右近衛大将オシュトル。大國ヤマトの双璧と称される左右近衛大将の一翼を担う男は、元々地方にある下級貴族の子であった。だがオシュトルは帝都に上京すると数々の武勲を上げ、この大國の主たる帝より、若くして今の地位を賜ったのである。
 彼の功績だけでその地位に就くには充分なものだったのだが、しかしオシュトルには帝に重用されるもう一つの理由があった。
 オシュトルには右近衛大将とは異なる役割が与えられている。その役割の名は『花白(はなしろ)』。生まれながらに備わっている素質とも言えるものなのだが、その判別は一般の者には不可能であり、唯一、帝のそばに侍る『鎖の巫』がヒトを見ただけで判断できると言う。都に上がったオシュトルはそこで鎖の巫に見出され『花白』の役目を仰せつかった。
 花白は世界でただ一人、とある人物を殺すために存在する。彼以外の誰も『それ』を殺すことができない。花白だけが『それ』を殺し、世界を救うことができる=B
 そう、オシュトルは来たるべき日に世界を救うことを運命づけられた男だった。


「はぁ〜。随分と冷えてきなぁ、オイ」
 水浅葱の羽織を肩に掛けた男が白い息を吐き出しながら抜けるような青い空を見上げる。キンと冷えた空気は、今が夜ならば満天の星空を提供してくれただろう。
 僅かに雪が積もる土の道を踏みしめる男の後ろには、彼がまとめる傭兵団が続いている。すでに幾ばくかの荷を運んでいるが、この先にある集落で更に大きな一団と合流し、帝都まで荷の運搬と護衛を担う手筈になっていた。
「そうっすねぇ。ここいらは帝都よりも冬が早い地域っすから」
 数歩後ろを歩いていた仲間が男の呟きにそう答える。男はそれに「ああ」と頷くが、
「しっかし、それにしてもちぃと早すぎる」
「……おそらくはそろそろ≠ネのでしょう」
 はばかるように声を潜め、暗い表情で告げる配下。男もまた厳しい顔つきで口を噤んだ。
 この世界には四季がある。地域によっては冬が長い所、夏が長い所、と色々あるが、それでも常冬の土地は存在しない。だがここ数年、全体的に冬の到来が早く、また春の到来が遅くなりつつあった。
 その理由をこの世界に生きる人々は知っている。
 世界が死にかけている≠フだ。
 遠い昔に神が創ったとされるこの世界は、ヒトがヒトを殺すことを良しとしなかった。その禁を破れば、罰として世界が少しずつ死に近付く。世界が完全に冬に覆われた時、この地に生きる人々は生活の糧を失い、死に絶えるだろう。
 けれどもヒトとヒトの争いは決して消えることがない。個人の、集団の、そして國同士の争いが日夜行われ、少しずつ流れ出た血が世界を死に近付けている。
 この辺りの地域にも随分と冬が早く到来するようになってしまった。男は帝都に居を構えているが、こうして仕事で地方へ赴くこともあり、死の足音をひしひしと感じることができる。
 普通の感覚の持ち主ならば、世界の滅びなど望まない。男は特に國を思い、民を思う者であったため、その心中は荒れ狂う嵐の如きものだった。
 だがたった一つだけ死にかけた世界を救う方法がある。それは――
「っ!」
 突如、男ははっとして空を見上げる。否、蘇芳(すおう)色の双眸が向けられたのは、正確には空ではない。葉が落ちた木々のずっと向こう、ここよりも標高が高く雪に覆われているであろう場所だった。
 蓬髪に隠れていた耳がヒクリと動く。その様は微かな音も聞き洩らさないよう全神経を集中させている証拠だ。
「どうかしやしたか……?」
 さっきまで言葉を交わしていた配下が急に一点を見つめ始めた男を心配そうに窺う。だが男にはそれに構う余裕がない。
 いる、と男は声に出さず呟いた。何がいるのか判らない。けれども、このずっと先にいるのだ。きっと男にとって特別なものが。抗い難い本能のようにそれは男を急き立てる。
「すまねぇ。ちょっくら行ってくっから、オメェらは先に目的地へ向かってくれ。必ず追いつく」
「えっ、そんな……いえ、わかりやした」
 察しの良い配下はただならぬ様子の男を見てすっと頭を下げる。
「どうぞ、お気を付けて」
「おう。皆のことは頼んだぜ」
「承知」
 その答えを聞くや否や、男は脇目も振らず駆け出した。目指すは本能が叫ぶ場所。そこにはきっと男にとって何より特別なものが待っている。


