貴方の幸いを願う




[chapter:1]


 北村元康には『前世』の記憶がある。
 それは今こうして暮らしている日本とよく似た世界――そこも『日本』ではあったが――でたくさんの女の子達と恋愛し、ついには二人の少女が己を取り合った末に彼女たちにより殺害された記憶であり。また、そうして死んだかと思えば異世界に勇者として召喚され、世界を救う者の一人として戦った記憶であり。とにかく驚くほど濃い記憶であった。
 だが赤ん坊からやり直す羽目になった今回の世界も中々に内容の濃い仕様となっている。何せ、ごくごく普通の日本かと思いきや『魔術』が存在する世界だったのだから。魔術は多くの一般人には秘匿されているものの、非常に長い歴史を持ち、この世界の根底を支えていると言っても過言ではないものだった。
 そして何の因果か、元康が生まれた家も魔術師としての歴史を連綿と紡いできた一族であった。北村家という、名前から判断するならば日本で生まれたと考えられるこの家は、しかし今の元康の金の髪と赤い瞳が天然であることが示すように、大陸の血が流れている。ただし元康のその二つの色は隔世遺伝で発現した珍しいものであり、現在親戚中を探してもこの二色を同時に持っている者はいないらしい。
 また元康がこの世界で生まれ持った要素は珍しい金髪と赤い目の組み合わせだけではなかった。魔術師としての素質にも元康は恵まれていたのだ。
『あの世界』での魔法とは異なり、こちらの世界における魔術の行使には『魔術回路』と呼ばれる魔術を扱うための擬似神経を体内に持っていることが絶対条件となっている。そして魔術回路の数が多ければ多いほど優秀な魔術師だとされており、元康は北村家における最高傑作とまで言われるまでに多くの魔術回路を備えて生まれてきた。近い将来、現当主である父親から魔術刻印を移植されることが確定している元康ではあるが、「それすら必要ないのでは?」と魔術の家ならば有り得ないような冗談さえ親戚の口から零れることもしばしばだ。
 魔術師としてあまりにも恵まれた素質と、ついでに記憶にある通りの自他共に認める優れた容姿。国内外問わず元康に縁談の話が持ち込まれるのも無理はない。しかしどれだけ格のある家でも、どれだけ美しい娘でも、元康が首を縦に振ることはなかった。
 生まれ変わってもなお元康の心にあるのはあの異世界の風景。そして何より――
「フィーロたんとお義父さんに会いたいですぞ」
 北村家の屋敷に設けられた専用の地下室でただ一人、己の右手の甲に浮かんだ三画の紋様を見つめながら元康はそう呟く。
 今の元康は何故か女の言葉も容姿も正常に認識できているものの、すでにそれらへの興味は微塵もない。ただただ思うのは元康に真実の愛を気付かせてくれた天使と、その天使をこの世に生み出してくれた神とも言える盾の勇者・岩谷尚文のことばかり。彼らがいるとは思えない世界に生まれてしまったことが元康にとって最大の悲しみであり、もはや魔術師としての素質などはどうでもいいことだった。否、むしろ世界そのものが元康にとってはどうでもいいのだと言ってしまえるだろう。
 だが魔術師としての己にも世界そのものにも関心が払えなかった元康ではあるが、この度、それがひっくり返ることとなった。
 それこそが己の手の甲に現れた『聖杯戦争への参加権』だ。
 元康は今宵、この地下室で英霊の召喚に挑む。
 聖杯戦争。それは万物の願いを叶える『聖杯』を奪い合う争いである。聖杯を求める七人の魔術師(マスター)と、彼らと契約した七騎の英霊(サーヴァント)がその覇権を競い、最後に残った組が万能の願望器たる聖杯を手に入れる。これまで複数回行われてきた聖杯戦争では聖杯の獲得者が現れず、現在に至るまで数十年に一度の周期で開催されてきた。そして北村家にとっては千載一遇のチャンス――……北村元康という特別な子供が生まれ、十分に成長した今この時に、聖杯戦争の開催が巡ってきたのである。
 一族皆が期待した通り、元康の手の甲に現れた聖杯戦争の参加者である証『令呪』。周囲の者達が湧く中、元康は密やかに、しかし心の内では激しく、このチャンスを絶対にものにしなければと思った。
 どんな願いでも叶えてくれると言うのなら、元康が聖杯に願うことなどただ一つ。
 フィーロと尚文に会いたい。
 それが唯一絶対の願いだった。
「さあ、始めましょうか」
 赤い紋様が浮かんだ手の甲にキスを落とし、元康は足下に描かれた巨大な魔方陣に目を向ける。
 聖杯戦争を始めた『御三家』などに臆してなるものか。聖杯を取るのは己だ。そして絶対にあの人達と再会する。強い願いと共に元康は英霊召喚のための詠唱を開始した。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
 魔術回路を励起させる。暗い地下室で視線の先の魔方陣がうすぼんやりと赤く光り出し、元康の顔を照らした。
「閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
 よどみなく詠唱しながら、しかし英霊を召喚するよりもあの世界で己が揮っていた力をそのままこちらの世界で使えた方がずっと強く使い勝手もよいのではないか、とそんなことを考えてしまう。しかし残念ながら肉体が生まれ変わってしまった影響か、そもそも世界の理が違うからなのか、元康の手に聖武器たる槍はなく、また覚えたスキルも魔法も使えない。無論、ステータスの確認もできない。
「――――告げる」
 ゆえに元康は強いサーヴァントを欲していた。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
 最もよいとされるのはセイバークラス、つまり剣を扱うサーヴァントであるとのこと。それを知った時は剣の勇者である錬を思い浮かべてしまった。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
 元康にしてみれば、正直なところ槍の勇者であった自分に錬が勝てるとは思っていない。錬も十分強かったが、何よりも元康にはループで積み重ねた分がある。生半可なことで追いつけるものではない。
 ならば直接関係ないにしても、イメージや気の持ちようを優先してランサーのクラスのサーヴァントを望むべきか。というのも、また違う。
 元康が求めるのは最も強い力。聖杯戦争を勝ち抜き、聖杯を得るための力。
 ゆえに元康は英霊召喚の詠唱にこう付け加える。
「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」
 狂化付与。それは召喚される英霊の性質や使用される触媒に関係なく、召喚された英霊に強制的に狂化を施すものだ。
 これによりバーサーカーのクラスで召喚されたサーヴァントとは意思疎通が難しくなり、魔力の消費も激しくなる。だが構わない。元康が求める二人に到達するための駒でしかないサーヴァントに命令を聞かせる以上の交流など必要なく、またこの身に宿る魔術回路はバーサーカークラスのサーヴァントを十全に戦闘させるに耐え得るものだった。
 元康は一呼吸置き、己が望みのために爛々と目を輝かせる。
 そして最後の一節を口にした。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」
 地下室にぶわりと風が吹き渦を巻いた。元康が羽織っていたシャツの裾がばたばたと激しくはためき、暗かった室内が強い輝きを放つ魔方陣により光に飲み込まれる。
 だがそれもほんのわずかな間だけだ。やがて光は収まり、魔方陣の中央に人影が現れた。
 この下僕(サーヴァント)こそが元康の願いを叶えるための駒。……だった、はず、なのに。
「…………ぁ、ぁ」
 元康は現界したバーサーカーを凝視し、唇をわななかせる。

