BAD APPLE




[chapter:21]

「急にお呼び立てして申し訳ありません、イワタニ様」
「いや、あちらの国が一筋縄じゃ行かないことくらい最初からわかっていたことだ。むしろ無理をしてでも来てくれたオストには礼を言った方が良いだろう。勿論上手く立ち回ってくれた女王にも」
「ありがとうございます」
 ミレリアは軽く目礼し、カルミラ島近海からメルロマルク城へと転送してきたばかりの尚文を客人が待つ部屋へと案内する。なお、諸事情によりいつも同行している二人の少女の姿は無い。
 客人とは、尚文が以前から面会を希望しミレリアに協力を要請していた女性――霊亀が眠る国で王から寵愛を受けるオスト=ホウライ妃だ。
 その正体は霊亀そのものであり、人の形として具現化したものである。王に取り入り数多の民衆の命を無駄に消費させるような悪女的振る舞いが目立つ彼女だが、それは本来の性格によるものではなく、生物の魂を集めて世界を守る結界を生成するという存在理由によるものなのだとか。事実、今回先触れなど一切なく突如としてメルロマルク城に現れたオストと対話する機会を得たミレリアは、世界会議の折に国の代表として言葉を交わした時と全く異なる彼女の様子に驚いた。と同時に尚文が言っていたことが事実であると改めて認識することができた。
「一度はオスト妃の要望で正式な会談の場が設けられるはずだったのですが……あちらの国が急に意見をひるがえしまして」
「やっぱり自分の寵姫が他の国の男と会うなんて考えたら許せることじゃなかったか。だが外に情報は漏らしていないようだし、それだけは褒めてやる」
「情報の規制は全てオスト妃によるものでしたがね」
「……本当にろくでもない国だな。いや、オストがそうなるよう作り変えてきたのか?」
「自分でも頭が痛いとおっしゃっておられましたよ」
 情報交換と言い訳と愚痴を交えながら二人で廊下を進む。
 尚文と顔を合わせてまだ日が浅いにもかかわらず、何となくそれなりの付き合いをしてきたような気安さがあってとても不思議だ。ぽんぽんと交わされる言葉の応酬は、かつてのオルトクレイのような賢人とのそれとはまた違う『理解されている』という感覚をミレリアに与えた。
 知り得ないはずのことを知っていることといい、付き合いが浅いにもかかわらず馴染んだ雰囲気や振る舞いといい、異世から召喚された勇者であることを差し引いてもやはり尚文は奇妙な存在だと思う。しかもそれが不快ではない。彼の言葉は裏付けを取れば取るほど真実だと判明するし、彼の態度そのものがミレリアに対して――と言うか、おそらく彼が認めた者に対して――とても誠実である。それが不思議な彼を警戒できない理由だろうか。
 やがてミレリア達はオストを待たせている部屋の前まで辿り着く。女王自ら尚文を案内したのと同様に、情報の秘匿性から部屋の前で護衛する兵士の数も最低限だ。ただしオストはただの人間ではなく霊亀という強大な力を持つ存在と同一であるため、実のところ城の兵士程度の護衛など必要ないのかもしれない。また彼女が不審な行動を取らないよう監視するための配置だったとしても、オストが本気になれば意味など成さないだろう。いずれにせよ無意味なことだ。
 ……否、それは違ったらしい。とミレリアは扉の両脇に立つ兵士達の表情を見て思った。
「女王陛下……それに、盾の勇者様」
「ああ、お前達か。久しぶりだな」
「っ、はい! お久しぶりです。覚えていてくださり、光栄に存じます」
 どうやら護衛として配置された者は盾の勇者と面識があったようだ。おそらく話に聞いていた、メルロマルクを襲った三番目の波の際に尚文の元で戦った兵士達なのだろう。偶然にしては出来過ぎているので、三勇教に毒されていなかった城の者が事情を察して今のようにしてくれたのだと思われる。オストの件はまだ知る者が限られているので思い当たる顔も少ない。それらを思い浮かべながらミレリアは小さく口元に笑みを浮かべた。
 二人に対し一礼した兵士達は部屋の中にいるオストに声をかけ、扉を開く。と同時に、椅子に座って待っていたつり目の美女が静かに立ち上がるのが見えた。
 ミレリアと尚文が部屋に足を踏み入れれば、オストは深々と頭を下げる。国王に取り入る悪女というイメージとは正反対のその態度こそ彼女の真実なのだろう。
 尚文とオストが互いに名乗り――二人が初対面であることをミレリアはこの時初めて知った――、丸テーブルを囲むようにして三人が席に着くと早速会談が始まった。
「盾の聖武器の所持者、まずはこの場を設けてくださったことに感謝を。メルロマルクの女王にも」
「こちらこそ来てくれて礼を言いたい。が、こちらが嘘を言っているとは思わなかったのか? 俺としては本当のことしか言っていないつもりだが、他の者からすれば荒唐無稽な話だろう」
 尚文の言葉にしかしオストは首を横に振る。
「残念ながらすでに霊亀本体に侵入を試みようとした者がおります。メルロマルクの女王から連絡をいただいた直後は正直なところ半信半疑でしたが、現実としてあのようなことがあれば信じないわけにはいきません」
「侵入者? まさか……」
 尚文の表情が険しくなる。「ええ」とオストが頷いた。
「貴方が捕縛を指示しているキョウという男かと。特徴も一致していました」
「霊亀の中を弄られたりはしていないんだろうな」
「連絡をいただいた後、念のため内部への侵入を妨げるよう防衛体制を強化しておりましたので、何とか。しかしそう何度も防げるものではないでしょう」
 ゆえに早々にキョウ=エスニナを捕まえなくてはならない。
 オストの言葉に尚文は肯定を返して「キョウを捕縛する件でも協力を願いたい」と告げる。
「私ができることであれば何なりと。ですがその前に一つ、盾の聖武器の所持者にお願いがあるのですが」
「何だ」
 口調はぶっきらぼうだが、オストに向けられた尚文の目は優しい色をしていた。どうして初対面の、しかも名乗ったにもかかわらず未だ名前で呼ぼうともしない相手にそこまで信頼を向けられるのか。それはミレリアだけではなくオストも疑問に思ったようだ。しかし優先事項があるらしい彼女は自身が抱いた戸惑いを一瞬で隠し、尚文が所持する盾を繊手で示した。
「貴方の盾に触れさせていただきたいのです」
「オスト妃、それはさすがに……」
 尚文が答える前にミレリアが苦言を呈する。
 盾は尚文を勇者たらしめている大切な聖武器だ。他人にそう易々触らせるわけにはいかない。
 しかもオストはただの人間ではなく霊亀そのものである。勇者と同じく世界を守るための存在でありながら、その手段は到底人間側が受け入れられるものではなく、現状、『世界そのもの』ではなく『この地に生きる命』を守ろうとしてくれている勇者とはある意味で対立関係にあると言える。
 そんな彼女が盾に何をしようとしているのか。多くの命が住まう国の女王として、また尚文の支援者として、ミレリアは警戒を露わにした。しかし――
「構わない。触れたければ触れてくれ」
 当事者たる尚文があっさりと許可を出してしまう。「イワタニ様?」と名を呼んでミレリアがその真意を確かめれば、彼は口元に僅かな苦笑の気配を滲ませた。
「女王にも、それどころかオストにもわからないとは思う。だが俺にとってオストは信じるに値する人物なんだ。だから盾に触れられることも一向に構わない。……さあ、オスト」尚文は立ち上がりオストの方へ近付くと、スモールシールドを持つ手を彼女に向ける。「アンタが何をしたがっているのか俺には予想できないが、アンタが悪いことをするとは思っていない。霊亀と盾の……精霊? には、因縁があるとかいう話も聞いたことはあるけどな。旧交を温める何なり、好きにしてくれ」
「……では」
 爪まで美しい白く細い手が盾の中央に収まる緑の宝石に触れる。オストは目を閉じ、神経を研ぎ澄ませているようだった。
 やがて宝石の部分が淡く明滅を繰り返し始める。不規則な光の揺らぎは、まるで宝石が――尚文の言葉を借りるなら『盾の精霊』が――オストと言葉を交わしているように見えなくもない。
 やがてオストは目を閉じたままであるものの、僅かに息を呑み、そして。
「オスト妃……?」
 彼女の目尻から溢れ出た一筋の涙にミレリアは驚き、名前を呼んだ。
 その声に促されたかのようにオストが両目を開く。髪と同じ透明感のある紅茶色をした瞳が瞼の奥から現れると、たっぷりの涙を含んだそれが尚文を一心に見上げた。
「ナオフミ、さん」
 頑なに尚文を『盾の聖武器の所持者』と呼んでいた彼女の変化に、その言葉を向けられた当人が翡翠色を双眸を大きく見開く。
「オスト、どうした」
「盾の精霊から貴方の歩んできた道を見せていただきました」
 彼女は尚文の手を両手で包み込むと、祈るように己の額へ宛がった。
「私は……霊亀は、貴方のおかげでとても幸せな最期を迎えることができたのですね」
「ッ! お前、俺の記憶を」
「はい。不躾な真似をして申し訳ありません。しかし私には知る手段があり、そして私にそのような瞳を向けてくださる貴方のことを知りたいと思ったのです」
 未だ尚文の手を握り締めたままオストはふわりと優しく微笑む。
「全て得心が行きました。おまけに私は今、とても嬉しい。だって世界中の命から蔑まれ、恨まれ、憎まれ、死を望まれて消滅するはずだったのに、私の死を悲しんでくださった方々がいたのですから。ありがとうございます、ナオフミさん。霊亀である私にとってこれ以上の幸福は無いでしょう」
 オストが浮かべる心からの笑みに尚文は眉根を寄せる。彼は苦しげな表情で絞り出すように告げた。
「惜しまれようが何だろうが、死ぬことを幸福だなんて言うなよ」
 繊手に包まれた己の片手にもう一方の手を重ねて尚文は不器用に口の端を持ち上げる。
「だから、今度は死なせない」
「――っ」
「本体にはもうしばらく眠ってもらって、人型のお前には控えめに悪女を演じてもらうとするさ。そして気が向いたら俺達と一緒に旅をしてくれてもいい」
「っ、はい。はい!」
 オストの白い頬の上をほろほろと幾筋もの涙が流れていった。
 ミレリアには二人の会話の意味が半分も理解できない。どういうことなのか可能性としては考えられるが、確証が無かった。しかしそれでも二人が協力してミレリアを騙しているわけではないことくらい容易に想像できる。
 彼らはきっと、今、とても大切なものを共有したのだ。
 オストはしばらくの間、美しい涙を流し続け、彼女に手を握られたままの尚文はその場でじっと彼女の歓喜の涙を見つめ続けた。
 そうして涙で赤くなってしまった目で尚文と視線を合わせたオストは、キョウ=エスニナ捕縛のための協力を改めて了承すると共に、尚文へと新たな盾の能力を授けた。
 霊亀の心の盾という名のそれを眺める尚文はとうとう耐え切れずに破顔する。ほんの少し、気付かぬほどに翡翠の双眸を潤ませて尚文が笑った。
「あの時と同じ盾なのに、あの時とは全然気分が違う」
 つるりとした形状の盾を撫で、翡翠の瞳が優しく細められる。
「クソみたいな世界でやり直す羽目になった時は怒りに我を忘れそうになったが、こうしてお前を救うことができたなら、これこそ幸運と言えるのかもしれないな」
「勿論、貴方の大切な人々と出会えたことも含めて、でしょう?」
「ああ」
 愛しい者達を思い描くように尚文は一度目を閉じ、ゆっくりと開ける。次いでミレリアにも向けられた視線の意味は、改めて言わずともわかることだ。
 胸の奥が熱くなるのを感じながらミレリアはこの優しい空気を壊してしまわぬようそっと口元をほころばせた。



