貴方の幸いを願う




[chapter:10]


 完全に日が落ち、歓楽街がネオンでまばゆく光り輝く中、元康と尚文はホテルを出た。魔力供給を終えて幾ばくかの休息を取ってからの出発である。
 魔力の気配を敵陣営に隠す気がないため、移動に車やバイク、バス等は使わない。尚文が元康を抱え、建物の屋根や街灯を足場にして一般人の目には捉えられぬ速度で向かう先は、高速道路の建設により通る人が激減した県境の山林である。
 尚文の身体全体に魔力が満ち満ちているのがマスターたる元康にもわかった。移動中、さらに残っていた令呪を二画とも純粋な魔力リソースとして消費する。これで準備は万端だ。
 本来、マスターはサーヴァントを従えるために聖杯戦争の途中で令呪を全て使い切ってしまうことはない。召喚される英霊によっては令呪が全てなくなった途端、マスターに反旗を翻す場合があるからだ。しかし元康が尚文に対してそんな心配をするはずもなかった。もし狂化を付与されず完璧な正気を保っている尚文であったなら「お前馬鹿だな」と溜息交じりに半眼で告げただろう。
「この辺なら少々派手に戦っても一般人への被害は少ないでしょう。今後のことも考えると、聖堂教会に睨まれるのは面倒ですからな」
 元康がそう告げたことで尚文の足が止まる。下ろされたのは山の形に添うようにして曲がりくねった国道。谷側に設置されたガードレールは錆び付き、半分ほど蔓性の植物に侵食されてしまっていた。無人の道路をぽつりぽつりと照らす街灯も必要最低限の本数で、光が届かぬ箇所では闇がぽっかりと口を開けているかのようだ。
 そうして二人で道の真ん中に立っていれば、さほど間を置かずに招待客たち≠燻pを現わす。
「こんばんは。下手な誘いに乗って来てあげたけど、特に罠を仕掛けている風でもなさそうね?」
「一応魔力の補充は済ませたか。……ふん、それだけで二騎のサーヴァントを相手にできると思ってもらっては困るぞ」
 後方にアサシン、前方にセイバー。
 未だ彼らのマスターの姿は見えないが、二騎の英霊がこちらの誘いに乗じて一方は楽しげに、もう一方はやや苛立つように、アスファルトの地面に降り立った。
 元康のように自らのサーヴァントに抱えられて移動した様子もないため、おそらくは北村家を襲撃した時と同様に別の場所から観察するつもりなのだろう。使い魔の目を通して戦況を把握し、肉声が届かずともパスを通じて命令を伝えることができる。
 それならそれで良い。マスターを直接叩くことは無理そうだが、サーヴァントを負かすことができればそれで勝利は元康たちのものだ。
 彼らに令呪を三画とも全て消費してしまっていることがバレないよう右手をズボンのポケットに突っ込みつつ、元康はラースシールドを構える尚文の後ろに回る。頭の後ろで留められている口枷は残った左手だけで容易く外すことができた。
 こんなにも呆気ない。だが元康のために尚文はこれをずっと外さずにいてくれた。
 その気持ちだけで十分だ。だからもう枷は要らない。
 加えて、喋れるようにすることはこの場で十分すぎる意味があった。魔術の使用において詠唱を短くしたり破棄したりすることは可能だが、やはり省略または破棄しなかった場合よりも威力が劣る場合が多い。切羽詰まった状況か余程の実力者でなければ省略・破棄は不利になるだろう。
 尚文もまたそれに該当する。つまり――
「お義父さん、全力でお願いしますぞ」
「……」
 こくりと首が縦に振られ、息を吸い込んだその口から魔力を編むための言葉が放たれた。
『その愚かなる罪人たちへの≪我ら≫が決めたる罰の名は神の生贄たる絶叫』
 元康があの世界で聞いたオリジナルの台詞とは僅かに異なる詠唱が滔々と暗い国道に響き渡る。
 しかし周囲に渦巻く魔力からそれが以前目にした宝具の予兆だと気づいたのだろう。二騎のサーヴァントが地を蹴って各自その場から離れる。ただし逃げると言っても彼らの顔から勝利への確信は消えない。万が一自分たちのどちらか一方がバーサーカーの宝具に捕まったとしても残ったもう片方が確実にとどめを刺せると思っているからだ。無論、セイバーもアサシンも己が犠牲になる側だとは思っていないのだろうが。
 そんな彼らに構うことなく尚文の詠唱は続く。
『我が主の魔力を糧に生み出されし数多の竜の顎により激痛に絶叫しながら生贄と化せ』
 さて、セイバーとアサシンは気づいただろうか。
 彼らが目にしたバーサーカーの宝具は敵一体だけを標的とするものだった。元康があの世界で目撃した盾の勇者のカーススキル・ブラッドサクリファイスもそうだ。
 しかし英霊として召喚されたバーサーカー・岩谷尚文は少し違う。
 確かにその宝具は一つで一人の敵を狙うものだが、使用者の意志と潤沢な魔力があれば――

