3.n+1回目のきみ





[chapter:1]


 呑み込んだ果実のなんとも言えない不味さが口の中に残っている。
 右手に持ったそれ≠見て、ルフィは今の自分がまだたった七歳の子供であることをうんざりしながら理解した。食いかけの果実を左手に持ち替え、空いた右手で額を押さえる。
「また最初≠ゥらかよォ……せっかく上手くいったのに」
 背後では突然マキノの店にやって来た山賊達がドカドカと下品な足音を立てて粋がっていた。自分の首にたった八百万ベリーの賞金しか懸かっていないことを自慢にしている小者だ。
 そんな少額でも平和な東の海では犯罪者として相応なのかもしれない。しかしカウンターに手をついて店主のマキノに話しかける山賊のすぐ隣、酒瓶の栓を抜こうとしていた赤い髪の人物に現時点でどれほどの懸賞金がかけられているのかを知っていれば、何とも可愛らしいものだと笑えてきてしまう。
 と同時に、そんな小者とは比較にならない大きな器であることを態度で示す赤髪の偉丈夫の素晴らしさに、ルフィは何度だって称賛を送りたくなる。
 この繰り返し≠ヘ悪魔の実を食した瞬間から始まるため、山賊の来訪にはとうの昔に飽きてしまったが、赤髪の偉丈夫――シャンクスの態度には、二回目以降からも変わらず尊敬の念を抱きっぱなしだった。
 そんなシャンクスが何も知らない山賊に馬鹿にされ酒まで浴びせかけられるのには苛立つものの、ここで自分が手出ししてもあまり良いことにはならない。最良の結果を生み出すルートはすでに確認できているので、全て前回と同じように動けば良いだけだ。もしこの繰り返しに終わりがないのなら、何度だってあの結末を迎えてやろうではないか。
 まずは騒動が収まったら先に近海の主だけ退治しておこうと決めて、ルフィは静かに事の成り行きを見守るため左隣のシャンクスを見上げた。
 が、そのシャンクスと目が合う。
 本来なら店主のマキノにいちゃもんをつけた山賊の方を向いて話しかけるはずの男が、じっとルフィを見つめていた。
「シャン……クス……?」
 思わずその名を呼べば、赤い双眸がすっと細くなる。
 シャンクスは左手でカウンターに頬杖を突き、ルフィを見据えたまま薄く微笑んで「なるほどねェ」と呟いた。
「まったく、この海には不思議がいっぱいだ」
 小さな手が持ったままだった悪魔の実を一瞥したシャンクスは、次いで本日縫合したばかりのルフィの刺し傷の少し下をカサついた親指でそっと撫でる。
「なァ、ル――」
「あ? そこの海賊、何か言ったか?」
 シャンクスがルフィの名を呼んで何かを話そうとした瞬間、山賊がその言葉を遮った。
 普段のシャンクスであれば笑顔で対応するくらいやってみせただろう。しかしルフィの知らない振る舞いをし始めていた彼は此度もまた予想外の反応を示す。
 すなわち、
「おれはルフィと話してるんだ。邪魔するな」
 山賊がシャンクスの肩を掴んで振り向かせようと――もしくは椅子から引き倒そうと――した瞬間、静かにそう告げたシャンクスから『圧』が放たれた。寸分狂わぬ精密な覇王色の覇気。赤髪海賊団のクルー達のみならず一般人たるマキノも一切影響を受けず平然とする中、ターゲットに定められた山賊達だけが泡を吹いて倒れ伏す。