[chapter:22]

 カルミラ島の沖合には水中神殿が沈んでおり、内部に龍刻の砂時計が存在しているらしい。それを確かめてくると言い、日中にボスからドロップした潜水時間増加≠フ効果がある『ペックル着ぐるみ』を持って尚文が日没とともに出かけていった。
 わざわざ夜に出かけたのは、カルミラ島の島々と同様に水中神殿がある島らしき部分も赤く輪郭が光って見え探しやすくなるためなのだとか。そして夜だからこそ、昨夜家族風呂でのぼせて倒れてしまったラフタリアを案じて尚文は彼女の同行を許可しなかった。日中頑張ってくれているのだから夜間は休んでおけ、と。
 大切にしてもらっているのが伝わってきて嬉しく思うものの、彼の剣として付き添えないのが悔しい。贅沢な悩みだと自身でも理解しつつ、ラフタリアはフィーロと共にホテルで主の帰還を待つこととなった。


 一昨日の夜に見てしまった光景が脳内から消えてくれず、ラルクベルクは気持ちを静めるため浜辺に来ていた。陸から海へと吹く夜風が短く切った赤い髪を掻き混ぜていく。ホテルから少し離れたそこは人々の喧騒も聞こえず、波の音だけが響いていた。
 しかし砂浜に辿り着いても赤く色づいた肌色が脳内から消えてくれない。
 同行者であるテリスも眠ってしまった一昨日の深夜、どうせ誰もいないだろうと思ってメインの大きな露天風呂へ向かえば、そこには先客が二名。ラルクベルクと入れ違いに上がろうとしていた彼らのうち一方はカルミラ島行きの船でも一緒だった岩谷尚文と名乗る青年だった。
 悪ぶってはいるものの先日までメルロマルク国第二王女誘拐の件で指名手配されていた盾の勇者の手配書の似顔絵とは似ても似つかぬ容貌ゆえに、尚文が本物の『盾の勇者・岩谷尚文』だとラルクベルクは思っていない。禍々しさを感じる装備か否かという点でも、以前『盾の勇者』と戦ったグラスから聞いている話とは全く違っていた。おそらく何らかの事情があって偽名を名乗っているか、もしくはたまたま同じ名前だったのだろう。
 ともあれ、ラルクベルクにとって尚文は出会った時から好ましいと思える人物だった。
 そんな人物が裸で、全身を桃色に染め、やけに色っぽい瞳と仕草でラルクベルクを見上げたのだ。その気が無くとも心臓は高鳴り、風呂につかっても全く身体が休まらなかった。
 翌日のレベリングは非常に気まずい思いで出向いたものの、宝石のこととなると目の色を変えるテリスのおかげで何とかいつも通りの調子を取り戻すことができたのでラルクベルクはほっとしていた。しかしそんな彼女とも離れると、途端に艶めいた光景が脳内によみがえって来てしまったのだ。
「こんなことしてる暇なんて無いはずなんだがなぁ」
 月を見上げてぽつりと呟く。
 ラルクベルク達の目的はこの世界の四聖勇者を殺し、自分達の世界を存続させること。活性化しているカルミラ島に来たのもそのためだ。
 異世界に渡ると元の世界でのレベルは無効となってしまう。そしてこの世界でレベルを上げれば、波が発生した時に元の世界で鍛えた分と強さが合算されることとなる。波が発生している間に確実に四聖を殺すのであれば必須事項と言えるだろう。
 限られた時間でラルクベルク達は強くならなくてはならない。たかだか旅の途中で出会った青年に心惑わされている場合ではないのだ。
(それに、俺にはテリスが――)
 想い人を脳裏に描き出し、雑念を振り払おうとする。
 しかしそんなラルクベルクを嘲笑うかのように、波が砂浜に打ち寄せるのとは別の音が耳に届いた。
「やっぱり有能なんだが、見た目がなぁ……」
「……っ、盾の坊主?」
「あ? その声はラルクか?」
 砂を踏みしめ海の方から歩いて来たのは、腕に何か大きなもの――暗くて良く見えないが、着ぐるみのようなもの――を引っ掛けた尚文だった。
 途端に速くなった鼓動に自分自身を叱咤しつつ、平静を装ってラルクベルクは尚文に近付いた。
「どうしたんだ、こんな所で」
「それは俺の台詞なんだが、まぁいい。こっちは探索だ。ボスからドロップしたアイテムが見た目の割に良い性能でな。そいつで海の中を探索してきた」
「日が沈んでから?」
「ここらの島と同じく輪郭が赤く光って見えるから夜の方が探しやすいんだ。で、お前の方は?」
「お、俺は……」
 海中に輪郭が赤く光って見える場所があるのか、そもそも何のためにそこを探していたのか、といった質問をする前に訊ね返されてラルクベルクは言葉に詰まる。自分の方は尚文のような真っ当な理由ではないのだ。まさか目の前にいる当人にお前の艶めいた姿が忘れられなくてそれを振り払うために夜の浜辺にやって来たなどと言えるわけがない。
「俺、は」
「……ラルク、どうした?」
 月の光に照らされてラルクベルクを見上げる翡翠色の双眸がきらきらと美しく輝いていた。
 昼間と同じ隙のない装備に身を固めているが、その下には露天風呂で見たのと同じ、張りのある肌と自分よりもずっと細い肢体が隠れているのだろう。今は白い肌も熱を灯せば桃色に染まり、見上げる瞳は潤んで輝きを増す。その様が容易く想像できてしまい、ラルクベルクは無意識のうちに喉を鳴らした。
「俺は、お前が」
「ラルク……?」
 両肩に手を置いてもまだ無防備な視線がラルクベルクを見上げる。緋色の瞳に獣のような欲が宿っていることに尚文は全く気付いていない。
 彼は一体どこまでこちらを信用してくれているのだろうか。会ってまだ間もないと言うのに、尚文がラルクベルクに向ける信頼は深く、そして心地よいほどに甘い。
「ラル、」
「黙って」
 囁くようにそう告げてラルクベルクは唇を寄せる。両目を閉じれば突然のことに驚いた尚文が腕に掛けていた荷物を落とす音がした。そしてラルクベルクの唇が尚文のそれに触れる、直前。
「やめておいた方が良い。お前が好きなのは俺じゃなくてテリスだろう?」
「――っ」
 唇が相手の吐息を感じられる距離で、それでも皮膚同士が接触することはなく、ラルクベルクは固まったまま目を見開いた。
 間近で見つめる翡翠色の双眸には相変わらずラルクベルクに対する信頼と親愛の情がありありと浮かんでいる。
「それとも好きな女に手が出せなくて欲求不満か? だとしても俺が手伝ってやるわけにはいかんな」
「……坊主には恋人がいるからか? あの金髪の」
 露天風呂ですれ違った美丈夫を思い出す。
 女が好みそうな大変整った顔立ちに筋肉がしっかりと付いた均整のとれた肢体。きっと引く手数多でありその自覚もある男が浮かべた完璧な笑みと、名前を問われて「『尚文の恋人』だよ」と返した言葉に潜んでいたラルクベルクへの敵意。
 まだ名も知らぬ、尚文の恋人。そしておそらく、尚文の身体をここまで美しく艶(あで)やかにしてしまった原因。
 あの男がいるから尚文は自分を拒むのか。ふとそんな考えに苛立ちが募ってラルクベルクは視線を険しくするが――

