギギリが人里近くに姿を見せることもない。 のんびりと過ごす中でハクが予想以上に貧弱であること、けれども異様と言えるほど数字に強いこと、その一方で文字が全く読めないことが明らかになったのだが、彼を帝都にある己の邸で囲うというウコンの予定が変わることはなかった。追々文字を教えようかとは思ったが、それでどこかの店の番頭として働けるよう口利きしたり、殿試を受けさせたりするつもりはない。働かずとも己がハクの衣食住を全て保証すれば充分だろうという考え故である。 そして更に翌日、お待ちかねの一団が村に到着した。 ウコン達が運搬と護衛をすることになるのは、クジュウリ皇の末姫ルルティエと彼女が父親の名代として帝都に届ける貢物の品々。それから追加で、クジュウリ皇より道中に出没するという盗賊の退治も依頼されている。 待っていたルルティエ達が到着したことでウコンらは準備を整え、早速帝都に向けて出発した。 ルルティエが可愛がっている巨鳥ことホロロン鳥のココポが非常にやんちゃ≠ネ性格だったためその対応に手間取るかと思いきや、幸か不幸かココポがハクに興味――というより盛大な好意と表現した方が適切かもしれない――を抱き他者に構わなくなったおかげで、驚くほどあっさりと旅の行程が消化されていく。 しかし予期した通りに盗賊が現れ――。 「ハクさま!」 右近衛大将の姿で盗賊の首魁モズヌを捕縛したオシュトルの耳にルルティエの心配そうな声が届く。 街道で一行を襲ってきたモズヌ達にわざと捕まり、奪われた荷の中に潜んでいたこちら側の仲間達が盗賊の根城で大暴れする最中、モズヌと一部の部下だけが抜け道を使って根城から逃走した。その抜け道の先に繋がっていたのが、荒事から遠ざけるため待機させていたハク、ルルティエ、ココポ、それから呪法を扱えるマロロの三人と一匹が休んでいた場所。 ココポの大活躍で見事にモズヌ達を無力化できたのだが、ルルティエの普通ではない焦り様にオシュトルはまさかと息を呑んだ。 心配そうに駆け寄られたハクは平然とした態度で立っている。その姿を見たからこそオシュトルは大事ないのだと安堵していたのだが……。 「ハクさま、お怪我は」 「ん? いや、それが傷一つ無くてな。自分も斬られたかと思ったんだが、どうやら服だけだったらしい」 「そうですか……。よかった……」 ルルティエが胸に手を当ててほっと一息つく。 彼らの会話から察するに、モズヌ達と戦闘になってハクが攻撃を受けてしまったらしい。いくら無傷だったとはいえ、モズヌの逃走を考慮せず彼を危険に晒した事実をオシュトルは改めて悔やんだ。と同時に、ルルティエと同じくハクの無事に胸を撫で下ろす。そうして「これウコンからの借り物だぞ……大丈夫か」と服の心配をしているハクに、心の中で「アンちゃんの服ならいくらでも見繕ってやっから心配すんな」と語りかけた。 ともあれ、右近衛大将オシュトルとして賊を捕え、一旦ハク達の前から去る。 帝都まで連行する別の部隊に引き渡しを行った後は素早く着替えて『ウコン』に戻り、服のことを謝罪するハクにガハハと笑って「構わねぇよ」と返した。ただし見せてもらった服は躰に傷がついていないのが信じられないほどぱっくりと切り裂かれており、ルルティエの焦り様にも納得する。しかし何度確認してもハクの白い肌には傷一つない。 (まぁアンちゃんが怪我するよりゃァずっとマシだが……) 首を捻るウコン。 最終目的地たる帝都はもうすぐそこにまで迫っていた。 「ほう……オシュトルが最初に見つけたか。流石『花白』と言うべきなのじゃろうな」 薄暗い空間に青白い灯がいくつも揺れる中。 双子の少女達――『鎖の巫』から新たな報告を受け、この國で最も高い地位にあり現人神とさえ讃えられる男はほんの少し口の端を持ち上げた。それは笑みと称されるべき表情だったが、いささか皮肉を含み過ぎている。 車椅子の肘かけに頬杖を突いて、男――ヤマトの帝は琥珀色の瞳を瞼の奥に隠し、ふうと息を吐き出す。 「だとすれば迎えは不要か……あれなら本能的に彼奴を傍に置きたがるだろう。彼奴が帝都に着いた後、機を見てこちらに招く」 「畏まりました」 「仰せのままに、聖上」 双子の少女がぺこりと頭を下げる。