『それ』は二本の足で立っていた。
『それ』は黒く刺々しい……まるでおとぎ話に出てくる悪竜を模したかのような鎧に身を包んでいた。
『それ』は深い闇色の分厚い布で視界を閉ざされていた。
『それ』は金属の棒のようなもので口枷をされていた。
『それ』は黒い髪をしていた。
 そして『それ』は禍々しい盾を持っていた。中央に本来は美しい緑であるはずの、しかし今は濁った赤に染まりきった宝石が埋め込まれた盾を。

 元康は全身から力が抜けたようにその場で両膝をつく。
 現実を否定するかのようにゆるく首を横に振るが、視線が『それ』から外されることはない。
 ひゅぅ、と情けなく喉が鳴った。
 元康はこの人を知っている。永遠にも思えるループの中で元康が犯した過ちの一つ。その形。消えてしまったはずの出来事。消えてしまったはずの人。だが元康は覚えている。
 己がこの人をここまで狂わせてしまったという事実を!

「お……義父、さん」

 かすれた声で『彼』を呼ぶ。
 元康が会いたくて会いたくてたまらなかったその人が、絶望と共に顕現した。


[chapter:2]


「どうして、あなたが……」
 元康は震える声で問いかける。
 用意した聖遺物は元康が敬愛する尚文と全く関係のないものだったはずだ。しかし召喚されたのは禍々しい気配をまとった岩谷尚文。元康が彼を見間違えるはずもなく、両膝をついた身体に未だ立ち上がる気力は戻って来ない。
 見上げる元康の視線の先、召喚された狂戦士はマスターの問いかけに答えようとしたのだろうか。「ア、ガァ」と口を開くものの、枷が邪魔をしてまともな言葉にならない。ただ、その反応からこちらの言葉を理解しているのではないかという希望的観測を抱いて、元康は次の質問を投げかけた。
「で、では。俺を覚えていらっしゃいますか? 元康ですぞ。北村元康です」
「……」
 返答は、否定。
 首を横に振る動作に元康は「そうですか……」と項垂れた。
 しかしこれは実のところ良かったと言えるのではないだろうか。
 今の尚文はその姿から推測するに十中八九、元康が彼を追い詰め過ぎた時のものだ。とあるループの中で元康が毎日のように強姦魔と罵り、メルロマルクの城下町の住民を煽動して石を投げさせ、岩谷尚文を屈辱と絶望と憤怒にまみれさせたなれの果て。だが彼が元康を覚えていないと言うのなら、貶められた記憶もまた完全に消える……とまではいかずとも、かなり薄れている可能性がある。尚文をこれ以上苦しめずに済むのであれば、記憶の欠落は幸いだったと言えるのかもしれない。
(たとえ、俺のことを覚えていらっしゃらなくとも)
 元康はふっと小さく息を吐き出し、ようやく膝に力を入れて立ち上がった。
 予定変更だ。
 魔術師・北村元康のサーヴァントはすでに駒などではない。聖杯を取った先にある未来は変わらないが、その過程に大幅な修正を加える。
「お義父さん」
 万感の思いを込めて元康は黙したままの尚文を見つめた。
 今、この手に槍はない。しかし代わりに右手の甲には三画の赤い紋様がある。これはサーヴァントに命令するだけではなく、純粋かつ潤沢な魔力として使用することもできる代物だった。きっと尚文の戦いの役に立つだろう。
「俺が、貴方と共に戦うマスター・北村元康ですぞ。共にこの聖杯戦争を勝ち抜き、必ずや聖杯を手に入れましょう」
 サーヴァントを駒として消費するのではなく、仲間として共に戦う。たとえ尚文が元康のことを覚えていなかったとしても彼のためにも全力でこの戦いに挑もう、と元康は固く誓いを立てた。