「あれを恋人だと思ったことは一度も無いな」

「は……?」
 あまりにも冷たく、そして刃の如く鋭い言葉にラルクベルクは唖然とした。
 単なる知り合いと言うだけであの金髪の男はラルクベルクに敵意を向けたにもかかわらず、その恋人であるはずの尚文は男を「あれ」呼ばわり。しかも恋人であることさえ認めていないのか。
 では二人の関係は一体何なのか。尚文はどういうつもりであの男と二人きりでいたのか。
「ラルク」
 戸惑いを見せるラルクベルクに先程とは打って変わって優しい声がかけられる。
 相手の頬を両手で優しく包み込んだ尚文は、しかし再び雰囲気をがらりと変えて露悪的に、そして妖艶に笑った。
「使えるものは何でも使う。それが言葉だろうと自分の身体であろうとも、だ。そうしなきゃまともに生きてこられない立場だったんだよ。俺は」
 頬に添えられている手の親指が動き、ラルクベルクの下唇をなぞる。
「ラルク、俺はお前を信頼している。大切だと思っている。だからこそ、俺はお前にそういう意味で触れられるわけにはいかない。お前には好きな女がいるんだから、キスもその先のことも全てその人に捧げればいい。な?」
 同意を求めるように、もしくは幼子をあやすように、最後は優しい声で告げて尚文はラルクベルクから一歩距離を取った。落としてしまった荷物を砂の上から拾い上げ、尚文はラルクベルクの横を通り過ぎていく。
 受けた衝撃が強過ぎてラルクベルクがその背を呼び止めることはできない。
 しかし代わりに尚文が途中で足を止めてもう一言声をかける。
「ああ、そうだ。昨日腕輪の対価として依頼した件の他に、近々もう一つ大きなことが起きる予定だから、これから忙しくなるぞ。早めに部屋に戻ってちゃんと休んでおけよ。じゃあな」
 ひらりと手を振り、今度こそホテルの方へ戻る尚文。
 その背中をぎこちない動作で見送って、ラルクベルクは彼に触れられた唇をのろのろと武骨な手の甲で覆い隠す。
「っくそ。だから、こんなことしてる暇なんて無いはずだろ、俺……ッ!」
 そう呻くものの、頭の中は宝石のような美しい緑の瞳のことでいっぱいで、ラルクベルクは一向に元に戻らず早鐘を打ち続ける己の鼓動に赤くなった顔をしかめた。



[chapter:23]

 水中神殿に存在する龍刻の砂時計を確認した尚文は、一旦ホテルに戻ってくるとすぐに女王との話し合いのためにメルロマルクの城へ飛んだ。残念ながらラフタリア達はまたもや留守番である。「早く寝るんだぞ」と言われ頭まで撫でられてしまった所為でラフタリアは反論も一切できず、彼が出掛けていった後に「ナオフミ様の方がちゃんと寝なきゃいけないんじゃないですか……」と呟くしかなかった。
 しかしそれも夜の間だけ。深夜に城から帰ってきた尚文は短い睡眠を取った翌日、早朝からラフタリアとフィーロを連れてカルマーペングー狩りを開始した。目的はドロップアイテムの『ペックル着ぐるみ』である。
 昨日一着だけドロップしたが、さらに二着必要なのだとか。フィーロはアイテムの補助無しに水中でも自由に泳げるので、尚文とラフタリアの分として二着。そして残る一着は三勇者の中に泳ぎの苦手な人物がおり、その彼のために用意する必要があるのだ。当人にボスと戦わせてドロップさせれば良いとも思うのだが、レベルアップ以外の強化方法を一部しか知らない勇者にとってボスクラスの敵は少々骨があり過ぎるらしく、時間短縮のために尚文の方で用意することと相成った。
 そんな手間をかけてまで四聖勇者にラフタリアとフィーロを加えた六人で確認したいのは、言うまでもなく昨夜尚文が見つけた水中神殿内の龍刻の砂時計である。勇者全員でカルミラ島を襲う波の猶予時間を正確に把握し、波が発生した際にはそのすぐ近くに転送されるよう登録しておかなくてはならない。
 午後からは四人の勇者と城から離れられない女王の代理として影が同席し、波に向けての情報共有が行われる予定だ。つまりそれまでにボスを複数回倒してドロップアイテムを確認し、着ぐるみを必要数揃えておく必要がある。
 島の奥、巨石がサークル状に並んだ場所で黒い球体を前にしつつ、現れたカルマーペングーの首を落としてラフタリアは尚文に訊ねた。
「ペックル着ぐるみ以外に水中を自由に泳ぐための方法って無いんですか?」
 有用性は認めるが、やはりあの見た目がよろしくない。着ぐるみを着るのを回避したい一心で、早速ボスのドロップを確認している尚文へと視線を向ける。
「潜水時間を長くする魔法もあるんだが……」ドロップアイテムが着ぐるみではないことを確認した尚文が肩をすくめた。「元康と樹ならともかく、錬みたいに水中で慌てるタイプだとそれでも不十分らしい。たぶん錬の奴は嫌がるだろうが、念には念を入れて用意しておこうかと思ってな」
「でしたら私と尚文様もその魔法があれば十分なのではありませんか?」
 すでに今日の戦闘でペックル着ぐるみを一着ドロップしているが、あと一着確保せずともここで尚文が頷けばカルマーペングー狩りは即座に終了となるだろう。
 しかし尚文は首を横に振る。
「泳ぐだけなら魔法で十分だろうな。だが万が一水中で魔物に出くわしたら、戦闘用ではないその魔法だとまともに戦えない。急な動きに対応できないばかりか、流れが速いところも都合が悪いらしい。元々アイツらに海中での戦いを期待するつもりも無いし、だったら俺とラフタリアが恰好は悪くとも性能のいい装備で警戒しておくのが一番安全だ」
「ごしゅじんさま、フィーロもいるよー!」
「ああ、そうだったな。いざと言う時は頼んだぞ」
「うん! まかせてー!」
 天使姿のフィーロがぶんぶんと両手に装備した爪を交互に振り下ろす。尚文の期待に応えようと、その小さな身体にはやる気がみなぎっているようだ。
「でしたら仕方ありませんね。……ナオフミ様、いきます!」
 ちょうど次のラルマーペングーが出現し、ラフタリアは地面を蹴る。「フィーロもいっくよー!」とその後に続いてフィーロも走り出し、ドロップアイテム目当てのカルマーペングー狩りが再開された。