 慌てるマキノを「大丈夫だから」となだめたシャンクスは次いで仲間達の方を振り返り、各々の顔を順番に眺めた。「よし、お前らもおれと同じ状況らしいな」と何らかの確認を終えた偉丈夫は、クルーの幾人かに倒れた山賊を縛って店の外へ放り出すよう指示する。マキノには村人への状況説明を頼んでいた。どうやら軍に突き出すのはフーシャ村の住民に任せるらしい。懸賞金も全額、村のものにして良いようだった。
 あっと言う間に山賊の処理を終えたシャンクスは店主のいない店で改めてルフィに向き直る。
「これで落ち着いて話ができるな」
 足を組んで明るい口調のまま話しかける姿は、十億の懸賞金がかけられていた頃のまだ若々しく軽さを残したシャンクスのものだ。しかしルフィを見つめる双眸は重みを増し、冗談も逃走も許さない意志をはっきりと宿していた。
「何をそんなに驚いてんだ? どうせすぐ退場する人間に少し予定を早めてもらっただけだろう。それとも近海の主に喰われて死ぬ運命だったところを軍に差し出されるだけで済ませちまったのが気に入らなかったのか? そりゃ悪かった」
「ち、ちが……そうじゃなくて」
 ルフィは頭を振る。
 両手が汗でびっしょりと濡れていた。
 まさか、まさか、と頭の中で繰り返すものの、そんな事態には今まで一度も遭遇しなかったため理解が全く追いついていない。
「お頭ァ、あんまルフィを怖がらせんなよ」
「そうだぜ。いくらルフィが帽子を返しに来てくれなかったからって、今それを怒るのは筋違いってもんだ」
 赤髪海賊団のクルー達が野次か注意か揶揄か分からない言葉を飛ばす。それらの意味すらルフィには理解も納得もしがたいものだった。
 反して「怒ってねェよ!」と仲間に叫び返すシャンクスにはこの状況に理解も納得もできているらしい。
「――なァ、ルフィ」
 状況を呑み込めずルフィが唖然としていると、シャンクスはおもむろに自分が被っていた麦わら帽子を脱ぎ、当然のような顔をしてルフィの小さな頭に被せてきた。
「おれはあの時*ウ理やりにでもお前を連れ出さなかったことを、ひどく後悔している。大事な帽子が手元に戻ってこなかったからじゃねェ。お前が海軍に殺されることを分かっていながら、あの場を収めるために必要だと自分に言い訳して……いや、お前が海賊になっておれを追いかけてくれなかったことに拗ねて、手を引いちまったからだ。やりたいことをやり終えただろうお前をおれの船に乗せるくらい、大した手間じゃなかったハズなのにな。……だがもう間違えねェ」
 麦わら帽子が取り払われた赤い髪の下で、血のように真っ赤な双眸が爛々と輝いていた。
 現時点ですでに皇帝の名を冠するに相応しい風格を宿す男は、未だ理解を拒むルフィに容赦なく現実を突きつける。
「ルフィ、おれ達は『全部』思い出したぞ。だからお前があんな結末≠ノ満足げな顔をするなんてもう二度と認めねェ」
「――――ッ!」
 逃げることさえ許されないその台詞と強い視線にルフィはたまらず息を呑む。
 両目を大きく見開く幼い子供にシャンクスは獰猛さすら感じられる笑みを浮かべ、大きな手でルフィの頭を麦わら帽子越しにがしがしと何度も撫でた。
「今度こそこいつをおれに返しに来い。それともわざわざ返しに来なくても済むように最初からおれの船に乗ってくれるか? まァいずれにせよ、腕でも足でも、お前が『夢の果て』を叶えるためなら何だってくれてやるからよ」
 到底もらえるはずのない――もらいたいなどルフィにとって言えるはずがない――ものを差し出すと笑いながら、シャンクスはかつてルフィが憧れた姿そのままに、否、もっと魅力的な姿で、未来の新たな可能性を指し示した。