 聖杯戦争中は聖杯から英霊へとある程度魔力が供給されるものの、狂戦士クラスのサーヴァントは現界させるだけでも他のクラスより魔力を消費する。しかし尚文を霊体化させる気など元康には微塵もなかった。たとえクラスの所為で理性が薄くなっていようとも、また、まともな会話ができなくなっていようとも、己の都合で尚文の行動を縛るなど元康にとってそもそも考えられないことだったからだ。
 確かに今の尚文の姿は元康に過去の罪をまざまざと見せつけてくる。しかしその事実が尚文に向ける好意にまで影響することはない。むしろ非常に好ましく思っている相手だからこそ常に共にいてその姿を視界に収めておきたいと元康は願った。
 召喚から三日経った今も、どうやら記憶の欠落で自分の意志というものが弱くなっている尚文は元康のその願いもとい命令を素直に聞き入れ、常に現界状態を保っている。どんどん魔力が削られていくが、削れた分だけ即座に補給できるので、元康はこの世界に生まれ落ちてから初めて己の魔術師としての素質の高さに感謝した。
「お義父さん、今日はこの服にしましょう。きっと似合いますぞ」
 そう言って元康がクローゼットから取り出したのは尚文のサイズに合わせて購入した現代風の衣服だ。
 元康の部屋は魔術師然とした薄暗かったり薬草や剥製や古書などが所狭しと並んでいたりするタイプではなく、一般人が訪ねてきても何ら問題のない――むしろシンプルにまとめられた居心地の良い空間だと褒められる――状態に保たれている。これは偽装目的と言うよりもこの世界に生まれる前の記憶によるところが大きい。
 そんな現代風の部屋の真ん中で佇んでいる尚文は召喚された時の姿から少々変更されていた。
 具体的に言うと、黒い鎧を着ていないのだ。常時現界させると決めた以上、室内でもそれは変わらず続けられるのだが、尚文のあの鎧はいささか場所を取り過ぎた。廊下の壁や家具とすぐに接触して傷つけてしまうのである。ゆえに元康が「その鎧……脱げたりしないものですかな」と呟いたところ、鎧は一瞬で空気中へ溶けるように霧散したのだった。
 これで鎧の下から現れたのが尚文のイメージカラーとも言える緑を基調としたあの世界での衣装であったなら問題はなかった。しかし運命とは中々に皮肉なものらしい。元康が「おお、鎧が! すごいですぞお義父さん!」と歓声を上げた直後、その黒い霧の奥から現れたのは薄汚れたインナー姿の尚文だったのである。
 元康は絶句した。
 強姦の冤罪を着せられ、服も金も名誉も人間としての尊厳すらも奪われた尚文。城に連行され謁見の間でさらし者となった当時のままの姿――おそらく城下町に放逐された後、元康の行動の所為で誰の手も差し出されなかったか、差し出されたとしても尚文自身が受け取らなかったのだろう――は、気を取り直したばかりの元康に容赦なく罪と現実を突きつける。
 そして消えた鎧とは対照的に目隠しと口枷は未だ存在しており、まるで目を合わせることも喋ることも彼に拒まれているかのようだと元康に思わせた。
 しかしここで折れるわけにはいかない。元康はカラカラに枯れた喉を必死に動かし、引きつった顔に無理やり笑みを浮かべて告げた。
「まずは服ですな。お義父さんにお似合いのものをすぐに用意しますぞ!」
 ――そういうわけで、元康はせっせと尚文の身体に合った服を用意し、毎日きちんと着替えさせているのだった。
 目隠しと口枷は相変わらずだが、言われるまま大人しくこちらの用意した服を着てくれるのは嬉しいし、ひどく安心する。
 また、目隠しの所為で尚文は元康に手を引かれなければ移動することさえままならない。これでどうやって戦闘を? という疑問がないわけではなかったが、手を引かれて大人しく付いてくる尚文の姿に元康は言いようのない充足感を覚えていた。
