5.前日譚+IF





[chapter:前日譚]


 ――マリンフォード頂上戦争の十年前。

 山賊の頭領に連れ去られたルフィを無事に保護したシャンクスは、全身ずぶ濡れのまま浜辺に立っていた。
 助けた幼子はすでにフーシャ村の医者に預けている。ルフィはゴムゴムの実を食べたゴム人間であり、打撃には強くなっているものの、山賊達に痛めつけられた体は無傷とは言えず、また海へ落とされてしまったため海水もいくらか飲んでいるはずだった。
 ルフィを心配して走り回っていた村人達がその無事を確認して三々五々に散った後、代わりにやって来たのはシャンクスが率いる海賊団のメンバー達。その中に応急処置の道具を抱えて走ってきた船医――ホンゴウの姿を見つけて、シャンクスは「あ」と間抜けな声を出した。
「そうか。ルフィはホンゴウに診せた方が良かったな」
 何せルフィは普通の人間の体ではなくなってしまっている。小さな村の医者よりも豊富な経験を持つ大海賊の船医の方が余程しっかり診てやれるというものだ。
 他にホンゴウが診なくてはいけない者≠ェいるなら話は別だが、今医者を必要としているのはルフィだけである。
 今からでもホンゴウをルフィの元へ連れて行くかとシャンクスが考えていると、声が届く距離まで近づいたホンゴウが「お頭ァ!」と声を張り上げた。
「無事か!? 腕とか取れちゃいねェよな!?」
「はあ? おれが何でたかだか東の海で腕なんか…………あれ?」
 何故か大荷物――どうやら全て大怪我を処置するための器具らしい――を抱えて走ってきたホンゴウの台詞にシャンクスは顔をしかめ、しかし次いで自身の左腕に目をやると首を傾げた。
「なんで左腕があるんだ? いや、それが当然なんだが……ん? んんん?」
 海賊なのだから海で溺れた子供を助けたくらいで怪我をするわけがない。しかもここは世界の海の中で最も平和な東の海。シャンクスが無傷なのは当然のことである。
 そう頭では理解しているはずなのに、ルフィを助けた後の自分にしっかりと左腕がついているのを見て、シャンクスはとてつもない違和感に襲われていた。
 どうして自分は腕の一本も失っていないのだろう? と。
 不思議そうに左手を握ったり開いたりしているシャンクスの元へ船員達がたどり着く。ずぶ濡れではあるものの傷一つ無さそうな自分達の船長の姿に全員が安堵の息を零した。そう、赤髪海賊団の者達は船医を含めた全員が何故か『船長は大怪我をしているはずだ』と無意識のうちに考えてしまっていたのだ。
「…………なんだ、この嫌な感じは」
 ぐっと左手で拳を作り、シャンクスは眉間に皺を寄せる。

 この日以降、シャンクスは頻繁に、自分の左腕が健在であることに違和感を覚えるようになる。
 本来ならこの腕はとても価値あるものと引き換えにするはずだったのではないのか。己が目撃するはずだった類い稀なる輝きを自分はみすみす逃してしまったのではないのか――と。


[chapter:IF]


 きっとこの左腕はお前に捧げるためにあったんだ。



 白ひげ率いる海賊艦隊と海軍本部・王下七武海の混成組織。
 巨大な勢力がぶつかり合った戦争は、凡庸であるはずの海兵の一人が発した叫びをきっかけに僅かな間だけ動きを止めた。
 その海兵を粛正しようと海軍大将サカズキが駆け出すものの、彼と戦っていた裏切り者≠フ海軍少将が行く手を阻む。
 己の邪魔をする青年将校にサカズキは憤怒の表情で攻撃を仕掛けるが、マリンフォードに遅れて上陸していたシャンクスがその攻撃を阻止。次いで海軍本部トップである元帥センゴクと交渉し、これ以上誰にも流血させることなくその場を収めるに至った。