 高い身体能力を惜しげもなく活用して山道を駆け上がる。地面に積もる雪の量は瞬く間に増え、周囲の空気はより一層冷たく、肌を刺すものへと変わっていった。しかし男の足が止まることはなく、むしろ距離が近付くにつれますます激しくなる鼓動に、男の速度はいや増した。
 やがて青空が薄灰の雲に隠され雪がちらつき始めた頃、降り積もった雪にさくりと足跡をつけた男は木々の向こうに人影を見つける。
 真白の世界にぽつんと立つ人影は男と同じくらいの身長があった。しかし若葉色の薄い衣だけをまとった肢体は細く頼りない。おまけにこの寒い中、足や腕はむき出して、病的とすら思える白さを凍える空気に晒していた。
「さむ……」
 人影は灰色の空を見上げてぽつりと呟く。その拍子に男と少し似た暗い色の髪がさらりと揺れて横顔が見えた。すっと通った鼻梁と薄い唇。その唇を割って吐き出された白い息が空中に溶けて消える。
 ちらちらと降る雪は緑の衣の人影――青年の躰に触れると融けて水滴となった。若葉色の薄い布がゆっくりと深い緑のまだら模様に変化していく。衣の濡れ具合からして長い間ここに立ち尽くしていた訳ではないらしい。だが青年の周りに積もる雪には彼の足跡と思しきものがない。まるで唐突にこの場へと姿を現したかのように。
 どこか浮世離れしたその光景に男は息を呑む。そして無意識に一歩足を踏み出していた。すると羽織の裾が枯れ木に掠り、パキリと小さな音が鳴る。
「……だれだ?」
「ッ」
 青年が振り返り、琥珀色の双眸が男を捉えた。整った顔立ちだが茫洋とした視線が彼から現実味を奪っている。男は足を止め、その場で青年を見つめ返した。
「――、俺は」一瞬、自分がどちらの名≠名乗るか迷った後、男は今の姿に見合った方の名を名乗る。「ウコン。ウコンと言う。アンちゃんは?」
「自分か?」
 青年がことりと小首を傾げた。それだけでほんの少し人間味や現実味といったものが青年に加わる。けれどもまだどこか地に足がついていない様子で青年は口を開き――……名を口にしようとして、音もなく唇を震わせた。
「アンちゃん……?」
「わからない」
「ん?」
「だから、さっぱりわからんのだ。自分の名前が。それどころかどうしてこんな所にいるのか……自分が一体、何者なのか」
「……は?」
 男――ウコンはぽかんと口を開けた。
 青年は眉間に皺を寄せ、しきりに首を捻っている。どうやら冗談ではないらしい。「おいおい、それって」と言いながらウコンは青年に近付く。心臓がドクリと脈を打った。腹の底がカッと熱くなるような感覚を覚えつつも、それを悟られないよう抑えた声を出す。
「記憶がねぇのかい?」
「……どうやらそのようだ」
 お手上げ、とでも言いたげに青年が両手を上げた。とその時、ひゅうと風が吹いて雪が舞い上がる。青年は両手を下げ、「さっ、寒ぅ!」と己を抱き締めるように身を縮めた。
 こんな雪の中、薄い布一枚では当たり前だ。ようやく寒さを実感し始めたのか、青年はガタガタと震えだす。ウコンは思わず己の羽織を脱ぎ、青年の肩に掛けてやった。
「アンちゃん、これでも無いよりはマシなはずだ」
「うう……すまん。本当になんで自分はこんな所にいるんだ……自殺志願者か」
 最後の方はぼそぼそと聞き取りにくい音量で呟き、青年は羽織の前を合わせる。布を掴むその指は労働を知らない細く柔らかなものだった。
 兎にも角にもこのか弱そうな生き物をこのまま放置しておくわけにもいかない。そもそもウコンの胸裡で燃え盛るものがこの青年を手放したくないと叫んでいる。ウコンは「アンちゃん」と再度青年に呼びかけ、琥珀色の双眸がこちらを向くと己が駆けてきた道を指で示した。
「ひとまずここを下りようじゃねぇか。いつまでもその恰好じゃアンちゃんが凍え死んじまう。この先の集落に俺の仲間がいるから、そこであったけぇ着物と飯を用意してやるよ」
「ほんとか!?」
 ばっと音がするくらい青年が食いついた。
「お、おう」
「そりゃ有り難い。いや〜あんたウコンって言ったっけ? あんたみたいな親切なひとに見つけてもらって自分は本当に運がいいな。手間を掛けさせて悪いが、案内頼む」
 気圧されるウコンに構うことなく青年はにこにこと破顔して頭を下げた。
 自分で言うのもなんだが、そんなにほいほいと他人を信じて大丈夫なのかとウコンは目の前の青年が心配になってくる。しかし下手に同行を拒絶されるよりはずっといい。ウコンは己が来た道へと踵を返し、「こっちだ」と声をかけた。青年がその背を追いかける。
 しかし――
「すまん、ウコン」
 一歩どころか半歩踏み出した時点で青年が動きを止める。持ち上げられた素足はこの寒さで完全に色を失くしていた。
「…………アンちゃんさえよければ背負って運ばせてもらうが」
「よろしく頼む」
 即答した青年にウコンは淡く苦笑し、彼の手前まで戻ると背を向けて膝を折る。そこに躊躇いなく細い両腕が伸びて、ウコンの前で交差した。背中に冷えた躰が触れる。ウコンは青年の尻の下で手を組んで支えとしてから「よっ」という掛け声と共に立ち上がった。想像以上に軽い躰だったせいでひっそりと眉間に皺を寄せたが、その前に自覚しておくべき異常にウコンは気付かない。
 ウコンは荒くれ者どもを率いる義侠の男であると同時に武人でもある。そんな人物が正体の知れない他人に背を見せ、あまつさえその手が急所付近に触れることなど普通は良しとしない。しかし現実として、ウコンはこの不思議な青年に背を見せることも急所の近くに触れられることも嫌だと思わなかった。それどころかただ布越しとはいえ触れ合っていること、また青年がすぐそばにあることを、喜びを持って受け入れてしまう。
「重くないか?」
「あ? 全然。むしろ村に着いたらアンちゃんにはたらふく食ってもらわねぇとなぁ」