「よし、こんなものか」
 剣についた血糊を払い、錬は独りごちる。その周囲には倒したばかりの魔物しかおらず、パーティを組んでいる仲間達の姿は無い。これはいつものことで、錬よりもずっと弱い仲間達には彼らに見合った強さの敵が出るエリアでレベル上げをさせていた。
 錬は単独でレベリングをしていたのだが、そろそろ頃合かと生い茂る木々の合間から随分高い位置に来た太陽を見上げて思う。
 本日は朝一で、カルミラ島に同行している女王の『影』から午後に会議を行うと連絡があった。急ぎの用件らしく当日に予定を決めてしまって申し訳ないと謝罪されたが、勇者が集まるイコール尚文に会えるということなので、錬としては全く謝られるようなことではない。むしろ午前中に席を設けてくれても良かった。が、それは都合が悪いとのことで――準備が整っていないとか何とか――、会議は午後に行われる予定となっている。
 錬が尚文とまともに顔を合わせるのは、実は島に上陸して以来だった。それまでは錬は日中ずっと魔物を倒して経験値を稼ぎ、夜は尚文が頻繁に出かけてしまうらしくホテルで顔を合わせることができなかったのだ。年甲斐もなくさみしく思ったが、その一方で尚文にはちゃんと強くなった後の自分を見て欲しいという気持ちもあり、島に来てからのレベリングの成果をステータス画面で確認した錬は思わず口の端を持ち上げ――……
「ん? 経験値が入っていないだと?」
 つい先程倒した魔物の経験値が加算されていない。途中までは経験値が入っていることを確認していたのだが……。これは一体どういうことなのか。
 考えられるのは他の四聖勇者が近くにいるという可能性。樹か、元康か。それとも、と考えたところで近くの木々が揺れた。
「錬? っと、すまない。経験値稼ぎの邪魔をしたか」
「尚文!」
 まさかのまさか、だ。
 早く会いたいと思っていた人物が現れて錬は普段澄ましている顔を歓喜でほんのりと赤く染める。
 島の奥の方から現れたのは盾の勇者、岩谷尚文。錬の様子からレベリングの邪魔をしてしまったと気付いて謝罪した彼は、後ろに二人の同行者を連れて歩み寄って来た。
「なんだか錬の顔を見るのも久しぶりな気がするな。どうだ、調子は」
「問題ない。レベルは順調に上がっている」
 尚文の隣に立てるよう頑張ったんだ、とは言えず、主張したい気持ちを抑えた所為で少々硬くなった声で錬は答える。それでも現在のレベルを伝えれば尚文が「そりゃすごい。やっぱり錬はその辺ストイックと言うか、さすがって感じだな」と褒めてくれたので、声とは逆に頬がゆるゆると緩んでしまった。
「ところでお前の仲間は? 一緒に行動していないのか?」
 周囲を見渡して尚文が訊ねる。
 現在の錬の同行者は四人。剣の勇者である錬に対し大変礼儀正しく従順で、適切な場所を指示しておけば指定した通りにレベル上げと素材の収集を行ってくれる。共に行動するのは波が発生した時と、錬一人だと手こずる魔物を相手にする時くらいだった。
「俺が指示した場所でレベル上げと素材集めをしているはずだが……」
 と、そこまで告げて錬は尚文の後ろにいる少女達を見やった。常に尚文と行動を共にしているらしい二人は錬の言葉を聞いて首を傾げている。どうして別行動をしているのだろう、と。盾の勇者一行の中では勇者と同行者が共に行動することが『普通』で『当たり前』のことなのだ。
 そう気付いた瞬間、錬は顔から血が引くのを感じた。
 錬の説明を聞いて尚文はどう思っただろうか。彼にとっての『普通』とは異なることをしている錬を奇妙だと、もしくは気味が悪いと思ってはいないだろうか。
「……別行動は、その、良くなかったか?」
 否定を心底恐れながら錬は尚文の顔色を窺う。
 勇者として召喚される前ならきっとこのように他人の顔色を窺って自分の行動に対し不安に思うことはなかっただろう。少なくとも不安という感情を表に出すような真似はしなかった。
 しかし尚文に出会って、彼の温かさに触れ、それなのに幾度も彼に迷惑をかけ、手助けするどころか守られっぱなしで、錬は彼から呆れられやしないかと酷く恐れるようになってしまった。
 ――嫌われたくない。呆れられたくない。捨てられたくない。見捨てないで。貴方というぬくもりを取り上げないで。強くなるから。貴方の役に立てる人間になるから。貴方の期待を裏切らない人間になるから。
 そう叫びながら彼に縋ってしまいそうになる。
 他人が聞けば大袈裟だと笑うかもしれない。しかし錬は真剣だった。真剣にならざるを得ないくらい錬にとって尚文はとても大きな存在になっていたのだ。それに対して自分は全く彼にとって益になる人間ではなく、いつ切り捨てられてもおかしくない存在だと思っている。こうして目をかけてくれるのも同じ四聖勇者として召喚されたからであり、そうでなければただの町ですれ違う住民Aくらいの扱いだったのではないだろうか。
 常に尚文の周囲には盾である彼にとって重要な役割を果たす攻撃手(アタッカー)がいる。彼女達に比べて自分は……と考えれば考えるほど、錬の胸には鉛のように重いものが溜まってしまうのだった。
 今もまた肺にずしりとした不快感を覚え、錬の視線は徐々に下がっていく。尚文と目を合わせられない。
 視界に収まっているのは尚文のつま先。それが一言もなく方向を変えて去ってしまったら……。錬は無意識のうちに拳を握り、細く細く息を吐き出した。
「そうだなぁ」
「っ」
 踵(きびす)は返されなかったが、錬の行動を否定するかのような発言に肩が跳ねる。それに気付いているのかいないのか、尚文は落ち着いた声音で続けた。
「仲間との別行動そのものを悪いと言うつもりは無い。それが剣の勇者としてのお前の判断であり、仲間達が従っているのなら何も問題はないだろう。だから」
 ぽん、と俯く頭の上の軽く手が乗せられる。
「そう自信無さ気にするな。お前は立派だ、錬。よく頑張っていると思う。だから胸を張っていれば良い」
「……っ、なお、ふみ」
 胸が詰まった。
 しかもそれは鉛のように重く不快なものではない。ただただ幸福で身体が破裂しそうなほど満たされる感覚に錬は思わず顔を上げる。尚文の手が頭を撫でていき、その感触にうっとりしながら見上げた先には優しく笑みの形に細められた翡翠色。
「俺は、これで良いんだろうか。間違っていなかったか」
 このまま努力を続けていれば、ちゃんと尚文の役に立てるようになるだろうか。彼から離れずに済むだろうか。
 そんな思いを込めて問いかける。
「大丈夫だ」
 尚文の返答は聞き間違えようもない肯定。
 そして彼は少し考えをまとめるように間を置き、「まぁ当然かもしれないが」と続けた。
「仲間と息を合わせて戦えるようになっておくのも大切だぞ。余計なお世話になったら済まないが、お前の仲間達ともう少し一緒に戦ったり互いのことを話し合ったりしておくのも良いかもしれない」
「ああ、ああ! すぐにでもそうしよう。尚文が言うなら間違いはない」
 これまでの自分のやり方を認められ、さらに足りなかった部分を補うようにアドバイスまでしてくれる。歓喜に胸を震わせる錬を見て尚文は「大袈裟だなぁ」と苦笑を浮かべた。
「そろそろホテルに戻らないと昼食を食べる暇がなくなるぞ。俺達はこのまま戻るが、お前はどうする?」
「仲間達を拾っていく。尚文達は先に行ってくれ」
 尚文からのアドバイスを早速実践したい。魔物と戦う時間は無いが、ホテルに戻るまでの道中で少し話をするくらいはできるだろう。
「わかった。それじゃあまた後で」
「ああ、また後で」
 錬は晴れやかな気持ちで尚文達の背を見送る。そうして彼らの姿が木々の向こうに完全に隠れてしまうまで見つめた後、指定した場所で魔物と戦っているであろう同行者達の元へ足を向けた。