「ブラッドサクリファイス!」

 尚文が叫んだ瞬間、セイバーとアサシンの両方の足下に巨大なトラバサミが出現した。
「なっ……!?」
「あらあらまぁまぁ」
 二つ同時に現れたバーサーカーの宝具に二騎のサーヴァントが驚愕を露わにする。しかし幾重にも棘を備えたトラバサミが閉じるよりも早くどちらもその場から飛びしさる。「舐めるな!」「単純ねぇ」と、バーサーカーの単調過ぎる攻撃を――特にアサシンが――揶揄する余裕すら見せていた。
 この程度の攻撃で終わってしまうなら元康も彼らの揶揄を受け入れただろう。だが事前の魔力供給と今も励起させたままの魔術回路、そしてとっておきの令呪二画を使ってたかがこの程度≠ナ終わるはずもない。
 魔術回路を励起させることで起こる体内の痛みに耐えながら元康はニッと唇を吊り上げた。
「『舐めるな』はこちらの台詞ですし、単純なのはそちらの方ですぞ!」
 宝具を回避するために飛びしさったサーヴァントたち。その各々の着地地点に三機目四機目のトラバサミが召喚されていた。
 自分たちの足下に現れた新たな鉄の顎に二騎のサーヴァントは顔色を変える。一度きりの切り札だと思っていたそれが思わぬ所に出現したとなればさすがに驚くらしい。おまけにどちらもブラッドサクリファイスの威力は十分すぎるほど理解しているはず。
「っ、この!」
 セイバーが剣を大きく振るって衝撃波を生み出し、鉄の顎の破壊を試みる。しかしこちらは宝具だ。生半可な攻撃で壊されるわけがない。セイバーの宝具をぶつければ相殺は可能だったかもしれないが、この場にいないマスターが瞬時にその判断を下すことはできなかった。
 結果、
「ッ、あああああああああああ!」
 絶叫が木霊し、血飛沫が舞った。
 アーチャーの時と同じくセイバーもまた幾重にも重なった竜の顎に捉えられ、幾度も幾度も、執拗なほど串刺しにされる。
 一方アサシンはと言えば、彼女もまた何とかこの危機から脱しようと必死に足掻いていた。ただし一足早くセイバーが失敗したのを横目に見た彼女はバーサーカーの宝具の破壊を諦めて回避に徹する。
 己の柔肌へと迫り来る鉄の棘に対して彼女はひらりと空中で身体をひねり、上下を入れ替えるとトラバサミの金属部に手を突いてさらに身体を持ち上げる。足ではなく腕の力で再び空中へと飛んだアサシンの動きは一見して優美であったが、その表情に余裕はなく、歯を食いしばって目を見開いた必死の形相で何とかトラバサミの死の抱擁から逃れていた。
 獲物を捕らえることなく口を閉じた竜の顎を眼下に見やり、アサシンの目にはほっとした色が現れる。空中へと躍り出た彼女の次の着地点は道路ではなく山側の斜面。そこへ両足と片手を使って着地した彼女に対し、しかし元康は微笑みさえ浮かべて告げる。
「お義父さんは『数多』とおっしゃいましたぞ」
 直後、アサシンの足下に出現したのは五機目の巨大なトラバサミ。アサシンが気づいた時にはすでに遅く、竜の顎は今宵二人目の生け贄の血にまみれる。
「ぎぃ、ぎゃあああああああああああああああ!」
「豚の声は本当に聞くに堪えませんな。……しかし」
 ごっそりと魔力が奪われる感覚に冷や汗を流しながらも元康の表情は晴れやかだった。
「これが俺たちの勝利を告げる声なのだと考えれば、喜びをもって聞いてやらんこともないのですぞ」
 そう、自分たちは勝ったのだから。
 セイバーに続きアサシンもまた光の粒となって消失する。残ったのはブラッドサクリファイスの影響でボロボロに砕かれたアスファルトや山側の斜面と、平然と立つ尚文と、魔力切れで片膝をついた元康だ。
 肩で息をする元康に尚文が手を差し出す。目隠しはしたままだが、枷が取り払われた口元は優しい笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます、お義父さん」
 その手を取って元康は立ち上がる。
「では早速ですが教会へ向かいましょうか。最後まで勝ち残った者として聖杯を渡してもらうのですぞ」
 聖杯の管理は聖杯戦争の監督役を務める聖堂教会が担っていた。それを受け取れば自分達の願いが叶えられるのだと、幸福な未来が目の前まで来ていることに元康は胸を弾ませる。
 これで尚文を幸せにできる。これであの世界と同じように楽しく暮らすことができる。
 ニマニマと抑えきれない喜びが頬を緩ませる中、元康はここまで来た時と同じように尚文に抱えられる恰好で自分達が暮らす町を目指し帰路についた。