しかし彼女らの母であり、この國で最も帝のそばに侍ることが多い女性、大宮司のホノカは「よろしいのですか?」と小声で問いかけた。 「彼の御方は我が君にとって何よりも大切な存在であると存じております。であれば、やはり一日でも一刻でも長く我が君の隣にある方が……」 出過ぎた真似だと認識しながらも、自身の主君が大切だからこそホノカはそう進言する。だが帝はゆるりとかぶりを振って目を伏せたまま微笑んだ。 「生きているだけで良いのじゃ。儂が作ったこの國で僅かな時間であっても健やかに過ごせれば……。この國にいることは最早儂の隣にいることと同義と思うておる。それに彼奴には記憶がないからのう。目覚めて早々聖廟に連れて来られても混乱するだけじゃろうて」 「我が君……」 「そのような顔をするでない、ホノカ。儂のこの考えは経験則によるものじゃ。これが最も彼奴にとって心労なく過ごせる方法なのじゃよ」 帝はそう言ってうっすらと両目を開いた。琥珀色の双眸はここではないどこかへと向けられ、相手への深い愛情と穏やかさを湛えながらも、やがて、じわりと異なる色を乗せる。その色は先程「流石『花白』」と告げた時のものに良く似ていた。 「ああ、しかしなんと……」 帝は瞳の中に特定の感情を閉じ込めるかのように再びゆるゆると瞼を下ろす。 「醜悪でエゴイズムに満ちた世界か」 エゴイズム。その言葉をホノカも双子も知らない。しかし帝の唇が僅かに歪むのを見て、彼女らは悲しげに目を伏せた。 「帝都に着いたら自分はお前んちに泊めてもらえるって話だったよな」 「ああ、言ったな」 「でも連れて来られたここは、自分の記憶が確かならオシュトルって奴の邸のはずだ」 「よく覚えてんなぁアンちゃん」 「暗くて見間違えたって訳じゃあないのかよ……こりゃ酔いも吹っ飛ぶぞ」 夜も更けた頃、立派な門の前でハクがぼそりと呟いた。そのまま隣に立つウコンに胡乱な目を向ける。「で、どういうことだ?」と尋ねる青年にウコンはニヤリと笑って歩を進めた。 「ちょ、おい! ウコン!」 「まぁいいからついて来いって。中で全部説明してやっからよ」 一礼する門番に片手を上げて労をねぎらい、慌てるハクを伴って敷地内へ。 両目を細めてひっそりと笑うウコンを夜空の月だけが知っていた。 クジュウリにある小さな集落から出発し、盗賊退治を経て帝都に到着した一行は、帝への貢物を右近衛大将オシュトルの邸に預けてすぐ、まずは慰労のための宴だと旅籠屋『白楼閣』へ向かった。 白楼閣は一國の姫であるルルティエが滞在しても何らおかしくない格式高い宿である。そこで供される料理や酒は当然のことながら一級品で、ウコンに連れられ宴に参加することとなったハクは盛大に目を輝かせていた。 その宴も終わり、ウコンがハクを連れて来たのは昼間に訪ねたオシュトルの邸。旅の途中、ウコンはハクに帝都での滞在先を提供すると約束していたのである。ウコンが宿の件を提案した際ハクは一も二もなく頷いており、宴の後にその約束の話を持ち出せば、何も疑うことなくついてきた。 そして現在、門の前でひと悶着あったものの、ハクはオシュトル邸の奥、家の主たるオシュトルの私室にて落ち着きなく座布団の上に腰を下ろしている。彼に少し部屋で待つよう言って隣室に引っ込んでいたウコン――否、オシュトルは、ふすまを開けて「待たせてすまない」と声をかけた。 「えっ、は……? あんたは、確か、オシュトル……?」 「いかにも。某はこの邸の主にして帝より右近衛大将の位を賜っているオシュトルと申す者。ハク殿、此度は斯様(かよう)な場所に突然連れて来られ、大層驚かれたであろう」 「え、あ、まぁ……そうだな。ウコンの奴、いきなりだったし。しかも自分を置いて姿を消したと思ったら、代わりにあんたが出てきた。もう何が何やら」 困惑気味に頬を掻くハク。オシュトルはふっと吐息だけで微笑み、己の顔の上半分を覆う仮面に手を伸ばした。 「つまり、こういうこったぜぃ、アンちゃん」 「なっ、え、はあ!? その言い方。おま、まさか」 仮面を外したオシュトルを前に、思わず立ち上がったハクがこちらを指差して目を自黒させる。