「仏のセンゴク、もう一つ頼みがあるんだが聞いてもらえるか?」

 海賊達はほぼ全て撤退し、最後まで裏切り者の少将を殺そうとしていたサカズキも元帥からの命令でこの場を去った。それを見届けたシャンクスが、未だ厳しい表情でこちらを見据える海軍本部元帥に訊ねる。
 シャンクスのすぐ傍で座り込んでいたルフィは達成感に満ちた心地に僅かな影が差すのを感じ、憧れの男が取ったその行動にひっそりと眉根を寄せた。この展開は知らない。マリンフォードの頂上戦争に現れたシャンクスは海軍・海賊両者の矛を収めさせた後、それ以上の要求はせずに海へと去るはずだった。
 見上げた先の男は左手に握っていたサーベルを鞘に戻し、害意がないことを示すかの如くゆるく両腕を広げる。
「頼みだと?」
「ああ。何、大したことじゃない。海軍にとって要らなくなったものをおれに譲ってくれないかって話だ」
「……?」
 智将とまで呼ばれるセンゴクだったが、さすがの彼もその台詞だけで赤髪の男の真意をはかることは困難であるらしい。厳しい表情をますます厳しいものにして警戒を強めた。
 ふと嫌な予感がしてルフィは身じろぎする。しかしマグマに焼かれた左半身は今になって強烈な痛みを訴えだし、また自身が感じた嫌な予感の理由も分からないままでは何の行動に移ることもできず、ただ小さく口を開閉するしかない。
 そんなルフィを赤い双眸が一瞥した。シャンクスと視線が合ったルフィは虚を突かれて目を丸くし、対してシャンクスは両目を細め口角を上げて微笑む。薄暗さと甘さを混在させる表情はルフィの知らないものだ。
「シャ、ン――」
「こいつを」
 ルフィが名を呼ぶ前にシャンクスは視線をセンゴクへと戻し、海王類に喰われることなく今も存在している左手でひらりとルフィを指し示す。

「モンキー・D・ルフィの身柄をもらい受けたい」

「「……は?」」
 意図せずルフィとセンゴクの声が重なる。
 先に我に返ったのはセンゴクだった。
「な、ならん! 其奴にはエースの逃亡を幇助した罪がある! サカズキは退かせたが、まずは取り調べを――」
「取り調べだァ? そんなもん本当にすんのか?」
 センゴクの言葉を遮ってシャンクスは嘲るように頬を歪める。
「あろうことか『海軍の新星』が軍を裏切って公開処刑を台無しにしたんだ。それが外に漏れれば海軍の面子は丸潰れ。悠長に取り調べなんぞしていられんだろう。……それにほら、現に衛生兵の一人もこいつの所には来ちゃいねェ。海楼石らしき鎖と手枷を持った野郎は走ってきてるけどな」
 シャンクスが言ったとおり、悪魔の実の能力者であるルフィを捕まえるために海兵が近づいてきていた。しかし赤い目に見据えられた海兵はびくりと肩を跳ねさせてその場に硬直する。覇王色の覇気を放たずとも大海賊の眼力にはそれだけの威力があった。
「センゴク」
 鮮やかな血色が再び海軍本部元帥へと向けられる。
「お前、ルフィを投獄して世間がこいつを忘れた頃に殺す気だろう?」
「……ッ!」
 センゴクの表情がこれまでで一番苦々しいものへと歪められた。
 それを見てシャンクスは嗤う。
「どうせ捨てるならおれに寄越せ。おれはルフィを海賊にする」
「戯れ言を。罰を免れるだけでなく、あまつさえ海賊にするだと? 其奴の力は我々も充分承知している。そう易々と貴様の戦力増強を認めると思うのか」
「戦力の増強、ねェ……だったらこうしよう」
 妙案だと言わんばかりの自信たっぷりな表情を浮かべ、シャンクスは左腕を真っ直ぐ水平に伸ばす。

「おれの利き腕と交換だ」

「シャンクス!!!!」
 ルフィの叫びは最早、悲鳴になっていた。
 兄を救って達成感に満ちていたはずの体は一気に血の気を引かせ、無理やり立ち上がってシャンクスの左腕を下ろさせようと掴み掛かる。しかしシャンクスの右手がいとも容易くルフィの動きを封じた。ならばと首を伸ばしてシャンクスの左腕に絡みつこうとするが、今度は手首を捻られたかと思うと次の瞬間には背中から地面に叩き付けられ、衝撃で肺から空気が絞り出される。さらに膝で胸を押さえられ、これ以上抵抗すれば肋骨を砕いて肺を潰すと脅された。
 一瞬でルフィの動きを封じたシャンクスはセンゴクに向かって口の端を吊り上げる。
「世界最強の剣士、『鷹の目』のミホークと張り合う腕だ。足りないとは言わせねェ」
「……ッ!!」
 四皇の利き腕か、裏切り者の海軍将校の命か。両者を天秤にかけられたセンゴクがギチギチと歯軋りをする。
 だがそれでも即答はしない。シャンクスが「こいつを海賊にしても『海軍の新星』の名前は名乗らせない。それなら海軍の体面も保たれるはずだ」と付け加えても彼の口から了承の言葉が出ることはなかった。
「シャンクス、だめだ」
 ルフィが呻く。しかし赤い目はこちらを見ず、元帥の出方を窺っている。
「なァ、シャンクス、お願いだから」
 ルフィは海賊になりたかった。しかしこんな風になりたいわけではなかった。
 折角憧れの男が利き腕を失わずに済むよう上手く事を運べたのに、ここに来てまたもやルフィのために大事な人の腕が失われようとしている。やめてくれ、と蚊の鳴くような声で懇願するが、降ってきたのはルフィの望みを叶えるものではなく、答えを返さないセンゴクに向けた「はァ」と言うわざとらしい溜息だった。
「海軍本部元帥、いい加減、首を縦に振ってくれねェか。あんたも分かっているはずだ」
 気怠げにシャンクスがほんの少し頭を傾げれば、赤い髪がさらりと揺れて目を隠す。鋭い眼光はセンゴクに向けられなくなったが、代わりにもっと恐ろしいものが容赦なく突きつけられた。