 剣の勇者と偶然出くわして少々会話した後にその場を離れながら、ラフタリアは数歩先を行く主人の背中を見つめた。すでに穏やかで甘い偽りの空気は消え去り、自分達が知るいつもの彼に戻っている。
 そんな彼が剣の勇者と話していた内容と共に、ラフタリアはつい先日自分が尚文から言われた言葉を思い出していた。
 ラルクベルクとテリスの二人にキョウ=エスニナ捕縛の協力を――対象者の名を伏せたまま――依頼した後のこと。ラフタリアは最初、尚文が二人を信頼している時点で己も彼らのことを信じるに値する人物達であると思っている、と発言した。しかし尚文はそれを良しとしなかった。盾の勇者に盲目的な信頼を寄せ従属するのではなく、自分で見て、聞いて、考えて、判断しろと彼はラフタリアを諭したのだ。ラフタリアのことを大切に想ってくれているからこそ出たその言葉は、頭の中で繰り返すたびにこの胸を幸福感で満たしてくれる。
 一方、先程尚文に言葉をかけられた剣の勇者も同じように幸せで満ち足りた表情を見せていたが、彼の状況はラフタリアとは大きく異なる。
 仲間を率いて共に波と戦う勇者としてあまり適切ではない行動パターンを取っている剣の勇者に対して、尚文はそのやり方を全く否定しなかった。否定されることを恐れる剣の勇者の様子を察し、俯いてこちらを見ていなかった少年の視界の外でふと思考を巡らせるように視線を一瞬だけ遠くへやると、尚文は敵意も嫌悪も呆れも苛立ちも一切感じさせない声音で相手の欲しい言葉を欲しがった分だけ差し出したのである。
 おまけに一応今後のことも視野に入れたのか尚文は適切なアドバイスを付け加えたのだが、それを「尚文が言うなら間違いはない」と疑いもせず、自分で考えもせず、あっさりと受け入れてしまった剣の勇者にラフタリアの時のような忠告は一切しなかった。きっと諭すことの必要性を微塵も感じなかったのだろう。
(嗚呼、なんて……)
 背後を振り返り、もう見えるはずもない剣の勇者の嬉しそうな姿を思い出す。
 尚文を慕い、尚文の真実を知らず、尚文を盲目的に信じる少年。きらきらと輝く美しい青い瞳で幸せな夢を見ている彼はいつかその夢から醒めてしまうのだろうか。
(憐れな、ひと)
 だが悪いことだとは思わない。
 自分で見て、聞いて、考えて、判断を下した結果として、ラフタリアは誰かの幸福ではなく尚文の幸福を望んでいるのだから。それに優しい夢を見ていられるのもそれはそれできっと幸福なことだ。
「ラフタリア? どうかしたのか」
 歩調が遅れた少女を気遣って尚文が呼びかけた。
 ラフタリアはぱっと満面の笑みを浮かべ、開いてしまった距離を駆け足で詰める。
「いいえ、何でもありませんよナオフミ様! さぁ早く戻りましょう。昼食はゆっくり取りたいですしね」
「そうだな」
「フィーロ、ごしゅじんさまが作ってくれたごはんが食べたーい!」
「お前……」
 主人の隣でぴょんぴょんと飛び跳ねながらフィーロが主張する。尚文はそれを諌めようとするものの、ふと表情を和らげて彼女の金髪をぽんぽんと叩いた。
「わかった。今日は朝早くから二人とも頑張ってくれたし、手料理くらいなら振る舞おう。ラフタリアも構わないか?」
「大歓迎です。ナオフミ様が作る料理は本当に美味しいですから」
 本心から告げるものの、尚文は冗談半分に受け取って肩をすくめた。しかし昼食を作ってくれることは決定のようで、ラフタリアはフィーロと視線を合わせて微笑み合う。
「よかったわね、フィーロ」
「うん! よかったね、お姉ちゃん!」
 きゃあきゃあと喜ぶ少女二人の傍で尚文が「やれやれ」と楽しげに呟いた。



[chapter:24]