オシュトルは片手に仮面を持ったままやれやれと大仰な仕草で肩を竦めた。 「ったくツレねぇなァ。十日も一緒に旅をしてきたってぇ仲なのに、ちょいと仮面で顔を隠して髪を梳いただけで俺だと判らなくなっちまうなんてよぅ」 「ウコン! お、お前なぁ! そんなの判る訳ないだろ! 振る舞い方が違いすぎる!」 「だっはは! そうかいそうかい。まぁ実際にはそう簡単に見破られちゃ困るんだがな。いやぁスマン。しかしここに連れて来た理由はもう判ってくれたろ?」 「む……そうだな」 再び腰を下ろしたハクに合わせてオシュトルもその手前に座る。ウコンとしてなら胡坐でもかいたところだが、今は本来の姿であるオシュトルなので正座だ。ぴんと背筋を伸ばし、腿の上で軽く拳を握る。 「改めて、某がオシュトル。ウコンは右近衛大将として動くにはいささか不都合がある際に使う仮の姿だ」 「不都合がある際……?」 「うむ」オシュトルは頷いた。「右近衛大将は帝より賜った栄誉ある地位だが、それ故に某が何か行動を起こす際にはあまりにも大仰なものとなってしまう。しかし國に、帝に、そして民のためにこの身を捧げると誓った者として、やはり小さきことも捨て置く訳にはいかぬのだ。ウコンならばその小さきことにも目が行き届く」 「なるほど」 「無論、細かきところまで目が届くだけでなく、公の立場ではできぬことをする役割もあるがな」 「……なる、ほど」 若干頬を引きつらせながらハクが繰り返した。 普段のんびりとしているくせに意外と敏いところのあるハクは、こちらが言いたいことを正確に読み取ってくれたらしい。そう、ウコンは右近衛大将としてではなく一個人として市井に出て民の生活を見守ると共に、犯罪スレスレもしくは犯罪そのものである行為――無論、全ては國と帝と民のためだが――を行うこともある。 「やはりそういうことは好かぬか」 平静を装いつつもそう尋ねるオシュトルは大きな不安に襲われていた。ここでハクに嫌悪の感情を向けられたら……。そう考えるだけで心臓が止まりそうになる。 「そりゃあ犯罪行為を好きだと言うつもりはないが」 オシュトルの不安を余所に、ハクは軽い口調でぽつりと言った。 「それが必要なら仕方ないんじゃないか? お前がウコンとして危ないことまでやってくれるおかげで、幸せに笑って暮らせる奴がいるんだろう?」 「ハク殿……」 目を見開く。案じていたものとは別の意味で心臓が止まるかと思った。 「かたじけない」 「お、おい! そんな頭まで下げられることを言った覚えはないぞ!?」 オシュトルの頭は自然と下がっていた。だが己がどれほどのことを言ったのか自覚がないらしいハクは大慌てで腰を浮かせる。 無論、オシュトルとてハクが告げた通りのことを思っているからこそウコンとして後ろ暗いことにも手を染めている。しかしやはり他人――おまけに自分にとっては上でも下でも身内でもない者――からその行いを認められたことは、ただひたすらに嬉しく、胸にくるものがあった。 「ハク殿、どうか今後とも某との付き合いを続けてもらえるだろうか」 「当たり前だ。と言うか自分にはお前しか頼れる奴がいないんだからな? いっそ自分の方からお前にどうか捨ててくれるなと頼まにゃならん立場だぞ」 冗談めかして告げるハクにオシュトルは口元をほころばせる。 「ふっ……それはない。某が雪山で拾った其方の命、容易く捨てるなど有り得ぬ」 「本当だな?」 「本当だ」 何なら誓約書でも書こうかと言えば、ハクは苦笑して「いらねぇよ」と返す。 「読めない文字で書かれた紙より、それなら酒の一杯でもあった方がいい」 「なんだそれは」 ハクらしいと思いつつも笑いが漏れ出る。オシュトルはくくくと肩を震わせた後、座布団から腰を上げた。 「オシュトル?」 「宴で飲んでもまだ飲み足らぬ其方にとっておきの酒を供しよう」 「ひゅう! オシュトル様すてきー!」 「まったく、其方という御仁は……」 ウコンがオシュトルだと判っても、またウコンという役割が暗いことに手を染めていると聞かされても、全く態度を変えないハクに、オシュトルは胸を熱くする。それを悟られないよう苦笑で覆い隠して、オシュトルは家人(けにん)に酒の用意を頼むため廊下へ繋がるふすまへと手を伸ばした。 