[chapter:11]


 この聖杯戦争における聖杯とは最初から願いを叶える力を持っている奇跡の代物ではないらしい。
 聖堂教会が管理する教会に辿り着き、聖杯を手にした『それ』は自身がサーヴァントである所為か、担当者の話を聞くまでもなく己が持つ黄金の杯がどういった代物であるかを何となく察することができた。
 杯は単なる器でしかなく、重要なのは中に満たされた魔力。此度の聖杯戦争で敗退した六騎のサーヴァントが英霊の座に還ることなく魔力としてこの場所に蓄えられているのだ。聖杯から六騎分の英霊の存在を感じ取っていた『それ』は、説明を聞いて驚くマスターを横目に納得した気分で杯を撫でた。
 一騎でも恐ろしいほどの魔力を備えた英霊が六騎分。その魔力量は膨大であり、この世界における望みならば大抵のことは叶えてしまえるだろう。負けた陣営のマスターが六騎分の英霊の魔力を貯めた聖杯を奪うことがないよう教会で守護していた聖堂教会の担当者は、過去の例として五騎分のサーヴァントを捧げて願いを叶えた者もいると説明を補足した。その願いが一体何であったかまでは言葉にされなかったが。
 ただし聖杯戦争の真の目的は聖杯――万能の願望器により願いを叶えることではないらしい。
 六騎ではなく七騎全ての英霊を捧げて器を満たし、これにより別の場所にある大聖杯という代物を起動させる。そしてサーヴァントの霊核が元に戻る時に生じる『世界の外側に通じる孔』を大聖杯で固定化し、その孔を通って魔術師が根源に辿り着くことを目的としているのだそうだ。なお、そもそもサーヴァントとは外側の世界から召喚される存在である。
 ちなみにたとえ根源へと至らずとも、その孔を通して世界の外側から使い切れない量の魔力を引き出せるようにもなるとのこと。
 これは聖杯戦争を始めた御三家のみが共有する秘密であり、元康を含むそれ以外の魔術師には秘匿されている真実だった。しかし今回の勝者は御三家とは縁もゆかりもない家の魔術師。ゆえに根源を目指す魔術師として一縷の望みにかけ、御三家の一角がこの秘密を明かしたのだそうだ。
 しかし残念ながら最終勝利者たる北村元康は魔術師であっても根源への到達など一切考えていなかった。「それではお義父さんにここで死ねと命じて聖杯に入っていただく必要がありますな。俺がそんな愚行を犯すと思うのですかな? いっぺん死んでみますかな?」と真顔で言い切るほどである。よって聖杯は六騎分の英霊の魔力で満たされ、願いを叶える時を『それ』の手の中で待つこととなった。
「まずはお義父さんからですぞ。お義父さんにも叶えたい願いがあるのでしょう?」
 聖杯戦争の真の目的を知った時の能面のような真顔など無かったとばかりに、にっこりと満面の笑みを浮かべて「さぁどうぞ」とこちらに聖杯の使用を促す元康。
 己ではなく従僕に先に願いを叶えさせるとは、本当にこのマスターは人が好い。彼が敬い丁寧に接する対象は非常に限定されているようだが、それでも『それ』にとっては大事にしてやりたいと思える存在になっていた。
 ゆえに『それ』は改めて願う。この青年が心の底から穏やかでいられるようになればいい。つらい顔をしなくても済むようになればいい。初めてこの身を召喚した時や目隠しを取った時のような悲しい顔をもう二度としなくてもいいようになってほしい。

 ――それが貴方の願いね?