「兄貴の命もお前の最初の願いも、両方まとめて掴んでみせろ」


[chapter:2]


 拠点にしていたこの村を離れるまであと2・3回の航海を予定していることに変わりはない。だからその間に決めると良い。帽子を持って新世界まで会いに来るか、それとも自分達と一緒に新世界へ行くか。もちろん今すぐレッド・フォース号に乗って冒険に出掛けるのも大歓迎だ。――そう言い残し、シャンクスは仲間達を連れて船に戻っていった。
 ひとり店に残されたルフィは戻ってきたマキノに何かを話しかけられたはずなのだが、その記憶は曖昧で、気づけば家に帰ってきていた。
 祖父にコルボ山へ放り込まれない限り住むことになっている自分の家だ。正確には祖父の持ち物であるはずだが、肝心の本人があまり戻ってこないので実質的にはルフィ一人の家である。
 普段なら村人達が何やかんやと世話をしてくれるので一人になる時間は少ない。しかし今は部屋に閉じこもり、これまで己が経験してきた数多の結末を思い返していた。
 己が同じ人生を繰り返していると初めて気づいた時、エースの先回りをして黒ひげを斃し、兄が海軍に捕まらないようにした。けれどエースは別の騒動で自分よりも他人の命を優先して死んでしまった。
 黒ひげ以外にもエースの死に繋がる敵がいるならばと、そいつらを斃してみても上手くいかずに同じようなことを何度も何度も繰り返した。
 だったら常に一緒に行動すれば良いのかと思い、自分が船長になることは一旦保留してエースの船出に同行することにした。が、幾度か試してみたものの様々な理由で別行動となり、その隙にエースの命は散ってしまっていた。
 何度も何度もエースの死を見せられてきた所為でルフィ自身も思考がおかしくなっていたのだろう。ある時、とうとうエースを力づくで閉じ込めた。結果としてエースの体は無事だったが、彼の心が壊れてしまった。
 最悪の結末を迎えた後、ルフィは正気を取り戻して、エースの体だけでなく心もまた一欠片も壊してはいけない――そう誓って幾度か試行錯誤をしていたが、何度目かも分からぬ失敗の中で疲れ果て、縋るような思いでもう一人の兄に自分のこの奇妙な現象について打ち明けて名案を乞い、次の希望に繋げた。
 そしてエースの考え方を変える必要があり、そのためにはマリンフォードでの頂上戦争を利用するしかないと判断してからは、まず自分が強ければ大丈夫だと信じて『最初』の旅をなぞった。しかしあまりにもルフィが一人で障害を排除し続けてしまった結果、成長する機会が得られなかった仲間達は旅の途中で力尽きた。
 大事な仲間を途中で失うことにも耐えられなかったルフィは、次は彼らが成長する機会を十分得られるよう、頂上戦争までは実力を隠して旅をした。そしてついに至った、マリンフォード。エースを助けて全ての敵を圧倒するルフィの姿に、兄がほんの少しだけ顔を歪ませた。それは予想を遙かに超えた弟の成長に兄としての心が疼いた程度の、本当に小さなものだ。しかし一度兄を壊してしまってからはそんな小さな瑕疵さえルフィにとって許せないものになっていた。
 ゆえに、たどり着いたのは、己が何をしてもエースが気にしない状況を作り出すということ。エースにとってモンキー・D・ルフィなど何の意味も価値も無い人間である世界。それならばたとえルフィが強くても、権力を持っていても、そして命を投げ出してエースを助けたとしても、彼が傷つくことはない。
「おれは……ちゃんと、やれたんだ」
 最良の結末を迎えられたはずだった。これ以上ない最高の終わり方だったはずだ。だから何度だってあの結末を迎えてやるつもりだった。
 そう頭の中で繰り返すのにシャンクスから告げられた言葉が忘れられない。
 やっとエースが生きていられる世界を作れたのだから、そんな世界を手に入れる方法が分かったのだから、エースが死んだ世界になんてルフィはもう絶対に一秒たりとも生きられないだろう。容易くは手に入らないその世界を得るためにルフィは己の全てを捧げ、夢も良心もすり潰して対価にしてみせようと誓っていた。
 しかし、もし『兄』も『夢の果て』も諦めずに済むのなら――。
 兄は自分が愛されていることを知って、その過程では多くの人間が血を流す必要がなくて、ルフィは思うままに冒険の旅に出て時には別の道を行った親しい人々とも交流を持って、みんな生きて、笑って、そしてこの手に夢を掴んで、さらにその果てへと至る。
「……………………あァ」
 無数の繰り返しの中で、最早、夢として想像することさえ自分に許していなかったその光景をルフィは改めて心に思い描き、こみ上げてくる熱い思いと共に天を仰いで声を漏らした。
「おれ、ほんとうは、」
 それは繰り返しの中で消し去っていた願い。
 憧れの人に背中を押されてやっと口に出すことを自分に許した、一番ほしかったもの。
 ルフィは両目からぼろぼろと涙を流して、長く眠らせたままだった本当の望みを口にした。

「みんな≠ニいっしょに生きたかったんだ」

 しかし、たとえシャンクスの助力があったとしてもそれが実現できるかどうかは分からない。涙が止まらないのはその所為だ。叶えられない願いを前に心が悲鳴を上げている。
 自分を含めた大切な者達を全て欠くことなく、その上で二十年かけて形成された一人の人間の精神や考え方を大きく変えさせなければならないのだから、成功の可能性はとても低いだろう。幾度も繰り返したルフィでさえ自分の全てを投げ出すことでやっとエースを救うことができたのに。
 自覚した願いを叶えようとして前回とは異なる道筋を歩み、その結果、またエースを失ってしまったら……そう考えるだけで恐怖に身がすくむ。
 ルフィは膝を抱え込み、きつく目を瞑った。
「おれは――」
 最良の結末を繰り返すのか。それとも別の未来に向かって踏み出すのか。
 決められないままルフィは苦悩し、前回では兄弟になることさえ諦めた大事な兄達の名を縋るように呼んだ。
「エース……ッ! サボ……ッ!」













