4.後日譚
[chapter:後日譚1] 「ルフィにフラれちまったな、お頭」 レッド・フォース号の甲板で副船長のベン・ベックマンが煙草を燻らせながら苦笑する。 「そうだなァ」 返事は意外なほど落ち着いていた。 ベックマンは驚き、片方の眉を跳ね上げる。我らが船長はいささか子供っぽいところがあるので、てっきり大袈裟に悔しがるかと思っていたのだ。 そんな副船長の様子を一瞥したシャンクスは肩をすくめて流れ行く雲を見上げた。 正午をいくらか過ぎた太陽の光の下、真っ赤な髪が海風を受けて揺れている。そこにトレードマークの麦わら帽子はない。シャンクスが大事にしていた帽子は今、それを託すに足る未来の海賊王の頭上にある。 そしてレッド・フォース号の船上にシャンクスから帽子を借り受けた小さな人影はいない。 「悔しくないかって言われりゃそりゃあ悔しいさ。だがまァ構わねェ。望んだものを自由に追い求め続けるルフィの姿は魅力的だしな」 シャンクスはそう告げてうっすらと口元に弧を刻んだ。 船はまだ港に繋いだままだったが、つい先程から次の航海に向けて荷の積み込み作業が始まっている。フーシャ村を完全に発つわけではなく、数週間程度で戻ってくる航海になる予定だ。しかしルフィに麦わら帽子を預けたのが昨日のことなので、いささか急な出航と言って良いだろう。 だが副船長のベックマンは船長の指示であるそれを文句も言わず粛々と受け入れた。何せ現在の船長は可愛い可愛い子供にフラれて傷心中なのだから。傷心旅行は必要だろう。どれくらいの数の海賊団が八つ当たりの被害に遭うかは知らないが。 昨日のルフィは自分以外の人間に『繰り返す世界』の記憶が戻ったことで混乱し、さらにシャンクスから『前回』とでも称すべき世界の結末について全否定され、次こそは本当の望みを追い求めるべきだと諭されて、完全に言葉を失っていた。しかしそれから一夜明け、昼前にフーシャ村唯一の酒場で出くわした少年は、きらきらと輝く目でシャンクスにこう言ったのだ。 『シャンクス、新世界で待っててくれ。おれ必ず海賊王になって、最高の仲間達と一緒にこの帽子を返しに行くから』 つまりシャンクス達と共に海へは出てくれない。ルフィの答えはそういうこと。 ルフィの記憶と精神が年相応に幼かった『昔』はさておき、海の厳しさを知っている今のルフィにシャンクスがレッド・フォース号への乗船を提案したのは、決して冗談などではなかった。口調は軽くとも、望みの強さは中々のものだったのだ。 それを理解していたベックマンは、ルフィが出した答えに「ああ、必ず返しに来いよ」と笑って頷いた船長をうっかり蹴飛ばしたくなった。しかし真っ直ぐシャンクスを見つめるルフィの瞳の輝きを目撃してしまえば、それもできない。あれを真正面から受けたなら、いかにお頭と言えども屈せざるを得ないな、と。 「……だが、ルフィとの冒険はきっと楽しいだろうな。っと、すまん」 うっかり呟いてしまい、ベックマンは慌てて口を閉じる。 ルフィを可愛がっていたのは何もシャンクスだけではない。ベックマンもまた、あの人懐っこく、そして惹かれずにはいられない輝きを宿す子供を慈しんでいた。ゆえに理解していても諦めきれない部分というものはある。今のルフィならば海に連れ出しても問題が無いという事実がさらにその思いを強めていた。 ただしそれをシャンクスの前で口に出すというのは、やはり配慮に欠けていた。謝罪するベックマンにシャンクスはゆるく首を横に振る。 「気にすんな、お前の言うとおりだし。……あーあ、やっぱりルフィは『船長』なんだよなァ。そう易々と手元には来ちゃくれねェや」 天を仰いだままくつくつと両肩を揺らして笑うシャンクス。その表情は角度の所為でベックマンからははっきりと見ることができない。だが口元は大きく弧を描いていた。 「それに――」 荷積みで騒がしいはずなのに、喧噪の合間を縫って何故かしっかりとその声はベックマンの耳に届く。 「今はフラれても、最後に奪えりゃァそれでいい」 「…………オイオイ。お頭ァ、アンタまさか」 ベックマンのこめかみを冷たい汗が一筋流れ落ちた。 ただ可愛がっていたわけではなかったのか。ただ将来に期待していただけではなかったのか。あの輝きに惹かれていたのは分かっていたが、まさかそれ程までに強く心奪われていたのか――、と。 青空から視線を下げた赤髪の大海賊は、そんな副船長に向けてニイッと両目を細める。 「なァ、ベック。分かってんだろ? ――おれ達は海賊だ」 欲しいものは全て奪うのが海賊の流儀。 ならば、太陽のようなあの子供もまた遠からずこの手に収めてしまおう。 [chapter:後日譚2] 兄弟三人でずっと一緒に暮らす人生はきっととても楽しいものになるだろう。だがルフィに白ひげ海賊団のことはどうするのかと訊かれた時、エースは誤魔化しようもなく惜しいと思ってしまった。 ルフィもオヤジ達も手放したくない。どちらも愛したいし、どちらにも愛されたい。それが偽りのない真実だった。ゆえにエースはサボと共にルフィと再び兄弟の盃を交わし、十七になった暁には一人で海へ出ることを誓った。 この誓いはルフィに押し切られたからではなく、エース自身が望んで決めたことだ。今更それを違えようとは思わない。もし違えても自分が得るものなど何もないと分かっている。 「だけどさァ」 エースはぼそりと呟く。 今いる場所はマキノという女性が営む酒場。そして店の隅の方に座って眺めやるのは、カウンター付近で赤い髪の大人に満面の笑みで話しかけている弟だ。 借りた麦わら帽子を海賊王になって返しに行くと宣言するルフィの姿に目を眇め、エースは同じテーブルに着いているもう一人の兄弟にぼそぼそと本心を零した。 「離れたくねェって思っちまう」 「それ、ルフィに絶対聞かせるなよ」 「分かってるって」 否定しないところを見ると多かれ少なかれお前も同じ気持ちだろ?との思いを込めて一瞥すれば、向かいの席に座る兄弟が帽子のつばをくいっと下げて視線を遮った。 エースもサボもルフィが言ったことは理解しているし納得しているし、そうであるべきだと心から思っていた。しかしそれとは別に頭のどこかで大事な二人と片時も離れたくないと願ってしまっている。いくつもの繰り返しによって重ねられてきた離別はエース達の心に少なくない影響をもたらしていた。 「特にああいうのを見せられちまうとな」 周囲の海賊達に囃し立てられながらも嬉しそうに赤髪のシャンクスにじゃれつくルフィ。そして、ルフィが自分達の海賊船に乗ることはないと遠回しに宣言されて、ほんの一瞬だけ鋭くなった男の赤い双眸。 ルフィが持つ輝きに魅了されたのは何もエースとサボだけではない。あの輝きを目の当たりにした者はきっと誰も彼もルフィを求めて手を伸ばす。その代表格が視線の先にいる大海賊であるとは、改めて言う必要もないくらい明白だった。 「あーあ」 赤髪海賊団の騒がしさにかき消され、エースの呟きはすぐ傍のサボにしか届かない。 それを充分理解した上でエースは僅かに顔を歪ませる。 「ルフィに監禁されてェなァ」 「…………は?」 ルフィの方を向いていたはずのサボが驚いてエースを見る。対してエースは未だ楽しそうなルフィを見つめたまま、しかし意識はそれを通り越して別のものへと向けられていた。 「実はさァ、おれ、ルフィに監禁されてた時があったんだ」 そしてあの世界≠アそが唯一、ポートガス・D・エースとモンキー・D・ルフィが死ぬまで一緒にいられた世界だった。 その世界において、ルフィは海兵だった。地位は確か大佐だったはず、とエースは記憶を掘り返しながら付け加える。 エースとサボは親友だったが、エース、サボ、ルフィの三人で兄弟の盃を交わすことはなかった。おそらくルフィは幼少期の早い内に海兵となる道を選び、結果、ガープにコルボ山へ預けられるという事態が発生しなかったのだろう。 推定だが、その時のルフィは最初からエースを閉じ込めるつもりで人生をスタートさせていた。ただし人間一人を監禁するには相応の準備が必要となる。自分の体もある程度成長していなくてはならない。しかしルフィが充分成長した時には、エースはさらに強くなり、メラメラの実の能力者にもなってしまっているはず。そんじょそこらの実力者では太刀打ちできない状況になっているだろう。ゆえにルフィは早い内から海兵になり、実力をつけ、地位も上げて、悪魔の実の能力者に有効な海楼石の枷や武器を扱える立場になることを選んだのだ。 この海兵としての人生は後々エースを救って自分は投獄されるという結末を辿ったあの世界にも充分活かされることになったのだろう。今こうして振り返ってみると、前回のルフィの手際は驚くほど良かったので。 エースのことは元より、ルフィが海賊になった場合の仲間達――当然その世界では誰一人として仲間ではなかったけれど――が抱えていた問題でさえそつなく解決していたと推測される。少なくともアラバスタ王国などの大きな問題に関してはエースの耳にも入ってきていた。ならばルフィの性格から考えて、麦わらの一味だった者達を見殺しにはするまい。自分の命を粗末にしたこと以外は完璧だったのだ。 ともあれルフィは海兵となり着実に経験を重ね、一方でエースはメラメラの実を食べた後、紆余曲折を経て白ひげ海賊団の一員となった。 そして運命の日、準備を整えたルフィはついにエースに奇襲を仕掛け、誘拐した。