 カルミラ島の沖合で龍刻の砂時計が見つかったことが公表されると、島はにわかに騒がしくなった。
 メルロマルク国が勇者と共に波と戦う者達を募集したため、ちょうど活性化中のカルミラ島に集まっていた冒険者達の中からもすでに数多くが名乗りを上げている。国のためか、腕試しか、それとも報奨金のためか、理由は様々だろうが、回を重ねるごとに激しさを増す波へ立ち向かう者が増えるのは良いことだ。無論、実力が伴わないままの参戦は了承しかねるが。
 そんな風に慌ただしくなる少し前に尚文から砂時計の存在を知らされ、四聖勇者全員で海中に潜り実際に砂時計を確認および登録していた樹は、最早癖になってしまったかのように自然と波までの残り時間を確認し、小さく溜息を吐く。
 レベリングは順調だ。また武器の鉱石強化、アイテムから抽出したエネルギーを付与して行うエンチャント、吸わせた魔物やアイテムの力を武器に与えることによるジョブレベルの向上も十分に行えていると思う。
 だが。
(尚文さん、働き過ぎですよね……波が終わるまでこの状態なんでしょうか)
 つい先程まで四聖勇者で集まって話し合いをしていた樹は、会議の場となったホテルの一室を出て廊下を歩いていた。司会兼説明役を担ってくれていた尚文の様子を思い出し、樹はその柔和な容貌を僅かに歪める。
 自分とパーティメンバーに関する不安は無い。活性化しているカルミラ島で十分に力をつけることができたので、今回の波では尚文にその力を披露したいと考えている。彼の隣に立つに相応しい自分になれたのだと胸を張ってみせるのだ。
 しかしその相手である当の尚文は龍刻の砂時計の存在が明らかになって以降、目も回るような忙しさに襲われているらしい。一日に何度もメルロマルクの城とこの島を往復し、波に対する準備を進めている。手伝えることがあれば何でもしてあげたかったが、今回のような大規模戦闘における知識を樹は持っておらず、多少の違いはあれどほぼ樹と同様の錬や元康と共に島で自分と仲間の強化に徹するしかなかった。
 島に到着した時から盾の勇者一行は昼も夜も熱心にレベル上げをしていたようなので、このタイミングでさらに魔物を倒して経験値を稼ぐ必要が無かったのは幸いだったかもしれない。しかしその分が差し引かれたとしても、やはり尚文の仕事量は多過ぎるように思う。詳細はわからずとも僅かな仮眠ののち再び出掛けていく彼の姿を見ていれば、彼が担っている案件の量が膨大なものであることくらいは想像できた。
 当然のことながら先程の会議も尚文が抱える案件の一つに含まれる。樹達は砂時計の発見を告げられたのと同じホテル内の一室で尚文から波が発生した際の段取りについて説明を受けた。今回は海上戦闘になる可能性が大きいとのことで、兵士だけではなく帆船も転送対象に設定して四聖勇者と共に波の傍へと転移する手筈となっている。泳げない錬は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、尚文の顔を見ると諦めて船上での戦いに同意した。無論、海に落ちた時の対策についてはその後よくよく話し合っていたが。
 会議が終わると、名残惜しげにしながらも錬、そして元康が席を立つ。尚文と話をしたいのは山々だが、自分の満足のために忙し過ぎる彼の時間を消費させてしまうのを躊躇ったのだ。
 樹も現在廊下を歩いていることからわかるように、二人に続き一旦部屋を出た。そうして働き過ぎている尚文のことを思って顔をしかめていたのだが、ふと海上では優位になるであろう遠距離攻撃が可能な弓の勇者として彼ともう少し作戦について詰めておいた方が良いのではと思い立ち、部屋に引き返す。すでに尚文が部屋を出てしまっていたのなら仕方がない。しかし万が一残っていたなら、と思って。休んでほしいと考えているのは事実だが、その一方でたくさんの仕事を抱えながらも一生懸命な尚文の姿を見ているからこそ、樹も手を抜くわけにはいかない。全身全霊をもって彼の行動に応えなければならないのだ。
 そうして部屋に戻って来た樹が目にしたのは誰もいない空っぽの部屋……ではなく、椅子に腰かけて仮眠を取る尚文の姿だった。自分の部屋のベッドに行く時間すら惜しいのか、組んだ脚の上に軽く両手を乗せて顔を俯かせ、静かに目を閉じている。
 とうとうベッドや柔らかなソファではなくこんなただの椅子の上で仮眠を取るようになってしまった尚文の姿に、樹はさすがにこのままではいけないだろうという思いが湧き上がってくるのを感じた。
 起こしてしまわぬよう足音を抑えてそっと近付く。本当であれば無理を重ねる尚文の僅かな休息の邪魔をしないためにもすぐに部屋を立ち去った方が良いのだろう。しかしその横顔から視線を逸らせない。元康のような派手なイケメンでも、錬のような少女と見紛うばかりの美しい顔とも違う。その整った容貌に自然と目が惹きつけられる。
 しかも今は尚文が椅子に腰かけている所為で樹の視線より下に彼の顔がある。いつも見上げているそれが容易く手の届く場所にあるという事実は樹の鼓動を少しばかり速めた。
 息を潜めて見つめる尚文の顔は樹達に見せる穏やかな表情が消えるとどことなく鋭利な感じもする。すっと通った鼻梁の下で引き結ばれた唇は僅かにカサついており、元康が連れているような女の子達とは全く違うのだなと思わせた。しかし彼女達に劣らず髪と同色の睫毛が頬に影を落としている。さらに樹は彼女達を見ても一切そんな気は起こらないが、尚文の横顔を見ていると薄い瞼の奥に隠れている澄んだ緑色の美しい瞳を自分に見せてほしいという欲求がとめどなく溢れくるのを自覚した。
(元康さんもこんな感じだったんでしょうか)
 思い出されるのはメルロマルクにとっては二回目の、自分達勇者にとっては初めての波を終えて、城で戦勝会が催された時のこと。パーティも終わりに近付き、外庭に出た樹が見たのは、仲間や友人としてではなく恋人として触れ合う尚文と元康の姿だった。
 槍の勇者の仲間として美しく可愛らしい女の子達を侍らせている元康。しかしその心はどうやら尚文に大きく傾けられているらしい。
 樹も、元康も、そしてきっと錬も、この翡翠の瞳を持つ勇者に魅入られてしまっている。だが現状、尚文に選ばれているのは元康だった。
 それを悔しいと思いつつも、樹に諦めるつもりは無い。元康の立場を奪う――……という言い方は物騒であまり良くないが、強くなって尚文の隣に立つのは自分だという思いははっきりとあった。そして隣に立ったなら、次は彼の一番大切な人になってみせるのだ。樹の心の大部分をいつの間にか尚文が埋め尽くしてしまったように。
(それに僕なら元康さんみたいに、尚文さんに愛されているのに他の女の子達と仲良くするなんてこともしませんし)
 きっともっと、今よりずっと、尚文を幸せにしてみせる。
 尚文の横顔を見つめながら樹は微笑んだ。そうして幸せにすると口に出して誓う代わりに、眠る尚文の頬に掠めるようなくちづけを贈る。
 意識の無い相手に頬とは言え勝手にくちづけるのはどうかとも思ったが、触れたいという衝動が強過ぎて抑えきれなかった。おそらくは元康に対する嫉妬もそれを後押ししてしまっている。
 そう自己分析して苦い気持ちになるものの、唇に残った感触が樹の顔に笑みを浮かばせた。遠く無いいつか、彼が目を覚ましている時に今度はちゃんとキスをしてみたい。キスをしても許される関係を尚文と築きたい。
 しかし残念ながら今はその時ではなく、樹は静かに身を引く。波での戦闘に関する話は尚文が起きてからでも良いだろう。今はただ、僅かな時間であっても休息に充ててほしい。そう思って踵を返そうとしたのだが。
「なんだ、これで満足なのか?」
「っ! 尚文、さん……貴方、いつから起きて」
 閉じていたはずの翡翠の両目がしっかりと開かれ、樹を視界に収めていた。しかもその発言からわかるように、尚文は樹が彼に何をしたのか気付いている。樹の背を冷たい汗が伝った。
「いつから? 悪いな、最初からだ。他人の気配が近付くと眠れない性質なんだよ」
 顔を樹の方に向けながら机の上に頬杖をつき、尚文は両目を細める。笑っている……のだろうが、いつものような柔和さは無く、代わりに艶っぽくそして露悪的。
 城の外庭で元康と抱き合っていた時の雰囲気に似たそれを目の当たりにして樹は息を呑んだ。
 おまけに尚文は空いていた手を樹に伸ばし指先でそっと強張った頬に触れる。
「っ、なおふ」
「元康みたいなことを俺にしたいと思っていないのか?」
「それはっ……」
 元康みたいなこと。つまり尚文の髪に触れて唇に触れて首筋に触れて、その下の服の内側に隠れている場所も暴いて、見たことも無い岩谷尚文を見て聞いて感じるということだ。それを自分も望んでいると言うのか。望んでいると、尚文に知られてしまっているのか。
 最早、顔が赤くなっているのか青くなっているのか樹自身にもわからない。ただ一歩後ろに下がるだけで尚文の手から逃れられるはずなのに足は一切動こうとしなかった。
 硬直する樹を眺めて尚文はさらに蠱惑的に微笑む。樹の心臓は早鐘を打ち、呼吸は乱れ、そんなことは有り得ないとわかっているが頬に触れられたままの指先から毒でも流し込まれているかのようだった。
「あ、なたは、それで……」
 ――いいんですか。本当に僕がその服の下を暴いてしまってもいいんですか。
 最後まで言葉にならずとも、樹が言いたいことは十分尚文に伝わったらしい。艶を増した翡翠色の双眸がきゅうっと細められ、「秘密にできるなら」と赤い唇が言葉を吐き出す。
「ひみつ」
「お前が見た通り、俺には相手がいる。だが樹、お前は俺に触れたい。だったら俺と樹がそういうことをするなら絶対周りにばれないようにしないといけないだろう?」
 告げて、尚文は樹の頬に触れさせていた指先を少しずらし、ふに、と下唇を押し潰す。爪の先端が僅かに樹の唾液で濡れた。
「不義密通は悪徳だな。それでも良いなら――……ははっ、冗談だ」
 尚文がぱっと手を離す。頬杖もやめて完敗や無抵抗の意思を示すように両手を上げた彼は一瞬前までの蠱惑的な表情を消し去り、いつものような柔らかい雰囲気をまとった。
「尚文さん……?」
 変化の落差について行けず樹が唖然と名を呟けば、尚文は苦笑を浮かべて「すまなかった」と謝罪する。
「お前がそう言うことを……恋人がいる相手と関係を持つなんて正しくないこと≠良く思わないってのはわかっていた。でも前に城で俺と元康が二人でいるところを見てしまっただろう? 樹があの時のことを引き摺っているのは何となく察していたから、ついからかったんだ。完全に俺が悪い。お前が俺にムラっとしたのは城で俺と元康の変なところを見てしまった所為。今はまだそれを引き摺っているが、時間が経てば正しい状態に戻るはずだ。だってお前は正しい人間≠セから」
 そう言って椅子から立ち上った尚文は樹の肩をぽんぽんと軽く数度叩く。見下ろす表情は錬や樹に良く向ける『理想の兄』のもので、先程までの艶めいた視線は嘘のよう。樹の唾液でかすかに濡れた指先が視界の端に入らなければ、白昼夢でも見ていたのだと勘違いしそうなほどだった。
 尚文の顔を唖然と見上げながら樹は混乱した頭で考える。
 もしかして彼は自分達が思っているような人物ではないのかもしれない。優しく包み込むような顔は仮面で、本当は正反対の性質をしているのかも。
「樹? どうした?」
 一言も発しないこちらを心配そうに見つめる翡翠。それだけで胸が温かくなり、樹は自身の考えにかぶりを振った。
 尚文は悪人か? いや、そんなはずはない。尚文は自分達のことをとても良く考えてくれる素晴らしい人物だ。先程のやり取りも樹が間違った方法で尚文を得ることがないように、正しく在れるように、わざと悪人っぽく振る舞ったのだろう。そうに違いない。――と。
「いいえ。大丈夫です。僕の方こそ折角尚文さんが休んでいたのに邪魔してしまってすみませんでした」
「構わないさ。城でのことは俺の方も気になっていたし、こうしてお前と改めて話ができて良かったと思う」
「はい! ありがとうございます。それじゃあまた後で。僕が言うのもなんですが、ちゃんと休んでくださいね?」
「わかってるよ」
 ひらりと手を振る尚文に樹は微笑みを返して部屋を出る。その足取りは軽い。もう随分前にも思える城でのことをずっと心の片隅で引き摺っていた樹にとって今日尚文と話ができたのは非常に幸いなことだった。
 樹が尚文に手を出しかけてしまったのは『お年頃』である自分がまだ年齢的に許されていないものをうっかり目撃してしまったから。尚文を慕う気持ちは変わらないが、正しくないこと≠寸でのところで止めることができ、ほっと息を吐く。これも全て正しい¥ョ文のおかげだ。
「よし! 今度の波も頑張りましょう!」
 廊下を歩きながら樹は気合を入れて拳を握る。
 次こそ、誰もが目を瞠るような活躍をしてみせるのだ。世界のために、仲間のために、そして何より大好きな尚文のために。



[chapter:25]