「「ルフィ!!」」


[chapter:3]


 ――ルフィがシャンクスに二つの選択肢を提示されていたのと同時刻。

「うあ、ああああああああああああッ!!!!」
「あ、ああああああああああああああ!!!!」

 狂った獣のような咆哮が木々の合間に響き渡る。
 不確かな物の終着駅(グレイ・ターミナル)とコルボ山の境目に広がる森の一角で二人のまだ幼い少年達が地面にうずくまり、あるいは天を仰ぎ、頭をかきむしりながら慟哭していた。
 下草には吐瀉物が飛び散り、汚れた口元は拭うこともされていない。
 そして見開かれた両目には滂沱の涙。
 我を失った彼らは焦点の合わない瞳をギョロギョロと彷徨わせる。頭の中に大量に流れ込んできた記憶に翻弄され――正確に言えば、その記憶の中で己が取った行動の所為で苦しみと悲しみに押し潰され――、懺悔であり怒りでもある感情をただひたすらに吐き出した。




「お前が死んじまったら意味ねェだろうがお前に生きてて欲しくておれはお前を守ったのにお前がいなくなっちまったら俺はどうやって生きていけばお前がおれを必要としてくれたのにお前が必要としてくれたからおれはお前がお前がおれからお前を奪わないでくれお前がいてくれねェとおれはダメなんだそばにいたいそばにいさせてくれそれだけで良いから頼むからお前が生きててくれるならお前が一緒にいてくれるならおれは閉じ込められたままでも良かったんだあんな風にお前を失うくらいならいっそ鎖で繋いでずっとお前がその端を握っていてくれたらそうすれば一緒にいられるお前がずっとそばにいるおれはお前を失わずに済むなんでどうしてイヤだイヤだイヤだお前がいなけりャおれはおれはおれはお前が何よりもどうしてお前はあんなことをしたんだあんなことしなくて良かったんだおれはお前と一緒にいたかったしお前に生きていて欲しかったしお前の兄でいたかったしなのにお前お前お前がいや違うおれが悪いんだだってお前が何度も何度も助けにきてくれたのにおれはお前の手を取れなくてそれどころかお前の強さに馬鹿な嫉妬までしてすまねェあああああ何度謝っても許されることじゃねェお前はおれのために手を伸ばしてくれたのにおれは馬鹿で本当に馬鹿でお前が必要なんだそばにいたいんだ生きてて欲しいんだおれの弟おれの価値を認めてくれたひとおれを必要としてくれた奴おれに光を見せてくれたおれの大切な宝物何よりも守りたいものルフィおれはお前と生きたかったなのにどうしてどうしてなんでおれはお前といられなかった」



「どうして気づけなかったどうして気がつかなかったお前がいないことをおれはずっと疑問に思っていたハズなのにこんなにも大切なものを忘れていたなんてそれでもお前が生きていてくれるなら良かったでもまさかお前があんな方法をとるなんて思ってなくてなんでおれはそこまで頭が回らなかったんだおれが記憶を失わなきゃ良かったのかずっとお前達と一緒にいればあの時無茶に出航しなければ良かったのかお前達といることを優先していればだってお前達以上に価値のあるものなんて無いはずなのにそうだよお前らがいればおれはおれはおれはおれの弟おれの大切な弟お前の望みはおれの望みだったでもお前がそこにいないならおれはそんな世界望めないおれに愛を教えてくれたのはおれに家族を愛することを教えてくれたのは血が繋がっただけの奴らじゃなくてお前だったんだぞ無邪気で無垢な笑顔をお前がおれに向けてくれたからおれは大事なことを知ったんだなのにお前がいなくなるなんてそんなの耐えられるわけがねェだろなのにお前はおれからお前という本当に大切なものを奪って行っちまうのかどうかやめてくれそんなの望んじゃいないあああああおれがお前にあんなこと言ったから何が兄だ何が頼りにしてくれだ己の手で大事な弟が地獄に向かう手立てを用意しやがっておれなんかおれおれおれなんかいっそおれは失敗したもっとちゃんと知っておくべきだった最初からずっとそばにいてお前のやりたいことを一緒にやっていれば何よりも優先すべきおれの大切な弟かけがえのない存在ルフィおれはお前と生きたかったなのにおれは失敗した」