 そんな尚文のために本日用意したのは彼のイメージカラーとなりつつあった緑とは対照的な色……赤を基調としたシャツである。尚文に似合うものを選んだつもりではあるが、決してそれだけではないことを元康自身よく理解していた。
 何ておこがましいのか、とは思う。しかしそれでもかつて元康が良く身につけていた色を尚文にもまとってほしくて、ついに今日、用意してしまったのだった。目隠しをしたままの尚文に服の色などわかるはずもなく、完全に元康の自己満足なのだが。
 元康はかすかに苦笑を漏らしてから、尚文に服を着替えさせるため持っていたそれを広げた。見えはしないが、尚文の眼前に赤が広がる。
 その、直後。
「ガァ!」
「お義父さん?」
「ア、ガ、っ!」
「どっ、どうされたのですかお義父さん!」
 眼前に赤色が広がった瞬間、尚文が威嚇するかのような声を上げた。心配して元康が一歩近付いたものの、尚文の威嚇はさらに激しくなるばかり。グルグルと野犬や狼のように唸る様子から感じられるのは敵意しかなく、先程まで物静かだった彼とは正反対だ。
 それでも元康の前で攻撃モーションを取らないのはこちらをマスターであると認識しているからなのか。そうであってほしいと期待を込めながら、元康は折角用意した服すら床に投げ捨てて、
「大丈夫ですぞ、お義父さん」
 空いた両手で尚文をひしと抱きしめた。
「グ、ァ! ガッ! グ、ゥゥ……ガ……」
「もしかして何かを思い出してしまったのですか? でしたら、だいじょうぶ。だいじょうぶですぞ。ここには貴方を苦しめるものなどありません。あったとしても俺が全て打ち払いましょう」
「……ア、ァ」
 腕の中で、強ばっていた身体から力が抜ける。その感触に元康はほっと息を吐いて目尻を下げた。
 尚文が何に反応して敵意を剥き出しにしたのかはわからない。唐突に記憶がフラッシュバックしたのか、それとも――
(急に威嚇し始めたのは俺が服をお義父さんの目の前に広げて見せてから……目隠しをしていらっしゃいますが、もしや本当は見えている……?)
 元康は内心でいいやとかぶりを振った。
 それはない。何せ尚文は元康が手を引かなければまともに移動することすらできないのだから。
(…………ですが)
 召喚してからこちら、常に元康が手を差し出し、それを尚文が取ることを繰り返してきた。しかし尚文を抱きしめて落ち着かせながら元康はふと己の思考に引っかかるものを覚えた。
 この三日間、元康はどこへ行くにもまず尚文に手を差し出し、彼の手を握ってから動き出すことにしている。どこかに行きたいと望んだ尚文が自分から動き出すところ≠ノ一度も遭遇したことがなかった。その前に元康が手を引くからだ。
 この事実を客観的に見て、尚文が元康に手を引かれなければ動くことすらままならないと本当に言い切れるだろうか。本当に、尚文の目が見えていないと言えるのだろうか。
「……お義父さん」
 恐る恐る口を開く。
 もしこれからする質問に肯定が返ってきたとしたら――。視界の外、足下でくしゃくしゃになっているであろう服の色は赤。元康が槍を振るっていた時によく身につけていた色だ。
(いえ、そんな……まさか)
 冷たくなった指先で元康は尚文の背をさらに強く掻き抱いた。「グ、ガ?」と落ち着きを取り戻した己のサーヴァントが逆に元康を気遣うようなそぶりを見せる。いや、ただ単に不審に思っただけか。
 元康のことを全く覚えていなかったこの人にどこまで記憶が残っているのか、まだ確かめられてはいない。
 背中にじっとりとした不快な汗が流れるのを感じながら元康は己を落ち着けるために一呼吸置き、尚文を閉じ込めていた腕を解く。そしてだらりと真下に腕を垂らした先で拳を握り、意を決して口を開いた。
「お義父、貴方は目隠しをしていても目が見え――」
 質問を最後まで言い切る前に視界がぶれる。腕を掴まれ強く引っ張られた直後、元康の部屋を轟音が襲った。


[chapter:3]