 冗談めかして答えるが本当に軽い。身長と同じく年齢もさほどウコンと変わらないであろう青年は、こんな躰で一体どうやって今まで生きて来られたのだろうか。
「飯かぁ。そういえば腹もへってる気がする」
「酒もあるぜ」
「おっ、酒! そりゃいい!」
「アンちゃんはいける口かい?」
「おそらくな。たぶん大好物だ」
「ここらの地酒は美味いらしいから、期待しといて損はねぇと思うぜ」
「ああ。期待しておこう」
 背中の気配があからさまに嬉しさを滲ませた。記憶はないとのことだがこうして普通に会話もしているし、単語の意味も通じている。不幸中の幸いだとウコンは胸を撫で下ろしつつ、けれども「アンちゃん」ではなく本来呼ぶべき名前すら判らない状況に眉をひそめた。
 このまま山を下り、集落に到着したとして、いつまでもアンちゃんやら兄ちゃんやらと呼んで済ませられるはずもない。名はその存在を表すものだ。現実味の薄い青年を少しでも現実(じぶん)に留めておきたくて、ウコンは思考を巡らせる。
 そんな時、ふと目の前を真っ白な雪がちらついた。視線だけで追いかけ、ウコンはぽつりとその音を口に出す。
「――ハク」
「ん?」
「ハク、だ。アンちゃんの名前、ハクってのはどうでぃ」
「こんな真っ白な所で突っ立ってたからか?」
「まぁな。シロじゃちぃと恰好がつかねぇから、アンちゃんが自分の名前を思い出すまで『ハク』って名乗ってみちゃあどうかと思うんだが……どうよ?」
「まぁそうだな。ハク、か……。ああ、それでいい」
 少し間があったものの肯定が返された。次いで青年もとい『ハク』はウコンの背でくすくすと笑い声を漏らすと「ハク、ハクねぇ……ふふふ」と与えられた名を繰り返す。
「どうしてんでぃ?」
「いや。この羽織は借り物だから、『ハク』という名がウコンに初めてもらったものになるんだな、と思って」
「っ! ま、まぁそうなるわな」
 横抱きや前で抱えるのではなく、背負う恰好で良かったとウコンは心底思った。
 じわりと顔が熱い。くすぐったそうに、またどこか大切そうに呟かれた言葉は、ウコンの胸を剣で一突きするような衝撃をもたらしてくれた。
 なんとか動揺を悟られないよう努めて軽い調子を維持したまま「大事にしてくれよ?」と声をかけると、ハクはウコンの胸の前で交差させた腕に少しだけ力を入れる。
 そして、
「大事にするさ」
「――ッ」
 慈しむようなその声を聞き、ぞわりと興奮に毛が逆立った。蓬髪の影からぴょこんと白と茶の毛に覆われた耳が飛び出し、ウコンはごくりと喉を鳴らして唾を飲み込む。
(なんだこりゃ……なんでこうも、うれしい≠だ?)
 ウコンも流石におかしいと思い始めた。どうして出会ったばかりの人間の言葉や仕草一つにこうも歓喜してしまうのか。全く原因が判らない。けれどもやはり嬉しいのだ。ハクの目がこちらを見ることも、ハクの手がこの身に触れることも、ハクの言葉がウコンに向けられることも、全てが。
(俺ぁ一体どうしちまったのかねぇ)
 声も聞こえず姿も見えないのにハクの存在を歓喜と共に感じ取ったこと。その姿を目にして息を呑んだこと。こうして触れ合い、与えた名を大切にされるのが飛び上がるほど嬉しく思うこと。その全てがこれまでの己と違う。まるで妖怪や禍日神(ヌグィソムカミ)に化かされているかのようだ。けれどそこまで考えてもなお、嫌悪や疑心は湧かず、ただただハクという存在そのものを好ましく思えてしまう。
(こんなんじゃいくら考えてもわかんねぇな)
 ひとまず気持ちを落ち着かせようとウコンが深く息を吐き出そうとした瞬間、
「あ? なんだこの……耳?」
「ぐひょえ!?」
「うおおおっとぅ!? どうしたウコン!」
 ハクが不思議そうな声を出したかと思うとあの細い指で耳を摘ままれ、ウコンは声を裏返した。予期せぬ刺激に躰が跳ねて思わず背中のハクを落としてしまうところだったが、ハクが咄嗟にしがみ付いたおかげで大事は免れている。
「ア、アンちゃんよぅ……」
 ウコンはそれまでの真面目な思考をすっかり脇に捨て去り、じとりと恨めし気な目をしながらハクに声をかける。
「他人の耳はそんなに気安く触るようなモンじゃねぇぜ」
「そうなのか?」
 見えずとも、ハクがきょとんと首を傾げているのは容易く想像できる。
「しかしやっぱりこれは耳なのか……まるで獣の耳じゃないか。なぁウコン、あんた何かヤバい薬でも飲んだのか?」
「はあ? 何言ってやがる。個人差はあれどヒトならこういう耳してんのが普通だろうが」
「へ? 普通は耳にこんなもっさもっさの毛なんて生えてないはずだろう?」
「ん?」
「んん?」
 どうやら話が、というより自分達の中の常識が食い違っている。
「……ヒトには耳と尻尾がある。それが『普通』だ」
「尻尾まで……?」
「そっちもアンちゃんの『普通』じゃねぇって訳か」
 疑うような物言いに、記憶喪失どころかそもそも一部の常識に明らかな差異があることまで判明し、ウコンは溜息を吐いた。その吐息と共に、じわじわとハクに会えた本能的な歓喜とは異なる腹の中の熱をも外に出す。これだから気安く他人の耳に触れてはいけないのだ。
「いいかい、アンちゃん。耳と尻尾は特別親しい相手としか触り合っちゃなんねぇ。これから集落に着けば耳どころか尻尾まで外に出してふらふらさせてる奴ァ大勢いるが、絶対に気安く手を伸ばすんじゃねぇぜ」
 幼子に言い含めるようにゆっくり、はっきりとした口調でそう告げれば、背中のハクが「お、おう。分かった」と頷いた。『普通』が食い違っているせいで充分な理解には至っていないようだが、それでもひとまずは要らぬ問題を引き起こさずに済むだろう。それに――。
(アンちゃんが俺以外の誰かに触れるなんざぁ想像すらしたくねぇことだな)
 決して声には出さず胸中でのみ呟き、ウコンはその心の声とは真逆の明るい声で「頼んだぜぇアンちゃん!」と告げた。