 気が狂ってそのまま正気に戻れないのではないか。もし彼らの今の姿を見る者がいればそう思っただろう。
 しかし永遠に続くかと思われた狂気じみた慟哭は、
「――だけど」
「また始められる」
 同じタイミングでぴたりと止まり、エースとサボはそろってある一つの方角を見据える。
 周囲に漂うのは嘔吐した後のすえた匂い。涙を流した両目は真っ赤に充血している。それでも恍惚とした微笑みを浮かべて、二人は意図せず異口同音にこう告げた。

「「ルフィ、兄ちゃんが今から会いに行くからな」」


[chapter:4]


「エース……ッ! サボ……ッ!」
 部屋の内側から聞こえたのは、大切な存在の縋るような声。その瞬間、エースとサボは居ても立ってもいられず扉を蹴破るようにして室内へとなだれ込んだ。
「「ルフィ!!」」
「――ッ!?」
 突然の乱入者によって幼子の丸い両目がさらに丸く大きく見開かれる。瞳は涙で濡れ、目尻が真っ赤に染まっていた。
 愛しい子供が泣いている。その光景にエースとサボは一瞬で頭に血が上り、衝動の赴くままルフィを強く抱き締めた。
「もう大丈夫だ!!」
 サボがルフィの頭を両腕で包み込むようにしながら強く告げる。
「お前を泣かせる奴はおれが全部ぶっ飛ばしてやるからな!!」
 エースがルフィの真正面から覆い被さるような態勢で叫んだ。
「バカだな、エース。ルフィには記憶があるんだから泣いてんのは十中八九お前の所為だろ。自分で自分をぶん殴るのか?」
「ちげェわ! おれが死ぬ原因になる敵は全部おれ自身がぶっ飛ばしてやるって意味だ!!」
 そんな会話が頭上で交わされる中、二人の痛いほどの抱擁と大きな声でルフィの涙はピタリと止まる。やがて少し遅れて染み入ってきたぬくもりが、これまでとは全く異なる涙をほろりと溢れさせた。
「えーす……さぼ……?」
「「おう!!」」
 エースとサボが声を揃えて力強く頷く。
 彼らがルフィを見つめる瞳は優しく、兄弟として共に時間を過ごしたあの二人であることがはっきりと示されていた。
 ルフィは「へ? え? あ、え!?」と目を白黒させ、それから「ふ、二人とも記憶があんのか!?」と、予想外の事態に狼狽える。
 慌てふためくルフィを兄達は改めて抱き締め直すと、次いで互いの顔が見えるように名残惜しげに少しだけ体を離した。
「ああ。お前がおれのためにしてくれたこと、全部覚えてる」
「おれもだ。お前にばかり辛い思いをさせてまともに手伝ってやれなくてすまなかった」
 眉尻を下げた兄達の顔は苦しんでいるようにも悲しんでいるようにも見えた。
 彼らに愛されていた自覚があるルフィにとって、その顔は二人に全ての記憶があるという何よりの証拠となる。
 シャンクスと彼の仲間達もルフィが体験してきた繰り返しの記憶を全て持っていた。ならばこの目の前のまだ兄になっていない兄達が記憶を持っていたとしてもおかしくはない。不思議現象すぎるが、そもそもルフィが幾度も人生を繰り返していること自体、とんでもない不思議現象なのだから、受け入れるしか方法はないだろう。
 ゆえに、
「…………っ」
 全て覚えているらしい二人がルフィを優しく見つめる中、ルフィ本人はというと、兄達に記憶があることを受け入れた途端に視線が下がってしまっていた。
「ルフィ?」
「どうした?」
 エースとサボが心配そうに様子を窺う。
 だがルフィは顔を上げられない。
「お、おれは……」
 うつむいたルフィは二人の見えないところでぎゅっと両目を瞑り、湧き上がってきた感情――後悔と羞恥と情けなさを絞り出すように吐き出す。
「失敗ばかりでエースのこと全然助けられなくて、何度も、何度も何度も何度も! 何度もエースを死なせた……ッ!! サボはマリンフォードのトコまでに記憶を取り戻しちまうとエースを助けるタイミングが早まって上手くいかない可能性が高くなるから、仕方がねェことで……代わりにちゃんとエースを助ける方法を教えて貰ったのに、おれ、一発じゃ、全然上手くできなくて――」
 ぐしゃりと歪んだ泣き顔すら恥ずかしく、両腕でそれを覆ってルフィは叫ぶ。
「情けなくてッ! 申し訳なくてッ! 二人の顔、まともに見らんねェッ!!」
「ルフィ……」
 頭の上でサボの心配そうな声がする。
 それを聞いてもルフィが自分を許せるはずがない。ただただ羞恥と申し訳なさが強まるだけだ。
「ごめん! ごめ゛ん゛!! おれ、じっばい゛ばがりじでェ!!」