「ん。こりゃうまい」 琥珀色が酒精によってとろりと蕩ける。御猪口から唇を離したハクはその中の無色透明の液体を眺めて頬を緩ませた。満足げなハクを前にしつつオシュトルも酒を口に含めば、記憶にあるよりもっと甘くなっているような気がしてくる。 「熱燗にしてもまた良いのだが……すまぬな。かまどの火はすでに落としてしまっていた故」 「別にいいって。時間が時間だし。こんな夜更けに酒と美味い酒菜を用意してもらえたことに感謝したいくらいだ」 「そう言ってもらえるなら家人も報われよう」 すでに調理済みで改めて火を通す必要がなく、また日持ちする類の酒菜は少々味が濃い目につけられている。それをちまちまと摘まみながら酒を呷るハクの顔に嘘は見えない。 「また近々、今度は熱燗でその酒を酌み交わそう。縁側からはよく月が見えるのでな、それをアテにするのもまた一興」 「おお、そりゃあいいな」 月を眺めながら盃を傾ける己を想像してハクが期待に胸を膨らませる。 「外は寒そうだが、熱燗があれば平気だ。むしろ酒の美味さをより一層感じるためにも寒い方がいい!」 それはハクにとって何の含みもない言葉だったのだろう。しかしこの世界では――オシュトル側の『常識』では――寒さや冬という言葉には特別な意味や感情が宿る。 「……ああ。そうであるな。寒さもまた酒の美味さを引き立てる一因となろう」 答えた後、オシュトルは念のためハクに尋ねた。 「ところでハク殿は『玄冬』というものをご存じか」 「んあ? くろと……? いんや、全然」 「左様か」 「それがどうかしたのか?」 「いや、特にどうということはないのだが……。其方は記憶を失っている故、そういったことも知らない状態なのだろう」 一息置き、オシュトルは続ける。 「玄冬はこの世界に冬をもたらす者とされている。その者が長く存在すれば、世界はいずれ冬に閉ざされ、ヒトは滅んでしまうという言い伝えだ」 「へぇ。疫病神みたいなモンか。でもそいつを退治しちまえば世界は滅びずに済むって?」 半信半疑という体を隠さずハクは問う。過去を知らない状態ならばそれも仕方のないことだろう。しかし実際に世界は玄冬の出現と討伐を繰り返し、幾度も危機から脱している。数十年前にも一度玄冬が現れ、その時はオシュトルらの祖父母の世代に当たる花白が任に当たった。公的な記録も、当時生きていた者達の記憶もある。 そう説明すれば、ハクは軽い口調で「玄冬に花白ねぇ……そりゃ大変だ」感想を述べた。玄冬のことはかなり重大な話であるはずなのだが、あっけらかんとした物言いに当代の花白であるオシュトルは腹を立てるどころか笑えてくる。確かに彼は冬が長くなることで苦労したこともなければ、玄冬を討伐する責任を負っている訳でもない。当事者から遠く離れた位置にいるハクにとっては玄冬も花白もその程度のことなのだろう。 だが今より更に冬が長くなれば、いずれハク自身にも影響が及ぶ。こうしてのんびりと酒を楽しむこともできなくなるはずだ。 (そうならないために某がいる) 玄冬の所在は判明し次第、鎖の巫から知らされるということになっている。花白の場合と同じく、彼女らには玄冬を見つける能力もあるのだ。ゆえに今のオシュトルは鎖の巫および帝からの指示待ち状態だった。 どうやら花白は玄冬を殺すだけでなく見つけることもできるとされているのだが、歴代の花白の中で鎖の巫より先に見つけた例は少ない。オシュトルもまたそうと思える人物に出会ったことはなかった。なお、花白のオシュトルがそうであったように玄冬たる人物も一般人と変わらないらしい。雪の怪物のような姿をしていれば一目瞭然で発見も容易いのだが、現実はそう甘くないのだ。 唯一、玄冬が一般人と異なるのは、花白以外に躰を傷つけられてもその傷が残らないという点。しかし無辜の民を試し斬りできるはずもなく、結局は鎖の巫に頼らざるを得ない。 (ハク殿にこうして笑っていてもらうためにも、玄冬は見つかり次第処分せねば) オシュトルは改めて心に誓う。國を、帝を、民を、そして目の前の青年の幸せを守るため、与えられた役目をしっかりこなそう、と。 2015.12.19 pixivにて初出 |