* * *

「あらわれました」
「聖上、あのお方が再びこの世に御出でになられました」
 薄絹をまとった双子の少女達が頭を垂れ、自分達の主人にそう報告する。
 彼女らの言葉を聞いていた、聖上と呼ばれた人物の傍らに侍る女性はその美貌に喜びを乗せ、「おめでとうございます、聖上」と微笑んだ。
「ああ……」
 万感の思いを込めた吐息が車椅子に乗った『聖上』の口から漏れ出る。
「ようやく……また#゙奴に会えるのだな」
「はい。此度は今までよりも長く、共に過ごせるよう我々も尽力いたします」
「うむ。よろしく頼むぞ、ホノカ」
「畏まりました。我らが主にして尊き御方」
 ホノカと呼ばれた女性は深く腰を折り、自身の主への絶対的な忠誠を示した。


 雪は降り積もる。血を流し過ぎた世界は死に近付く。
 そんな世界に現れるのは『玄冬(くろと)』と呼ばれる存在。永遠の冬を連れて来るとされる玄冬だが、誰もそれを退けることはできない。玄冬は世界の死の象徴であり、どんな武器も彼を殺すことはできないのである。
 しかし世界でただ一人、その玄冬の躰を刃で貫き、殺害することができる者がいた。

 玄冬の死をもって世界に再び春をもたらす役目を負った者を『花白』という。







2015.12.16 pixivにて初出

タイトルの読み方は「ゲッパクソウソウ」です。