「ああ、そうだな」

「――ッ!」
「っ、おい! エース、てめェ!!」
 ぽつりと返された声にルフィは息を呑み、サボが怒りを露わにする。
 だがエースの言葉は止まらない。
「全くその通りだよ、ルフィ。お前は失敗ばかりしてた。特に『前』のは大失敗だ」
「っ、ぁ――」
 エースの手によってルフィは無理やり顔を上げさせられる。冷たい声はそのままルフィの体を芯まで冷やして凍り付かせるようだった。
 だが強制的に合わせられた視線の先、真っ直ぐこちらを見据える両目は彼がいずれ宿す炎のようにメラメラと燃え盛っており――
「えー、す……」
「大失敗だよ、ああ、大失敗に決まってるだろうが! おれが生きててもお前が生きててくれなきゃ意味ねェんだから!!」
 熱く、激しく、エースの声がルフィを揺さぶる。
「お前だっておれのこと愛してくれてんだろ! だったらお前も生きててくれよ!! おれから『おれを愛してくれる人』を奪うんじゃねェ!! おれが生きてても良いんだってことを、おれがおれを大切にしても良いんだってことを、お前がおれのそばに居てちゃんと教えてくれッ!!!!」
 親友のサボだけじゃ足りない。匿ってくれたガープだけじゃ足りない。育ててくれたダダン達だけじゃ足りない。家族になってくれた白ひげ達だけじゃ足りない。
「お前がおれを愛し続けてくれなきゃ、全然、全く、これっぽっちも足りねェんだよッ!!!!!!」
 愛されることを自覚したエースはそれまでの欠落を埋めるように、傲慢なほど貪欲に、そう欲する。
 激情を吐き出したエースはゼェハァと肩で息をしていた。
 それをルフィは唖然と見上げる。兄の激しさに呑まれて完全に言葉を失っていた。
 しかし沈黙は長く続かない。ルフィの耳にもう一人の兄の優しい声がそっと注がれる。
「ルフィ。エースはこう言ってんだよ。今度は一緒に生きようって」
「…………」
 三白眼の小さな黒瞳がゆっくりとサボの方を向いた。
「エースが、いきててくれる?」
 どこか拙く、ふわふわと地に足がついていないような、夢見心地のようなルフィの声。
「おう。ルフィが何度も頑張って教え込んだ甲斐があったな」
「エース、は、無理してないか? 嫌なこととか感じてないか?」
「むしろお前がいない方がエースにとっては『嫌なこと』だろうな」
 優しい兄にそう言い切られ、次いでルフィが視線を向けたのは正面でまだ少し息が荒い黒髪の兄。
「エース」
「何だよ」
 大きくなった記憶があるはずなのに、幼少期のような刺々しさをまとった声が返される。
 しかし自身の幼少期がそうであったように、ルフィはエースに怯むことなく本心をさらけ出した。
「おれ、エースとサボと、みんなと、いっしょに、生きたいんだ」
 ルフィはエースに生きていて欲しかった。だから何度も何度も頑張った。それしか方法が見つからなかったから、自分のことなど捨て置いて兄のことだけを考えて走り続けた。
 でも本当は大好きな人達と一緒にルフィ自身も笑って生きていきたかったのだ。
 万感の思いを込めて告げられた言葉。それを聞いた二人の兄は、直後、全く似ていない顔に全く同じ笑顔を浮かべて、
「おれもそうだよ、バカ野郎」
「ルフィ、おれもお前とエースといっしょに生きていきたいよ」
 強く強くルフィを抱き締める。
 ルフィもまた二人の兄に手を伸ばし、力一杯抱き締め返した。
 ぐるぐるとゴムの体で締め付けるような抱擁はきっと苦しいはずだったのに、エースは無言でそれを受け入れ、そしてサボはくすくす笑って兄弟達に告げる。

「エースの言うとおり『前』は大失敗だった。だから『今回』は、みんなで最高のハッピーエンドにしような」


[chapter:5]