 とても優しく穏やかで、全てを包み込むような温かさを持つ声だった。
 そして何故か至極当たり前のように聖杯から語りかけられたのだと理解する。ならば『それ』は頷くのみだ。そう、願いはマスターたる青年の安寧。彼の顔が憂うことなく、この身を見て悲しみに暮れることなく、己が犯したという過去の罪に心を痛めることなく、楽しく過ごせる世界が欲しい。
 そのためならたとえ己が七騎目として器に捧げられることになっても構わない。この願いを叶えるために外側の世界から膨大な魔力を引き出す必要があるならば、もしくは世界の外側へ出ること≠ェ必要ならば、喜んで……とは言いがたいが、拒絶することなく我が身を捧げよう。

 ――貴方には記憶が無いから自己犠牲も厭わないのかしら。

 そうかもしれない、と『それ』は思う。自分のことを覚えていないから自分の価値もわからないし己に執着もしない。しかしその事実をどうして厭う必要があるだろうか。事実は事実として受け入れるのみ。己を呼び出したマスターの役に立つことを否定する理由にはならない。

 ――そう、わかったわ。では、貴方の願いを叶えましょう。

 了承する声。
 視界の端に白く美しい髪が見えたような気がした。


[chapter:12]


「モトヤス」
 枷を外したままだった口から初めてその名前が告げられる。
 どこか不慣れな呼び方は彼の記憶が戻っていない証でもあるのだろう。しかし名前を呼んでもらえたこと自体が元康にとっては喜びだった。目隠しをしていてもわかる穏やかな表情を尚文が浮かべていたこともさらにその感情を増幅させる。
「はいですぞ」
 未だ聖杯を両手で持ったままの尚文に元康は笑顔で応えた。
 彼は何を願うのだろう。それとももう願ったのだろうか。何にせよ、最高の形で叶ってほしい。そして次は元康自身の願いを聖杯に叶えてもらって二人と皆で仲良く楽しく賑やかに暮らすのだ。
 にこにこ、にこにこ、と抑えきれない笑みで元康が続きを待っていると、ややもせず尚文の周囲が淡く金色に光り出した。光は同色の粒となり、無数の粒が彼の抱える聖杯へと吸い込まれていく。
 あれ? と元康が首を傾げたのは現実を理解できなかったからではなく、したくなかったから。
「お、義父さん……?」
 名を呼ぶ頃には顔と言わず全身から血の気が引いていた。
 もつれた舌でもう一度「おとうさん」と口にする。しかし目隠しをしたまま微笑む彼は元康の呼びかけに応えない。代わりにゆっくりと、けれど確実に輪郭を薄くしながら彼が音にしたのは、この場で絶対に聞いてはいけない言葉だった。
「過去を悔いるお前が心から笑えるようになる時を願ってるよ」
 自分が目の前の男に一体何をされたかも覚えていないくせに、美しく微笑む元康の罪の証。「どういうことですか」も「待ってくださいですぞ」も言えないまま、そうして元康の視界は暗転した。


 股間から脳天を貫く激烈な痛み。
 はっと気づいた時には身体が宙を舞い、眼下で愛しい愛しいフィロリアルが蹴りを放ったばかりの足を下ろすところだった。
 槍の勇者改め『愛の狩人』北村元康は一瞬にしてよみがえった記憶にキラキラと赤い両目を輝かせながら空中で体勢を立て直し、スタッと見事に地面へと着地する。フィロリアルに蹴り飛ばされて錐揉み回転し無様に落下する元康を見るつもりだったであろう尚文が残念そうに舌打ちをした。
「思い出しましたぞ!」
 しかし構わず元康は叫ぶ。
 先程までの己はマインこと赤豚にいいように騙されて道化を演じる愚か者だった。しかし記憶を思い出したからにはもうそんな愚かな振る舞いをする必要もない。天使たるフィーロを愛し、世界中のフィロリアルを愛し、そしてフィーロの父親つまり天使の親なのだから神と言っても過言ではない尚文を敬って、北村元康は『愛の狩人』としてこの世界で生きるのだ。
 一度は命を失いかけ緊急措置としてループしたものの、それを脱して見事に波を起こした張本人を仕留め、尚文と共に世界復興に従事した日々。フィロリアルたちと過ごした楽しい毎日。それら素晴らしき記憶の数々がよみがえってくる。しかしその先に何があったのかは……よく思い出せない。
 ちらりと脳裏をよぎったのは黒く分厚い布で覆い隠された誰かの目。
 胸を刺す僅かな痛みに元康は内心で首を傾げた。しかし愛しい愛しい『フィーロたん(予定)』が目の前にいるのだからそんな痛みもすぐに消え去り、記憶にさえ残らない。
 元康は高速で尚文とフィーロの元へと近づき、まだクイーン形態には至っていないフィーロの羽毛を撫で始める。
 どうして終わったはずのループが再び始まっているのか不明だが、大事な二人に会えたのだから幸せであることに変わりはない。「グアアアアア!?」と悲鳴を上げるフィロリアルの様子にさえ幸福を覚えながら、元康は我が身に訪れた最大級の幸運を全身全霊でもって喜んだ。


END







2019.09.22 Privatterにて初出