「キャスターならまだしもバーサーカーのマスターが穴熊を決め込むたぁ面白い話ですよねぇ」
 大きくえぐり取られた外壁にカツンと足を掛けた人物が未だ粉塵が舞ったままの室内へと語りかける。
 尚文によって間一髪攻撃を避けることができた元康は己のサーヴァントの背中越しにその襲撃者の姿を捉えようと目を凝らした。
 相手の声は高く、幼さが残る。かつ暢気な口調で話しかけてきたが、一切気を抜くことはできない。尚文にしようとしていた質問も何もかも後回しにして、元康は鋭く「誰だ」と誰何した。
「誰だ、ですか」
 一応問いかけてはみるものの確実に相手はサーヴァントだ。いくら腕に自信がある魔術師だったとしても敵サーヴァントの目の前にマスター本人が出て来るはずがない。それに曲がりなりにも北村家は魔術師の家系。結界は幾重にも張り巡らされていた。それを容易く破壊して侵入してみせたのだから、強大な力を持つサーヴァント以外には考えられなかった。
「ふふん。まぁ正々堂々名乗って差し上げるのもやぶさかではありませんが、マスターに禁じられていますので真名はご勘弁ください。ですからクラス名を」
 ブォンと武器が振られ、立ちこめていた粉塵が一気に払われる。風圧で髪を乱されながらも目を逸らさなかった元康の視線の先にあったのは――
「この度、ランサーのクラスで現界いたしました。以後、お見知りおきを。……そして早速ですが」
 長い黒髪に青灰色の瞳。整った目鼻立ちの少女の形をしたそれが手にするのは朝日を弾く柄の長い武器。
 自分の身長ほどの長さがある槍をくるりと器用に一回転させ、槍兵の英霊は愛らしくにこりと微笑んで見せた。
「死んでくださいな」
 轟音。
 防御の魔術を展開する間もない。しかし生身の人間である元康に大したダメージは入っていなかった。
 それもそのはず。ランサーの死の宣告の直後、轟音の発生源となったのが彼女単体ではなかったからだ。
「お義父さん……ッ!?」
 元康の目の前にあったはずの背中が今やランサーに肉薄している。禍々しい炎のような盾を構え、己からランサーの槍を受け止めに行った尚文は口枷のままニィと好戦的に唇を吊り上げた。
「ガアァ!!」
 盾と槍の接触から一瞬の間を置いて発動したのはダークカースバーニング。
 吹き出した黒い炎に少女の身体が飲み込まれる。槍と盾がぶつかり合った時よりも激しい衝撃波が元康を襲った。
 今度は魔力障壁の生成が間に合ったものの、攻撃の余波は瞬く間に室内の大半を焼いてしまう。それにダークカースバーニングの効果範囲からギリギリ外れているにもかかわらず、魔力障壁越しに元康に伝わる威力は非常に大きく、今にも壊されかねない程だ。戦闘態勢に入ったバーサーカーから要求される魔力も膨大で、元康は口元を引きつらせながら魔術回路を思い切り励起させた。
 幸いにも尚文の魔力消費量に元康の魔力生成量が追いついているためこのまま戦闘が続行されても支障はない。神秘は秘匿すべきとされているにもかかわらず日中からの大爆発と大炎上など派手すぎるにも程があり、聖杯戦争を監督する聖堂教会は隠蔽工作に大忙しだろうが、そんなものは元康の知ったことではなかった。
 敬愛する人と共に今この戦いを勝ち抜く。それが最優先事項だ。
 たとえランサーに対する尚文の攻撃に狂気の気配が覗いたとしても。
「ひっ……、くぅ!」
 半身を黒い炎に舐められながらランサーの少女がダークカースバーニングの範囲外へと飛び出す。そのまま地面に落下し――この部屋は二階だったが、サーヴァントにとっては大した高低差でもないだろう――焼けた右腕を庇いながら立ち上がった。
「……っくそ、呪いとはまた厄介な」
 もはや使い物にならない右腕を一瞥して呟くランサー。
 袖の部分が焼け落ち肌は炭化している。その周囲の肌には黒い痣が広がって首筋を伝い、頬にまで及んでいた。
 痣のできた頬を歪ませ、ランサーは左腕一本で槍を構え直す。残念ながら撤退の選択肢はないらしい。庭に落ちたランサーを追って尚文もまた壁に空いた大穴から飛び出す。落下していくその身体を覆っていくのは召喚当初に身につけていた黒い鎧だ。霊子で憤怒の鎧を生成した尚文は、元康がいつか見たあの時の『お義父さん』を思い出させる姿で庭に降り立った。
「どこの英霊かは存じ上げませんが、なんともまぁおぞましい力と姿をお持ちで」
 劣勢なのは明らかではあるもののランサーの口調に変わりはない。ただそのような発言も狂化を施されたサーヴァントにはほぼ無意味。落ち込むことも躊躇うこともなく尚文は容赦なくランサーに向かっていく。
 代わりに顔をしかめる羽目になったのは元康の方だった。
 おぞましい力と姿。それはひとえに元康の愚行による結果である。埋もれて上書きされて消えたはずの過ちを全く関係のない他者の口から指摘され、元康は痛む胸を服の上から握りしめた。
 尚文は狂ったように――否、実にバーサーカーらしく、ランサーへの攻撃の手を緩めない。何とか口調だけは余裕を見せようとしていたはずのランサーも言葉数が少なくなり、唇を割って出るのは短い悲鳴ばかりとなる。ダークカースバーニングが近距離攻撃を受けた時限定のカウンター攻撃だとわからないのか、それともわかっていて近距離攻撃しか手段がないのか、尚文への攻撃を試みては徐々に火傷の部分を増やしていった。
 さすがにこれでは勝てないと判断したのだろう。おそらくマスターから逃走の許可が下り、ランサーの表情に僅かな希望がともる。しかしそれを許してくれるバーサーカーではなかった。ランサーが背を向けた途端、尚文がドラゴンの鉤爪のような手で少女の黒髪を掴み上げる。
 ガクンと引き留められた身体にランサーが隙を見せた一瞬、その周囲に複数の盾と鎖が生じて彼女を内側に捕らえてしまった。あとはもう、尚文の数少ない攻撃手段を知っている元康にとっては予想通りの光景が展開されるのみ。
 球形に閉じた盾が浮上し、上空に現れた鋼鉄の処女の胸に抱(いだ)かれる。
 容赦など一切存在しなかった。敵が少女の姿だったとしても、逃走の様子を見せていたとしても、無慈悲に、残酷に、バーサーカーは己が身に供給される潤沢な魔力を惜しげもなく消費して処女の胎を閉じさせ、したたり落ちてきた大量の血液を前にして歓喜の雄叫びを上げてみせた。
「お、とう……さん」
 その光景を元康は二階の大穴から唖然と見下ろす。
 狂ったように吼える尚文の足下には砕かれ血に濡れた槍だったもの。それもやがて霊子の粒と化し、焼け焦げた地面から姿を消す。
 赤く濡れた槍は元康に『何か』を連想させ、そしてそれを自覚する前に元康の意識はブツリと途切れた。