「……あら?」
 可愛がっている少年の様子を見にその子の家を訪ねたマキノは、一つのベッドの上で三人の子供が身を寄せ合って眠っている光景を目の当たりにし、思わず口元を手で押さえた。
 そのうち二人は見知らぬ子供だが、子猫のようにぴったりくっついて寝息を立てている姿は何とも愛らしい。三人とも目元が泣きはらしたように赤くなっているのは少々気がかりであるものの、寝顔の方は穏やかでどこか満ち足りた表情をしており、心配は要らないだろうと判断する。
 店にやって来た嫌な雰囲気の山賊達を馴染の海賊達が拘束してくれたのが昨日のこと。その後ルフィの様子がいつもと違ったため、マキノは朝からこうして彼の家を訪ねたのだ。
 しかしこれならきっと今日のお昼にでも元気な顔を見せてくれるだろう。そう思いつつ、マキノは片方の腕に引っかけていたバスケットを見やる。
 中身は朝食として用意したサンドウィッチだ。かなり多めに作ったのだが、三人分の朝ご飯には全く足りていない。ならばもう二人分作るまでだと微笑んで、マキノは子供達を起こさぬよう静かに踵を返し――
「……まきの?」
「ごめんね、起こしちゃった?」
 二人の少年達に抱きつかれて真ん中で眠っていた一番幼い子供――ルフィが寝ぼけ眼で起き上がる。両脇の二人は安心しきっているのか、まだ目を覚ます気配が無い。
 その二人の安眠を妨げないようマキノは声を潜めて告げる。
「朝ご飯、あなたのお友達の分も作ってくるからもう少し待っててね」
「ん。ありがとな、マキノ」
 ふにゃりと笑うルフィの顔のなんと幸せそうなことか。
 こちらまで幸せになる笑顔にマキノはにっこりと笑い返し、改めて部屋を出て行こうとする。だがその前にルフィが「あ」と小さく声を上げた。
「どうしたの?」
「あのな、マキノ。一旦店に戻るんだったらちょっとお願いがあるんだけど――……」
 そうしてルフィが告げた『お願い』は、彼の年齢を考えると眉をひそめるものだったが、何か特別な意図があるらしいと感じたマキノは「仕方ないわね」と苦笑しながら承諾した。


 エースが目を覚ますと、テーブルの上にはバスケットに入った三人分のサンドウィッチと、子供ばかりの空間に何故か存在する酒瓶が一つ。頭上に疑問符を浮かべながらも、先に起床していたルフィに促されて席に着く。
 ふわぁぁぁと漏れ出る欠伸は大きく、つられたサボとルフィも大きな口を開けて間抜けな声を出していた。
 さすがは子供の肉体。あの後、疲れて三人揃って眠ってしまったらしい。無意識ながらもベッドに潜り込めたことに関しては自分を褒めてやりたいが、ルフィが起床したことや朝食を持ってきた誰か――ルフィは料理ができないので第三者であることは間違いない――がいたことに気づけなかったのは実に不覚だ。横でサボもエースと同じ考えに至ったのか、何とも言えない顔をしてる。
 一方、ルフィは満面の笑みで早くもサンドウィッチにかぶりついていた。この幸せそうな弟がすぐ傍にいたからこそ完全に気を抜いてしまっていたのかもしれないなぁと、エースは思わず眉尻を下げる。
「おいコラ、ルフィ! おれ達の分まで食うんじゃねェぞ!」
「あはは。本当に美味そうだな。誰が持ってきてくれたんだ?」
 ルフィに倣ってエースとサボも朝食に手を伸ばした。一口囓れば、素朴ながらも優しい味が広がる。エースが「美味いな」と呟くと、ルフィがにっこり笑った。
「だろ! マキノが持ってきてくれたんだ!」
「あとで礼言っとくか」
「本当に美味しい……お礼しに行くならバスケットも返さなきゃな」
「んじゃ昼にでも三人で行くか。あ、ミルク取ってくれ」
「はいよ」
「サンキュー」
 エースは卓上にあったミルクのピッチャーをサボから受け取り、カップに注いで一口飲む。液体で口の中をある程度綺麗にしてから「それでさ」と話題を変えた。
「これからどうする? ちと早いが三人でダダン達のとこに世話になるか? あ、でもガープのジジイがルフィのことも預かれって言わねェとダダンが承知しねェのか……?」
 今度こそ三人揃って幸せになるのだ。そのために、やはり最初に決めるべきはこれから自分達が住む場所だろう。
 エースの問いかけにサンドウィッチを持ったままのサボが「そうだなァ」としばし虚空に視線を彷徨わせる。
「……うん、ダダンの件だったら大丈夫だろう。おれが無理やり押しかけた時も何だかんだで住まわせてくれたし。あとはルフィんち(ここ)で暮らせるならそうしても良いと思うんだよなァ。フーシャ村の人達ならエースやおれみたいな訳アリでも受け入れてくれるんじゃないか?」
 三人の食べ盛りによって驚くべき速度で無くなっていくサンドウィッチの山を一瞥し、サボが優しく口の端を持ち上げた。
 一番の懸念事項はエースの素性が他人にバレること。次点でサボの存在があの高い壁の向こうにいる血が繋がっているだけの人間達に知られることだ。しかしこんなに優しい味を与えてくれる村ならば、然程心配する必要はないのではないか……と。
 サボの考えにエースもなるほどと頷く。
 賛同を得られたことでサボはさらに続けた。
「ルフィが十七になったら三人で海に出るとして、それまでの十年間ずっと山暮らしするか、それとも村に住むか、はたまた山と村のどっちにも住むか……」
 ダダン達もエース・サボ・ルフィにとっては大切な存在である。そんな彼らと縁を切ってしまうことは躊躇われた。さてどうするのが一番良いだろうかと、サボが楽しそうに三つの案を提示する。
 しかし、