「おれは力ずくでこいつを自分の船に乗せることだってできるんだが」

「………………っ、わかった」
 センゴクが息を呑み、ついに頷く。
 その返答を聞き、苦々しい海軍本部元帥の表情とは真逆の笑みを浮かべたシャンクスが「ベック!」と副船長の名を呼んだ。
「やれ」
「了解だ、お頭」
 何を、などという問答は必要ない。
 左腕を差し出したままのシャンクスと、それなりの距離があるにもかかわらずライフル銃を構えたベン・ベックマン。両者を目にしたルフィはシャンクスの脚の下で「やめろ、やめてくれ!」と声を張り上げる。
「シャンクス! だめだ!! 副船長、頼むからやめてくれ!!」
「すまんな、ルフィ。船長の命令は絶対なんだ」
 煙草をくゆらせベックマンが銃の照準をシャンクスの左腕に合わせた。
「副船長! やめろ!! やめてくれェェェェ!!!!!!」

 銃声(パンッ)

 ビシャビシャと真っ赤な血がルフィの顔にまで降りかかる。それを見下ろすシャンクスは痛がるどころか笑みを浮かべて「お。悪いな、ルフィ」とおどけてみせた。
 シャンクスが上から退き拘束が解かれ、おまけに体を起こす手伝いまでされても、最早ルフィに立ち上がれるほどの気力はない。そのうちに赤髪海賊団の船医ホンゴウが駆け寄ってきたが、ルフィはその場に尻をつけたまま絶望に目を見開いていた。
「ホンゴウ、おれの処置が済んだらルフィのことも頼む」
「勿論だ」
「可能な限り痕が残らないようにしてやってくれ。特に顔」
 ルフィが言葉を失う中、シャンクスは重傷だというのにまるで擦り傷一つしていないような顔をして右手を伸ばした。その手はルフィの顔を汚す血を拭うように、もしくは塗り広げるように動き、最後に左目の下の刺し傷に触れる。
「おれのためについた傷なら嬉しいが、おれのためじゃない傷は要らねェからな」
「その傷はお頭のためじゃなくて、お頭の船に乗るための傷だったとおれは記憶してるんだが?」
「はあ? 同じようなもんだろ。……ああ、マグマに焼かれたのが目元よりも下で良かった。この傷が上書きされたらさすがにおれも我慢ならねェわ」
「怖ッ! ほら、これで良い。あとは船に戻ってから処置する。お頭、ルフィも連れて来てくれよ」
 そう言ってホンゴウが先に歩き出す。
 シャンクスは「肩くらい貸せよォ。こっちは怪我人だぞ?」と冗談めかして批難しながら、残った右腕で器用にルフィを抱き上げた。
「シャンクス、なんで……なんで」
 されるがままのルフィはうわごとのように呟く。こんなはずじゃなかった。こんなこと、決して起こってはいけなかったのに。
 両目の焦点が合わぬままがりがりと両手で頭を掻き、そのまま頬に爪を立てた。すると即座に「こら、ルフィ?」と甘く優しく咎められる。
「これ以上傷をつけるな。ホンゴウにも怒られるぞ?」
「シャンクスの、シャンクスのうでが……ッ」
 優しい声が何を言っているのか理解できない。
 己の所為でシャンクスの腕が再び失われてしまった。折角全てが上手くいったはずだったのに。大事な仲間が元気なままでいてくれて、兄が生きていてくれて、そして憧れの男はルフィの命を救う代わりに腕を失うようなことがなくて。その、はずだったのに。
「なん、でッッッ!!!!」
「ははっ、大袈裟だなァ」
 シャンクスの楽しげな声。
 少しかさついた唇がルフィの耳に触れるほど近づき、そっと告げる。

「安いもんだ、腕の一本くらい」

 十年前には告げられずに済んだ言葉。
 しかし十年経って囁かれたそれは、まるで熟成した酒のように深く、重く、甘かった。







2023.01.09 twitterにて初出