[chapter:4]


「『俺』が『槍兵』を殺すのがそんなにショックだったのか?」
 上も下も右も左もわからぬ空間でその人物は元康に語りかけてきた。
 さっきまで己は襲撃してきたランサー相手に戦っていたはずだ。そして尚文の圧倒的勝利を見届けて……。
「直後にお前はぶっ倒れた。狂った盾の勇者が槍を使う人間を無残に容赦なく殺した光景を目にして≠ネ」
「――ッ」
 元康は息を呑み、どうやら閉じていたらしい双眸を大きく見開く。
 そこは夜のような世界だった。「ような」としか表現できないのは地面に相当する場所が見当たらないからだ。宇宙と称した方がわかりやすいかもしれない。ただし闇の中に見知った星は一つもなく、代わりに星かどうかも知れない大小様々な輝きが頭上にも足下にも存在し、かすかな明滅を繰り返していた。
 元康は戸惑いながら周囲を見回し、そして声を発した人物を発見する。
「……、!」
 お義父さん、とその口は動いた。しかし言葉として口から出ることはない。
 作り物のような世界で深緑のマントが小さく揺れる。その身体に黒く刺々しい鎧はなく、言葉を遮る口枷も、視線を遮る目隠しも存在しない。『最初のお義父さん』が口元に嘲りを滲ませて元康を眺めていた。
 目隠しも口枷もない。それは目の前の尚文が狂った存在ではないということ。北村元康が貶めて辱めて狂わせた岩谷尚文ではない≠ニいうことだ。
 その事実に対し元康は無意識に安堵するが、
「……勝手なものだな」
 言葉にされない元康の心を読んだかのようなタイミングで尚文が呟いた。
「そんなに今の俺の姿が嬉しいか?」
 憮然とした表情で翡翠色の双眸が元康を睨(ね)め付ける。
 元康は眉尻を下げて唇を引き結んだ。尚文の言うことはもっともである。バーサーカークラスのサーヴァントとして召喚された『岩谷尚文』は元康の愚行の所為で生まれてしまった存在だ。であるにもかかわらず、その彼とは別の道を歩んだ尚文が目の前にいるだけで喜んでしまうだなんて、本当に自分勝手が過ぎる。恥ずべき行為だ、と元康は素直に反省した。
 しかしそれすら間違いだったらしい。尚文が「はあ」と大袈裟に溜息を吐き、「お前は本当に何もわかっちゃいないんだな」と呆れたように告げる。
 どういうことですか、お義父さん。と、再び口を開くも音にはならない。だがこの不思議な空間では、どうやら元康の考えが直接尚文に伝わるらしい。どうして喋れないのだともどかしく思う元康に難なく尚文が答えを返した。
「元康、お前は目の前に現れたのが目隠しも口枷もない『岩谷尚文』だったから安堵したんだ。……目を見せることも話すことも禁じたのはお前自身なのに、なあ?」
 は、と元康は一瞬呼吸を止めた。
 口がきけたなら「待ってほしいのですぞ!」くらいは言えただろう。しかしこの空間で元康が喋ることはできない。代わりに尚文がその心情を読み取って不機嫌そうに眉根を寄せる。
「無意識ってのが余計に質が悪い」
 視界がブレる。深緑のマントがあったはずなのにそれが消え去り、尚文のまとう衣服が緑や黒ではなく白っぽく質素なものへと差し替わった。
「『俺を憎むような目で見ないでください』」
 誰かの心情を代弁するように尚文の声が虚空へと紡がれる。
 と同時に、その顔の上半分を覆い隠したのは真っ黒な布。分厚いそれが尚文の双眸をすっぽりと覆い隠してしまった。
「『俺を嫌う言葉を口にしないでください』」
 尚文が代弁しているのが誰の言葉かなんて、彼に言われずとも元康はわかってしまった。
 ゆえに顔を青ざめさせながら元康は、敬愛する尚文の唇が歪み、そしてどこからともなく現れた金属の棒のようなもので作られた口枷を食む姿を黙って見つめざるを得なかった。
 尚文の手が頭の後ろに回って自ら口枷のベルトを締める。手を下ろした時には身にまとう衣装すら変わって、悪竜を模した禍々しく黒い棘の付いた鎧になってしまっていた。
 そこに居たのはもはや『最初のお義父さん』ではなく。
 枷の奥から押し殺したようなうめき声を僅かに漏らしじっとそこに佇むのは、元康が犯した罪の形そのものだった。