 その者は『影』と呼ばれている。
 個人を示す名はあるが、職務上それが必要になることは無い。
 メルロマルク女王の命令により、現在はカルミラ島でレベリングをしている盾の勇者、岩谷尚文の近くで活動中だ。ただしそれ以前――女王の娘であるメルティ第二王女の護衛として彼女に同行していた頃から何かと接触する機会はあり、今ではかなり盾の勇者にもその存在が受け入れられてきていると思う。
 主な仕事は盾の勇者のサポートで、女王との連絡係や時折開かれる勇者同士の話し合いのセッティング、時には魔物の討伐に同行したりと、その内容は多岐にわたった。今朝もメルロマルクの城への移動に追従し、雑務をこなしてきたばかりである。
 城からカルミラ島に戻って来たのはつい先程のことで、盾の勇者はそのまま四聖勇者同士の会議に出席していた。なお、今日はもう一度女王との話し合いの予定が組まれているのだが、ポータルスキルのクールタイムの関係上、勇者達の会議が終わってすぐ転移する事態にはなっていない。
 剣、弓、槍の勇者がホテル内に設けられた会議室から出て行った後、一人で部屋に残った盾の勇者は小さく息を吐き出す。寝る間も惜しんで二つの計画を同時進行している彼に休息が足りていないことは明らかだ。三勇者にも任せれば良いのではと思ったこともあったが、どうやら世間が思っているよりも盾の勇者はあの三人を信用していないらしい。このことは影個人の感想なので、女王にはまだ報告できていないのだが。
 ただし影から報告はできていないまでも、女王本人も色々と感じるところはあるようで、剣、弓、槍の勇者を『波』ではない方の計画に加えてはどうかという提案を盾の勇者にしたことはなかった。その代わりと言ってはなんだが、盾以外の四聖勇者ではない別の人物達が計画に参加することとなっている。実力は十分であると影も確信しており、心配はしていない。加えて盾の勇者しか知らない――参加を要請された当人達ですらまだ知らない――『参加すべき理由』が存在しているようで、情報漏洩や裏切りの可能性も低いらしい。
 盾の勇者は一体何をどこまで見通しているのだろうか。決して逞しいとは言えないその双肩にどれほどの重圧がかかっているのだろうか。想像することすら難しいそれに影はひっそりと眉根を寄せた。
 そんな時だ。
「影、そこにいるか?」
「いるでごじゃるよ」
 姿を消していた影が尚文の呼びかけに応じて彼のすぐ隣に現れる。影は基本的に他の者達と見分けがつかないようになっているのだが、メルティ第二王女の指示で特徴的な口調となっており、盾の勇者や第二王女はこの影を他の影と区別し、さらには重用することも多い。
「ポータルスキルのクールタイムが過ぎるまで仮眠する。二十分経ったら声をかけてくれ。それまでなら出掛けてくれていても構わない」
「ベッドを使わなくて良いのでごじゃるか?」
「良い、椅子で十分だ。後は頼む」
 他人の気配が近付くと眠りから覚めてしまう盾の勇者も最初から近くにある気配であればあまり問題にならないようで、そう言って早々に目を閉じてしまう。眼の下には隈がうっすらと現れてきており、それに気付いた影はこの短い休息が少しでも盾の勇者の身体を癒してくれることを願ってから再び姿を隠した。出掛けても構わないと言われたが、それを「好きにして良い」という意味であると解釈し、護衛のためにこの場に留まっておく。
 しかし願いは叶わず、少しして別の気配が部屋に足を踏み入れる。現れたのは弓の勇者。盾の勇者は目覚めているはずなのだが寝たふりをしていた。上手くいけば弓の勇者が何もせず部屋を去るとでも考えたのだろう。残念ながらそうはならなかったのだが。
 弓の勇者は盾の勇者に近付き、その横顔をじっと見つめる。柔らかな容貌は弓よりも楽器の方が似合いそうだ。しかし容姿からは想像できないほど彼は強い意思の持ち主であるらしい。彼についていた他の影からの報告によると、やや正義というものに固執し過ぎているきらいがあると言う。また三勇教が暗躍していた頃にも自身が勇者ということを隠して正義を執行する≠アとに酔っていたとか。
 そんな彼はしばらく盾の勇者を見つめていたが、やがて静かに慕わしい相手の頬に唇を寄せた。親愛と憧憬と情欲が混じるその行為は弓の勇者が盾の勇者に抱える想いそのものを示してるのだろう。そしてそこまでされて寝たふりを続ける盾の勇者ではなかった。
 盾の勇者はぱっと目を開き、自身が起きていたことを明かす。そうして影が舌を巻くほどの手腕で弓の勇者を言いくるめて退室させた。弓の勇者の反応次第ではそのまま彼が抱えた欲に応えることもあったのかもしれないが、「不義密通は悪徳」という台詞に柔和な顔をしかめてしまった時点でその可能性も潰えている。結果、弓の勇者は彼が考える正義の通り部屋を出て、盾の勇者は再び休息に入ろうとした――……のだが。
(残念ながら、この部屋から弓の勇者が出て行く姿を槍の勇者が目撃してしまったようでごじゃる)
 声には出さず影は呟く。
 盾の勇者に教えたい気持ちもあったが、その前に件の金髪の勇者が部屋の扉に手をかけた。
「――尚文」
「元康?」
 再び椅子に腰かけて目を閉じようとしていた盾の勇者が相手の名前を呼び返す。だがいつも自分に対して好意を露わにしている男が金色の前髪の下で不機嫌そうに眉根を寄せ唇を歪めていることに気付くと、仮眠を諦めて椅子に座ったまま身体ごと顔を相手の方に向けた。
「どうしたんだ。俺に何か用か? だったらそんな所に突っ立ってないでこっちに――」
「さっき樹がこの部屋から出て行ったのが見えたんだが」
「うん? ああ、そうだな」
「二人で何をしてたんだ」
「何って、普通に話しをしただけなんだが……お前は何をそんなに怒っているんだ?」
 やましいことは何もしていない、とでも言いたげに盾の勇者が答える。実際には弓の勇者との間で恋人がいる身としてあまり褒められたことではないやり取りもあったのだが、ああいう形に決着がついたのだから問題にはすまい。
「ふぅん」
 槍の勇者はやはり不機嫌な表情のまま答え、一歩二歩と盾の勇者に近付いていく。そうして座っている盾の勇者の両肩に手を置くと首筋に鼻先を寄せて、
「お前じゃない奴のにおいがする」
「元康? お前は犬か何かか?」
「樹にどこまで触れさせた」
「…………ほう。俺の浮気を疑っているわけか」
 すっと翡翠色の双眸が細められた。声のトーンもやや下がり、不義を疑われて怒る恋人の姿を演出している。
「この前の錬の時だってべたべた触ってたし、風呂場じゃラルクベルクとか言う男と仲良さ気だったし、って言うかアイツにお前の裸まで見られたし……今度は樹と二人きりになって」
 盾の勇者の首筋に鼻先を埋(うず)めたまま槍の勇者がブツブツと呟く。それに合わせて盾の勇者の目がどんどん冷たくなっていくのだが、槍の勇者が気付くことは無い。
 恋人の可愛い嫉妬心と言えば聞こえはいいが、その感情は盾の勇者の交友関係を制限する醜い所有欲になりかねないものだ。しかも槍の勇者の語りから推測するに、単に仲間である勇者に触れただけ、島で出会った他の冒険者と風呂場で遭遇しただけ、そんな些細なことで腹を立てている。もしかしたら先程の弓の勇者とのやり取りのように「だけ」とは言い切れない行動もあったかもしれないが、それは槍の勇者も知らないことであろう。
 良くない空気にさすがの影もハラハラしながら見守っていると、槍の勇者は呟くのをやめて突然、恋人の白い首筋に噛みついた。
「ぃ、っ――」
 痛みに顔をしかめる盾の勇者。呪いの所為で大幅にステータスが下がっている彼は抗議の声を上げようと口を開く。だがその前に槍の勇者の手が服の中に入り込み怪しい動きを始めた。
「もとっ、やす! こんなことしてる暇は……っ」
「暇≠セって?」顔を上げた槍の勇者が剣呑な目で盾の勇者を見つめた。「俺達が愛し合うことは何より優先すべき大切なことだろう?」
 そして否定は許さないとばかりに盾の勇者の唇を奪う。「ぅ、ん――ッ」と無理やり口内を荒らされる盾の勇者から艶めいた悲鳴が漏れた。
 このままでは強姦になりかねない。影は思わず二人の前に姿を現そうとするが、
「――、」
 槍の勇者の背側で盾の勇者が手出しは不要だと払うような仕草で手を振った。そこにこれからの行為を他人に見られる羞恥も、恋人である男に強姦されることへの恐怖も滲んではいない。むしろ影が出ることで事態が余計にややこしくなってしまう可能性を厭っているかのようだった。
 それはあまりにも自分の身を軽んじた判断ではないだろうか。襲いたいならさっさと襲わせて、早くこの状態を終わらせてしまいたいと望むなんて。だが影にこれ以上口出しする権利は無く、唇を噛んでさらに気配を薄くした。