「何言ってんだ、サボ。サボもエースもおれより早く海に出るんだろ?」

「……え?」
「は?」
 サボが、そしてエースも、ルフィの言葉に一瞬思考を止める。
 だがそんな兄達を置き去りにしてルフィは当然のような顔のまま続ける。
「三人で船に乗ったら絶対楽しいと思う。でも、おれもサボもエースも船長やりたいんだぞ? それに」
 幼い子供の瞳がじっとサボを見た。
「サボ、革命軍の仲間はどうすんだ?」
「――ッ!」
 次いでエースを見る。
「エースも、白ひげのおっさん達とは一緒にいなくて大丈夫なのか?」
「そ、れは……!」
 エースとサボ、それぞれの脳裏には目の前に居る兄弟達とはまた別の心通わせた大切な人々の姿が浮かび上がる。
 ルフィにとっては兄達のその反応だけで心情を慮るに十分だったらしい。幼い姿には似合わぬ包み込むような優しい微笑みを浮かべ、二人に己の考えを語る。
「おれはさ、おれの大事な人に生きてて欲しいって思う。しやわせでいて欲しいんだ。でも四六時中くっついていたいワケじゃねェ。一緒にいるのは楽しいに違いねェけど、だからっておれの楽しいって気持ちのために大事な奴の行動を縛るのは嫌だからな」
 おれが船長やってる船ならまだ別だけど、と誰か達≠フことを思い出しながらルフィは少し苦笑して続けた。
「エースとサボはおれのこと大事に思ってくれてる。おれも二人のことがすげェ大事だ。でもおれ達はそれぞれやりたい事が違ってる。一緒にいたら楽しくても、できることはそのどれか一つになっちまうぞ。そういうのは『違う』だろ。――だから、」
 愛というものに形があるなら、きっと今のルフィのような姿を取るに違いない。
 大切だからこそ相手を尊重したいのだと語るルフィに兄達は反論すらできなかった。その二人の前で、ルフィは朝の風景に不釣り合いだったたった一つのもの――エースとサボは知るはずもないが、昨日シャンクスが栓を抜かないまま帰ったため残っていたマキノの店のラスト一本の酒瓶を手に取り、高く掲げた。
「盃を交わそう。おれ達、もう一度兄弟になろう。どこにいても、何をしてても、絶対切れない縁で結ばれるように」
 ニカッと笑う姿は太陽そのもののように眩しくて、どうしようもなく愛おしい。

「最高のハッピーエンドにするんだろ。だったら、おれ達三人だけじゃなくて、みんな≠ナもっとしやわせにならなきゃな!」


[chapter:EPILOG&PROLOGUE]


 ルフィがゴムゴムの実を食べたその瞬間。
 東の海のとある村々や街で、客船の船上で、砂漠の王国で、逃亡中に立ち寄った某所で、海上都市で、魔の海域で、不殺を信念とする海賊船の上で、彼ら≠ヘ様々な感情がごちゃまぜになった状態で混乱の極みにありながら、それでもたった一つの大切な名前を空に向かって叫んでいた。

 ――ルフィ(さん)!!!!!!

 待ち望んだ再会と心躍る冒険の再開は、決して遠くない未来に。
 船長の大事な仲間達と友達から、仲間達と友達の大事な船長へ、愛あるお叱りを添えて。







2022.12.23〜2022.12.31 twitterにて初出