[chapter:5]


 元康が目を覚ましたのは、半壊した自室から離れた場所にあるゲストルームのベッドの上だった。おそらく戦闘後に気を失った元康を見つけ、家の者が運んでくれたのだろう。
 黙したまま身体を起こせば、サイドテーブルの上に水差しが置いてあった。それに遠慮なく口を付け一息吐いた元康は、先程からずっと部屋の隅に亡霊の如く佇んでいた人影へと声をかける。
「……お義父さん」
 ランサーと戦っていた時の狂気はすでに微塵もなく、ただ禍々しい鎧姿だけは健在で、バーサーカーのサーヴァント岩谷尚文が目隠しをしたまま顔を上げた。
 こちらへ来ていただけますか、と声をかければ、元康のサーヴァントは抗う様子もなく素直に近づいてくる。そしてベッドのすぐ傍で立ち止まった尚文に元康は目を細め、
「目隠しを……取って、ほしいのですぞ。それに、口枷も」
 静かな声で乞う。
 気を失っている間に見た夢のことは一切忘れていなかった。だからこそそれを振り払いたくて元康は尚文の素顔を見せて欲しいと願った。
 己は尚文に憎しみの目を向けられることを恐れて愚かにも目を隠すよう望んだわけではない。その口から怨嗟の言葉を聞きたくないが故に傲慢にも口枷を望んだわけではない。だからこそそれを今ここで取り払うことを尚文に願えるし、どんな目を向けられようとも、どんな言葉を吐き出されようとも、全て受け止めきれるはずだ。
 強く強くそう願い≠ネがら、元康は尚文の手が真っ黒な目隠し布にかかるのを見つめる。
 くっ、と軽い力で引っ張るだけで布は驚くほどあっさりと外された。
 その奥から現れたのは――

「…………やはり、口枷は、外さないでください、ですぞ」

 元康はそれだけを何とか呟いて顔をうつむかせた。
 これ以上は、己が折れる=B
 黒い布の奥から現れたのは、何の感情も浮かばない、暗く淀んだ双眸。
 しかしその色は鮮やかな緑などではなく、憤怒の呪いに侵されて血のように赤く染まっていた。
「……っ」
 燃えるような憎しみを突きつけられるより、なお酷い。
 今の尚文は元康が己をこんな姿に貶めた犯人であると理解していない。理解できていない。そう判断するだけの記憶がない。しかし元康を元康と認識していなくとも、元康が犯した罪は尚文にまざまざと刻みつけられている。元康を元康と理解できないからこそ、謝罪することさえ許さずに。
 元康は両手で顔を覆った。
 そうして閉ざされた視界の中で思う。
 あの夢で気づかされた通り――……否、それよりも前、敵サーヴァントの襲撃を受けるより前に気づいていた通り、尚文の目隠しは彼の視界を遮るためのものではなかった。あの黒い布があっても尚文は周囲を見ることができている。そして布の本当の役割は、

『俺を憎むような目で見ないでください』

 尚文の声で再生された、北村元康の本心。
 嗚呼なんと醜いのだろう。自分勝手なのだろう。傲慢。恥知らず。様々な罵詈雑言が胸中で暴風雨のように荒れ狂う。
 その一切を否定せず、元康は自嘲の形に唇を歪めた。
「どうすれば俺は貴方に償うことができるのでしょうか」
 絞り出すような声で元康は問う。
 けれどもバーサーカーは答えない。呻き声すらなく、代わりに淀んだ血色の瞳を再び黒い布で覆い隠す小さな衣擦れの音だけが元康の耳に届いた。