 影が介入しなかった所為で槍の勇者の行動はどんどんエスカレートしていく。盾の勇者を椅子から立たせ彼の胸をテーブルに押しつけた槍の勇者はいきなり恋人の下半身を露出させると尻の合間に舌を伸ばした。感触で何をされているのか察した盾の勇者が「ひっ」と悲鳴を上げるも、唾液をローションの代わりにした準備は淡々と進められていく。
 抵抗の兆しが見えると槍の勇者はすかさず盾の勇者の陰茎を握り締め、愛撫と言うより握り潰されそうな恐怖を与えることでその動きを制限した。残るもう一方の手は十分な唾液が送り込まれた後孔に人差し指を差し込み、中を弄り始める。容易く飲み込まれる一本目の指。互いに慣れた行為であるのは明らかだったが、盾の勇者の口から押し殺したような喘ぎ声が時折漏れ出るだけで、愛情を伴って名前を呼び合うことも無い。
 二本目の指も熱い肉の中に飲み込まれ、探るように腸壁をこする。
「――ぁ! っ、うぅ」
「はっ、エロい声」
 前立腺を押し込まれ反射的に盾の勇者が嬌声を零すと、槍の勇者は揶揄するように指摘した。
「俺以外の奴にその声聞かせたりしてないよな」
「誰がす、ひぁ……っ!」
 中の動きに合わせ、先走りの滲んだ鈴口に爪を立てられて盾の勇者が肩を跳ねさせる。そのまま溢れた液を擦りつけるように先端を弄られ、くちゅくちゅと粘ついた水音が前と後ろの両方から響いた。
 痛みと快楽を逃がすように額をテーブルに押し付けて背中を丸める盾の勇者。しかしそんな仕草が気に喰わなかったのか、槍の勇者は三本目の指を後ろに潜り込ませるとそれらをバラバラに動かしてさらに刺激を与え始める。痩身がビクリと跳ねて目元を赤く染めた翡翠色が大きく見開かれた。
「まっ、て! そこ、あっ、あっ」
「尚文はここをいじめられるのが好きだろう?」
「ちがっ、つよすぎ、は、ひっ、い!」
 盾の勇者の陰茎から白濁が飛び散る。
 そして再び痩身はくたりと力を失い、テーブルの上に倒れ伏す。すっかりとろけた後孔は男の指を三本呑み込んでもまだ物欲しそうにヒクついており、槍の勇者はわざわざ相手の耳元に唇を寄せ「淫乱」と囁いた。
「まさかとは思うが、俺以外の男をここに銜え込みたいだなんて考えちゃいないよなぁ?」
「だ、れが……!」
「こんなに男を欲しがってるのに?」
「ぃ、あン!」
 ぐちゅり、と強く中を押し潰されて再び漏れる悲鳴。
「やらしーの」
「誰の所為で、こんな身体になったと、おも、て……ゃ、ああっ」
 三本の節くれ立った指が盾の勇者のナカをぐちゅぐちゅと掻き回す。達したばかりの相手を気遣う素振りは微塵も無い。嬌声の合間に制止の言葉が聞こえても槍の勇者は無視して中と外を同時に責め続けた。
 一度精を吐き出した陰茎は強制的に与えられる快楽によって再び頭をもたげ始める。だが今度はそのまま解放させるのではなく、槍の勇者は戒めるように指で輪を作りきゅっと締めつけた。
「なっ!? や、やめっ」
「やめない」
 盾の勇者の胎の中に埋め込んでいた指を抜き去り、ぬるついた指で前をくつろげる槍の勇者。取り出した肉茎はすっかり固くなっており、グロテスクな見た目のそれを躊躇なくヒクつく孔に押しつける。
「ほら、えっちな尚文が大好きなやつだぞ」
「俺はえっちじゃ、ぁ、ああぁぁ――ッ!」
 盾の勇者の陰茎を指で戒めたまま槍の勇者は胎内に押し入った。前立腺を押し潰し、一気に最奥まで貫く。指では届かなかった場所へと先端を潜り込ませながら、熱に包まれる快楽に金髪を首筋に張り付かせて「くぅっ」と呻き声を上げた。
 貫かれた方の身体は衝撃でビクビクと腰を跳ねさせ「ぁ、ぁ……」と断続的に小さな嬌声を漏らしている。指で戒められ達することができない身体は逃げ場をなくした快楽により絶え間なく嬲られ続けているのだ。
 それなのに槍の勇者はまだ解放を許さない。自由な方の手で盾の勇者の腰を掴むと容赦なく抽挿を開始する。
「やっ、あっ! ひ、ぃ、あァ、あン!」
 盾の勇者の高く掠れた声が槍の勇者の動きに合わせて部屋の空気を震わせ、同時に肌がぶつかり合う音と粘ついた淫靡な水音がそれに重なった。
「やだっ、やめ! もう、だし、たぃ、ぃ! あっ、あっ!」
「なおふみ、なおふみ」
 達せない苦しみに黒髪を振り乱して盾の勇者が解放を願った。だが槍の勇者は聞き入れず、それどころか憑りつかれたように恋人の名を呼んでひたすら快楽を与え続ける。
「尚文は俺のものだ。俺の、俺の恋人。俺だけの――。だれにも、わたすもんか」
「もとやっ、ひぃ!」
 ――ごちゅり。
 翡翠色の目がこれでもかと見開かれた。
「く、ぅ――」
「ぁぁ、ぁ……でて、る」
 奥の奥を貫いた槍の勇者がそんな恋人の声を聞きながら精を吐き出しきる。新たな命になることのないそれを盾の勇者の内側にぐちゅぐちゅと擦りつけ、蓋をするように挿入したまま槍の勇者は肩で息をした。
 ようやく終わるのか。
 安堵とも怒りともつかぬ感情に心臓を掴まれながら影は二人の様子を観察する。しかしそれは儚い希望となった。
 呼吸を落ち着かせた槍の勇者が再び腰を動かし始めたのだ。無論、盾の勇者の前を戒める手はそのままに。
「っ、あ、あっ、あぁ!」
 奥を抉られるたびに盾の勇者の高い声が響く。
「なおふみ、好きだ。愛してる。なおふみ、俺だけのものになってくれよ。俺以外、誰も見るな。愛してるから。なおふみ、あいしてる」
「やめっ、もとやっ、す、あっ、あぅ、あ」
 ぱちゅぱちゅと激しい水音を立てながら盾の勇者の名を呼び愛を囁き続ける槍の勇者。許容範囲を大幅に超える快楽に盾の勇者は咽び泣き、やめてくれと許しを乞うた。
 重厚なテーブルががたがたと音を立てるほど激しい動きは槍の勇者が再び吐精するまで続けられ、その時にも達することを許されなかった盾の勇者のものが赤く染まって震えている。
「ひっ、ぁ、ぁぁ……」
 ずりゅ、と引き抜かれる肉棒の感触に盾の勇者がか細く悲鳴を上げた。ぽっかりと口を開けた後孔からは吐き出された白濁がとろりと溢れ、桃色に染まった太腿を伝い落ちていく。その感触さえ脳が快楽と判断するのか、ヒクヒクと内腿を震わせた。
 槍の勇者は欲を二度吐き出した己のものを服の中に仕舞うと、戒めを解かれてもなお達せない盾の勇者の陰茎に視線を向ける。そうして伸ばされた手は今度こそ恋人の願い通り欲を吐き出させるためのもの。背中から覆い被さるようにして盾の勇者の勃起した陰茎に手を這わせ、槍の勇者は恋人の耳の後ろにくちづける。
「ん、ふっ、あぁ!」
「尚文、ごめんな」
「くっ、ぅん、んっ」
 くちゅくちゅと先走りを絡めながら刺激を与え続ける男の手。合間に耳や首筋を舐めながら槍の勇者は愛と謝罪を囁く。
「お前が好きで好きでたまらないんだ。だから俺以外の奴が尚文を見るのも触るのも耐えられねえ」
「あ、あぁ、あっ、あぁぁ」
「こんなの初めてなんだ。尚文だけなんだ」
「はっ、ぅ、あ、」
「だから、ゆるして」
「あ、あぁ――ッ!」
 ぴゅるるっとようやく白濁が吐き出される。
 盾の勇者の身体はくたりと力を失くし、それを槍の勇者が支える。翡翠色の双眸は瞼の裏に隠され、すでに意識がないことを示していた。
 それを確認した槍の勇者はもう一度「ごめんな」と呟くと共に触れるだけのくちづけをして、盾の勇者の衣服を整えていく。あとは周囲を程々に片付けると、意識のない恋人の身体を横抱きにして部屋を出た。方向から察するに、盾の勇者が使っている部屋に運ぶのだろう。影も密かにその後を追う。
 無人だった部屋に着くと槍の勇者はベッドの上に盾の勇者の身体を横たえた。そして静かに出て行く。カチャリと小さな音を立てて部屋の扉が閉まり、槍の勇者の気配が遠のいた。
 時刻を確認すれば、最初に盾の勇者が指定していた二十分を当然のことながら大幅にオーバーしている。しかしこの状態の彼を無理に起こすわけにはいかないと、影はベッドサイドに姿を現しつつも声をかけられずにいた。
 しかし――
「……行ったか。じゃあ俺達も城に行くぞ」
「っ! 起きていたのでごじゃるか!?」
「あんな男の傍で寝られるわけが無いだろう」
 肉体に叩き込まれた快楽で未だ身体を火照らせ、しかし翡翠色の瞳を氷のように冷たくしながら、上半身を起こした盾の勇者は赤く色づいた唇を歪めて吐き捨てる。
 そのままベッドを降りようとするが、中腰の体勢で彼は動きを止め眉間に皺を寄せた。
「あの野郎……」
 地獄の底から這い出してきたかのような声だ。
 盾の勇者は舌打ちをして影と顔を合わせないまま告げる。
「城へは身体を清めてから行く。少し待っていてくれ」
「わ、わかったでごじゃる」
 のそりのそりと奥へ行く背中を見送って影は頷いた。
 別室へと繋がる部屋の扉が閉まる直前、大きな舌打ちに続いて聞こえた呟きは彼の本心以外の何ものでもなかったのだろう。

「そろそろ面倒になって来たな……。もうやめるか」







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