仲間殺しを犯したマーシャル・D・ティーチをエースが単独で追っている時を狙ったのはわざとだろう。 もし『海軍』が『白ひげ海賊団』の船員を捕まえて連行したならば、海軍側はエースの血筋を知っている者がいるが故に公開処刑を執行し、そして白ひげ海賊団側は家族を取り返すため全面戦争を仕掛けたはず。しかしルフィは素性を隠してエースに近づき、海軍には秘密で、かつ白ひげ達が気づかない状況でエースを拉致した。結果として海軍と白ひげの衝突は起こらぬまま、ルフィはまんまとエースを監禁してみせたのだった。 当然と言えば当然だが、片脚を海楼石で繋がれて行動を制限されていたこと以外は、エースはルフィに何も酷いことはされなかった。衣食住は全て整えられ、新聞等で外界の情報に触れることも許され、暴言も暴力もなく、ただただ大切にされていた。 ルフィは己が自由にできる時間も金銭もその他全てをエースに捧げた。何故監禁などするのかとエースが問えばいつでも「死んで欲しくないからだ」と答え、誰か――エースを殺すだろう『誰か』とのことだった――に会わせる以外なら何でもすると言って、自分が抱える愛情を示した。 何と健気で哀れなことか、と今なら思える。しかし当時のエースにとってルフィは全く知らない赤の他人である。ルフィの好意も行為も、何一つとして正しく受け取ることはできなかった。正直に言って、ひたすら気味悪く、おぞましかった。 海賊として名を揚げるどころか完全に世界から隔絶され、何度逃亡を試みようとも失敗し、縁もゆかりもない人物からは気味の悪い好意を向けられ続ける監禁生活。それは徐々に精神を侵食し、やがてエースは限界を迎える。 「ルフィ」 エースが誘拐犯の名を呼んだのはその時が初めてだった。しかも嫌悪を込めた視線ではなく、優しい笑みを向けて。 これまで罵声しか吐いてこなかったエースの変化にルフィは驚いて目を見開き、やがてそれが嘘ではないと判断したのか唇を震わせて両目いっぱいに涙をためる。 「えー……す?」 「今まで冷たくして悪かったな。ほら、こっちに来い」 「――――ッ!」 両手を広げたエースの胸にルフィが飛び込む。完全に油断したその隙を突いて、エースは己を拘束し続ける海楼石の鎖ごと自分の脚をルフィの脚に巻き付けた。 「っ、え、す、ぅ……?」 ふにゃふにゃと力が抜けていくルフィ。 エースは己より小さな体に馬乗りになり、 「おれが死ぬのはお前のせいだ。ザマァみさらせ、クソ野郎」 そう吐き捨てると、ルフィの目の前で己の舌を噛み切った。 己を監禁した異常者はどうにもこうにもエースを好いているらしい。だからこそそいつの目の前で死んでやることが盛大の意趣返しであり報復になると思ったのだ。 逃げ出せないならいっそ……と病んだ精神で引き起こした行動の結末を死んでしまったエースは知らないが、十中八九その狂った作戦は成功したのだろう。最後に見えた光景は、エースが吐き出した血で真っ赤に染まりながら絶望に顔を歪めるルフィの姿だったのだから。 「……思い出したらなんか自分のこと殺したくなってきた」 「やめろ死ぬなルフィが悲しむ。まァおれもその時のお前はぶん殴ってやりたいが」 間髪入れずそう返す兄弟にエースは苦笑し、ばつが悪そうに頬を掻く。 「本当にどうしようもなく病んでたなァ……あン時のおれ」 「だが確かに見知らぬ野郎にそんなことをされたらと思うと……分からなくはない」 「そうなんだよ。あの時のおれにとってルフィは全然知らねェ奴だったから。……でも」 いくつもの記憶を振り返って、思う。 「あの世界が唯一、おれとルフィが死ぬまで一緒にいられた世界だったんだ」 過ごした期間の長さで言えば、幼少期を共にしていた世界の方がずっと長いに決まっている。しかしあの世界ほどルフィがエースに時間を割き、共にいて、エースだけを見続けた世界はない。ルフィがエースの旅に同行していたパターンも何度かあったが、その時のルフィはエース本人よりもエースを死なせる可能性がある敵にばかり気を配っていた。本当の意味でルフィがエースの傍に居続け、最後までそれを全うしたのはエースの監禁が行なわれたあの時だけだ。 「だから」 ルフィはエースを愛している。だがルフィは他の大切な者達も愛している。そして自由を愛し、冒険を望み、夢の果てを叶えることを誓った。もうエースだけを見てはくれない。 「無理だってのは充分承知してるけどよォ」 エースはルフィを見つめる己の両目を片手で覆い隠し、唇を歪めて呟いた。 「おれはルフィに監禁されたい」 愛しいあの子を独り占めしたい。 2022.12.31〜2023.01.02 twitterにて初出 |