[chapter:6]


『それ』は己が何者であるかも知らぬまま形を成した。
『それ』は己が何者であるか理解するための記憶を欠いたままこの地に召喚された。
 記憶の欠落は狂化によるものか、それとも別の原因によるものか、『それ』にも『それ』を召喚した魔術師にもわからない。ただ事実として『それ』は己が英霊の座に召し上げられた理由となる自らの経歴を知らず、そもそも名前すら覚えていなかった。
 空虚な頭と胸に残っていたのは激しい憎しみと怒りを覚えずにはいられない色と形のみ。目も覚めるような鮮やかさを持つ赤と、長い柄の先に刃が付いた武器……槍だ。
 あれはいけない。あれは良くない。『それ』を貶め辱めて、全てを奪っていくものだから。

「どうすれば俺は貴方に償うことができるのでしょうか」

 この身を焼き尽くさんばかりの狂った衝動もすでになりを潜めた後、気絶した魔術師――北村元康がようよう目を覚ました。そうして『それ』を召喚したマスターは、『それ』に僅かばかりの指示を与え、しかし一部を撤回した後、顔を両手で覆ってうつむいてしまう。
 彼が何を見てどう思いそんなことになっているのか『それ』には正確な判断ができない。しかしおそらくは目隠しを外したのが良くなかったのだろうと考え、『それ』は再び黒い布で己の顔半分を覆い隠す。
 身につけている鎧と同様に魔力で編まれたこれは相手からこちらの顔を隠すものの、こちらの視界を遮ることはない。ゆえに目隠しをしてもなお『それ』は魔術師が気落ちしている様子を見ることができた。
 おそらく泣いてはいないだろう。しかし背中を丸めてうつむく姿は哀れを誘う。
 彼は己のサーヴァントに対し何らかの償いをしたいらしい。だがその対象たるこちらとしては、彼に何かを償ってもらう必要性を感じていないのが現状だ。
 召喚されて数日経つが、このマスターは自身の従僕に対し何の理不尽も働いていない。むしろ日々必要以上にこちらを気遣ってばかりだ。となると、それ以前の何かに対して償いたいのか。しかしどうやら彼の方は以前からこちらを知っているようではあるものの、大きく記憶を欠いている所為で過去に何があったのかもわからぬ身としては、先述通りその必要性をいまいち理解できないままだった。
 だから。
「――っ、お、義父、さん?」
 鉤爪のようになっていた鎧を右手だけ解き、指先でそっと青年の髪に触れる。金色の髪はさらさらと手に心地良くていくらでも触っていられそうだ。
 突然の接触に驚いた魔術師は伏せていた顔を上げ目を見開いていた。まんまるく開かれた瞳は『それ』が嫌う赤色だったが、必要以上に潤んだ双眸の所為で焼け付くような衝動は瞬きの間すらなく消え去る。
 残ったのは弱った姿を見せる魔術師への同情とも愛情ともつかぬ思い。形すら定まらない感情に促されるまま、『それ』は幾度も金の髪に指を滑らせた。
 やがて見開かれていた赤い瞳がそっと瞼の裏に隠される。
「お義父さんはいつも本当にお優しいのですぞ……」
 ほんの少し肩から力を抜いて呟く魔術師。
 召喚されてからこちら、いつも優しくしてくれたのは彼の方だと言うのに……と、『それ』は自身のマスターの言葉に首を傾げた。しかし目を閉じた魔術師の青年がそんな動作に気づけるわけもなく、安らかな表情で髪を梳かれる感触に浸っている。
 記憶を大きく欠いているためか『それ』に叶えたい願いなど無かったが、そっと撫でられるだけで少し救われたような顔をするこの青年がもっと……心の底から穏やかでいられるようになればいい、つらい顔をしなくてもいいようになればいい、という感情が芽生える。
 その願いを叶えるならばやはり聖杯を得る必要があるだろう。
 言葉を禁じられたこの身では慰めの言葉すらかけられない。そもそも己は彼の友人でも家族でもなくただの従僕である。戦うことに特化した身でマスターの安寧を願うのなら、召喚された目的通り戦って戦って戦って六騎のサーヴァント全てを倒してしまえばいい。そうして聖杯を得たならば、きっと願いは叶えられる。万能の願望器は使用者本人が詳細な手順や過程を意識せずとも望んだ結果をもたらしてくれる物だから。
 静かに『それ』は戦う意志を固める。
 ただ単に戦うだけではない。この聖杯戦争を勝ち抜き、必ずや聖杯を手にするという意志を。







2019.08.12〜2019.09.08 Privatterにて初出